六
「(なぜ一所に死ぬとは言ってくれない。愛情というものは、そんな淡々しいものではない。)ッていうのさ。向うからそう出られちゃあ、こっちで何とも言いようが無いわ。
女郎や芸妓じゃあるまいしさ、そんな殺文句が謂われるものかね。でも、旦那の怒りようがひどいので、まあ、さんざあやまってさ。坊やがかすがいで、まずそれッきりで治まったがね、私ゃその時、ああ、執念深い人だと思って、ぞッとして、それからというものは、何だか重荷を背負ったようで、今でも肩身が狭いようなの。
あとでね、あのそら先刻いった黒眼鏡ね、(烏蜻蛉見たように、おかしいじゃアありませんか。)と、病気が治ってから聞いたことがあったよ。そうするとね、東京はからッ風で塵埃が酷いから、眼を悪くせまいための砂除だっていうの、勉強盛なら洋燈をカッカと、ともして寝ない人さえあるんだのに、そう身体ばかり庇ってちゃあ、何にも出来やしないと思ったけれど、まさかそんなことをいえたものでもなし、呼吸器も肺病の薬というので懸けるんだッて。それからね、その髯がまた妙なのさ。」
とお貞は少年の面を見て、
「衛生髯だとさ、おほほ。分るかえ? 芳さん。」
「何のこッた、衛生髯ッたって分らないよ。」
「それはね。」
となお微笑みながら、
「こうなのよ。何でも人間の身体に附属したものは、爪であろうが、垢であろうが、要らないものは一つもないとね、その中でも往来の塵埃なんぞに、肺病の虫がまざって、鼻ンなかへ飛込むのを、髯がね、つまり玄関番見たようなもので、喰留めて入れないンだッさ。見得でも何でもないけれど、身体のために生したと、そういったよ。だから衛生髯だわね。おほほほほ。」
お貞は片手を口にあてつ。少年も噴出だしぬ。
「いくら衛生のためだって、あの髯だけは廃止ば可いなあ。まるで(ちょいとこさ)に肖てるものを、髯があるからなおそっくりだ。」
お貞は眉を打顰めて、
「嫌だよ、芳さんは。(ちょいとこさ)はあんまりだわ。でも(ちょいとこさ)と言えばこないだ、小橋の上で、あの(ちょいとこさ)の飴屋に逢ったの。ちょうどその時だ。桜に中の字の徽章の着いた学校の生徒が三人連で、向うから行き違って、一件を見ると声を揃えて、(やあ、西岡先生。)と大笑をして行き過ぎたが、何のこった知らんと、当座は気が着かずに居たっけがね。何だとさ、学校じゃあ、皆がもう良人に、(ちょいとこさ)と謂う渾名を附けて、蔭じゃあ、そうとほか言わないそうだよ。」
少年は頭を掉れり。
「何の、蔭でいうくらいなら優しいけれど、髯がね、あの学校の雇になって、はじめて教場へ出た時に、誰だっけか、(先生、先生の御姓名は?)と聞いたんだって。するとね、ちょうど、後れて溜から入って来た、遠藤ッて、そら知ってるだろう。僕の処へもよく遊びに来る、肩のあがった、武者修行のような男。」
「ああ、ああ、鉄扇でものをいう人かえ。」
「うむ、彼奴さ、彼奴がさ。髯の傍へずいと出て、席から名を尋ねた学生に向って、(おい、君、この先生か。この先生ならそうだ、名はチョイトコサだ。)と謂ったので、組一統がわッといって笑ッたって、里見がいつか話したっけ。」
お貞は溜いきをもらしたり。
「嫌になっちまう! じゃ、まるでのっけから安く踏まれて、馬鹿にされ切っていたんだね。」
「でもなかにゃああ見えても、なかなか学問が出来るんだって、そういってる者もあるんだ。何しろ、教場へ出て来ると、礼式もないで、突然、ボウルドに問題を書出して、
(何番、これを。)
といったきり椅子にかかッて、こう、少しうつむいて、肱をついて、黙っているッて。呼ばれた番号の奴は災難だ。大きに下稽古なんかして行かなかろうものなら、面くらって、(先生私には出来ません。)といってみても返事をしない。そのままうっちゃっておくもんだから、しまいにゃあ泣声で、(私には出来ません、先生々々。)と呼ぶと、顔も動さなけりゃ、見向きもしないで、(遣ってみるです。)というッきりで、取附島も何にもないと。それでも遣ってみても出来そうもない奴は、立ったり、居たり、ボウルドの前へ出ようとして中戻をしたり、愚図々々迷ついてる間に、柝が鳴って、時間が済むと、先生はそのまんまでフイと行ってしまうんだッて。そんな時あ問題を一つ見たばかりで、一時間まる遊び。」
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