四
「私の目か眩んだんでせうか、婦は瞬をしません。五分か一時と、此方が呼吸をも詰めて見ます間――で、餘り調つた顏容といひ、果して此は白像彩塑で、何う云ふ事か、仔細あつて、此の廟の本尊なのであらう、と思つたのです。
床の下……板縁の裏の處で、がさ/\がさ/\と音が發出した……彼方へ、此方へ、鼠が、ものでも引摺るやうで、床へ響く、と其の音が、變に、恁う上に立つてる私の足の裏を擽ると云つた形で、むづ痒くつて堪らないので、もさ/\身體を搖りました。――本尊は、まだ瞬もしなかつた。――其の内に、右の音が、壁でも攀ぢるか、這上つたらしく思ふと、寢臺の脚の片隅に羽目の破れた處がある。其の透間へ鼬がちよろりと覗くやうに、茶色の偏平い顏を出したと窺はれるのが、もぞり、がさりと少しづゝ入つて、ばさ/\と出る、と大きさやがて三俵法師、形も似たもの、毛だらけの凝團、足も、顏も有るのぢやない。成程、鼠でも中に潛つて居るのでせう。
其奴が、がさ/\と寢臺の下へ入つて、床の上をずる/\と引摺つたと見ると、婦が掻卷から二の腕を白く拔いて、私の居る方へぐたりと投げた。寢亂れて乳も見える。其を片手で祕したけれども、足のあたりを震はすと、あゝ、と云つて其の手も兩方、空を掴むと裙を上げて、弓形に身を反らして、掻卷を蹴て、轉がるやうに衾を拔けた。……
私は飛出した……
壇を落ちるやうに下りた時、黒い狐格子を背後にして、婦は斜違に其處に立つたが、呀、足許に、早やあの毛むくぢやらの三俵法師だ。
白い踵を揚げました、階段を辷り下りる、と、後から、ころ/\と轉げて附着く。さあ、それからは、宛然人魂の憑ものがしたやうに、毛が赫と赤く成つて、草の中を彼方へ、此方へ、たゞ、伊達卷で身についたばかりのしどけない媚かしい寢着の婦を追
す。婦はあとびつしやりをする、脊筋を捩らす。三俵法師は、裳にまつはる、踵を嘗める、刎上る、身震する。
やがて、沼の縁へ追迫られる、と足の甲へ這上る三俵法師に、わな/\身悶する白い足が、あの、釣竿を持つた三人の手のやうに、ちら/\と宙に浮いたが、するりと音して、帶が辷ると、衣ものが脱げて草に落ちた。
「沈んだ船――」と、思はず私が聲を掛けた。隙も無しに、陰氣な水音が、だぶん、と響いた……
しかし、綺麗に泳いで行く。美い肉の脊筋を掛けて左右へ開く水の姿は、輕い羅を捌くやうです。其の膚の白い事、あの合歡花をぼかした色なのは、豫て此の時のために用意されたのかと思ふほどでした。
動止んだ赤茶けた三俵法師が、私の目の前に、惰力で、毛筋を、ざわ/\とざわつかせて、うツぷうツぷ喘いで居る。
見ると驚いた。ものは棕櫚の毛を引束ねたに相違はありません。が、人が寄る途端に、ぱちぱち豆を燒く音がして、ばら/\と飛着いた、棕櫚の赤いのは、幾千萬とも數の知れない蚤の集團であつたのです。
早や、兩脚が、むづ/\、脊筋がぴち/\、頸首へぴちんと來る、私は七顛八倒して身體を振つて振飛ばした。
唯、何と、其の棕櫚の毛の蚤の巣の處に、一人、頭の小さい、眦と頬の垂下つた、青膨れの、土袋で、肥張な五十恰好の、頤鬚を生した、漢が立つて居るぢやありませんか。何ものとも知れない。越中褌と云ふ……あいつ一つで、眞裸で汚い尻です。
婦は沼の洲へ泳ぎ着いて、卯の花の茂にかくれました。
が、其の姿が、水に流れて、柳を翠の姿見にして、ぽつと映つたやうに、人の影らしいものが、水の向うに、岸の其の柳の根に薄墨色に立つて居る……或は又……此處の土袋と同一やうな男が、其處へも出て來て、白身の婦人を見て居るのかも知れません。
私も其の一人でせうね……
(や、待てい。)
青膨れが、痰の搦んだ、ぶやけた聲して、早や行掛つた私を留めた……
(見て貰えたいものがあるで、最う直ぢやぞ。)と、首をぐたりと遣りながら、横柄に言ふ。……何と、其の兩足から、下腹へ掛けて、棕櫚の毛の蚤が、うよ/\ぞろ/\……赤蟻の列を造つてる……私は立窘みました。
ひら/\、と夕空の雲を泳ぐやうに柳の根から舞上つた、あゝ、其は五位鷺です。中島の上へ舞上つた、と見ると輪を掛けて颯と落した。
(ひい。)と引く婦の聲。鷺は舞上りました。翼の風に、卯の花のさら/\と亂るゝのが、婦が手足を畝らして、身を
くに宛然である。
今考へると、それが矢張り、あの先刻の樹だつたかも知れません。同じ薫が風のやうに吹亂れた花の中へ、雪の姿が素直に立つた。が、滑かな胸の衝と張る乳の下に、星の血なるが如き一雫の鮮紅。絲を亂して、卯の花が眞赤に散る、と其の淡紅の波の中へ、白く眞倒に成つて沼に沈んだ。汀を廣くするらしい寂かな水の輪が浮いて、血汐の綿がすら/\と碧を曳いて漾ひ流れる……
(あれを見い、血の形が字ぢやらうが、何と讀むかい。)
――私が息を切つて、頭を掉ると、
(分らんかい、白痴めが。)と、ドンと胸を突いて、突倒す。重い力は、磐石であつた。
(又……遣直しぢや。)と呟きながら、其の蚤の巣をぶら下げると、私が茫然とした間に、のそのそ、と越中褌の灸のあとの有る尻を見せて、そして、やがて、及腰の祠の狐格子を覗くのが見えた。
(奧さんや、奧さんや――蚤が、蚤が――)
と腹をだぶ/\、身悶えをしつゝ、後退りに成つた。唯、どしん、と尻餅をついた。が、其の頭へ、棕櫚の毛をずぼりと被る、と梟が化けたやうな形に成つて、其のまゝ、べた/\と草を這つて、縁の下へ這込んだ。――
蝙蝠傘を杖にして、私がひよろ/\として立去る時、沼は暗うございました。そして生ぬるい雨が降出した……
(奧さんや、奧さんや。)
と云つたが、其の土袋の細君ださうです。土地の豪農何某が、内證の逼迫した華族の令孃を金子にかへて娶つたと言ひます。御殿づくりでかしづいた、が、其の姫君は可恐い蚤嫌ひで、唯一匹にも、夜も晝も悲鳴を上げる。其の悲しさに、別室の閨を造つて防いだけれども、防ぎ切れない。で、果は亭主が、蚤を除けるための蚤の巣に成つて、棕櫚の毛を全身に纏つて、素裸で、寢室の縁の下へ潛り潛り、一夏のうちに狂死をした。――
(まだ、迷つて居さつしやるかなう、二人とも――旅の人がの、あの忘れ沼では、同じ事を度々見ます。)
旅籠屋での談話であつた。」
工學士は附けたして、
「……祠の其の縁の下を見ましたがね、……御存じですか……異類異形な石がね。」
日を經て工學士から音信して、あれは、乳香の樹であらうと言ふ。
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- 「くの字点」は「/\」で、「濁点付きくの字点」は「/″\」で表しました。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
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