日本の名随筆 別巻64 怪談 |
作品社 |
1996(平成8)年6月25日 |
1996(平成8)年6月25日第1刷 |
1996(平成8)年6月25日第1刷 |
鏡花全集 第二十七巻 |
岩波書店 |
1942(昭和17)年10月 |
一
予が寄宿生となりて松川私塾に入りたりしは、英語を学ばむためにあらず、数学を修めむためにあらず、なほ漢籍を学ばむことにもあらで、他に密に期することのありけるなり。
加州金沢市古寺町に両隣無き一宇の大廈は、松山某が、英、漢、数学の塾舎となれり。旧は旗野と謂へりし千石取の館にして、邸内に三件の不思議あり、血天井、不開室、庭の竹藪是なり。
事の原由を尋ぬるに、旗野の先住に、何某とかや謂ひし武士のありけるが、過まてることありて改易となり、邸を追はれて国境よりぞ放たれし。其室は当時家中に聞えし美人なりしが、女心の思詰めて一途に家を明渡すが口惜く、我は永世此処に留まりて、外へは出でじと、其居間に閉籠り、内より鎖を下せし後は、如何かしけむ、影も形も見えずなりき。
其後旗野は此家に住ひつ。先住の室が自ら其身を封じたる一室は、不開室と称へて、開くことを許さず、はた覗くことをも禁じたりけり。
然るからに執念の留まれるゆゑにや、常には然せる怪無きも、後住なる旗野の家に吉事ある毎に、啾々たる婦人の泣声、不開室の内に聞えて、不祥ある時は、さも心地好げに笑ひしとかや。
旗野に一人の妾あり。名を村といひて寵愛限無かりき。一年夏の半、驟雨後の月影冴かに照して、北向の庭なる竹藪に名残の雫、白玉のそよ吹く風に溢るゝ風情、またあるまじき観なりければ、旗野は村に酌を取らして、夜更るを覚えざりき。
お村も少しくなる口なるに、其夜は心爽ぎ、興も亦深かりければ、飲過して太く酔ひぬ。人静まりて月の色の物凄くなりける頃、漸く盃を納めしが、臥戸に入るに先立ちて、お村は厠に上らむとて、腰元に扶けられて廊下伝ひに彼不開室の前を過ぎけるが、酔心地の胆太く、ほと/\と板戸を敲き、「この執念深き奥方、何とて今宵に泣きたまはざる」と打笑ひけるほどこそあれ、生温き風一陣吹出で、腰元の携へたる手燭を消したり。何物にか驚かされけむ、お村は一声きやつと叫びて、右側なる部屋の障子を外して僵れ入ると共に、気を失ひてぞ伏したりける。腰元は驚き恐れつゝ件の部屋を覗けば、内には暗く行灯点りて、お村は脛も露に横はれる傍に、一人の男ありて正体も無く眠れるは、蓋此家の用人なるが、先刻酒席に一座して、酔過して寝ねたるなれば、今お村が僵れ込みて、己が傍に気を失ひ枕をならべて伏したりとも、心着かざる状になむ。此腰元は春といひて、もとお村とは朋輩なりしに、お村は寵を得てお部屋と成済し、常に頤以て召使はるゝを口惜くてありけるにぞ、今斯く偶然に枕を並べたる二人が態を見るより、悪心むらむらと起り、介抱もせず、呼びも活けで、故と灯火を微にし、「かくては誰が眼にも……」と北叟笑みつゝ、忍やかに立出で、主人の閨に走行きて、酔臥したるを揺覚まし、「お村殿には御用人何某と人目を忍ばれ候[#「候」は底本では「侯」]」と欺きければ、短慮無謀の平素を、酒に弥暴く、怒気烈火の如く心頭に発して、岸破と蹶起き、枕刀押取りて、一文字に馳出で、障子を蹴放して驀地に躍込めば、人畜相戯れて形の如き不体裁。前後の分別に遑無く、用人の素頭、抜手も見せず、ころりと落しぬ。
二
旗野の主人は血刀提げ、「やをれ婦人、疾く覚めよ」とお村の肋を蹴返せしが、活の法にや合ひけむ、うむと一声呼吸出でて、あれと驚き起返る。
主人はハツタと睨附け、「畜生よ、男は一刀に斬棄てたれど、汝には未だ為むやうあり」と罵り狂ひ、呆れ惑ふお村の黒髪を把りて、廊下を引摺り縁側に連行きて、有無を謂はせず衣服を剥取り、腰に纏へる布ばかりを許して、手足を堅く縛めけり。
お村は夢の心地ながら、痛さ、苦しさ、恥しさに、涙に咽び、声を震はせ、「こは殿にはものに狂はせ給ふか、何故ありての御折檻ぞ」と繰返しては聞ゆれども、此方は憤恚に逆上して、お村の言も耳にも入らず、無二無三に哮立ち、お春を召して酒を取寄せ、己が両手に滴らしては、お村の腹に塗り、背に塗り、全身余さず酒漬にして、其まゝ庭に突出だし、竹藪の中に投入れて、虫責にこそしたりけれ。
深夜の出来事なりしかば、内の者ども皆眠りて知れるは絶えてあらざりき。「かまへて人に語るべからず。執成立せば面倒なり」と主人はお春を警めぬ。お村が苦痛はいかばかりなりけむ、「あら苦し、堪難や、あれよ/\」と叫びたりしが、次第にものも得謂はずなりて、夜も明方に到りては、唯泣く声の聞えしのみ、されば家内の誰彼は藪の中とは心着かで、彼の不開室の怪異とばかり想ひなし、且恐れ且怪みながら、元来泣声ある時は、目出度きことの兆候なり、と言伝へたりければ、「いづれも吉兆に候ひなむ」と主人を祝せしぞ愚なりける。午前少しく前のほど、用人の死骸を発見したる者ありて、上を下へとかへせしが、主人は少しも騒ぐ色なく、「手討にしたり」とばかりにて、手続を経てこと果てぬ。お村は昨夜の夜半より、藪の真中に打込まれ、身動きだにもならざるに、酒の香を慕ひて寄来る蚊の群は謂ふも更なり、何十年を経たりけむ、天日を蔽隠して昼猶闇き大藪なれば、湿地に生ずる虫どもの、幾万とも知れず群り出でて、手足に取着き、這懸り、顔とも謂はず、胸とも謂はず、むず/\と往来しつ、肌を嘗められ、血を吸はるゝ苦痛は云ふべくもあらざれば、悶え苦み、泣き叫びて、死なれぬ業を歎きけるが、漸次に精尽き、根疲れて、気の遠くなり行くにぞ、渠が最も忌嫌へる蛇の蜿蜒も知らざりしは、せめてもの僥倖なり、されば玉の緒の絶えしにあらねば、現に号泣する糸より細き婦人の声は、終日休む間なかりしとぞ。
其日も暮れ、夜に入りて四辺の静になるにつれ、お村が悲喚の声冴えて眠り難きに、旗野の主人も堪兼ね、「あら煩悩し、いで息の根を止めむず」と藪の中に走入り、半死半生の婦人を引出だせば、総身赤く腫れたるに、紫斑々の痕を印し、眼も中てられぬ惨状なり。
かくても未だ怒は解けず、お村の後手に縛りたる縄の端を承塵に潜らせ、天井より釣下げて、一太刀斬附くれば、お村ははツと我に返りて、「殿、覚えておはせ、御身が命を取らむまで、妾は死なじ」と謂はせも果てず、はたと首を討落せば、骸は中心を失ひて、真逆様になりけるにぞ、踵を天井に着けたりしが、血汐は先刻脛を伝ひて足の裏を染めたれば、其が天井に着くとともに、怨恨の血判二つをぞ捺したりける。此一念の遺物拭ふに消えず、今に伝へて血天井と謂ふ。
人を殺すにも法こそあれ、旗野がお村を屠りし如きは、実に惨中の惨なるものなり。家に仕ふる者ども、其物音に駈附けしも、主人が血相に恐をなして、留めむとする者無く、遠巻にして打騒ぎしのみ。殺尽せしお村の死骸は、竹藪の中に埋棄てて、跡弔もせざりけり。
三
はじめお村を讒ししお春は、素知らぬ顔にもてなしつゝ此家に勤め続けたり。人には奇癖のあるものにて、此婦人太く蜘蛛を恐れ、蜘蛛といふ名を聞きてだに、絶叫するほどなりければ、況して其物を見る時は、顔の色さへ蒼ざめて死せるが如くなりしとかや。
お村が虐殺に遭ひしより、七々日にあたる夜半なりき。お春は厠に起出でつ、帰には寝惚けたる眼の戸惑ひして、彼血天井の部屋へ入りにき。それと遽に心着けば、天窓より爪先まで氷を浴ぶる心地して、歯の根も合はず戦きつゝ、不気味に堪へぬ顔を擡げて、手燭の影幽に血の足痕を仰見る時しも、天井より糸を引きて一疋の蜘蛛垂下り、お春の頬に取着くにぞ、あと叫びて立竦める、咽喉を伝ひ胸に入り、腹より背に這廻れば、声をも得立てず身を悶え虚空を掴みて苦みしが、はたと僵れて前後を失ひけり。夜更の事とて誰も知らず、朝になりて見着けたる、お春の身体は冷たかりき、蜘蛛の這へりし跡やらむ、縄にて縊りし如く青き条をぞ画きし。
眼前お春が最期を見てしより、旗野の神経狂出し、あらぬことのみ口走りて、一月余も悩みけるが、一夜月の明かなりしに、外方に何やらむ姿ありて、旗野をおびき出すが如く、主人は居室を迷出でて、漫ろに庭をひしが、恐しき声を発して、おのれ! といひさま刀を抜き、竹藪に躍蒐りて、えいと殺ぎたる竹の切口、斜に尖れる切先に転べる胸を貫きて、其場に命を落せしとぞ。仏家の因果は是ならむかし。
旗野の主人果てて後、代を襲ぐ子とても無かりければ、やがて其家は断絶にけり。
数歳の星霜を経て、今松川の塾となれるまで、種々人の住替りしが、一月居しは皆無にて、多きも半月を過ぐるは無し。甚だしきに到りては、一夜を超えて引越せしもあり。松川彼処に住ひてより、別に変りしこともなく、二月余も落着けるは、いと珍しきことなりと、近隣の人は噂せり。さりながらはじめの内は十幾人の塾生ありて、教場太く賑ひしも、二人三人と去りて、果は一人もあらずなりて、後にはたゞ昼の間通学生の来るのみにて、塾生は我一人なりき。
[1] [2] 下一页 尾页