薬師山から湯宿を見れば、ししが髪結て身をやつす。
いや……と言ったばかりで、外に見当は付かない。……私はその時は前夜着いた電車の停車場の方へ遁足に急いだっけが――笑うものは笑え。――そよぐ風よりも、湖の蒼い水が、蘆の葉ごしにすらすらと渡って、おろした荷の、その小魚にも、蕈にも颯とかかる、霜こしの黄茸の風情が忘れられない。皆とは言わぬが、再びこの温泉に遊んだのも、半ばこの蕈に興じたのであった。
――ほぼ心得た名だけれど、したしいものに近づくとて、あらためて、いま聞いたのである。
「この蕈は何と言います。」
何が何でも、一方は人の内室である、他は淑女たるに間違いない。――その真中へ顔を入れたのは、考えると無作法千万で、都会だと、これ交番で叱られる。
「霜こしやがね。」と買手の古女房が言った。
「綺麗だね。」
と思わず言った。近優りする若い女の容色に打たれて、私は知らず目を外した。
「こちらは、」
と、片隅に三つばかり。この方は笠を上にした茶褐色で、霜こしの黄なるに対して、女郎花の根にこぼれた、茨の枯葉のようなのを、――ここに二人たった渠等女たちに、フト思い較べながら指すと、
「かっぱ。」
と語音の調子もある……口から吹飛ばすように、ぶっきらぼうに古女房が答えた。
「ああ、かっぱ。」
「ほほほ。」
かっぱとかっぱが顱合せをしたから、若い女は、うすよごれたが姉さんかぶり、茶摘、桑摘む絵の風情の、手拭の口に笑をこぼして、
「あの、川に居ります可恐いのではありませんの、雨の降る時にな、これから着ますな、あの色に似ておりますから。」
「そんで幾干やな。」
古女房は委細構わず、笊の縁に指を掛けた。
「そうですな、これでな、十銭下さいまし。」
「どえらい事や。」
と、しょぼしょぼした目を
った。睨むように顔を視めながら、
「高いがな高いがな――三銭や、えっと気張って。……三銭が相当や。」
「まあ、」
「三銭にさっせえよ。――お前もな、青草ものの商売や。お客から祝儀とか貰うようには行かんぞな。」
「でも、」
と蕈が映す影はないのに、女の瞼はほんのりする。
安値いものだ。……私は、その言い値に買おうと思って、声を掛けようとしたが、隙がない。女が手を離すのと、笊を引手繰るのと一所で、古女房はすたすたと土間へ入って行く。
私は腕組をしてそこを離れた。
以前、私たちが、草鞋に手鎌、腰兵粮というものものしい結束で、朝くらいうちから出掛けて、山々谷々を狩っても、見た数ほどの蕈を狩り得た験は余りない。
たった三銭――気の毒らしい。
「御免なして。」
と背後から、跫音を立てず静に来て、早や一方は窪地の蘆の、片路の山の根を摺違い、慎ましやかに前へ通る、すり切草履に踵の霜。
「ああ、姉さん。」
私はうっかりと声を掛けた。
三
「――旦那さん、その虫は構うた事には叶いませんわ。――煩うてな……」
もの言もやや打解けて、おくれ毛を撫でながら、
「ほっといてお通りなさいますと、ひとりでに離れます。」
「随分居るね、……これは何と言う虫なんだね。」
「東京には居りませんの。」
「いや、雨上りの日当りには、鉢前などに出はするがね。こんなに居やしないようだ。よくも気をつけはしないけれど、……(しょうじょう)よりもっと小さくって煙のようだね。……またここにも一団になっている。何と言う虫だろう。」
「太郎虫と言いますか、米搗虫と言うんですか、どっちかでございましょう。小さな児が、この虫を見ますとな、旦那さん……」
と、言が途絶えた。
「小さな児が、この虫を見ると?……」
「あの……」
「どうするんです。」
「唄をうとうて囃しますの。」
「何と言って……その唄は?」
「極が悪うございますわ。……(太郎は米搗き、次郎は夕な、夕な。)……薄暮合には、よけい沢山飛びますの。」
……思出した。故郷の町は寂しく、時雨の晴間に、私たちもやっぱり唄った。
「仲よくしましょう、さからわないで。」
私はちょっかいを出すように、面を払い、耳を払い、頭を払い、袖を払った。茶番の最明寺どののような形を、更めて静に歩行いた。――真一文字の日あたりで、暖かさ過ぎるので、脱いだ外套は、その女が持ってくれた。――歩行きながら、
「……私は虫と同じ名だから。」
しかし、これは、虫にくらべて謙遜した意味ではない。実は太郎を、浦島の子に擬えて、潜に思い上った沙汰なのであった。
湖を遥に、一廓、彩色した竜の鱗のごとき、湯宿々々の、壁、柱、甍を中に隔てて、いまは鉄鎚の音、謡の声も聞えないが、出崎の洲の端に、ぽッつりと、烏帽子の転がった形になって、あの船も、船大工も見える。木納屋の苫屋は、さながらその素袍の袖である。
――今しがた、この女が、細道をすれ違った時、蕈に敷いた葉を残した笊を片手に、行く姿に、ふとその手鍋提げた下界の天女の俤を認めたのである。そぞろに声掛けて、「あの、蕈を、……三銭に売ったのか。」とはじめ聞いた。えんぶだごんの価値でも説く事か、天女に対して、三銭也を口にする。……さもしいようだが、対手が私だから仕方がない。「ええ、」と言うのに押被せて、「馬鹿々々しく安いではないか。」と義憤を起すと、せめて言いねの半分には買ってもらいたかったのだけれど、「旦那さんが見てであったしな。……」と何か、私に対して、値の押問答をするのが極が悪くもあったらしい口振で。……「失礼だが、世帯の足になりますか。」ときくと、そのつもりではあったけれど、まるで足りない。煩っていなさる母さんの本復を祈って願掛けする、「お稲荷様のお賽銭に。」と、少しあれたが、しなやかな白い指を、縞目の崩れた昼夜帯へ挟んだのに、さみしい財布がうこん色に、撥袋とも見えず挟って、腰帯ばかりが紅であった。「姉さんの言い値ほどは、お手間を上げます。あの松原は松露があると、宿で聞いて、……客はたて込む、女中は忙しいし、……一人で出て来たが覚束ない。ついでに、いまの(霜こし)のありそうな処へ案内して、一つでも二つでも取らして下さい、……私は茸狩が大好き。――」と言って、言ううちに我ながら思入って、感激した。
はかない恋の思出がある。
もう疾に、余所の歴きとした奥方だが、その私より年上の娘さんの頃、秋の山遊びをかねた茸狩に連立った。男、女たちも大勢だった。茸狩に綺羅は要らないが、山深く分入るのではない。重箱を持参で茣蓙に毛氈を敷くのだから、いずれも身ぎれいに装った。中に、襟垢のついた見すぼらしい、母のない児の手を、娘さん――そのひとは、厭わしげもなく、親しく曳いて坂を上ったのである。衣の香に包まれて、藤紫の雲の裡に、何も見えぬ。冷いが、時めくばかり、優しさが頬に触れる袖の上に、月影のような青地の帯の輝くのを見つつ、心も空に山路を辿った。やがて皆、谷々、峰々に散って蕈を求めた。かよわいその人の、一人、毛氈に端坐して、城の見ゆる町を遥に、開いた丘に、少しのぼせて、羽織を脱いで、蒔絵の重に片袖を掛けて、ほっと憩らったのを見て、少年は谷に下りた。が、何を秘そう。その人のいま居る背後に、一本の松は、我がなき母の塚であった。
向った丘に、もみじの中に、昼の月、虚空に澄んで、月天の御堂があった。――幼い私は、人界の茸を忘れて、草がくれに、偏に世にも美しい人の姿を仰いでいた。
弁当に集った。吸筒の酒も開かれた。「関ちゃん――関ちゃん――」私の名を、――誰も呼ぶもののないのに、その人が優しく呼んだ。刺すよと知りつつも、引つかんで声を堪えた、茨の枝に胸のうずくばかりなのをなお忍んだ――これをほかにしては、もうきこえまい……母の呼ぶと思う、なつかしい声を、いま一度、もう一度、くりかえして聞きたかったからであった。「打棄っておけ、もう、食いに出て来る。」私は傍の男たちの、しか言うのさえ聞える近まにかくれたのである。草を噛んだ。草には露、目には涙、縋る土にもしとしとと、もみじを映す糸のような紅の清水が流れた。「関ちゃん――関ちゃんや――」澄み透った空もやや翳る。……もの案じに声も曇るよ、と思うと、その人は、たけだちよく、高尚に、すらりと立った。――この時、日月を外にして、その丘に、気高く立ったのは、その人ただ一人であった。草に縋って泣いた虫が、いまは堪らず蟋蟀のように飛出すと、するすると絹の音、颯と留南奇の香で、もの静なる人なれば、せき心にも乱れずに、衝と白足袋で氈を辷って肩を抱いて、「まあ、可かった、怪我をなさりはしないかと姉さんは心配しました。」少年はあつい涙を知った。
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