二
お貞はハッとせし風情にて、少年の顔を瞻りしが、腫ぼったき眼に思いを籠め、
「堪忍おしよ、それはもう芳さんが言わないでも、私はこの通り髪も濃くないもんだから、自分でも束ねていたいと思うがね、旦那が不可ッて言うから仕様がないのよ。」
「だからやっぱり奥様じゃあないか。」
と少年は平気なり。お貞はしおれて怨めしげに、
「だって、他の者なら可いけれど、芳さんにばかりは奥様ッて謂われると、何だか他人がましいので、頼母しくなくなるわ。せめて「お貞さん」とでも謂っておくれだと嬉しいけれど。」
とためいきして、力なげなるものいいなり。少年は無雑作に、
「じゃあ、お貞さんか。」
と言懸けて、
「何だか友達のように聞えるねえ。」
「だからやっぱり、姉さんが可いじゃあないかえ。」
「でも円髷に結ってるもの、銀杏返だと亡なった姉様にそっくりだから、姉様だと思うけれど、円髷じゃあ僕は嫌だ。」
と少年は素気なし。
「じゃあまるであかの他人なの?」
「なにそうでもないけれど。……」
少年は言淀みぬ。お貞は襟を掻合せ、浴衣の上前を引張りながら、
「それだから昨日も髪を結わない前に、あんなに芳さんにあやまったものを。邪慳じゃあないかね。可よ、旦那が何といっても、叱られても大事ないよ。私ゃすぐ引毀して、結直して見せようわね。」
お貞は顔の色尋常ならざりき。少年は少し弱りて、
「それでなくッてさえ、先達のような騒がはじまるものを、そんなことをしようもんなら、それこそだ。僕アまた駈出して行かにゃあならない。」
「ほんとうに、あの時は。ま、どうしようと思ったわ。
芳さんは駈出してしまって二晩もお帰りでないし、おばあさんはまた大変に御心配遊ばしてどうしたら可かろうとおっしゃるし、旦那は旦那でものも言わないで、黙って考え込んでばかりいるしね、私はもう、面目ないやら、恥かしいやら、申訳がないやらで、ぼうッとしてしまったよ。後で聞くと何だっさ、真蒼になって寝ていたとさ。
芳様の跫音が聞えたので、はッと気が着いて駈出したが、それまでどうしていたんだか、まるで夢のようで[#「夢のようで」は底本では「夢のやうで」]、分らなかったよ。」
少年は頻りに頷き、
「僕はまた髯がさ、(水上さん)て呼ぶから、何だと思って二階から覗くと、姉様は突伏して泣いてるし、髯は壇階子の下口に突立ってて、憤然とした顔色で、(直ぐと明けてもらいたい。)と失敬ことを謂うじゃあないか。だから僕は不愉快で堪らないから、それからそのまんまで、家を出て、どこか可い家があったらと思ったけれど、探す時は無いもんだ。それから友達の処へ泊って、牛を奢ってね、トランプをして遊んでいたんだ。僕あ一番強いんだぜ。滅茶々々に負かして悪体を吐いてやると、大変に怒ってね、とうとう喧嘩をしちまったもんだから、翌晩はそこに泊ることも出来ないので、仕方が無いから帰って来たんだ。」
お貞は聞きつつ睨む真似して、
「憎らしいねえ。人の気も知らないで、お友達とトランプも無いもんだね。気が違やあしないかと、私ゃ自分でそう思った位だのにさ。」
「でも僕あ帰った時、(芳さん!)てって奥から出て来た、あの時の顔にゃ吃驚したよ。暮合ではあるし、亡なった姉さんの幽霊かと思った。」
「いやな! 芳さんだ。恐いことね。」
お貞は身震いして横を向きぬ。少年は微笑みたり。
「何だ、臆病な。昼じゃあないか。」
「でもそんなことをお言いだと、晩に手水に行かれやしないや。」
「そんなに臆病な癖にして、昨夜も髯と二人連で、怪談を聞きに行ったじゃあないか。」
お貞はまじめに弁解して、
「はい、ですから切前に帰りました。切前は茶番だの、落語だの、そりゃどんなにかおもしろいよ。」
「それじゃもう髯の御機嫌は直ったんだね。」
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