牛乳屋が露地へ入れば驚き、酒屋の小僧が「今日は」を叫べば逃げ、大工が来たと見ればすくみ、屋根屋が来ればひそみ、畳屋が来ても寄りつかない。
いつかは、何かの新聞で、東海道の何某は雀うちの老手である。並木づたいに御油から赤坂まで行く間に、雀の獲もの約一千を下らないと言うのを見て戦慄した。
空気銃を取って、日曜の朝、ここの露地口に立つ、狩猟服の若い紳士たちは、失礼ながら、犬ころしに見える。
去年の暮にも、隣家の少年が空気銃を求め得て高く捧げて歩行いた。隣家の少年では防ぎがたい。おつかいものは、ただ煎餅の袋だけれども、雀のために、うちの小母さんが折入って頼んだ。
親たちが笑って、
「お宅の雀を狙えば、銃を没収すると言う約条ずみです。」
かつて、北越、倶利伽羅を汽車で通った時、峠の駅の屋根に、車のとどろくにも驚かず、雀の日光に浴しつつ、屋根を自在に、樋の宿に出入りするのを見て、谷に咲残った撫子にも、火牛の修羅の巷を忘れた。――古戦場を忘れたのが可いのではない。忘れさせたのが雀なのである。
モウパッサンが普仏戦争を題材にした一篇の読みだしは、「巴里は包囲されて飢えつつ悶えている。屋根の上に雀も少くなり、下水の埃も少くなった。」と言うのではなかったか。
雪の時は――見馴れぬ花の、それとは違って、天地を包む雪であるから、もしこれに恐れたとなると、雀のためには、大地震以上の天変である。東京のは早く消えるから可いものの、五日十日積るのにはどうするだろう。半歳雪に埋もるる国もある。
或時も、また雪のために一日形を見せないから、……真個の事だが案じていると、次の朝の事である。ツィ――と寂しそうに鳴いて、目白鳥が唯一羽、雪を被いで、紅に咲いた一輪、寒椿の花に来て、ちらちらと羽も尾も白くしながら枝を潜った。
炬燵から見ていると、しばらくすると、雀が一羽、パッと来て、おなじ枝に、花の上下を、一所に廻った。続いて三羽五羽、一斉に皆来た。御飯はすぐ嘴の下にある。パッパ、チイチイ諸きおいに歓喜の声を上げて、踊りながら、飛びながら、啄むと、今度は目白鳥が中へ交った。雀同志は、突合って、先を争って狂っても、その目白鳥にはおとなしく優しかった。そして目白鳥は、欲しそうに、不思議そうに、雀の飯を視めていた。
私は何故か涙ぐんだ。
優しい目白鳥は、花の蜜に恵まれよう。――親のない雀は、うつくしく愛らしい小鳥に、教えられ、導かれて、雪の不安を忘れたのである。
それにつけても、親雀は何処へ行く。――
――去年七月の末であった。……余り暑いので、愚に返って、こうどうも、おお暑いでめげては不可い。小児の時は、日盛に蜻蛉を釣ったと、炎天に打つかる気で、そのまま日盛を散歩した。
その気のついでに、……何となく、そこいら屋敷町の垣根を探して(ごんごんごま)が見たかったのである。この名からして小児で可い。――私は大好きだ。スズメノエンドウ、スズメウリ、スズメノヒエ、姫百合、姫萩、姫紫苑、姫菊の
たけた称に対して、スズメの名のつく一列の雑草の中に、このごんごんごまを、私はひそかに「スズメの蝋燭」と称して、内々贔屓でいる。
分けて、盂蘭盆のその月は、墓詣の田舎道、寺つづきの草垣に、線香を片手に、このスズメの蝋燭、ごんごんごまを摘んだ思出の可懐さがある。
しかもそのくせ、卑怯にも片陰を拾い拾い小さな社の境内だの、心当の、邸の垣根を覗いたが、前年の生垣も煉瓦にかわったのが多い。――清水谷の奥まで掃除が届く。――梅雨の頃は、闇黒に月の影がさしたほど、あっちこっちに目に着いた紫陽花も、この二、三年こっちもう少い。――荷車のあとには芽ぐんでも、自動車の轍の下には生えまいから、いまは車前草さえ直ぐには見ようたって間に合わない。
で、何処でも、あの、珊瑚を木乃伊にしたような、ごんごんごまは見当らなかった。――ないものねだりで、なお欲い、歩行くうちに汗を流した。
場所は言うまい。が、向うに森が見えて、樹の茂った坂がある。……私が覚えてからも、むかし道中の茶屋旅籠のような、中庭を行抜けに、土間へ腰を掛けさせる天麩羅茶漬の店があった。――その坂を下りかかる片側に、坂なりに落込んだ空溝の広いのがあって、道には破朽ちた柵が結ってある。その空溝を隔てた、葎をそのまま斜違いに下る藪垣を、むこう裏から這って、茂って、またたとえば、瑪瑙で刻んだ、ささ蟹のようなスズメの蝋燭が見つかった。
つかまえて支えて、乗出しても、溝に隔てられて手が届かなかった。
杖の柄で掻寄せようとするが、辷る。――がさがさと遣っていると、目の下の枝折戸から――こんな処に出入口があったかと思う――葎戸の扉を明けて、円々と肥った、でっぷり漢が仰向いて出た。きびらの洗いざらし、漆紋の兀げたのを被たが、肥って大いから、手足も腹もぬっと露出て、ちゃんちゃんを被ったように見える、逞ましい肥大漢の柄に似合わず、おだやかな、柔和な声して、
「何か、おとしものでもなされたか、拾ってあげましょうかな。」
と言った。四十くらいの年配である。
私は一応挨拶をして、わけを言わなければならなかった。
「ははあ、ごんごんごま、……お薬用か、何か禁厭にでもなりますので?」
とにかく、路傍だし、埃がしている。裏の崖境には、清浄なのが沢山あるから、御休息かたがた。で、ものの言いぶりと人のいい顔色が、気を隔かせなければ、遠慮もさせなかった。
「丁ど午睡時、徒然でおります。」
導かるるまま、折戸を入ると、そんなに広いと言うではないが、谷間の一軒家と言った形で、三方が高台の森、林に包まれた、ゆっくりした荒れた庭で、むこうに座敷の、縁が涼しく、油蝉の中に閑寂に見えた。私はちょっと其処へ掛けて、会釈で済ますつもりだったが、古畳で暑くるしい、せめてのおもてなしと、竹のずんど切の花活を持って、庭へ出直すと台所の前あたり、井戸があって、撥釣瓶の、釣瓶が、虚空へ飛んで猿のように撥ねていた。傍に青芒が一叢生茂り、桔梗の早咲の花が二、三輪、ただ初々しく咲いたのを、莟と一枝、三筋ばかり青芒を取添えて、竹筒に挿して、のっしりとした腰つきで、井戸から撥釣瓶でざぶりと汲上げ、片手の水差に汲んで、桔梗に灌いで、胸はだかりに提げた処は、腹まで毛だらけだったが、床へ据えて、円い手で、枝ぶりをちょっと撓めた形は、悠揚として、そして軽い手際で、きちんと極った。掛物も何も見えぬ。が、唯その桔梗の一輪が紫の星の照らすように据ったのである。この待遇のために、私は、縁を座敷へ進まなければならなかった。
「麁茶を一つ献じましょう。何事も御覧の通りの侘住居で。……あの、茶道具を、これへな。」
と言うと、次の間の――崖の草のすぐ覗く――竹簀子の濡縁に、むこうむきに端居して……いま私の入った時、一度ていねいに、お時誼をしたまま、うしろ姿で、ちらりと赤い小さなもの、年紀ごろで視て勿論お手玉ではない、糠袋か何ぞせっせと縫っていた。……島田髷の艶々しい、きゃしゃな、色白な女が立って手伝って、――肥大漢と二人して、やがて焜炉を縁側へ。……焚つけを入れて、炭を継いで、土瓶を掛けて、茶盆を並べて、それから、扇子ではたはたと焜炉の火口を煽ぎはじめた。
「あれに沢山ございます、あの、茂りました処に。」
「滝でも落ちそうな崖です――こんな町中に、あろうとは思われません。御閑静で実に結構です。霧が湧いたように見えますのは。」
「烏瓜でございます。下闇で暗がりでありますから、日中から、一杯咲きます。――あすこは、いくらでも、ごんごんごまがございますでな。貴方は何とかおっしゃいましたな、スズメの蝋燭。」
これよりして、私は、茶の煮える間と言うもの、およそこの編に記した雀の可愛さをここで話したのである。時々微笑んでは振向いて聞く。娘か、若い妻か、あるいは妾か。世に美しい女の状に、一つはうかうか誘われて、気の発奮んだ事は言うまでもない。
さて幾度か、茶をかえた。
「これを御縁に。」
「勿論かさねまして、頃日に。――では、失礼。」
「ああ、しばらく。……これは、貴方、おめしものが。」
……心着くと、おめしものも気恥しい、浴衣だが、うしろの縫めが、しかも、したたか綻びていたのである。
「ここもとは茅屋でも、田舎道ではありませんじゃ。尻端折……飛んでもない。……ああ、あんた、ちょっと繕っておあげ申せ。」
「はい。」
すぐに美人が、手の針は、まつげにこぼれて、目に見えぬが、糸は優しく、皓歯にスッと含まれた。
「あなた……」
「ああ、これ、紅い糸で縫えるものかな。」
「あれ――おほほほ。」
私がのっそりと突立った裾へ、女の脊筋が絡ったようになって、右に左に、肩を曲ると、居勝手が悪く、白い指がちらちら乱れる。
「恐縮です、何ともどうも。」
「こう三人と言うもの附着いたのでは、第一私がこの肥体じゃ。お暑さが堪らんわい。衣服をお脱ぎなさって。……ささ、それが早い。――御遠慮があってはならぬ――が、お身に合いそうな着替はなしじゃ。……これは、一つ、亭主が素裸に相成りましょう。それならばお心安い。」
きびらを剥いで、すっぱりと脱ぎ放した。畚褌の肥大裸体で、
「それ、貴方。……お脱ぎなすって。」
と毛むくじゃらの大胡座を掻く。
呆気に取られて立すくむと、
「おお、これ、あんた、あんたも衣ものを脱ぎなさい。みな裸体じゃ。そうすればお客人の遠慮がのうなる。……ははははは、それが何より。さ、脱ぎなさい脱ぎなさい。」
串戯にしてもと、私は吃驚して、言も出ぬのに、女はすぐに幅狭な帯を解いた。膝へ手繰ると、袖を両方へ引落して、雪を分けるように、するりと脱ぐ。……膚は蔽うたよりふっくりと肉を置いて、脊筋をすんなりと、撫肩して、白い脇を乳が覗いた。それでも、脱ぎかけた浴衣をなお膝に半ば挟んだのを、おっ、と這うと、あれ、と言う間に、亭主がずるずると引いて取った。
「はははは。」
と笑いながら。
既にして、朱鷺色の布一重である。
私も脱いだ。汗は垂々と落ちた。が、憚りながら褌は白い。一輪の桔梗の紫の影に映えて、女はうるおえる玉のようであった。
その手が糸を曳いて、針をあやつったのである。
縫えると、帯をしめると、私は胸を折るようにして、前のめりに木戸口へ駈出した。挨拶は済ましたが、咄嗟のその早さに、でっぷり漢と女は、衣を引掛ける間もなかったろう……あの裸体のまま、井戸の前を、青すすきに、白く摺れて、人の姿の怪しい蝶に似て、すっと出た。
その光景は、地獄か、極楽か、覚束ない。
「あなた……雀さんに、よろしく。」
と女が莞爾して言った。
坂を駈上って、ほっと呼吸を吐いた。が、しばらく茫然として彳んだ。――電車の音はあとさきに聞えながら、方角が分らなかった。直下の炎天に目さえくらむばかりだったのである。
時に――目の下の森につつまれた谷の中から、一セイして、高らかに簫の笛が雲の峯に響いた。
……話の中に、稽古の弟子も帰ったと言った。――あの主人は、簫を吹くのであるか。……そういえば、余りと言えば見馴れない風俗だから、見た目をさえ疑うけれども、肥大漢は、はじめから、裸体になってまで、烏帽子のようなものをチョンと頭にのせていた。
「奇人だ。」
「いや、……崖下のあの谷には、魔窟があると言う。……その種々の意味で。……何しろ十年ばかり前には、暴風雨に崖くずれがあって、大分、人が死んだ処だから。」――
と或友だちは私に言った。
炎暑、極熱のための疲労には、みめよき女房の面が赤馬の顔に見えたと言う、むかし武士の話がある。……霜が枝に咲くように、汗――が幻を描いたのかも知れない。が、何故か、私は、……実を言えば、雀の宿にともなわれたような思いがするのである。
かさねてと思う、日をかさねて一月にたらず、九月一日のあの大地震であった。
「雀たちは……雀たちは……」
火を避けて野宿しつつ、炎の中に飛ぶ炎の、小鳥の形を、真夜半かけて案じたが、家に帰ると、転げ落ちたまま底に水を残して、南天の根に、ひびも入らずに残った手水鉢のふちに、一羽、ちょんと伝っていて、顔を見て、チイと鳴いた。
後に、密と、谷の家を覗きに行った。近づくと胸は轟いた。が、ただ焼原であった。
私は夢かとも思う。いや、雀の宿の気がする。……あの大漢のまる顔に、口許のちょぼんとしたのを思え。卯の毛で胡粉を刷いたような女の膚の、どこか、頤の下あたりに、黒いあざはなかったか、うつむいた島田髷の影のように――
おかしな事は、その時摘んで来たごんごんごまは、いつどうしたか定かには覚えないのに、秋雨の草に生えて、塀を伝っていたのである。
「どうだい、雀。」
知らぬ顔して、何にも言わないで、南天燭の葉に日の当る、小庭に、雀はちょん、ちょんと遊んでいる。
●表記について
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