十二
時を見、程を計って、紫玉は始め、実は法壇に立って、数万の群集を足許に低き波のごとく見下しつつ、昨日通った坂にさえ蟻の伝うに似て押覆す人数を望みつつ、徐に雪の頤に結んだ紫の纓を解いて、結目を胸に、烏帽子を背に掛けた。
それから伯爵の釵を抜いて、意気込んで一振り振ると、……黒髪の颯と捌けたのが烏帽子の金に裏透いて、さながら金屏風に名誉の絵師の、松風を墨で流したようで、雲も竜もそこから湧くか、と視められた。――これだけは工夫した女優の所作で、手には白金が匕首のごとく輝いて、凄艶比類なき風情であった。
さてその鸚鵡を空に翳した。
紫玉の
った瞳には、確に天際の僻辺に、美女の掌に似た、白山は、白く清く映ったのである。
毛筋ほどの雲も見えぬ。
雨乞の雨は、いずれも後刻の事にして、そのまま壇を降ったらば無事だったろう。ところが、遠雷の音でも聞かすか、暗転にならなければ、舞台に馴れた女優だけに幕が切れない。紫玉は、しかし、目前鯉魚の神異を見た、怪しき僧の暗示と讖言を信じたのであるから、今にも一片の雲は法衣の袖のように白山の眉に飜るであろうと信じて、しばしを待つ間を、法壇を二廻り三廻り緋の袴して輪に歩行いた。が、これは鎮守の神巫に似て、しかもなんば、という足どりで、少なからず威厳を損じた。
群集の思わんほども憚られて、腋の下に衝と冷き汗を覚えたのこそ、天人の五衰のはじめとも言おう。
気をかえて屹となって、もの忘れした後見に烈しくきっかけを渡す状に、紫玉は虚空に向って伯爵の鸚鵡を投げた。が、あの玩具の竹蜻蛉のように、晃々と高く舞った。
「大神楽!」
と喚いたのが第一番の半畳で。
一人口火を切ったから堪らない。練馬大根と言う、おかめと喚く。雲の内侍と呼ぶ、雨しょぼを踊れ、と怒鳴る。水の輪の拡がり、嵐の狂うごとく、聞くも堪えない讒謗罵詈は雷のごとく哄と沸く。
鎌倉殿は、船中において嚇怒した。愛寵せる女優のために群集の無礼を憤ったのかと思うと、――そうではない。この、好色の豪族は、疾く雨乞の験なしと見て取ると、日の昨の、短夜もはや半ばなりし紗の蚊帳の裡を想い出した。……
雨乞のためとて、精進潔斎させられたのであるから。
「漕げ。」
紫幕の船は、矢を射るように島へ走る。
一度、駆下りようとした紫玉の緋裳は、この船の激しく襲ったために、一度引留められたものである。
「…………」
と喚く鎌倉殿の、何やら太い声に、最初、白丁に豆烏帽子で傘を担いだ宮奴は、島のなる幕の下を這って、ヌイと面を出した。
すぐに此奴が法壇へ飛上った、その疾さ。
紫玉がもはや、と思い切って池に飛ぼうとする処を、圧えて、そして剥いだ。
女の身としてあらりょうか。
あの、雪を束ねた白いものの、壇の上にひれ伏した、あわれな状は、月を祭る供物に似て、非ず、旱魃の鬼一口の犠牲である。
ヒイと声を揚げて弟子が二人、幕の内で、手放しにわっと泣いた。
赤ら顔の大入道の、首抜きの浴衣の尻を、七のずまで引めくったのが、苦り切ったる顔して、つかつかと、階を踏んで上った、金方か何ぞであろう、芝居もので。
肩をむずと取ると、
「何だ、状は。小町や静じゃあるめえし、増長しやがるからだ。」
手の裏かえす無情さは、足も手もぐたりとした、烈日に裂けかかる氷のような練絹の、紫玉のふくよかな胸を、酒焼の胸に引掴み、毛脛に挟んで、
「立たねえかい。」
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