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朱日記(しゅにっき)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-22 16:15:38  点击:  切换到繁體中文


 小児こどもが転んで泣くようだ、他愛がないじゃないか。さてそうなってから、急に我ながら、世にもおびえた声を出して、
(わっ。)と云ってな、三反ばかり山路やまみちの方へ宙を飛んで遁出にげだしたと思え。
 はじめて夢が覚めた気になって、寒いぞ、今度は。がちがち震えながら、傍目わきめらず、坊主が立ったと思う処は爪立足つまだちあしをして、それから、お前、前の峰を引掻ひっかくように駆上かけあがって、……ましぐらにまた摺落ずりおちて、見霽みはらしへ出ると、どうだ。夜が明けたように広々として、崖のはずれから高い処を、乗出して、城下を一人で、月の客と澄ましてながめている物見の松の、ちょうど、赤い旗が飛移った、と、今見る処に、五日頃の月が出て蒼白あおじろい中に、松の樹はお前、大蟹おおがに海松房みるぶさ引被ひっかずいて山へ這出はいでた形に、しっとりと濡れて薄靄うすもやまとっている。遥かに下だが、私の町内と思うあたりを……場末で遅廻りの豆腐屋の声が、かすかに聞えようというのじゃないか。
 話にならん。いやしくも小児こどもを預って教育の手伝もしようというものが、まるで狐につままれたような気持で、……家内にさえ、話も出来ん。
 帰って湯に入って、寝たが、綿わたのように疲れていながら、何か、それでも寝苦ねぐるしくって時々早鐘をくような音が聞えて、吃驚びっくりして目が覚める、と寝汗でぐっちょり、それも半分は夢心地さ。
 明方からこの風さな。」
正寅しょうとらの刻からでござりました、海嘯つなみのように、どっと一時いっときに吹出しましたに因って存じておりまする。」と源助のことばつき、あたかも口上。何か、恐入っているていがある。
「夜があけると、この砂煙すなけぶり。でも人間、雲霧を払った気持だ。そして、赤合羽の坊主の形もちらつかぬ。やがて忘れてな、八時、九時、十時と何事もなく課業を済まして、この十一時が読本とくほんの課目なんだ。
 な、源助。
 授業にかかって、読出した処が、怪訝おかしい。消火器の説明がしてある、火事に対する種々いろいろの設備のな。しかしもうそれさえ気にならずに業をはじめて、ものの十分もったと思うと、入口の扉を開けて、ふらりと、あのが入って来たんだ。」
「へい、嬢ちゃん坊ちゃんが。」
「そう。宮浜がな。おや、と思った。あの児は、それ、墨の中に雪だから一番目に着く。……朝、一二時間ともちゃんと席に着いて授業を受けたんだ。――この硝子窓がらすまどの並びの、運動場のやっぱり窓際に席があって、……もっとも二人並んだ内側の方だが。さっぱり気が着かずにいた。……成程、その席が一ツ穴になっている。
 また、はしの倒れた事でも、沸返にえかえって騒立つ連中が、一人それまで居なかったのを、誰もいッつけ口をしなかったもあやしいよ。
 ふらりと廊下から、時ならない授業中に入って来たので、さすがに、わっと動揺どよめいたが、その音も戸外おもての風に吹攫ふきさらわれて、どっと遠くへ、山へつかるように持ってかれる。口や目ばかり、ばらばらと、動いて、騒いで、小児等こどもらの声はかすかに響いた。……」

       六

わしも不意だから、変に気を抜かれたようになって、とぼんと、あの可愛らしい綺麗なを見たよ。
 そっと椅子のそばへ来て、愛嬌あいきょうづいた莞爾にっこりした顔をして、
(先生、姉さんが。)
 と云う。――姉さんが来て、今日は火が燃える、大火事があって危ないから、早仕舞はやじまいにしてお帰りなさい。先生にそうお願いして、と言いますから……うちへ帰らして下さい、と云うんです。含羞はにかむ児だから、小さな声して。
 風はこれだ。
 聞えないで僥倖さいわい。ちょっとでも生徒の耳に入ろうものなら、壁を打抜ぶちぬく騒動だろう。
 もうな、火事と、聞くと頭から、ぐらぐらと胸へ響いた。
 騒がぬ顔して、みんなには、宮浜が急に病気になったから今手当をして来る。かねて言う通りしずかにしているように、と言聞かしておいて、精々落着いて、まず、あの児をこの控所へ連れ出して来たんだ。
 処で、気を静めて、と思うが、何分、この風が、時々、かっと赤くなったり、黒くなったりする。な源助どうだ。こりゃ。」
 と云う時、言葉が途切れた。二人とも目を据えてみまもるばかり、一時ひとしきり、屋根を取ってひしぐがごとく吹きなぐる。
「気が騒いでならんが。」
 と雑所は、しっかと腕組をして、椅子のかかりに、背中を摺着すりつけるばかり、びたりと構えて、
「よく、宮浜に聞いた処が、本人にも何だか分らん、姉さんというのが見知らぬ女で、何も自分の姉という意味では無いとよ。
 はじめて逢ったのかと、尋ねる、とそうではない。この七日なぬかばかり前だそうだ。
 授業が済んで帰るとなる、大勢列を造って、それな、門まで出る。足並を正さして、私が一二と送り出す……
 すると、この頃塗直した、あのあおい門の柱の裏に、袖口を口へ当てて、小児こどもの事で形は知らん。頭髪かみの房々とあるのが、美しい水晶のような目を、こう、俯目ふしめながらすずしゅう※(「目+登」、第3水準1-88-91)みはって、列を一人一人見遁みのがすまいとするようだっけ。
 物見の松はここからも見える……雲のようなはそればかりで、よくよく晴れた暖い日だったと云う……この十四五日、お天気続きだ。
 私も、毎日門外まで一同を連出すんだが、七日前にも二日こっちも、ついぞ、そんな娘を見掛けた事はない。しかもお前、その娘が、ちらちらと白い指でめんない千鳥をするように、手招きで引着けるから、うっかり列を抜けて、そのそばへ寄ったそうよ。それを私は何も知らん。
(宮浜の浪ちゃんだねえ。)
 とこの国じゃない、本で読むようなことばで聞くとさ。うなずくと、
いものを上げますから私と一所に、さあ、きましょう、みんなに構わないで。)
 と、私等を構わぬ分に扱ったはひどい! なあ、源助。
 で、手を取られるから、ついてくと、どこか、学校からさまで遠くはなかったそうだ。荒れには荒れたが、大きな背戸へ裏木戸から連込んで、茱萸ぐみの樹の林のような中へ連れて入った。目の※(「目+匡」、第3水準1-88-81)ふちも赤らむまで、ほかほかとしたと云う。で、自分にも取れば、あの児にも取らせて、そして言う事が妙ではないか。
沢山たんとあがんなさいよ。みんな貴下あなた阿母おっかさんのような美しい血になるから。)
 と言ったんだそうだ。土産にもくれた。帰って誰が下すった、とおやじにそう言いましょうと、聞くと、
(貴下のおなくなんなすった阿母おっかさんのお友だちです。)
 と言ったってな。あの児の母親はなくなったはずだ。
 が、ここまではとにかく無事だ、源助。
 その婦人が、今朝また、この学校へ来たんだとな。」
 源助は、びくりとして退さがる。
「今度は運動場。で、十時の算術が済んだ放課の時だ。風にもめげずにみんな駆出すが、ああいう児だから、一人で、それでも遊戯さな……石盤へこう姉様あねさまの顔をいていると、硝子戸越がらすどごしに……夢にも忘れない……その美しい顔を見せて、外へ出るよう目で教える……一度逢ったばかりだけれども、小児は一目顔を見ると、もうその心が通じたそうよ。」

       七

「宮浜はな、今日は、その婦人があかの実のかんざしを挿していた、やっぱり茱萸ぐみだろうと云うが、果物の簪は無かろう……小児こどもの目だもの、珊瑚さんごかも知れん。
 そんな事はとにかくだ。
 直ぐに、嬉々いそいそと廊下から大廻りに、ちょうど自分の席の窓の外。その婦人の待っている処へ出ると、それ、散々に吹散らされながら、小児が一杯、ふらふらしているだろう。
 源助、それ、近々に学校で――やがて暑さにはなるし――余り青苔あおごけが生えて、石垣も崩れたというので、井戸側いどがわを取替えるに、石の大輪おおわが門の内にあったのを、小児だちが悪戯いたずらに庭へ転がし出したのがある。――あれだ。
 大人なら知らず、円くてすべるにせい、小児が三人や五人ではちょっと動かぬ。そいつだが、婦人が、あのを連れて、すっと通ると、むくりと脈を打ったように見えて、ころころと芝の上を斜違はすっかいに転がり出した。
(やあい、井戸側が風で飛ばい。)か、何か、どっ吶喊ときを上げて、小児がみんなそれを追懸けて、一団ひとかたまりに黒くなって駆出すと、その反対の方へ、誰にも見着けられないで、澄まして、すっと行ったと云うが、どうだ、これも変だろう。
 横手の土塀際の、あの棕櫚しゅろの樹の、ばらばらと葉が鳴る蔭へ入って、黙ってせなかでなぞしてな。
 そこで言聞かされたと云うんだ。
(今に火事がありますから、早くうちへお帰んなさい、先生にそう云って。でも学校の教師さん、そんな事がありますかッてきなさらないかも知れません。黙ってずんずん帰ってうござんす。怪我けがには替えられません。けれども、後で叱られると不可いけませんから、なりたけお許しをうけてからになさいましよ。
 時刻はまだ大丈夫だとは思いますが、そんな、こんなで帰りが遅れて、途中、もしもの事があったら、これをめしあがれよ。そうするとけむかれませんから。)
 とそう云ってな。……そこで、たもとから紙包みのを出して懐中ふところへ入れて、おさえて、こう抱寄せるようにして、そして襟を掻合かきあわせてくれたのが、その茱萸ぐみなんだ。
(私がついていられるといんだけれど、姉さんは、今日は大事な日ですから。)
 と云ううちにも、風のなぐれで、すっと黒髪を吹いて、まるで顔が隠れるまで、むらむらとかかる、と黒雲が走るようで、はらりと吹分ける、と月が出たように白い頬が見えたと云う……
 けれども、見えもせぬ火事があると、そんな事は先生には言憎いいにくい、と宮浜がかぶりを振ったそうだ。
(では、浪ちゃんは、教師さんのおっしゃる事と、私の言う事と、どっちをほんとうだと思います。――)
 こりゃ小児こどもに返事が出来なかったそうだが、そうだろう……なあ、無理はない、源助。
(先生のおことばに嘘はありません。けれども私の言う事はほんとうです……今度の火事も私の気でどうにもなる。――私があるものに身を任せれば、火は燃えません。そのものが、おもいかなわないあだに、私が心一つから、沢山の家も、人も、なくなるように面当つらあてにしますんだから。
 まあ、これだって、浪ちゃんが先生にお聞きなされば、自分の身体からだはどうなってなりとも、人も家も焼けないようにするのが道だ、とおっしゃるでしょう。
 殿方の生命いのちは知らず、女の操というものは、人にも家にもかえられぬ。……と私はそう思うんです。そう私が思う上は、火事がなければなりません。今云う通り、私へ面当てに焼くのだから。
 まだ私たち女の心は、貴下あなたの年では得心がかないで、やっぱり先生がおっしゃるように、我身を棄てても、人を救うが道理のように思うでしょう。
 いいえ、違います……殿方の生命は知らず。)
 と繰返して、
(女の操というものは。)とじっと顔を凝視みつめながら、
(人にも家にも代えられない、と浪ちゃん忘れないでおいでなさい。今に分ります……あかい木の実を沢山たんと食べて、血の美しく綺麗なには、そのかわり、火の粉も桜の露となって、美しく降るばかりですよ。さ、いらっしゃい、早く。気を着けて、私の身体からだも大切な日ですから。)
 と云ううちにも、すそも袂も取って、空へ頭髪かみながら吹上げそうだったってな。これだ、源助、窓硝子まどがらすが波を打つ、あれ見い。」

       八

 雑所先生は一息いて、
「私が問うのに答えてな、あの宮浜はかねて記憶のい処を、母のないだ。――優しい人の言う事は、よくよく身に染みて覚えたと見えて、まるで口移しに諳誦あんしょうをするようにここで私に告げたんだ。が、一々、ぞくぞくはだあわが立った。けれども、その婦人の言う、謎のような事は分らん。
 そりゃ分らんが、しかしせんずるに火事がある一条だ。
(まるで嘘とも思わんが、全く事実じゃなかろう、ともかく、小使溜こづかいだまりへ行って落着いていなさい、ちっと熱もある。)
 額をでて見ると熱いから、そこで、あの児をそららへってよ。
 さあ、気になるのは昨夜ゆうべの山道の一件だ。……赤い猿、赤い旗な、赤合羽を着た黒坊主よ。」
、緋の法衣ころもを着たでござります、赤合羽ではござりません。魔、魔の人でござりますが。」とガタガタ胴震いをしながら、たしなめるように言う。
「さあ、何か分らぬが、あの、雪に折れる竹のように、バシリとした声して……何と云った。
(城下を焼きに参るのじゃ。)
 源助、宮浜の児を遣ったあとで、天窓あたま引抱ひっかかえて、こう、風の音を忘れるようにじっと考えると、ひょい、と火をるばかりに、目に赤く映ったのが、これなんだ。」
 と両手で控帳の端を取って、斜めに見せると、楷書かいしょ細字さいじしたためたのが、輝くごとく、もそりと出した源助の顔にッと照って見えたのは、朱で濃く、一面の文字もんじである。
「へい。」
「な、何からはじまった事だか知らんが、ちょうど一週間前から、ふと朱でもって書き続けた、こりゃ学校での、私の日記だ。
 昨日きのうは日曜で抜けている。一週間。」
 とさっと紙がねて、小口をばらばらと繰返すと、戸外おもての風の渦巻に、一ちぎれの赤い雲が卓子テエブルを飛ぶ気勢けはいする。
「この前の時間にも、(暴風)に書いて消して(烈風)をまた消して(颶風ぐふう)なり、と書いた、やっぱり朱で、見な……
 しかも変な事には、何を狼狽うろたえたか、一枚半だけ、罫紙けいしで残して、明日の分を、ここへ、これ(火曜)としたぜ。」
 と指す指が、ひッつりのように、びくりとした。
「読本が火の処……源助、どう思う。ほかの先生方はみんな私より偉いには偉いが年下だ。校長さんもずッとおわかい。
 こんな相談は、故老ころうに限ると思って呼んだ。どうだろう。万一の事があるとなら、あえて宮浜の児一人でない。……どれも大事な小児こどもたち――その過失あやまちで、私が学校をめるまでも、※(「韋+鞴のつくり」、第3水準1-93-84)じだんだを踏んでなりと直ぐに生徒を帰したい。が、何でもない事のようで、これがまた一大事だ。いやしくも父兄が信頼して、子弟の教育をゆだねる学校の分として、おんな小児こどもや、茱萸ぐみぐらいの事で、臨時休業は沙汰さたの限りだ。
 私一人の間抜まぬけで済まん。
 第一そような迷信は、にんとして、私等が破って棄ててやらなけりゃならんのだろう。そうかッてな、もしやの事があるとすると、何より恐ろしいのはこの風だよ。ジャンと来て見ろ、全市かわらは数えるほど、板葺屋根いたぶきやねが半月の上も照込んで、焚附たきつけ同様。――何と私等が高台の町では、時ならぬ水切みずぎれがしていようという場合ではないか。土の底まで焼抜やきぬけるぞ。小児たちが無事に家へ帰るのは十人に一人もむずかしい。
 思案に余った、源助。気が気でないのは、時がおくれて驚破すわと言ったら、赤い実を吸え、と言ったは心細い――一時半時いっときはんじを争うんだ。もし、ひょんな事があるとすると――どう思う、どう思う、源助、考慮かんがえは。」
尋常ただ、尋常ごとではござりません。」と、かッと卓子テエブルこぶしつかんで、
「城下の家の、寿命が来たんでござりましょう、争われぬ、争われぬ。」
 と半分目を眠って、盲目めくらがするように、白眼しろまなこで首を据えて、天井を恐ろしげにながめながら、
「ものはあるげにござりまして……旧藩頃の先主人が、夜学の端に承わります。昔そのからの都の大道を、一時あるとき、その何でござりまして、怪しげな道人が、髪をさばいて、何と、骨だらけなあおい胸を岸破々々がばがばと開けました真中まんなかへ、ひとという字を書いたのを掻開かっぱだけて往来中駆廻ったげでござります。いつかも同役にも話した事でござりまするが、何の事か分りません。唐の都でも、みんなが不思議がっておりますると、その日から三日目に、年代記にもないほどな大火事が起りまして。」
「源助、源助。」
 と雑所大きにいて、
「何だ、それは。胸へ人という字を書いたのは。」とかかる折から、自分で考えるのがまだるこしそうであった。
「へい、まあ、ちょいとした処、早いがうございます。ここへ、人と書いて御覧じゃりまし。」
 風の、そのあわただしい中でも、対手あいてが教頭心得の先生だけ、ものとわれた心のほこりに、話を咲せたい源助が、薄汚れた襯衣しゃつぼたんをはずして、ひくひくとした胸を出す。
 雑所も急心せきごころに、ものをも言わず有合わせた朱筆しゅふでを取って、乳を分けてあかい人。と引かれて、カチカチと、何か、歯をくいしめてこらえたが、突込む筆の朱がねて、いきおいで、ぱっと胸毛にかかると、火をくように毛が動いた。
「あ熱々つつ!」
 と唐突だしぬけに躍り上って、とんと尻餅をくと、血声を絞って、
「火事だ! 同役、三右衛門、火事だ。」とわめく。
「何だ。」
 と、雑所も棒立ちになったが、物狂わしげに、
「なぜ、投げる。なぜ茱萸ぐみを投附ける。宮浜。」
 と声を揚げた。廊下をばらばらと赤く飛ぶのを、浪吉が茱萸をなげうつと一目見たのは、矢を射るごとく窓硝子まどがらすす火の粉であった。
 途端に十二時、りんを打つのが、ブンブンと風に響くや、一つずつ十二ヶ所、一時に起る摺半鉦すりばん、早鐘。
 早や廊下にもけむりが入って、暗い中から火の空を透かすと、学校のあおい門が、真紫に物凄ものすごい。
 この日の大火は、物見の松と差向う、市の高台の野にあった、本願寺末寺の巨刹おおでらの本堂床下から炎を上げた怪し火で、ただ三時みときが間に市の約全部を焼払った。
 烟は風よりもく、火は鳥よりもはやく飛んだ。
 人畜の死傷少からず。
 火事の最中、雑所先生、はかま股立ももだちを、高く取ったは効々かいがいしいが、羽織も着ず……布子の片袖引断ひっちぎれたなりで、足袋跣足たびはだしで、据眼すえまなこおもてあいのごとく、火と烟の走る大道を、蹌踉ひょろひょろ歩行あるいていた。
 屋根から屋根へ、――樹のこずえから、二階三階が黒烟りにただよう上へ、飜々ひらひらと千鳥に飛交う、真赤まっかな猿の数を、く行く幾度も見た。
 足許あしもとには、人も車も倒れている。
 とある十字街へかかった時、横からひょこりと出て、はすに曲り角へ切れてく、昨夜ゆうべの坊主に逢った。同じ裸に、赤合羽を着たが、こればかりは風をも踏固めて通るようにしかとした足取であった。
 が、赤旗をいて、袖へ抱くようにして、いささか逡巡しゅんじゅんていして、
「焼け過ぎる、これは、焼け過ぎる。」
 と口のうちつぶやいた、と思うともう見えぬ。顔を見られたら、雑所は灰になろう。
 垣も、隔ても、跡はないが、倒れた石燈籠いしどうろうおおきなのがある。何某なにがしやしきの庭らしい中へ、烟に追われて入ると、枯木に夕焼のしたような、火の幹、火の枝になった大樹のもとに、小さな足を投出して、横坐りになった、浪吉の無事な姿を見た。
 学校は、便宜に隊を組んで避難したが、皆ちりちりになったのである。
 と見ると、恍惚うっとりした美しい顔を仰向けて、枝からばらばらと降懸ふりかかる火の粉を、あられ五合ごんごすくうように、綺麗なたもとで受けながら、
「先生、沢山に茱萸が。」
 と云って、※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)ろうたけるまで莞爾にっこりした。
 雑所は諸膝もろひざを折って、倒れるように、そのかたわらで息をいた。が、そこではもう、火の粉は雪のように、袖へかかっても、払えば濡れもしないで消えるのであった。

明治四十四(一九一一)年一月




 



底本:「泉鏡花集成4」ちくま文庫、筑摩書房
   1995(平成7)年10月24日第1刷発行
   2004(平成16)年3月20日第2刷発行
入力:土屋隆
校正:門田裕志
2005年11月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について
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    「火+發」    463-5

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