――いま私は、可恐い吹雪の中を、そこへ志しているのであります――
が、さて、一昨年のその時は、翌日、半日、いや、午後三時頃まで、用もないのに、女中たちの蔭で怪む気勢のするのが思い取られるまで、腕組が、肘枕で、やがて夜具を引被ってまで且つ思い、且つ悩み、幾度か逡巡した最後に、旅館をふらふらとなって、とうとう恩人を訪ねに出ました。
わざと途中、余所で聞いて、虎杖村に憧憬れ行く。……
道は鎮守がめあてでした。
白い、静な、曇った日に、山吹も色が浅い、小流に、苔蒸した石の橋が架って、その奥に大きくはありませんが深く神寂びた社があって、大木の杉がすらすらと杉なりに並んでいます。入口の石の鳥居の左に、とりわけ暗く聳えた杉の下に、形はつい通りでありますが、雪難之碑と刻んだ、一基の石碑が見えました。
雪の難――荷担夫、郵便配達の人たち、その昔は数多の旅客も――これからさしかかって越えようとする峠路で、しばしば命を殞したのでありますから、いずれその霊を祭ったのであろう、と大空の雲、重る山、続く巓、聳ゆる峰を見るにつけて、凄じき大濤の雪の風情を思いながら、旅の心も身に沁みて通過ぎました。
畷道少しばかり、菜種の畦を入った処に、志す庵が見えました。侘しい一軒家の平屋ですが、門のかかりに何となく、むかしの状を偲ばせます、萱葺の屋根ではありません。
伸上る背戸に、柳が霞んで、ここにも細流に山吹の影の映るのが、絵に描いた蛍の光を幻に見るようでありました。
夢にばかり、現にばかり、十幾年。
不思議にここで逢いました――面影は、黒髪に笄して、雪の裲襠した貴夫人のように遥に思ったのとは全然違いました。黒繻子の襟のかかった縞の小袖に、ちっとすき切れのあるばかり、空色の絹のおなじ襟のかかった筒袖を、帯も見えないくらい引合せて、細りと着ていました。
その姿で手をつきました。ああ、うつくしい白い指、結立ての品のいい円髷の、情らしい柔順な髱の耳朶かけて、雪なす項が優しく清らかに俯向いたのです。
生意気に杖を持って立っているのが、目くるめくばかりに思われました。
「私は……関……」
と名を申して、
「蔦屋さんのお嬢さんに、お目にかかりたくて参りました。」
「米は私でございます。」
と顔を上げて、清しい目で熟と視ました。
私の額は汗ばんだ。――あのいつか額に置かれた、手の影ばかり白く映る。
「まあ、関さん。――おとなにおなりなさいました……」
これですもの、可懐さはどんなでしょう。
しかし、ここで私は初恋、片おもい、恋の愚痴を言うのではありません。
……この凄い吹雪の夜、不思議な事に出あいました、そのお話をするのであります。
四
その時は、四畳半ではありません。が、炉を切った茶の室に通されました。
時に、先客が一人ありまして炉の右に居ました。気高いばかり品のいい年とった尼さんです。失礼ながら、この先客は邪魔でした。それがために、いとど拙い口の、千の一つも、何にも、ものが言われなかったのであります。
「貴女は煙草をあがりますか。」
私はお米さんが、その筒袖の優しい手で、煙管を持つのを視てそう言いました。
お米さんは、控えてちょっと俯向きました。
「何事もわすれ草と申しますな。」
と尼さんが、能の面がものを言うように言いました。
「関さんは、今年三十五におなりですか。」
とお米さんが先へ数えて、私の年を訊ねました。
「三碧のう。」
と尼さんが言いました。
「貴女は?」
「私は一つ上……」
「四緑のう。」
と尼さんがまた言いました。
――略して申すのですが、そこへ案内もなく、ずかずかと入って来て、立状にちょっと私を尻目にかけて、炉の左の座についた一人があります――山伏か、隠者か、と思う風采で、ものの鷹揚な、悪く言えば傲慢な、下手が画に描いた、奥州めぐりの水戸の黄門といった、鼻の隆い、髯の白い、早や七十ばかりの老人でした。
「これは関さんか。」
と、いきなり言います。私は吃驚しました。
お米さんが、しなよく頷きますと、
「左様か。」
と言って、これから滔々と弁じ出した。その弁ずるのが都会における私ども、なかま、なかまと申して私などは、ものの数でもないのですが、立派な、画の画伯方の名を呼んで、片端から、奴がと苦り、あれめ、と蔑み、小僧、と呵々と笑います。
私は五六尺飛退って叩頭をしました。
「汽車の時間がございますから。」
お米さんが、送って出ました。花菜の中を半の時、私は香に咽んで、涙ぐんだ声して、
「お寂しくおいでなさいましょう。」
と精一杯に言ったのです。
「いいえ、兄が一緒ですから……でも大雪の夜なぞは、町から道が絶えますと、ここに私一人きりで、五日も六日も暮しますよ。」
とほろりとしました。
「そのかわり夏は涼しゅうございます。避暑にいらっしゃい……お宿をしますよ。……その時分には、降るように蛍が飛んで、この水には菖蒲が咲きます。」
夜汽車の火の粉が、木の芽峠を蛍に飛んで、窓にはその菖蒲が咲いたのです――夢のようです。……あの老尼は、お米さんの守護神――はてな、老人は、――知事の怨霊ではなかったか。
そんな事まで思いました。
円髷[#ルビの「まるまげ」は底本では「まるはげ」]に結って、筒袖を着た人を、しかし、その二人はかえって、お米さんを秘密の霞に包みました。
三十路を越えても、窶れても、今もその美しさ。片田舎の虎杖になぞ世にある人とは思われません。
ために、音信を怠りました。夢に所がきをするようですから。……とは言え、一つは、日に増し、不思議に色の濃くなる炉の右左の人を憚ったのであります。
音信して、恩人に礼をいたすのに仔細はない筈。けれども、下世話にさえ言います。慈悲すれば、何とかする。……で、恩人という、その恩に乗じ、情に附入るような、賤しい、浅ましい、卑劣な、下司な、無礼な思いが、どうしても心を離れないものですから、ひとり、自ら憚られたのでありました。
私は今、そこへ――
五
「ああ、あすこが鎮守だ――」
吹雪の中の、雪道に、白く続いたその宮を、さながら峰に築いたように、高く朦朧と仰ぎました。
「さあ、一息。」
が、その息が吐けません。
真俯向けに行く重い風の中を、背後からスッと軽く襲って、裾、頭をどッと可恐いものが引包むと思うと、ハッとひき息になる時、さっと抜けて、目の前へ真白な大な輪の影が顕れます。とくるくると廻るのです。廻りながら輪を巻いて、巻き巻き巻込めると見ると、たちまち凄じい渦になって、ひゅうと鳴りながら、舞上って飛んで行く。……行くと否や、続いて背後から巻いて来ます。それが次第に激しくなって、六ツ四ツ数えて七ツ八ツ、身体の前後に列を作って、巻いては飛び、巻いては飛びます。巌にも山にも砕けないで、皆北海の荒波の上へ馳るのです。――もうこの渦がこんなに捲くようになりましては堪えられません。この渦の湧立つ処は、その跡が穴になって、そこから雪の柱、雪の人、雪女、雪坊主、怪しい形がぼッと立ちます。立って倒れるのが、そのまま雪の丘のようになる……それが、右になり、左になり、横に積り、縦に敷きます。その行く処、飛ぶ処へ、人のからだを持って行って、仰向けにも、俯向せにもたたきつけるのです。
――雪難之碑。――峰の尖ったような、そこの大木の杉の梢を、睫毛にのせて倒れました。私は雪に埋れて行く……身動きも出来ません。くいしばっても、閉じても、目口に浸む粉雪を、しかし紫陽花の青い花片を吸うように思いました。
――「菖蒲が咲きます。」――
蛍が飛ぶ。
私はお米さんの、清く暖き膚を思いながら、雪にむせんで叫びました。
「魔が妨げる、天狗の業だ――あの、尼さんか、怪しい隠士か。」
大正十(一九二一)年四月
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