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三尺角拾遺(さんじゃくかくしゅうい)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-22 13:34:24  点击:  切换到繁體中文

底本: 鏡花全集 第四巻
出版社: 岩波書店
初版発行日: 1941(昭和16)年3月15日
入力に使用: 1986(昭和61)年12月3日第3刷
校正に使用: 1986(昭和61)年12月3日第3刷

 

「あなた、冷(ひ)えやしませんか。」
 お柳(りう)は暗夜(やみ)の中(なか)に悄然(しよんぼり)と立(た)つて、池(いけ)に臨(のぞ)むで、其(そ)の肩(かた)を並(なら)べたのである。工學士(こうがくし)は、井桁(ゐげた)に組(く)んだ材木(ざいもく)の下(した)なる端(はし)へ、窮屈(きうくつ)に腰(こし)を懸(か)けたが、口元(くちもと)に近々(ちか/″\)と吸(す)つた卷煙草(まきたばこ)が燃(も)えて、其(その)若々(わか/\)しい横顏(よこがほ)と帽子(ばうし)の鍔廣(つばびろ)な裏(うら)とを照(て)らした。
 お柳(りう)は男(をとこ)の背(せな)に手(て)をのせて、弱(よわ)いものいひながら遠慮氣(ゑんりよげ)なく、
「あら、しつとりしてるわ、夜露(よつゆ)が酷(ひど)いんだよ。直(ぢか)にそんなものに腰(こし)を掛(か)けて、あなた冷(つめた)いでせう。眞(ほん)とに養生深(やうじやうぶか)い方(かた)が、其(それ)に御病氣(ごびやうき)擧句(あげく)だといふし、惡(わる)いわねえ。」
 と言(い)つて、そつと壓(おさ)へるやうにして、
「何(なん)ともありはしませんか、又(また)ぶり返(かへ)すと不可(いけ)ませんわ、金(きん)さん。」
 其(それ)でも、ものをいはなかつた。
「眞(ほん)とに毒(どく)ですよ、冷(ひ)えると惡(わる)いから立(た)つていらつしやい、立(た)つていらつしやいよ。其(その)方(はう)が増(まし)ですよ。」
 といひかけて、あどけない聲(こゑ)で幽(かすか)に笑(わら)つた。
「ほゝゝゝ、遠(とほ)い處(ところ)を引張(ひつぱ)つて來(き)て、草臥(くたび)れたでせう。濟(す)みませんねえ。あなたも厭(いや)だといふし、其(それ)に私(わたし)も、そりや樣子(やうす)を知(し)つて居(ゐ)て、一所(いつしよ)に苦勞(くらう)をして呉(く)れたからツたつても、※(ねえ)[#「姉」の正字、「※(第3水準1-85-57)」の「木」に代えて「女」、715-2]さんには極(きまり)が惡(わる)くツて、内(うち)へお連(つ)れ申(まを)すわけには行(ゆ)かないしさ。我儘(わがまゝ)ばかり、お寢(よ)つて在(い)らつしやつたのを、こんな處(ところ)まで連(つ)れて來(き)て置(お)いて、坐(すわ)つてお休(やす)みなさることさへ出來(でき)ないんだよ。」
 お柳(りう)はいひかけて涙(なみだ)ぐんだやうだつたが、しばらくすると、
「さあ、これでもお敷(し)きなさい、些少(ちつと)はたしになりますよ。さあ、」
 擦寄(すりよ)つた氣勢(けはひ)である。
「袖(そで)か、」
「お厭(いや)?」
「そんな事(こと)を、しなくツても可(い)い。」
「可(よ)かあありませんよ、冷(ひ)えるもの。」
「可(い)いよ。」
「あれ、情(じやう)が強(こは)いねえ、さあ、えゝ、ま、痩(や)せてる癖(くせ)に。」と向(むか)うへ突(つ)いた、男(をとこ)の身(み)が浮(う)いた下(した)へ、片袖(かたそで)を敷(し)かせると、まくれた白(しろ)い腕(うで)を、膝(ひざ)に縋(すが)つて、お柳(りう)は吻(ほつ)と呼吸(いき)。
 男(をとこ)はぢつとして動(うご)かず、二人(ふたり)ともしばらく默然(だんまり)。
 やがてお柳(りう)の手(て)がしなやかに曲(まが)つて、男(をとこ)の手(て)に觸(ふ)れると、胸(むね)のあたりに持(も)つて居(ゐ)た卷煙草(まきたばこ)は、心(こゝろ)するともなく、放(はな)れて、婦人(をんな)に渡(わた)つた。
「もう私(わたし)は死(し)ぬ處(ところ)だつたの。又(また)笑(わら)ふでせうけれども、七日(なぬか)ばかり何(なん)にも鹽(しほ)ツ氣(け)のものは頂(いたゞ)かないんですもの、斯(か)うやつてお目(め)に懸(かゝ)りたいと思(おも)つて、煙草(たばこ)も斷(た)つて居(ゐ)たんですよ。何(なん)だつて一旦(いつたん)汚(けが)した身體(からだ)ですから、そりやおつしやらないでも、私(わたし)の方(はう)で氣(き)が怯(ひ)けます。其(それ)にあなたも舊(もと)と違(ちが)つて、今(いま)のやうな御身分(おみぶん)でせう、所詮(しよせん)叶(かな)はないと斷(あきら)めても、斷(あきら)められないもんですから、あなた笑(わら)つちや厭(いや)ですよ。」
 といひ淀(よど)んで一寸(ちよつと)男(をとこ)の顏(かほ)。
「斷(あきら)めのつくやうに、斷(あきら)めさして下(くだ)さいツて、お願(ねが)ひ申(まを)した、あの、お返事(へんじ)を、夜(よ)の目(め)も寢(ね)ないで待(ま)ツてますと、前刻(さつき)下(くだ)すつたのが、あれ……ね。
 深川(ふかがは)の此(こ)の木場(きば)の材木(ざいもく)に葉(は)が繁(しげ)つたら、夫婦(いつしよ)になつて遣(や)るツておつしやつたのね。何(ど)うしたつて出來(でき)さうもないことが出來(でき)たのは、私(わたし)の念(ねん)が屆(とゞ)いたんですよ。あなた、こんなに思(おも)ふもの、其(その)位(くらゐ)なことはありますよ。」
 と猶(なほ)しめやかに、
「ですから、最(も)う大威張(おほゐばり)。其(それ)でなくツてはお聲(こゑ)だつて聞(き)くことの出來(でき)ないので、押懸(おしか)けて行(い)つて、無理(むり)に其(そ)の材木(ざいもく)に葉(は)の繁(しげ)つた處(ところ)をお目(め)に懸(か)けようと思(おも)つて連出(つれだ)して來(き)たんです。
 あなた分(わか)つたでせう、今(いま)あの木挽小屋(こびきごや)の前(まへ)を通(とほ)つて見(み)たでせう。疑(うたが)ふもんぢやありませんよ。人(ひと)の思(おもひ)ですわ、眞暗(まつくら)だから分(わか)らないつてお疑(うたぐ)ンなさるのは、そりや、あなたが邪慳(じやけん)だから、邪慳(じやけん)な方(かた)にや分(わか)りません。」
 又(また)默(だま)つて俯向(うつむ)いた、しばらくすると顏(かほ)を上(あ)げて斜(なゝ)めに卷煙草(まきたばこ)を差寄(さしよ)せて、
「あい。」
「…………」
「さあ、」
「…………」
「邪慳(じやけん)だねえ。」
「…………」
「えゝ!、要(い)らなきや止(よ)せ。」
 といふが疾(はや)いか、ケンドンに投(はふ)り出(だ)した、卷煙草(まきたばこ)の火(ひ)は、ツツツと橢圓形(だゑんけい)に長(なが)く中空(なかぞら)に流星(りうせい)の如(ごと)き尾(を)を引(ひ)いたが、※(ぱつ)[#「火+發」、717-14]と火花(ひばな)が散(ち)つて、蒼(あを)くして黒(くろ)き水(みづ)の上(うへ)へ亂(みだ)れて落(お)ちた。
 屹(きつ)と見(み)て、
「お柳(りう)、」
「え、」
「およそ世(よ)の中(なか)にお前(まへ)位(ぐらゐ)なことを、私(わたし)にするものはない。」
 と重々(おも/\)しく且(か)つ沈(しづ)んだ調子(てうし)で、男(をとこ)は肅然(しゆくぜん)としていつた。
「女房(にようばう)ですから、」
 と立派(りつぱ)に言(い)ひ放(はな)ち、お柳(りう)は忽(たちま)ち震(ふる)ひつくやうに、岸破(がば)と男(をとこ)の膝(ひざ)に頬(ほゝ)をつけたが、消入(きえい)りさうな風采(とりなり)で、
「そして同年紀(おなじとし)だもの。」
 男(をとこ)は其(その)頸(うなじ)を抱(だ)かうとしたが、フト目(め)を反(そ)らす水(みづ)の面(おも)、一點(てん)の火(ひ)は未(ま)だ消(き)えないで殘(のこ)つて居(ゐ)たので。驚(おどろ)いて、じつと見(み)れば、お柳(りう)が投(な)げた卷煙草(まきたばこ)の其(それ)ではなく、靄(もや)か、霧(きり)か、朦朧(もうろう)とした、灰色(はひいろ)の溜池(ためいけ)に、色(いろ)も稍(やゝ)濃(こ)く、筏(いかだ)が見(み)えて、天窓(あたま)の圓(まる)い小(ちひさ)な形(かたち)が一個(ひとつ)乘(の)つて蹲(しやが)むで居(ゐ)たが、煙管(きせる)を啣(くは)へたらうと思(おも)はれる、火(ひ)の光(ひかり)が、ぽツちり。
 又(また)水(みづ)の上(うへ)を歩行(ある)いて來(き)たものがある。が船(ふね)に居(ゐ)るでもなく、裾(すそ)が水(みづ)について居(ゐ)るでもない。脊(せ)高(たか)く、霧(きり)と同(おんなじ)鼠(ねずみ)の薄(うす)い法衣(ころも)のやうなものを絡(まと)つて、向(むかう)の岸(きし)からひら/\と。
 見(み)る間(ま)に水(みづ)を離(はな)れて、すれ違(ちが)つて、背後(うしろ)なる木納屋(きなや)に立(た)てかけた數(すう)百本(ぽん)の材木(ざいもく)の中(なか)に消(き)えた、トタンに認(みと)めたのは、緑青(ろくしやう)で塗(ぬ)つたやうな面(おもて)、目(め)の光(ひか)る、口(くち)の尖(とが)つた、手足(てあし)は枯木(かれき)のやうな異人(いじん)であつた。
「お柳(りう)。」と呼(よ)ばうとしたけれども、工學士(こうがくし)は餘(あま)りのことに聲(こゑ)が出(で)なくツて瞳(ひとみ)を据(す)ゑた。
 爾時(そのとき)何事(なにごと)とも知(し)れず仄(ほの)かにあかりがさし、池(いけ)を隔(へだ)てた、堤防(どて)の上(うへ)の、松(まつ)と松(まつ)との間(あひだ)に、すつと立(た)つたのが婦人(をんな)の形(かたち)、ト思(おも)ふと細長(ほそなが)い手(て)を出(だ)し、此方(こなた)の岸(きし)を氣(け)だるげに指招(さしまね)く。
 學士(がくし)が堪(た)まりかねて立(た)たうとする足許(あしもと)に、船(ふね)が横(よこ)ざまに、ひたとついて居(ゐ)た、爪先(つまさき)の乘(の)るほどの處(ところ)にあつたのを、霧(きり)が深(ふか)い所爲(せゐ)で知(し)らなかつたのであらう、單(たゞ)そればかりでない。
 船(ふね)の胴(どう)の室(ま)に嬰兒(あかご)が一人(ひとり)、黄色(きいろ)い裏(うら)をつけた、紅(くれなゐ)の四(よ)ツ身(み)を着(き)たのが辷(すべ)つて、彼(か)の婦人(をんな)の招(まね)くにつれて、船(ふね)ごと引(ひ)きつけらるゝやうに、水(みづ)の上(うへ)をする/\と斜(なゝ)めに行(ゆ)く。
 其(その)道筋(みちすぢ)に、夥(おびたゞ)しく沈(しづ)めたる材木(ざいもく)は、恰(あたか)も手(て)を以(も)て掻(か)き退(の)ける如(ごと)くに、算(さん)を亂(みだ)して颯(さつ)と左右(さいう)に分(わか)れたのである。
 其(それ)が向(むか)う岸(ぎし)へ着(つ)いたと思(おも)ふと、四邊(あたり)また濛々(もう/\)、空(そら)の色(いろ)が少(すこ)し赤味(あかみ)を帶(お)びて、殊(こと)に黒(くろ)ずんだ水面(すゐめん)に、五六人(にん)の氣勢(けはひ)がする、囁(さゝや)くのが聞(きこ)えた。
「お柳(りう)、」と思(おも)はず抱占(だきし)めた時(とき)は、淺黄(あさぎ)の手絡(てがら)と、雪(ゆき)なす頸(うなじ)が、鮮(あざ)やかに、狹霧(さぎり)の中(なか)に描(ゑが)かれたが、見(み)る/\、色(いろ)があせて、薄(うす)くなつて、ぼんやりして、一體(いつたい)に墨(すみ)のやうになつて、やがて、幻(まぼろし)は手(て)にも留(とま)らず。
 放(はな)して退(すさ)ると、別(べつ)に塀際(へいぎは)に、犇々(ひし/\)と材木(ざいもく)の筋(すぢ)が立(た)つて並(なら)ぶ中(なか)に、朧々(おぼろ/\)とものこそあれ、學士(がくし)は自分(じぶん)の影(かげ)だらうと思(おも)つたが、月(つき)は無(な)し、且(か)つ我(わ)が足(あし)は地(つち)に釘(くぎ)づけになつてるのにも係(かゝは)らず、影法師(かげぼふし)は、薄(うす)くなり、濃(こ)くなり、濃(こ)くなり、薄(うす)くなり、ふら/\動(うご)くから我(われ)にもあらず、
「お柳(りう)、」
 思(おも)はず又(また)、
「お柳(りう)、」
 といつてすた/\と十間(けん)ばかりあとを追(お)つた。
「待(ま)て。」
 あでやかな顏(かほ)は目前(めさき)に歴々(あり/\)と見(み)えて、ニツと笑(わら)ふ涼(すゞし)い目(め)の、うるんだ露(つゆ)も手(て)に取(と)るばかり、手(て)を取(と)らうする、と何(なん)にもない。掌(たなそこ)に障(さは)つたのは寒(さむ)い旭(あさひ)の光線(くわうせん)で、夜(よ)はほの/″\と明(あ)けたのであつた。
 學士(がくし)は昨夜(さくや)、礫川(こいしかは)なる其(その)邸(やしき)で、確(たしか)に寢床(ねどこ)に入(はひ)つたことを知(し)つて、あとは恰(あたか)も夢(ゆめ)のやう。今(いま)を現(うつゝ)とも覺(おぼ)えず。唯(と)見(み)れば池(いけ)のふちなる濡(ぬ)れ土(つち)を、五六寸(すん)離(はな)れて立(た)つ霧(きり)の中(なか)に、唱名(しやうみやう)の聲(こゑ)、鈴(りん)の音(おと)、深川木場(ふかがはきば)のお柳(りう)が※(あね)[#「姉」の正字、「※(第3水準1-85-57)」の「木」に代えて「女」、720-15]の門(かど)に紛(まぎ)れはない。然(しか)も面(おもて)を打(う)つ一脈(いちみやく)の線香(せんかう)の香(にほひ)に、學士(がくし)はハツと我(われ)に返(かへ)つた。何(なに)も彼(か)も忘(わす)れ果(は)てて、狂氣(きやうき)の如(ごと)く、其(その)家(や)を音信(おとづ)れて聞(き)くと、お柳(りう)は丁(ちやう)ど爾時(そのとき)……。あはれ、草木(くさき)も、婦人(をんな)も、靈魂(たましひ)に姿(すがた)があるのか。





底本:「鏡花全集 第四巻」岩波書店
   1941(昭和16)年3月15日第1刷発行
   1986(昭和61)年12月3日第3刷発行
入力:門田裕志
校正:小林繁雄
2003年11月11日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について
  • このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
  • [#…]は、入力者による注を表す記号です。
  • 「くの字点」は「/\」で、「濁点付きくの字点」は「/″\」で表しました。
  • 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
  • この作品には、JIS X 0213にない、以下の文字が用いられています。(数字は、底本中の出現「ページ-行」数。)これらの文字は本文内では「※[#…]」の形で示しました。

    「姉」の正字、「※(第3水準1-85-57)」の「木」に代えて「女」    715-2、720-15
    「火+發」    717-14


 

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