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旅僧(たびそう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-22 16:38:29  点击:  切换到繁體中文


 しかわし出家しゆつけで、ひと心配しんぱいけてはむまい。し、し。」
 とかれひとうなづきつゝ、從容しようようとして立上たちあがり、甲板デツキ欄干てすりりて、ひしめへる乘客等じようかくらかへりみて、
「いや、誰方どなたもおさわぎなさるな。もううなつちや神佛かみほとけ信心しんじんではみなしうらちがあきさうもないにつて、たゞわしなければ大丈夫だいぢやうぶだと、一生懸命いつしやうけんめい信仰しんかうなさい、うすれば屹度きつとたすかる。よろしいか/\。南無なむ、」
 と一聲ひとこゑたからかに題目だいもくとなへもへず、法華僧ほつけそうをどらしてうみとうぜり。
身投みなげだ、たすけろ。」
 船長せんちやうめいもとに、水夫すいふ一躍いちやくしてなんおもむき、からうじて法華僧ほつけそうすくたり。
 しかりしのちの(一人坊主ひとりばうず)は、さきとは正反對せいはんたい位置ゐちちて、乘合のりあひをしてかへりてわれあるがためにふね安全あんぜんなるをたしかめしめぬ。
 如何いかんとなれば、乘客等じようかくらしかころしてじんさむとせし、この大聖人だいせいじんとく宏大くわうだいなる、てん報酬はうしうとしてかれ水難すゐなんあたふべき理由いはれのあらざるをだんじ、かゝ聖僧せいそうともにあるものは、この結縁けちえんりて、かなら安全あんぜんなる航行かうかうをなしべしとしんじたればなり。やゝとき乘客じようかくは、活佛くわつぶつ――いまあらたにおもへる――の周圍しうゐあつまりて、一條いちでう法話ほふわかむことをこひねがへり。やうや健康けんかう囘復くわいふくしたる法華僧ほつけそうは、よろこんでこれだくし、打咳うちしはぶきつゝ語出かたりいだしぬ。
わし一體いつたい京都きやうともので、毎度まいど金澤かなざはから越中ゑつちうはう出懸でかけるが、一あることは二とやら、ふねで(一人坊主ひとりばうず)になつて、乘合のりあひしうきらはれるのは今度こんどがこれで二度目どめでござる。いまから二三年前ねんまへのこと、其時そのときは、ふね出懸でがけから暴風雨模樣あれもやうでな、かぜく、あめる。敦賀つるが宿やど逡巡しりごみして、逗留とうりうしたものが七あつて、つたのはまあ三ぢやつた。わし其時分そのじぶん果敢はかないもので、さう天氣てんきふねるのは、じつあしはうであつたが。出家しゆつけ生命いのちをしむかと、ひとおもはくもはづかしくて、怯氣々々びく/\もので乘込のりこみましたぢや。さて段々だん/\ふねすゝむほど、かぜあらくなる、なみれる、ふねれる。そのまたかたうたら一通ひととほりでなかつたので、くやら、うめくやら、大苦おほくるしみで正體しやうたいないものかへつて可羨うらやましいくらゐ、とふのは、たしかなものほど、生命いのちあんじられるでな、ふねうぐつとかたむたびに、はツ/\とつめたあせる。さてはや、念佛ねんぶつ題目だいもく大聲おほごゑ鯨波ときこゑげてうなつてたが、やがてそれくやうによわつてしまふ。取亂とりみださぬもの一人ひとりもない。
 かうわし矢張やはりその、おい/\いた連中れんぢうでな、面目めんぼくもないこと。
 むかし文覺もんがく荒法師あらほふしは、佐渡さどながされる船路みちで、暴風雨あれつたが、船頭水夫共せんどうかこどもいろへてさわぐにも頓着とんぢやくなく、だいなりにそべつて、らいごと高鼾たかいびきぢや。
 すると船頭共せんどうどもが、「※(「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2-94-57)こんな惡僧あくそうつてるから龍神りうじんたゝるのにちがひない、はやうみなか投込なげこんで、此方人等こちとらたすからう。」とつてたかつて文覺もんがく手籠てごめにしようとする。其時そのとき荒坊主あらばうず岸破がば起上おきあがり、へさき突立つゝたツて、はつたとけ、「いかに龍神りうじん不禮ぶれいをすな、このふねには文覺もんがく法華ほつけ行者ぎやうじやつてるぞ!」と大音だいおんしかけたとふ。
 なん難有ありがた信仰しんかうではないか。つよ信仰しんかうつて法師ほふしであつたから、到底たうてい龍神りうじんごときがこのおれしづめることは出來できない、波浪はらう不能沒ふのうもつだ、としんじてうたがはぬぢやから、其處そこでそれ自若じじやくとしてられる。
 またんでも極樂ごくらくたしかかれるぢやとかたしんじてものは、かうときにはおどろかぬ。
 まあ那樣事そんなこといて、其時そのときふねなかで、ちつともさわがぬ、いやもとん平氣へいきひと二人ふたりあつた。うつくしいむすめ可愛かはいらしいをとこぢや。※弟きやうだい[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、9-3]えてな、ました。
 最初さいしよから二人ふたり對坐さしむかひで、人交ひとまぜもせぬでなにむつまじさうにはなしをしてたが、みんながわい/\つて立騷たちさわぐのをようともせず、まるで別世界べつせかいるといふ顏色かほつきでの。たゞ金石間近かないはまぢかになつたとき甲板かんぱんはうなにらんおそろしいおとがして、みんなが、きやツ!とさけんだときばかり、すこ顏色かほいろへたぢや。べつ仔細しさいもなかつたとえて、其内そのうちしづまつたが、※弟きやうだい[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、9-7]ちさうにもせず、まことにつねとほりに、すましてたにつて、あま不思議ふしぎおもうたから、其日そのひなんなくみなといて、※弟きやうだい[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、9-8]建場たてば茶屋ちやや腕車くるまやとひながらやすんでところつて、言葉ことばけてようとしたが、その子達こだち氣高けだかさ!たふとさ! おもはず天窓あたまさがつたぢや。
 そこで土間どまつかへて、「ういふ御修行ごしゆぎやうんで、あのやうに生死しやうじ場合ばあひ平氣へいきでおいでなされた」と、恐入おそれいつてたづねました。
 するとこたへには、「いゝえ私等わたくしども東京とうきやう修行しゆぎやうまゐつてるものでござるが、今度こんど國許くにもとちゝ急病きふびやうまを電報でんぱうかゝつて、それかへるのでござるが、いそいで見舞みまはんければなりませんので、むをふねにしました。しかし父樣おとつさんには私達わたしたち二人ふたりほかに、ふものはござらぬ、二人ふたりにもしものことがありますれば、いへえてしまひまする。父樣おとつさんいおかたで、それきりあとえるやうなわること爲置しおかれたかたではありませんから、わたくしどもは※(「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2-94-57)どんなあぶなこは出會であひましても、安心あんしんでございます。それにわたくしあやふければ、おとうとたすけてくれます、わたくしもまたおとうと一人ひとりころしません。それ二人ふたりとも大丈夫だいぢやうぶおもひますから。すこしもこはくはござらぬ。」とふぢや。わしにはこれまでんだ御經おきやうより、餘程よつぽど難有ありがたくてなみだた。まことに善知識ぜんちしき、そのおかげおほきにさとりました。
 乘合のりあひしうなにがなしに、自分じぶん自分じぶん信仰しんかうなさい。ふね大丈夫だいぢやうぶしんじたらつてる、うへでは※(「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2-94-57)どんな颶風はやてようが、ふねしづまうが、からだおぼれようが、なに、大丈夫だいぢやうぶだとおもつてござれば、ちつともおどろくことはない。こりやよしんでも生返いきかへる。もしまたふねあぶないとしんじたらば、らぬことでござるぞ。なんでもあやふやだと安心あんしんがならぬ、ひとたのむより神佛しんぶつしんずるより、自分じぶん信仰しんかうなさるが一番いちばんぢや。」
 ふねみなときけるまでねんごろ説聞とききかして、この殺身爲仁さつしんゐじん高僧かうそうは、飄然へうぜんとしてそのげず立去たちさりにけり。





底本:「鏡花全集 卷二」岩波書店
   1942(昭和17)年9月30日第1刷発行
   1973(昭和48)年12月3日第2刷発行
入力:土屋隆
校正:門田裕志
2005年10月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について
  • このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
  • [#…]は、入力者による注を表す記号です。
  • 「くの字点」は「/\」で、「濁点付きくの字点」は「/″\」で表しました。
  • 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
  • 傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。
  • この作品には、JIS X 0213にない、以下の文字が用いられています。(数字は、底本中の出現「ページ-行」数。)これらの文字は本文内では「※[#…]」の形で示しました。

    「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」    9-3、9-7、9-8

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