十三
「そこから下りるのだと思われる、松の木の細くッて度外れに背の高い、ひょろひょろしたおよそ五六間上までは小枝一ツもないのがある。その中を潜ったが、仰ぐと梢に出て白い、月の形はここでも別にかわりは無かった、浮世はどこにあるか十三夜で。
先へ立った婦人の姿が目さきを放れたから、松の幹に掴まって覗くと、つい下に居た。
仰向いて、
(急に低くなりますから気をつけて。こりゃ貴僧には足駄では無理でございましたかしら、宜しくば草履とお取交え申しましょう。)
立後れたのを歩行悩んだと察した様子、何がさて転げ落ちても早く行って蛭の垢を落したさ。
(何、いけませんければ跣足になります分のこと、どうぞお構いなく、嬢様にご心配をかけては済みません。)
(あれ、嬢様ですって、)とやや調子を高めて、艶麗に笑った。
(はい、ただいまあの爺様が、さよう申しましたように存じますが、夫人でございますか。)
(何にしても貴僧には叔母さんくらいな年紀ですよ。まあ、お早くいらっしゃい、草履もようござんすけれど、刺がささりますといけません、それにじくじく湿れていてお気味が悪うございましょうから。)と向う向でいいながら衣服の片褄をぐいとあげた。真白なのが暗まぎれ、歩行くと霜が消えて行くような。
ずんずんずんずんと道を下りる、傍らの叢から、のさのさと出たのは蟇で。
(あれ、気味が悪いよ。)というと婦人は背後へ高々と踵を上げて向うへ飛んだ。
(お客様がいらっしゃるではないかね、人の足になんか搦まって、贅沢じゃあないか、お前達は虫を吸っていればたくさんだよ。
貴僧ずんずんいらっしゃいましな、どうもしはしません。こう云う処ですからあんなものまで人懐しゅうございます、厭じゃないかね、お前達と友達をみたようで愧しい、あれいけませんよ。)
蟇はのさのさとまた草を分けて入った、婦人はむこうへずいと。
(さあこの上へ乗るんです、土が柔かで壊えますから地面は歩行かれません。)
いかにも大木の僵れたのが草がくれにその幹をあらわしている、乗ると足駄穿で差支えがない、丸木だけれどもおそろしく太いので、もっともこれを渡り果てるとたちまち流の音が耳に激した、それまでにはよほどの間。
仰いで見ると松の樹はもう影も見えない、十三夜の月はずっと低うなったが、今下りた山の頂に半ばかかって、手が届きそうにあざやかだけれども、高さはおよそ計り知られぬ。
(貴僧、こちらへ。)
といった婦人はもう一息、目の下に立って待っていた。
そこは早や一面の岩で、岩の上へ谷川の水がかかってここによどみを作っている、川幅は一間ばかり、水に臨めば音はさまでにもないが、美しさは玉を解いて流したよう、かえって遠くの方で凄じく岩に砕ける響がする。
向う岸はまた一座の山の裾で、頂の方は真暗だが、山の端からその山腹を射る月の光に照し出された辺からは大石小石、栄螺のようなの、六尺角に切出したの、剣のようなのやら、鞠の形をしたのやら、目の届く限り残らず岩で、次第に大きく水に
ったのはただ小山のよう。」
十四
「(いい塩梅に今日は水がふえておりますから、中へ入りませんでもこの上でようございます。)と甲を浸して爪先を屈めながら、雪のような素足で石の盤の上に立っていた。
自分達が立った側は、かえってこっちの山の裾が水に迫って、ちょうど切穴の形になって、そこへこの石を嵌めたような誂。川上も下流も見えぬが、向うのあの岩山、九十九折のような形、流は五尺、三尺、一間ばかりずつ上流の方がだんだん遠く、飛々に岩をかがったように隠見して、いずれも月光を浴びた、銀の鎧の姿、目のあたり近いのはゆるぎ糸を捌くがごとく真白に翻って。
(結構な流れでございますな。)
(はい、この水は源が滝でございます、この山を旅するお方は皆な大風のような音をどこかで聞きます。貴僧はこちらへいらっしゃる道でお心着きはなさいませんかい。)
さればこそ山蛭の大藪へ入ろうという少し前からその音を。
(あれは林へ風の当るのではございませんので?)
(いえ、誰でもそう申します、あの森から三里ばかり傍道へ入りました処に大滝があるのでございます、それはそれは日本一だそうですが、路が嶮しゅうござんすので、十人に一人参ったものはございません。その滝が荒れましたと申しまして、ちょうど今から十三年前、恐しい洪水がございました、こんな高い処まで川の底になりましてね、麓の村も山も家も残らず流れてしまいました。この上の洞も、はじめは二十軒ばかりあったのでござんす、この流れもその時から出来ました、ご覧なさいましな、この通り皆な石が流れたのでございますよ。)
婦人はいつかもう米を精げ果てて、衣紋の乱れた、乳の端もほの見ゆる、膨らかな胸を反して立った、鼻高く口を結んで目を恍惚と上を向いて頂を仰いだが、月はなお半腹のその累々たる巌を照すばかり。
(今でもこうやって見ますと恐いようでございます。)と屈んで二の腕の処を洗っていると。
(あれ、貴僧、そんな行儀のいいことをしていらしってはお召が濡れます、気味が悪うございますよ、すっぱり裸体になってお洗いなさいまし、私が流して上げましょう。)
(いえ、)
(いえじゃあござんせぬ、それ、それ、お法衣の袖が浸るではありませんか、)というと突然背後から帯に手をかけて、身悶をして縮むのを、邪慳らしくすっぱり脱いで取った。
私は師匠が厳しかったし、経を読む身体じゃ、肌さえ脱いだことはついぞ覚えぬ。しかも婦人の前、蝸牛が城を明け渡したようで、口を利くさえ、まして手足のあがきも出来ず、背中を円くして、膝を合せて、縮かまると、婦人は脱がした法衣を傍らの枝へふわりとかけた。
(お召はこうやっておきましょう、さあお背を、あれさ、じっとして。お嬢様とおっしゃって下さいましたお礼に、叔母さんが世話を焼くのでござんす、お人の悪い。)といって片袖を前歯で引上げ、玉のような二の腕をあからさまに背中に乗せたが、じっと見て、
(まあ、)
(どうかいたしておりますか。)
(痣のようになって、一面に。)
(ええ、それでございます、酷い目に逢いました。)
思い出してもぞッとするて。」
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