十七
「優しいなかに強みのある、気軽に見えてもどこにか落着のある、馴々しくて犯し易からぬ品のいい、いかなることにもいざとなれば驚くに足らぬという身に応のあるといったような風の婦人、かく嬌瞋を発してはきっといいことはあるまい、今この婦人に邪慳にされては木から落ちた猿同然じゃと、おっかなびっくりで、おずおず控えていたが、いや案ずるより産が安い。
(貴僧、さぞおかしかったでござんしょうね、)と自分でも思い出したように快く微笑みながら、
(しようがないのでございますよ。)
以前と変らず心安くなった、帯も早やしめたので、
(それでは家へ帰りましょう。)と米磨桶を小腋にして、草履を引かけてつと崖へ上った。
(お危うござんすから。)
(いえ、もうだいぶ勝手が分っております。)
ずッと心得た意じゃったが、さて上る時見ると思いの外上までは大層高い。
やがてまた例の木の丸太を渡るのじゃが、さっきもいった通り草のなかに横倒れになっている木地がこうちょうど鱗のようで、譬にもよくいうが松の木は蝮に似ているで。
殊に崖を、上の方へ、いい塩梅に蜿った様子が、とんだものに持って来いなり、およそこのくらいな胴中の長虫がと思うと、頭と尾を草に隠して、月あかりに歴然とそれ。
山路の時を思い出すと我ながら足が竦む。
婦人は深切に後を気遣うては気を付けてくれる。
(それをお渡りなさいます時、下を見てはなりません。ちょうどちゅうとでよッぽど谷が深いのでございますから、目が廻うと悪うござんす。)
(はい。)
愚図愚図してはいられぬから、我身を笑いつけて、まず乗った。引かかるよう、刻が入れてあるのじゃから、気さえ確なら足駄でも歩行かれる。
それがさ、一件じゃから耐らぬて、乗るとこうぐらぐらして柔かにずるずると這いそうじゃから、わっというと引跨いで腰をどさり。
(ああ、意気地はございませんねえ。足駄では無理でございましょう、これとお穿き換えなさいまし、あれさ、ちゃんということを肯くんですよ。)
私はそのさっきから何んとなくこの婦人に畏敬の念が生じて善か悪か、どの道命令されるように心得たから、いわるるままに草履を穿いた。
するとお聞きなさい、婦人は足駄を穿きながら手を取ってくれます。
たちまち身が軽くなったように覚えて、訳なく後に従って、ひょいとあの孤家の背戸の端へ出た。
出会頭に声を懸けたものがある。
(やあ、大分手間が取れると思ったに、ご坊様旧の体で帰らっしゃったの。)
(何をいうんだね、小父様家の番はどうおしだ。)
(もういい時分じゃ、また私も余り遅うなっては道が困るで、そろそろ青を引出して支度しておこうと思うてよ。)
(それはお待遠でござんした。)
(何さ、行ってみさっしゃいご亭主は無事じゃ、いやなかなか私が手には口説落されなんだ、ははははは。)と意味もないことを大笑して、親仁は厩の方へてくてくと行った。
白痴はおなじ処になお形を存している、海月も日にあたらねば解けぬとみえる。」
十八
「ヒイイン! しっ、どうどうどうと背戸を廻る鰭爪の音が縁へ響いて親仁は一頭の馬を門前へ引き出した。
轡頭を取って立ちはだかり、
(嬢様そんならこのままで私参りやする、はい、ご坊様にたくさんご馳走して上げなされ。)
婦人は炉縁に行燈を引附け、俯向いて鍋の下を燻していたが、振仰ぎ、鉄の火箸を持った手を膝に置いて、
(ご苦労でござんす。)
(いんえご懇には及びましねえ。しっ!)と荒縄の綱を引く。青で蘆毛、裸馬で逞しいが、鬣の薄い牡じゃわい。
その馬がさ、私も別に馬は珍しゅうもないが、白痴殿の背後に畏って手持不沙汰じゃから今引いて行こうとする時縁側へひらりと出て、
(その馬はどこへ。)
(おお、諏訪の湖の辺まで馬市へ出しやすのじゃ、これから明朝お坊様が歩行かっしゃる山路を越えて行きやす。)
(もし、それへ乗って今からお遁げ遊ばすお意ではないかい。)
婦人は慌だしく遮って声を懸けた。
(いえ、もったいない、修行の身が馬で足休めをしましょうなぞとは存じませぬ。)
(何でも人間を乗っけられそうな馬じゃあござらぬ。お坊様は命拾いをなされたのじゃで、大人しゅうして嬢様の袖の中で、今夜は助けて貰わっしゃい。さようならちょっくら行って参りますよ。)
(あい。)
(畜生。)といったが馬は出ないわ。びくびくと蠢いて見える大な鼻面をこちらへ捻じ向けてしきりに私等が居る方を見る様子。
(どうどうどう、畜生これあだけた獣じゃ、やい!)
右左にして綱を引張ったが、脚から根をつけたごとくにぬっくと立っていてびくともせぬ。
親仁大いに苛立って、叩いたり、打ったり、馬の胴体について二三度ぐるぐると廻ったが少しも歩かぬ。肩でぶッつかるようにして横腹へ体をあてた時、ようよう前足を上げたばかりまた四脚を突張り抜く。
(嬢様嬢様。)
と親仁が喚くと、婦人はちょっと立って白い爪さきをちょろちょろと真黒に煤けた太い柱を楯に取って、馬の目の届かぬほどに小隠れた。
その内腰に挟んだ、煮染めたような、なえなえの手拭を抜いて克明に刻んだ額の皺の汗を拭いて、親仁はこれでよしという気組、再び前へ廻ったが、旧によって貧乏動もしないので、綱に両手をかけて足を揃えて反返るようにして、うむと総身に力を入れた。とたんにどうじゃい。
凄じく嘶いて前足を両方中空へ翻したから、小さな親仁は仰向けに引くりかえった、ずどんどう、月夜に砂煙がぱっと立つ。
白痴にもこれは可笑しかったろう、この時ばかりじゃ、真直に首を据えて厚い唇をばくりと開けた、大粒な歯を露出して、あの宙へ下げている手を風で煽るように、はらりはらり。
(世話が焼けることねえ、)
婦人は投げるようにいって草履を突かけて土間へついと出る。
(嬢様勘違いさっしゃるな、これはお前様ではないぞ、何でもはじめからそこなお坊様に目をつけたっけよ、畜生俗縁があるだッぺいわさ。)
俗縁は驚いたい。
すると婦人が、
(貴僧ここへいらっしゃる路で誰にかお逢いなさりはしませんか。)」
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