十
「何もそんなに気を揉まなくッても、よさそうなものを。旦那はね、まるで留守のことが気に懸るために出世が出来ないのだ、といっても可いわ。
そんなに私を思ってくれるもんだから、夜遊はせず、ほんのこッたよ、夫婦になってから以来、一晩も宅を明けたことなしさ。学校がひければ、ちゃんともう、道寄もしないで帰って来る。もっとも無口の人だから、口じゃ何ともいわないけれど、いつもむずかしい顔を見せたことはなし、地体がくすぶった何しろ、(ちょいとこさ)というのだもの。それだが、眼が小さいからちったああれでも愛嬌があるよ。荒い口をきいたことなし、すりゃ私だって、嫌だ、嫌だとはいうものの、どこがといっちゃあ返事が出来ない。けれども嫌だから仕様がないわ。
それだから私も、なに言うことに逆らわず、良人はやっぱり良人だから、嫌だっても良人だから、良人のように謹んで事えているもの。そう疑ぐるには及ばないじゃあないかね。芳さん、芳さんの姉様がひどくされたようでも困るけれど、男はちったあ男らしく、たまには出歩行でもしないとね、男に意気地がないようで、女房の方でも頼母しくなくなるのよ。
それを旦那と来た日にゃあ、ちょいとの間でも家に居て、私の番をしていたがるんだわ。それも私が行届かないせいだろうと、気を着けちゃあいるし、それにもう私は旦那の犠牲だとあきらめてる。分らないながらも女の道なんてことも聞いてるから、浮気らしい真似もしないけれど、芳さん、あの人の弱点だね。それがために出世も出来ないなんといった日にゃ、私ゃいっそ可哀相だよ。あわれだよ。
何の密夫の七人ぐらい、疾くに出来ないじゃあなかったが……」
といいかけしがお貞はみずからその言過しを恥じたる色あり。
「これは話さ。」
と口軽に言消して、
「何も見張っていたからって、しようのあるもんじゃあないわね。」
お貞は面晴々しく、しおれし姿きりりとなりて、その音調も気競いたり。
「しかしね、芳さん、世の中は何という無理なものだろう。ただ式三献をしたばかりで、夫だの、妻だのッて、妙なものが出来上ってさ。女の身体はまるで男のものになって、何をいわれてもはいはいッて、従わないと、イヤ、不貞腐だの、女の道を知らないのと、世間でいろんなことをいうよ。
折角お祖父さんが御丹精で、人並に育ったものを、ただで我ものにしてしまって、誰も難有がりもしないじゃないか。
それでいて婦人はいつも下手に就いて、無理も御道理にして通さねばならないという、そんな勘定に合わないことッちゃあ、あるもんじゃない。どこかへ行こうといったって、良人がならないといえば、はい、起てといえば、はい、寝ろといわれりゃそれも、はい、だわ。
人間一人を縦にしようが、横にしようが、自分の好なままにしておきながら、まだ不足で、たとえば芳さんと談話をすることはならぬといわれりゃ、やっぱり快く落着いて談話も出来ないだろうじゃないかね。
一体操を守れだの、良人に従えだのという、捉かなんか知らないが、そういったようなことを極めたのは、誰だと、まあ、お思いだえ。
一遍婚礼をすりゃ疵者だの、離縁るのは女の恥だのッて、人の身体を自由にさせないで、死ぬよりつらい思いをしても、一生嫌な者の傍についてなくッちゃあならないというのは、どういう理窟だろう、わからないじゃないかね。
まさか神様や、仏様のおつげがあったという訳でもあるまいがね。もともと人間がそういうことを拵えたのなら、誰だって同一人間だもの、何密夫をしても可い、駈落をしても可いと、言出した処で、それが通って、世間がみんなそうなれば、かえって貞女だの、節婦だの、というものが、爪はじきをされようも知れないわ。
旦那は、また、何の徳があって、私を自由にするんだろう。すっかり自分のものにしてしまって、私の身体を縛ったろうね。食べさしておくせいだといえば、私ゃ一人で針仕事をしても、くらしかねることもないわ。ねえ、芳さん、芳さんてばさ。」
少年は太くこの答に窮して、一言もなく聞きたりけり。
十一
お貞はなおも語勢強く、
「ほんとに虫のいい談話じゃないかね、それとも私の方から、良人になッて下さいって、頼んで良人にしたものなら、そりゃどんなことでも我慢が出来るし、ちっとも不足のあるもんじゃあないが、私と旦那なんざ、え、芳さん、夫にした妻ではなくッて、妻にした良人だものを。何も私が小さくなッて、いうことを肯いて縮んでいる義理もなし、操を立てるにも及ばないじゃあないか。
芳さんとだってそうだわ。何もなかをよくしたからとッて、不思議なことはないじゃあないかね。こないだ騒ぎが持上って、芳さんがソレ駈出した、あの時でも、旦那がいろいろむずかしくいうからね、(はい、芳さんとは姉弟分になりました。どういう縁だか知らないけれど、私が銀杏返に結っていますと、亡なった姉様に肖てるッて、あの児も大層姉おもいだと見えまして、姉様々々ッて慕ってくれますもんですから、私もつい可愛くなります。)と無理だとは言われないつもりで言ったけれど、(他人で、姉弟というがあるものか)ッて、真底から了簡しないの。傍に居た伯父さんも、伯母さんも、やっぱりおんなじようなことを言って、(ふむ、そんなことで世の中が通るものか。言ようもあろうのに、ナニ姉弟分だ。)とこうさ。口惜しいじゃあないかねえ。芳さん、たとい芳さんを抱いて寝たからたッて、二人さえ潔白なら、それで可いじゃあないか、旦那が何と言ったって、私ゃちっとも構やしないわ。」
お貞はかく謂えりしまで、血色勝れて、元気よく、いと心強く見えたりしが、急に語調の打沈みて、
「しかしこうはいうものの、芳さん世の中というものがね、それじゃあ合点しないとさ。たとい芳さんと私とが、どんなに潔白であッたからっても、世間じゃそうとは思ってくれず、(へん、腹合せの姉弟だ。)と一万石に極っちまう! 旦那が悪いというでもなく、私と芳さんが悪いのでもなく、ただ悪いのは世間だよ。
どんなに二人が潔白で、心は雪のように清くッてもね、泥足で踏みにじって、世間で汚くしてしまうんだわ。
雪といえば御覧な、冬になって雪が降ると、ここの家なんざ、裏の地面が畠だからね、木戸があかなくッて困るんだよ。理窟を言えば同一で、垣根にあるだけの雪ならば、無理に推せば開くけれど、ずッとむこうの畠から一面に降りつづいて、その力が同一になって、表からおすのだもの。どうして、何といわれても、世間にゃあ口が開かないのよ。
男の腕なら知らないこと、女なんざそれを無理にこじあけようとすると、呼吸切がしてしまうの。でも芳さんは士官になるというから、今に大将にでもおなりの時は、その力でいくらも世間を負かしてしまって、何にも言わさないように出来もしようけれど、今といっちゃあたッた二人で、どうすることもならないのよ。
それとも神様や仏様が、私だちの手伝をして、力を添えて下さりゃ可いけれど、そんな願はかなわないわね。
婆々じみるッて芳さんはお笑いだが、芳さんなぞはその思遣があるまいけれど、可愛い児でも亡くして御覧、そりゃおのずと後生のことも思われるよ。
あれは、えらい僧正だって、旦那の勧める説教を聞きはじめてから、方々へ参詣ったり、教を聞いたりするんだがね。なるほどと思うことばかり、それでも世の中に逆らッて、それで、御利益があるッてことは、ちっとも聞かしちゃあくれないものを。
戸を推ッつけてる雪のような、力の強い世の中に逆らって行こうとすると、そりゃ弱い方が殺されッちまうわ。そうすりゃもう死ぬより他はないじゃないかね。
私ももうもう死んでしまいたいと思うけれど、それがまたそうも行かないものだし、このごろじゃ芳さんという可愛いものが出来たからね、私ゃ死ぬことは嫌になったわ。ほんとうさ! 自分の児が可愛いとか、芳さんとこうやって談話をするのが嬉しいとか、何でも楽みなことさえありゃ、たとい辛くッても、我慢が出来るよ。どうせ、私は意気地なしで、世間に負けているからね、そりゃ旦那は大事にもする、病気が出るほど嫌な人でも、世間にゃ勝たれないから、たとい旦那が思い切って、縁を切ろうといってもね、どんな腹いせでも旦那にさせて、私ゃ、あやまって出て行かない。」
と歯をくいしめてすすり泣きつ。
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