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雪霊記事(せつれいきじ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-22 16:32:19  点击:  切换到繁體中文


 ――いま私は、可恐おそろしい吹雪の中を、そこへ志しているのであります――
 が、さて、一昨年のその時は、翌日、半日、いや、午後三時頃まで、用もないのに、女中たちの蔭であやし気勢けはいのするのが思い取られるまで、腕組が、肘枕ひじまくらで、やがて夜具を引被ひっかぶってまで且つ思い、且つ悩み、幾度いくたび逡巡しゅんじゅんした最後に、旅館をふらふらとなって、とうとう恩人を訪ねに出ました。
 わざと途中、余所よそで聞いて、虎杖村に憧憬あこがく。……
 道は鎮守がめあてでした。
 白い、しずかな、曇った日に、山吹も色が浅い、小流こながれに、苔蒸こけむした石の橋がかかって、その奥に大きくはありませんが深く神寂かんさびたやしろがあって、大木の杉がすらすらと杉なりに並んでいます。入口の石の鳥居の左に、とりわけ暗くそびえた杉のもとに、形はつい通りでありますが、雪難之碑と刻んだ、一基の石碑が見えました。
 雪の難――荷担夫にかつぎふ、郵便配達の人たち、その昔は数多あまたの旅客も――これからさしかかって越えようとする峠路とうげみちで、しばしば命をおとしたのでありますから、いずれその霊を祭ったのであろう、と大空の雲、かさなる山、続くいただきそびゆる峰を見るにつけて、すさまじき大濤おおなみの雪の風情を思いながら、旅の心も身にみて通過ぎました。
 畷道なわてみち少しばかり、菜種のあぜを入った処に、志すいおりが見えました。わびしい一軒家の平屋ですが、かどのかかりに何となく、むかしのさましのばせます、萱葺かやぶきの屋根ではありません。
 伸上る背戸に、柳が霞んで、ここにも細流せせらぎに山吹の影の映るのが、絵に描いた蛍の光を幻に見るようでありました。
 夢にばかり、うつつにばかり、十幾年。
 不思議にここで逢いました――面影は、黒髪にこうがいして、雪の裲襠かいどりした貴夫人のようにはるかに思ったのとは全然まるで違いました。黒繻子くろじゅすの襟のかかったしまの小袖に、ちっとすき切れのあるばかり、空色の絹のおなじ襟のかかった筒袖こいぐちを、帯も見えないくらい引合せて、ほっそりと着ていました。
 その姿で手をつきました。ああ、うつくしい白い指、結立ゆいたての品のいい円髷まるまげの、なさけらしい柔順すなおたぼ耳朶みみたぶかけて、雪なすうなじが優しく清らかに俯向うつむいたのです。
 生意気にステッキを持って立っているのが、目くるめくばかりに思われました。
「私は……関……」
 と名を申して、
「蔦屋さんのお嬢さんに、お目にかかりたくて参りました。」
「米はわたくしでございます。」
 と顔を上げて、すずしい目でじっました。
 私の額は汗ばんだ。――あのいつか額に置かれた、手の影ばかり白く映る。
「まあ、関さん。――おとなにおなりなさいました……」
 これですもの、可懐なつかしさはどんなでしょう。
 しかし、ここで私は初恋、片おもい、恋の愚痴ぐちを言うのではありません。
 ……このすごい吹雪の、不思議な事に出あいました、そのお話をするのであります。

       四

 その時は、四畳半かこいではありません。が、炉を切った茶のに通されました。
 時に、先客が一人ありまして炉の右に居ました。気高いばかり品のいい年とった尼さんです。失礼ながら、この先客は邪魔でした。それがために、いとどつたない口の、千の一つも、何にも、ものが言われなかったのであります。
貴女あなた煙草たばこをあがりますか。」
 私はお米さんが、その筒袖こいぐちの優しい手で、煙管きせるを持つのをてそう言いました。
 お米さんは、控えてちょっと俯向うつむきました。
「何事もわすれ草と申しますな。」
 と尼さんが、能の面がものを言うように言いました。
「関さんは、今年三十五におなりですか。」
 とお米さんが先へ数えて、私の年をたずねました。
三碧さんぺきのう。」
 と尼さんが言いました。
「貴女は?」
「私は一つ上……」
四緑しろくのう。」
 と尼さんがまた言いました。
 ――略して申すのですが、そこへ案内もなく、ずかずかと入って来て、立状たちざまにちょっと私を尻目にかけて、炉の左の座についた一にんがあります――山伏か、隠者か、と思う風采ふうさいで、ものの鷹揚おうような、悪く言えば傲慢ごうまんな、下手がに描いた、奥州めぐりの水戸の黄門といった、鼻のたかい、ひげの白い、早や七十ばかりの老人でした。
「これは関さんか。」
 と、いきなり言います。私は吃驚びっくりしました。
 お米さんが、しなよくうなずきますと、
「左様か。」
 と言って、これから滔々とうとうと弁じ出した。その弁ずるのが都会における私ども、なかま、なかまと申して私などは、ものの数でもないのですが、立派な、画の画伯方せんせいがたの名を呼んで、片端かたっぱしから、やつがと苦り、あれめ、とさげすみ、小僧、と呵々からからと笑います。
 私は五六尺飛退とびさがって叩頭おじぎをしました。
「汽車の時間がございますから。」
 お米さんが、送って出ました。花菜の中をなかばの時、私は香にむせんで、涙ぐんだ声して、
「お寂しくおいでなさいましょう。」
 と精一杯に言ったのです。
「いいえ、兄が一緒ですから……でも大雪のなぞは、町から道が絶えますと、ここに私一人きりで、五日も六日も暮しますよ。」
 とほろりとしました。
「そのかわり夏は涼しゅうございます。避暑にいらっしゃい……お宿をしますよ。……その時分には、降るように蛍が飛んで、この水には菖蒲あやめが咲きます。」

 夜汽車の火の粉が、木の芽峠を蛍に飛んで、窓にはその菖蒲が咲いたのです――夢のようです。……あの老尼は、お米さんの守護神まもりがみ――はてな、老人は、――知事の怨霊おんりょうではなかったか。
 そんな事まで思いました。
 円髷まるまげ[#ルビの「まるまげ」は底本では「まるはげ」]に結って、筒袖こいぐちを着た人を、しかし、その二人はかえって、お米さんを秘密の霞に包みました。
 三十路みそじを越えても、やつれても、今もその美しさ。片田舎の虎杖になぞ世にある人とは思われません。
 ために、音信おとずれを怠りました。夢に所がきをするようですから。……とは言え、一つは、日に増し、不思議に色の濃くなる炉の右左の人をはばかったのであります。
 音信して、恩人に礼をいたすのに仔細しさいはないはず。けれども、下世話にさえ言います。慈悲すれば、何とかする。……で、恩人という、その恩に乗じ、なさけに附入るような、いやしい、浅ましい、卑劣な、下司げすな、無礼な思いが、どうしても心を離れないものですから、ひとり、自ら憚られたのでありました。
 私は今、そこへ――

       五

「ああ、あすこが鎮守だ――」
 吹雪の中の、雪道に、白く続いたその宮を、さながら峰に築いたように、高く朦朧もうろうと仰ぎました。
「さあ、一息。」
 が、その息がけません。
 真俯向まうつむけに行く重い風の中を、背後うしろからスッと軽く襲って、すそかしらをどッと可恐おそろしいものが引包むと思うと、ハッとひき息になる時、さっと抜けて、目の前へ真白まっしろおおきな輪の影があらわれます。とくるくると廻るのです。廻りながら輪を巻いて、巻き巻き巻込めると見ると、たちまちすさまじい渦になって、ひゅうと鳴りながら、舞上って飛んでく。……行くと否や、続いて背後うしろから巻いて来ます。それが次第に激しくなって、六ツ四ツ数えて七ツ八ツ、身体からだの前後に列を作って、巻いては飛び、巻いては飛びます。いわにも山にも砕けないで、皆北海の荒波の上へはしるのです。――もうこの渦がこんなにくようになりましては堪えられません。この渦の湧立わきたつ処は、その跡が穴になって、そこから雪の柱、雪の人、雪女、雪坊主、怪しい形がぼッと立ちます。立って倒れるのが、そのまま雪の丘のようになる……それが、右になり、左になり、横に積り、縦に敷きます。その行く処、飛ぶ処へ、人のからだを持って行って、仰向あおむけにも、俯向うつむかせにもたたきつけるのです。
 ――雪難之碑。――峰のとがったような、そこの大木の杉のこずえを、睫毛まつげにのせて倒れました。私は雪に埋れてく……身動きも出来ません。くいしばっても、閉じても、目口に粉雪こゆきを、しかし紫陽花あじさいの青い花片はなびらを吸うように思いました。
 ――「菖蒲あやめが咲きます。」――
 蛍が飛ぶ。
 私はお米さんの、清くあたたかはだを思いながら、雪にむせんで叫びました。
「魔が妨げる、天狗てんぐわざだ――あの、尼さんか、怪しい隠士か。」

大正十(一九二一)年四月




 



底本:「泉鏡花集成7」ちくま文庫、筑摩書房
   1995(平成7)年12月4日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十一卷」岩波書店
   1941(昭和16)年9月30日
入力:門田裕志
校正:土屋隆
2005年11月1日作成
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