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化銀杏(ばけいちょう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-23 10:26:42  点击:  切换到繁體中文



       十

「何もそんなに気をまなくッても、よさそうなものを。旦那はね、まるで留守のことが気にかかるために出世が出来ないのだ、といっても可いわ。
 そんなに私を思ってくれるもんだから、夜遊よあそびはせず、ほんのこッたよ、夫婦になってから以来このかた、一晩もうちを明けたことなしさ。学校がひければ、ちゃんともう、道寄もしないで帰って来る。もっとも無口の人だから、口じゃ何ともいわないけれど、いつもむずかしい顔を見せたことはなし、地体がくすぶったなんしろ、(ちょいとこさ)というのだもの。それだが、眼が小さいからちったああれでも愛嬌あいきょうがあるよ。荒い口をきいたことなし、すりゃ私だって、嫌だ、嫌だとはいうものの、どこがといっちゃあ返事が出来ない。けれども嫌だから仕様がないわ。
 それだから私も、なに言うことに逆らわず、良人はやっぱり良人だから、嫌だっても良人だから、良人のように謹んでつかえているもの。そう疑ぐるには及ばないじゃあないかね。芳さん、芳さんの姉様ねえさんがひどくされたようでも困るけれど、男はちったあ男らしく、たまには出歩行であるきでもしないとね、男に意気地いくじがないようで、女房の方でも頼母たのもしくなくなるのよ。
 それを旦那と来た日にゃあ、ちょいとの間でもうちに居て、私の番をしていたがるんだわ。それも私が行届かないせいだろうと、気を着けちゃあいるし、それにもう私は旦那の犠牲いけにえだとあきらめてる。分らないながらも女の道なんてことも聞いてるから、浮気らしい真似もしないけれど、芳さん、あの人の弱点よわみだね。それがために出世も出来ないなんといった日にゃ、私ゃいっそ可哀相だよ。あわれだよ。
 何の密夫まおとこの七人ぐらい、とっくに出来ないじゃあなかったが……」
 といいかけしがお貞はみずからその言過しを恥じたる色あり。
「これは話さ。」
 と口軽に言消して、
「何も見張っていたからって、しようのあるもんじゃあないわね。」
 お貞はおもて晴々しく、しおれし姿きりりとなりて、その音調も気競きおいたり。
「しかしね、芳さん、世の中は何という無理なものだろう。ただ式三献おさかずきをしたばかりで、夫だの、妻だのッて、妙なものが出来上ってさ。女の身体からだはまるで男のものになって、何をいわれてもはいはいッて、従わないと、イヤ、不貞腐ふてくされだの、女の道を知らないのと、世間でいろんなことをいうよ。
 折角お祖父さんが御丹精で、人並に育ったものを、ただで我ものにしてしまって、誰も難有ありがたがりもしないじゃないか。
 それでいて婦人おんなはいつも下手したでに就いて、無理も御道理ごもっともにして通さねばならないという、そんな勘定に合わないことッちゃあ、あるもんじゃない。どこかへ行こうといったって、良人がならないといえば、はい、てといえば、はい、寝ろといわれりゃそれも、はい、だわ。
 人間一にんを縦にしようが、横にしようが、自分のすきなままにしておきながら、まだ不足で、たとえば芳さんと談話はなしをすることはならぬといわれりゃ、やっぱり快く落着いて談話も出来ないだろうじゃないかね。
 一体操を守れだの、良人に従えだのという、おきてかなんか知らないが、そういったようなことをめたのは、誰だと、まあ、お思いだえ。
 一遍婚礼をすりゃ疵者きずものだの、離縁さられるのは女の恥だのッて、人の身体からだを自由にさせないで、死ぬよりつらい思いをしても、一生嫌な者のそばについてなくッちゃあならないというのは、どういう理窟だろう、わからないじゃないかね。
 まさか神様や、仏様のおつげがあったという訳でもあるまいがね。もともと人間がそういうことをこしらえたのなら、誰だって同一おんなじ人間だもの、何密夫まおとこをしても可い、駈落かけおちをしても可いと、言出した処で、それが通って、世間がみんなそうなれば、かえって貞女だの、節婦だの、というものが、つまはじきをされようも知れないわ。
 旦那は、また、何の徳があって、私を自由にするんだろう。すっかり自分のものにしてしまって、私の身体からだを縛ったろうね。食べさしておくせいだといえば、私ゃ一人で針仕事をしても、くらしかねることもないわ。ねえ、芳さん、芳さんてばさ。」
 少年はいたくこの答に窮して、一言もなく聞きたりけり。

       十一

 お貞はなおも語勢強く、
「ほんとに虫のいい談話はなしじゃないかね、それとも私の方から、良人になッて下さいって、頼んで良人にしたものなら、そりゃどんなことでも我慢が出来るし、ちっとも不足のあるもんじゃあないが、私と旦那なんざ、え、芳さん、夫にした妻ではなくッて、妻にした良人だものを。何も私が小さくなッて、いうことをいて縮んでいる義理もなし、操を立てるにも及ばないじゃあないか。
 芳さんとだってそうだわ。何もなかをよくしたからとッて、不思議なことはないじゃあないかね。こないだ騒ぎが持上って、芳さんがソレ駈出かけだした、あの時でも、旦那がいろいろむずかしくいうからね、(はい、芳さんとは姉弟分きょうだいぶんになりました。どういう縁だか知らないけれど、私が銀杏返いちょうがえしに結っていますと、亡なった姉様ねえさんてるッて、あの児も大層姉おもいだと見えまして、姉様々々ッて慕ってくれますもんですから、私もつい可愛くなります。)と無理だとは言われないつもりで言ったけれど、(他人で、姉弟というがあるものか)ッて、真底から了簡りょうけんしないの。そばに居た伯父さんも、伯母さんも、やっぱりおんなじようなことを言って、(ふむ、そんなことで世の中が通るものか。言ようもあろうのに、ナニ姉弟分だ。)とこうさ。口惜くやしいじゃあないかねえ。芳さん、たとい芳さんを抱いて寝たからたッて、二人さえ潔白なら、それで可いじゃあないか、旦那が何と言ったって、私ゃちっとも構やしないわ。」
 お貞はかく謂えりしまで、血色勝れて、元気よく、いと心強く見えたりしが、急に語調の打沈みて、
「しかしこうはいうものの、芳さん世の中というものがね、それじゃあ合点がってんしないとさ。たとい芳さんと私とが、どんなに潔白であッたからっても、世間じゃそうとは思ってくれず、(へん、腹合せの姉弟だ。)と一万石にきめっちまう! 旦那が悪いというでもなく、私と芳さんが悪いのでもなく、ただ悪いのは世間だよ。
 どんなに二人が潔白で、心は雪のように清くッてもね、泥足で踏みにじって、世間で汚くしてしまうんだわ。
 雪といえば御覧な、冬になって雪が降ると、ここのうちなんざ、裏の地面がはたけだからね、木戸があかなくッて困るんだよ。理窟を言えば同一おんなじで、垣根にあるだけの雪ならば、無理に推せばくけれど、ずッとむこうの畠から一面に降りつづいて、その力が同一ひとつになって、表からおすのだもの。どうして、何といわれても、世間にゃあ口がかないのよ。
 男の腕なら知らないこと、女なんざそれを無理にこじあけようとすると、呼吸切いきぎれがしてしまうの。でも芳さんは士官になるというから、今に大将にでもおなりの時は、その力でいくらも世間を負かしてしまって、何にも言わさないように出来もしようけれど、今といっちゃあたッた二人で、どうすることもならないのよ。
 それとも神様や仏様が、私だちの手伝をして、力を添えて下さりゃ可いけれど、そんなねがいはかなわないわね。
 婆々ばばあじみるッて芳さんはお笑いだが、芳さんなぞはその思遣おもいやりがあるまいけれど、可愛かわゆい児でも亡くして御覧、そりゃおのずと後生ごしょうのことも思われるよ。
 あれは、えらい僧正だって、旦那の勧める説教を聞きはじめてから、方々へ参詣まいったり、おしえを聞いたりするんだがね。なるほどと思うことばかり、それでも世の中に逆らッて、それで、御利益があるッてことは、ちっとも聞かしちゃあくれないものを。
 戸をッつけてる雪のような、力の強い世の中に逆らってこうとすると、そりゃ弱い方が殺されッちまうわ。そうすりゃもう死ぬよりほかはないじゃないかね。
 私ももうもう死んでしまいたいと思うけれど、それがまたそうもかないものだし、このごろじゃ芳さんという可愛いものが出来たからね、私ゃ死ぬことは嫌になったわ。ほんとうさ! 自分の児が可愛いとか、芳さんとこうやって談話はなしをするのが嬉しいとか、何でもたのしみなことさえありゃ、たとい辛くッても、我慢が出来るよ。どうせ、私は意気地なしで、世間に負けているからね、そりゃ旦那は大事にもする、病気やまいが出るほど嫌な人でも、世間よのなかにゃ勝たれないから、たとい旦那が思い切って、縁を切ろうといってもね、どんな腹いせでも旦那にさせて、私ゃ、あやまって出てかない。」
 と歯をくいしめてすすり泣きつ。

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