三
西明寺――もとこの寺は、松平氏が旧領石州から奉搬の伝来で、土地の町村に檀家がない。従って盆暮のつけ届け、早い話がおとむらい一つない。如法の貧地で、堂も庫裡も荒れ放題。いずれ旧藩中ばかりの石碑だが、苔を剥かねば、紋も分らぬ。その墓地の図面と、過去帳は、和尚が大切にしているが、あいにく留守。……
墓参のよしを聴いて爺さんが言ったのである。
「ほか寺の仏事の手伝いやら托鉢やらで、こちとら同様、細い煙を立てていなさるでなす。」
あいにく留守だが、そこは雲水、風の加減で、ふわりと帰る事もあろう。
「まあ一服さっせえまし、和尚様とは親類づきあい、渋茶をいれて進ぜますで。」
とにかく、いい人に逢った。爺さんは、旧藩士ででもあんなさるかと聞くと、
「孫八とこいて、いやはや、若い時から、やくざでがしての。縁は異なもの、はッはッはッ。お前様、曾祖父様や、祖父様の背戸畑で、落穂を拾った事もあんべい。――鼠棚捜いて麦こがしでも進ぜますだ。」
ともなわれて庫裡に居る――奥州片原の土地の名も、この荒寺では、鼠棚がふさわしい。いたずらものが勝手に出入りをしそうな虫くい棚の上に、さっきから古木魚が一つあった。音も、形も馴染のものだが、仏具だから、俗家の小県は幼いいたずら時にもまだ持って見たことがない。手頃なのは大抵想像は付くけれども、かこみほとんど二尺、これだけの大きさだと、どのくらい重量があろうか。普通は、本堂に、香華の花と、香の匂と明滅する処に、章魚胡坐で構えていて、おどかして言えば、海坊主の坐禅のごとし。……辻の地蔵尊の涎掛をはぎ合わせたような蒲団が敷いてある。ところを、大木魚の下に、ヒヤリと目に涼しい、薄色の、一目見て紛う方なき女持ちの提紙入で。白い桔梗と、水紅色の常夏、と思ったのが、その二色の、花の鉄線かずらを刺繍した、銀座むきの至極当世な持もので、花はきりりとしているが、葉も蔓も弱々しく、中のものも角ばらず、なよなよと、木魚の下すべりに、優しい女の、帯の端を引伏せられたように見えるのであった。
はじめ小県が、ここの崖を、墓地へ下りる以前に、寺の庫裡を覗いた時、人気も、火の気もない、炉の傍に一段高く破れ落ちた壁の穴の前に、この帯らしいものを見つけて、うつくしい女の、その腰は、袖は、あらわな白い肩は、壁外に逆になって、蜘蛛の巣がらみに、蒼白くくくられてでもいそうに思った。
瞬間の幻視である。手提はすぐ分った。が、この荒寺、思いのほか、陰寂な無人の僻地で――頼もう――を我が耳で聞返したほどであったから。……
私の隣の松さんは、熊野へ参ると、髪結うて、
熊野の道で日が暮れて、
あと見りゃ怖しい、先見りゃこわい。
先の河原で宿取ろか、跡の河原で宿取ろか。
さきの河原で宿取って、鯰が出て、押えて、
手で取りゃ可愛いし、足で取りゃ可愛いし、
杓子ですくうて、線香で担って、燈心で括って、
仏様のうしろで、一切食や、うまし、二切食や、うまし……
紀州の毬唄で、隠微な残虐の暗示がある。むかし、熊野詣の山道に行暮れて、古寺に宿を借りた、若い娘が燈心で括って線香で担って、鯰を食べたのではない。鯰の方が若い娘を、……あとは言わずとも可かろう。例証は、遠く、今昔物語、詣鳥部寺女の語にある、と小県はかねて聞いていた。
紀州を尋ねるまでもなかろう。
……今年はじめて花見に出たら、寺の和尚に抱きとめられて、
高い縁から突落されて、笄落し、小枕落し……
古寺の光景は、異様な衝動で渠を打った。
普通、草双紙なり、読本なり、現代一種の伝奇においても、かかる場合には、たまたま来って、騎士がかの女を救うべきである。が、こしらえものより毬唄の方が、現実を曝露して、――女は速に虐げられているらしい。
同時に、愛惜の念に堪えない。ものあわれな女が、一切食われ一切食われ、木魚に圧え挫がれた、……その手提に見入っていたが、腹のすいた狼のように庫裡へ首を突込んでいて可いものか。何となく、心ゆかしに持っていた折鞄を、縁側ずれに炉の方へ押入れた。それから、卵塔の草を分けたのであった。――一つは、鞄を提げて墓詣をするのは、事務を扱うようで気がさしたからであった。
今もある。……木魚の下に、そのままの涼しい夏草と、ちょろはげの鞄とを見較べながら、
「――またその何ですよ。……待っていられては気忙しいから、帰りは帰りとして、自然、それまでに他の客がなかったらお世話になろう。――どうせ隙だからいつまでも待とうと云うのを――そういってね、一旦運転手に分れた――こっちの町尽頭の、茶店……酒場か。……ざっとまあ、饂飩屋だ。それからは、見た目にも道わるで、無理に自動車を通した処で、歩行くより難儀らしいから下りたんですがね――饂飩酒場の女給も、女房さんらしいのも――その赤い一行は、さあ、何だか分らない、と言う。しかし、お小姓に、太刀のように鉄砲を持たしていれば、大将様だ。大方、魔ものか、変化にでも挨拶に行くのだろう、と言うんです。
魔ものだの、変化だのに、挨拶は変だ、と思ったが、あとで気がつくと、女連は、うわさのある怪しいことに、恐しく怯えていて、陰でも、退治るの、生捉るのとは言い憚ったものらしい。がまあ、この辺にそんなものが居るのかね。……運転手は笑っていたが、私は真面目さ。何でも、この山奥に大沼というのがある?……ありますか、お爺さん。」
「あるだ。」
その時、この気軽そうな爺さんが、重たく点頭した。
「……阿武隈川が近いによって、阿武沼と、勿体つけるで、国々で名高い、湖や、潟ほど、大いなものではねえだがなす、むかしから、それを逢魔沼と云うほどでの、樹木が森々として凄いでや、めったに人が行がねえもんだで、山奥々々というだがね。」
と額を暗く俯向いた。が、煙管を落して、門――いや、門も何もない、前通りの草の径を、向うの原越しに、差覗くがごとく、指をさし、
「あの山を一つ背後へ越した処だで、沢山遠い処ではねえが。」
と言う。
その向う山の頂に、杉檜の森に包まれた、堂、社らしい一地がある。
「……途中でも、気が着いたが。」
水の影でも映りそうに、その空なる樹の間は水色に澄んで青い。
「沼は、あの奥に当るのかね。」
「えへい、まあ、その辺の見当ずら。」
と、掌をもじゃもじゃと振るのが、枯葉が乱れて、その頂の森を掻乱すように見え、
「何かね、その赤い化もの……」
「赤いのが化けものじゃあない――お爺さん。」
「はあ、そうけえ。」
と妙に気の抜けた返事をする。
「……だから、私が――じゃあ、その阿武沼、逢魔沼か。そこへ、あの連中は行ったんだろうか、沼には変った……何か、可恐い、可怪い事でもあるのかね。饂飩酒場の女房が、いいえ、沼には牛鬼が居るとも、大蛇が出るとも、そんな風説は近頃では聞きませんが、いやな事は、このさきの街道――畷の中にあった、というんだよ。寺の前を通る道は、古い水戸街道なんだそうだね。」
「はあ、そうでなす。」
「ぬかるみを目の前にして……さあ、出掛けよう。で、ここへ私が来る道だ。何が出ようとこの真昼間、気にはしないが、もの好きに、どんな可恐い事があったと聞くと、女給と顔を見合わせてね、旦那、殿方には何でもないよ。アハハハと笑って、陽気に怯かす……その、その辺を女が通ると、ひとりでに押孕む……」
「馬鹿あこけ、あいつ等。」
と額にびくびくと皺を刻み、痩腕を突張って、爺は、彫刻のように堅くなったが、
「あッはッはッ。」
唐突に笑出した。
「あッはッはッ。」
たちまち口にふたをして、
「ここは噴出す処でねえ。麦こがしが消飛ぶでや、お前様もやらっせえ、和尚様の塩加減が出来とるで。」
欠茶碗にもりつけた麦こがしを、しきりに前刻から、たばせた。が、匙は附木の燃さしである。
「ええ塩梅だ。さあ、やらっせえ、さ。」
掻い候え、と言うのである。これを思うと、木曾殿の、掻食わせた無塩の平茸は、碧澗の羹であろう。が、爺さんの竈禿の針白髪は、阿倍の遺臣の概があった。
「お前様の前だがの、女が通ると、ひとりで孕むなぞと、うそにも女の身になったらどうだんべいなす、聞かねえ分で居さっせえまし。優しげな、情合の深い、旦那、お前様だ。」
「いや、恥かしい、情があるの、何のと言って。墓詣りは、誰でもする。」
「いや、そればかりではねえ。――知っとるだ。お前様は人間扱いに、畜類にものを言わしったろ。」
「畜類に。」
「おお、鷺によ。」
「鷺に。」
「白鷺に。畷さ来る途中でよ。」
「ああ、知ってるのかい、それはどうも。」
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