鏡花短編集 |
岩波文庫、岩波書店 |
1987(昭和62)年9月16日 |
2001(平成13)年2月5日第21刷 |
鏡花全集 巻二十七 |
岩波書店 |
1942(昭和17)年10月 |
朝六つの橋を、その明方に渡った――この橋のある処は、いま麻生津という里である。それから三里ばかりで武生に着いた。みちみち可懐い白山にわかれ、日野ヶ峰に迎えられ、やがて、越前の御嶽の山懐に抱かれた事はいうまでもなかろう。――武生は昔の府中である。
その年は八月中旬、近江、越前の国境に凄じい山嘯の洪水があって、いつも敦賀――其処から汽車が通じていた――へ行く順路の、春日野峠を越えて、大良、大日枝、山岨を断崕の海に沿う新道は、崖くずれのために、全く道の塞った事は、もう金沢を立つ時から分っていた。
前夜、福井に一泊して、その朝六つ橋、麻生津を、まだ山かつらに月影を結ぶ頃、霧の中を俥で過ぎて、九時頃武生に着いたのであった。――誰もいう……此処は水の美しい、女のきれいな処である。柳屋の柳の陰に、門走る谿河の流に立つ姿は、まだ朝霧をそのままの萩にも女郎花にも較べらるる。が、それどころではない。前途のきづかわしさは、俥もこの宿で留まって、あとの山路は、その、いずれに向っても、もはや通じないと言うのである。
茶店の縁に腰を掛けて、渋茶を飲みながら評議をした。……春日野の新道一条、勿論不可い。湯の尾峠にかかる山越え、それも覚束ない。ただ道は最も奥で、山は就中深いが、栃木峠から中の河内は越せそうである。それには一週間ばかり以来、郵便物が通ずると言うのを聞くさえ、雁の初だよりで、古の名将、また英雄が、涙に、誉に、屍を埋め、名を残した、あの、山また山、また山の山路を、重る峠を、一羽でとぶか、と袖をしめ、襟を合わせた。山霊に対して、小さな身体は、既に茶店の屋根を覗く、御嶽の顋に呑まれていたのであった。
「気をつけておいでなせえましよ。」……畷は荒れて、洪水に松の並木も倒れた。ただ畔のような街道端まで、福井の車夫は、笠を手にして見送りつつ、われさえ指す方を知らぬ状ながら、式ばかり日にやけた黒い手を挙げて、白雲の前途を指した。
秋のはじめの、空は晴れつつ、熱い雲のみ往来して、田に立つ人の影もない。稲も、畠も、夥多しい洪水のあとである。
道を切って、街道を横に瀬をつくる、流に迷って、根こそぎ倒れた並木の松を、丸木橋とよりは筏に蹈んで、心細さに見返ると、車夫はなお手廂して立っていた。
翼をいためた燕の、ひとり地ずれに辿るのを、あわれがって、去りあえず見送っていたのであろう。
たださえ行悩むのに、秋暑しという言葉は、残暑の酷しさより身にこたえる。また汗の目に、野山の赤いまで暑かった。洪水には荒れても、稲葉の色、青菜の影ばかりはあろうと思うのに、あの勝山とは、まるで方角が違うものを、右も左も、泥の乾いた煙草畑で、喘ぐ息さえ舌に辛い。
祖母が縫ってくれた鞄代用の更紗の袋を、斜っかいに掛けたばかり、身は軽いが、そのかわり洋傘の日影も持たぬ。
紅葉先生は、その洋傘が好きでなかった。遮らなければならない日射は、扇子を翳されたものである。従って、一門の誰かれが、大概洋傘を意に介しない。連れて不忍の蓮見から、入谷の朝顔などというみぎりは、一杯のんだ片頬の日影に、揃って扇子をかざしたのである。せずともいい真似をして。……勿論、蚊を、いや、蚊帳を曲して飲むほどのものが、歩行くに日よけをするわけはない。蚊帳の方は、まだしかし人ぎきも憚るが、洋傘の方は大威張で持たずに済んだ。
神楽坂辺をのすのには、なるほど(なし)で以て事は済むのだけれども、この道中には困却した。あまつさえ……その年は何処も陽気が悪かったので、私は腹を痛めていた。祝儀らしい真似もしない悲しさには、柔い粥とも誂えかねて、朝立った福井の旅籠で、むれ際の飯を少しばかり。しくしく下腹の痛む処へ、洪水のあとの乾旱は真にこたえた。鳥打帽の皺びた上へ手拭の頬かむりぐらいでは追着かない、早や十月の声を聞いていたから、護身用の扇子も持たぬ。路傍に藪はあっても、竹を挫き、枝を折るほどの勢もないから、玉江の蘆は名のみ聞く、……湯のような浅沼の蘆を折取って、くるくるとまわしても、何、秋風が吹くものか。
が、一刻も早く東京へ――唯その憧憬に、山も見ず、雲も見ず、無二無三に道を急いで、忘れもしない、村の名の虎杖に着いた時は、杖という字に縋りたい思がした。――近頃は多く板取と書くのを見る。その頃、藁家の軒札には虎杖村と書いてあった。
ふと、軒に乾した煙草の葉と、蕃椒の間に、山駕籠の煤けたのが一挺掛った藁家を見て、朽縁へと掛けた。「小父さんもう歩行けない。見なさる通りの書生坊で、相当、お駄賃もあげられないけれど、中の河内まで何とかして駕籠の都合は出来ないでしょうか。」「さればの。」耳にかけた輪数珠を外すと、木綿小紋のちゃんちゃん子、経肩衣とかいって、紋の着いた袖なしを――外は暑いがもう秋だ――もっくりと着込んで、裏納戸の濡縁に胡坐かいて、横背戸に倒れたまま真紅の花の小さくなった、鳳仙花の叢を視めながら、煙管を横銜えにしていた親仁が、一膝ずるりと摺って出て、「一肩遣っても進じょうがの、対手を一つ聞かなくては、のう。」「お願いです、身体もわるし、……実に弱りました。」「待たっせえ、何とかすべい。」お仏壇へ数珠を置くと、えいこらと立って、土間の足半を突掛けた。五十の上だが、しゃんとした足つきで、石道を向うへ切って、樗の花が咲重りつつ、屋根ぐるみ引傾いた、日陰の小屋へ潜るように入った、が、今度は経肩衣を引脱いで、小脇に絞って取って返した。「対手も丁度可かったで。」一人で駕籠を下すのが、腰もしゃんと楽なもので。――相棒の肩も広い、年紀も少し少いのは、早や支度をして、駕籠の荷棒を、えッしと担ぎ、片手に――はじめて視た――絵で知ったほぼ想像のつく大きな蓑虫を提げて出て来たのである。「ああ、御苦労様――松明ですか。」「えい、松明でゃ。」「途中、山路で日が暮れますか。」「何、帰りの支度でゃ、夜嵐で提灯は持たねえもんだで。」中の河内までは、往還六里余と聞く。――駕籠は夜をかけて引返すのである。
留守に念も置かないで、そのまま駕籠を舁出した。「おお、あんばいが悪いだね、冷えてはなんめえ。」樹立の暗くなった時、一度下して、二人して、二人が夜道の用意をした、どんつくの半纏を駕籠の屋根につけたのを、敷かせて、一枚。一枚、背中に当がって、情に包んでくれたのである。
見上ぐる山の巌膚から、清水は雨に滴って、底知れぬ谷暗く、風は梢に渡りつつ、水は蜘蛛手に岨を走って、駕籠は縦になって、雲を仰ぐ。
前棒の親仁が、「この一山の、見さっせえ、残らず栃の木の大木でゃ。皆五抱え、七抱えじゃ。」「森々としたもんでがんしょうが。」と後棒が言を添える。「いかな日にも、はあ、真夏の炎天にも、この森で一度雨の降らぬ事はねえのでの。」清水の雫かつ迫り、藍縞の袷の袖も、森林の陰に墨染して、襟はおのずから寒かった。――「加州家の御先祖が、今の武生の城にござらしった時から、斧入れずでの。どういうものか、はい、御維新前まで、越前の中で、此処一山は、加賀領でござったよ――お前様、なつかしかんべい。」「いや、僕は些とでも早く東京へ行きたいんだよ。」「お若いで、えらい元気じゃの。……はいよ。」「おいよ。」と声を合わせて、道割の小滝を飛んだ。
私は駕籠の手に確と縋った。
草に巨人の足跡の如き、沓形の峯の平地へ出た。巒々相迫った、かすかな空は、清朗にして、明碧である。
山気の中に優しい声して、「お掛けなさいましな。」軒は巌を削れる如く、棟広く柱黒き峯の茶屋に、木の根のくりぬきの火鉢を据えて、畳二畳にも余りなん、大熊の皮を敷いた彼方に、出迎えた、むすび髪の色白な若い娘は、唯見ると活けるその熊の背に、片膝して腰を掛けた、奇しき山媛の風情があった。
袖も靡く。……山嵐颯として、白い雲は、その黒髪の肩越に、裏座敷の崖の欄干に掛って、水の落つる如く、千仭の谷へ流れた。
その裏座敷に、二人一組、別に一人、一人は旅商人、二人は官吏らしい旅客がいて憩った。いずれも、柳ヶ瀬から、中の河内越して、武生へ下る途中なのである。
横づけの駕籠を覗いて、親仁が、「お前さま、おだるけりゃ、お茶を取って進ぜますで。」「いいえ出ますから。」
娘が塗盆に茶をのせて、「あの、栃の餅、あがりますか。」「駕籠屋さんたちにもどうぞ。」「はい。」――其処に三人の客にも酒はない。皆栃の実の餅の盆を控えていた。
娘の色の白妙に、折敷の餅は渋ながら、五ツ、茶の花のように咲いた。が、私はやっぱり腹が痛んだ。
勘定の時に、それを言って断った。――「うまくないもののように、皆残して済みません。」ああ、娘は、茶碗を白湯に汲みかえて、熊の胆をくれたのである。
私は、じっと視て、そしてのんだ。
栃の餅を包んで差寄せた。「堅くなりましょうけれど、……あの、もう二度とお通りにはなりません。こんな山奥の、おはなしばかり、お土産に。――この実を入れて搗きますのです、あの、餅よりこれを、お土産に。」と、めりんすの帯の合せ目から、ことりと拾って、白い掌で、こなたに渡した。
小さな鶏卵の、軽く角を取って扁めて、薄漆を掛けたような、艶やかな堅い実である。
すかすと、きめに、うすもみじの影が映る。
私はいつまでも持っている。
手箪笥の抽斗深く、時々思出して手に据えると、殻の裡で、優しい音がする。
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