十三
「口惜しい!」
紫玉は舷に縋って身を震わす。――真夜中の月の大池に、影の沈める樹の中に、しぼめる睡蓮のごとく漾いつつ。
「口惜しいねえ。」
車馬の通行を留めた場所とて、人目の恥に歩行みもならず、――金方の計らいで、――万松亭という汀なる料理店に、とにかく引籠る事にした。紫玉はただ引被いで打伏した。が、金方は油断せず。弟子たちにも旨を含めた。で、次場所の興行かくては面白かるまいと、やけ酒を煽っていたが、酔倒れて、それは寝た。
料理店の、あの亭主は、心優いもので、起居にいたわりつ、慰めつ、で、これも注意はしたらしいが、深更のしかも夏の夜の戸鎖浅ければ、伊達巻の跣足で忍んで出る隙は多かった。
生命の惜からぬ身には、操るまでの造作も要らぬ。小さな通船は、胸の悩みに、身もだえするままに揺動いて、萎れつつ、乱れつつ、根を絶えた小船の花の面影は、昼の空とは世をかえて、皓々として雫する月の露吸う力もない。
「ええ、口惜しい。」
乱れがみを
りつつ、手で、砕けよ、とハタと舷を打つと……時の間に痩せた指は細くなって、右の手の四つの指環は明星に擬えた金剛石のをはじめ、紅玉も、緑宝玉も、スルリと抜けて、きらきらと、薄紅に、浅緑に皆水に落ちた。
どうでもなれ、左を試みに振ると、青玉も黄玉も、真珠もともに、月の美しい影を輪にして沈む、……竜の口は、水の輪に舞う処である。
ここに残るは、名なればそれを誇として、指にも髪にも飾らなかった、紫の玉ただ一つ。――紫玉は、中高な顔に、深く月影に透かして差覗いて、千尋の淵の水底に、いま落ちた玉の緑に似た、門と柱と、欄干と、あれ、森の梢の白鷺の影さえ宿る、櫓と、窓と、楼と、美しい住家を視た。
「ぬしにもなって、この、この田舎のものども。」
縋る波に力あり、しかと引いて水を掴んで、池に倒に身を投じた。爪尖の沈むのが、釵の鸚鵡の白く羽うつがごとく、月光に微に光った。
「御坊様、貴方は?」
「ああ、山国の門附芸人、誇れば、魔法つかいと言いたいが、いかな、さまでの事もない。昨日から御目に掛けた、あれは手品じゃ。」
坊主は、欄干に擬う苔蒸した井桁に、破法衣の腰を掛けて、活けるがごとく爛々として眼の輝く青銅の竜の蟠れる、角の枝に、肱を安らかに笑みつつ言った。
「私に、何のお怨みで?……」
と息せくと、眇の、ふやけた目珠ぐるみ、片頬を掌でさし蔽うて、
「いや、辺境のものは気が狭い。貴方が余り目覚しい人気ゆえに、恥入るか、もの嫉みをして、前芸をちょっと遣った。……さて時に承わるが太夫、貴女はそれだけの御身分、それだけの芸の力で、人が雨乞をせよ、と言わば、すぐに優伎の舞台に出て、小町も静も勤めるのかな。」
紫玉は巌に俯向いた。
「それで通るか、いや、さて、都は気が広い。――われらの手品はどうじゃろう。」
「ええ、」
と仰いで顔を視た時、紫玉はゾッと身に沁みた、腐れた坊主に不思議な恋を知ったのである。
「貴方なら、貴方なら――なぜ、さすろうておいで遊ばす。」
坊主は両手で顔を圧えた。
「面目ない、われら、ここに、高い貴い処に恋人がおわしてな、雲霧を隔てても、その御足許は動かれぬ。や!」
と、慌しく身を退ると、呆れ顔してハッと手を拡げて立った。
髪黒く、色雪のごとく、厳しく正しく艶に気高き貴女の、繕わぬ姿したのが、すらりと入った。月を頸に掛けつと見えたは、真白な涼傘であった。
膝と胸を立てた紫玉を、ちらりと御覧ずると、白やかなる手尖を軽く、彼が肩に置いて、
「私を打ったね。――雨と水の世話をしに出ていた時、……」
装は違った、が、幻の目にも、面影は、浦安の宮、石の手水鉢の稚児に、寸分のかわりはない。
「姫様、貴女は。」
と坊主が言った。
「白山へ帰る。」
ああ、その剣ケ峰の雪の池には、竜女の姫神おわします。
「お馬。」
と坊主が呼ぶと、スッと畳んで、貴女が地に落した涼傘は、身震をしてむくと起きた。手まさぐりたまえる緋の総は、たちまち紅の手綱に捌けて、朱の鞍置いた白の神馬。
ずっと騎すのを、轡頭を曳いて、トトトト――と坊主が出たが、
「纏頭をするぞ。それ、錦を着て行け。」
かなぐり脱いだ法衣を投げると、素裸の坊主が、馬に、ひたと添い、紺碧なる巌の聳つ崕を、翡翠の階子を乗るように、貴女は馬上にひらりと飛ぶと、天か、地か、渺茫たる広野の中をタタタタと蹄の音響。
蹄を流れて雲が漲る。……
身を投じた紫玉の助かっていたのは、霊沢金水の、巌窟の奥である。うしろは五十万坪と称うる練兵場。
紫玉が、ただ沈んだ水底と思ったのは、天地を静めて、車軸を流す豪雨であった。――
雨を得た市民が、白身に破法衣した女優の芸の徳に対する新たなる渇仰の光景が見せたい。
大正九(一九二〇)年一月
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