二十四
「翌日また正午頃、里近く、滝のある処で、昨日馬を売りに行った親仁の帰りに逢うた。
ちょうど私が修行に出るのを止して孤家に引返して、婦人と一所に生涯を送ろうと思っていたところで。
実を申すとここへ来る途中でもその事ばかり考える、蛇の橋も幸になし、蛭の林もなかったが、道が難渋なにつけても、汗が流れて心持が悪いにつけても、今更行脚もつまらない。紫の袈裟をかけて、七堂伽藍に住んだところで何ほどのこともあるまい、活仏様じゃというて、わあわあ拝まれれば人いきれで胸が悪くなるばかりか。
ちとお話もいかがじゃから、さっきはことを分けていいませなんだが、昨夜も白痴を寐かしつけると、婦人がまた炉のある処へやって来て、世の中へ苦労をしに出ようより、夏は涼しく、冬は暖い、この流に一所に私の傍においでなさいというてくれるし、まだまだそればかりでは自分に魔が魅したようじゃけれども、ここに我身で我身に言訳が出来るというのは、しきりに婦人が不便でならぬ、深山の孤家に白痴の伽をして言葉も通ぜず、日を経るに従うてものをいうことさえ忘れるような気がするというは何たる事!
殊に今朝も東雲に袂を振り切って別れようとすると、お名残惜しや、かような処にこうやって老朽ちる身の、再びお目にはかかられまい、いささ小川の水になりとも、どこぞで白桃の花が流れるのをご覧になったら、私の体が谷川に沈んで、ちぎれちぎれになったことと思え、といって悄れながら、なお深切に、道はただこの谷川の流れに沿うて行きさえすれば、どれほど遠くても里に出らるる、目の下近く水が躍って、滝になって落つるのを見たら、人家が近づいたと心を安んずるように、と気をつけて、孤家の見えなくなった辺で、指しをしてくれた。
その手と手を取交すには及ばずとも、傍につき添って、朝夕の話対手、蕈の汁でご膳を食べたり、私が榾を焚いて、婦人が鍋をかけて、私が木の実を拾って、婦人が皮を剥いて、それから障子の内と外で、話をしたり、笑ったり、それから谷川で二人して、その時の婦人が裸体になって私が背中へ呼吸が通って、微妙な薫の花びらに暖に包まれたら、そのまま命が失せてもいい!
滝の水を見るにつけても耐え難いのはその事であった、いや、冷汗が流れますて。
その上、もう気がたるみ、筋が弛んで、早や歩行くのに飽きが来て、喜ばねばならぬ人家が近づいたのも、たかがよくされて口の臭い婆さんに渋茶を振舞われるのが関の山と、里へ入るのも厭になったから、石の上へ膝を懸けた、ちょうど目の下にある滝じゃった、これがさ、後に聞くと女夫滝と言うそうで。
真中にまず鰐鮫が口をあいたような先のとがった黒い大巌が突出ていると、上から流れて来るさっと瀬の早い谷川が、これに当って両に岐れて、およそ四丈ばかりの滝になってどっと落ちて、また暗碧に白布を織って矢を射るように里へ出るのじゃが、その巌にせかれた方は六尺ばかり、これは川の一幅を裂いて糸も乱れず、一方は幅が狭い、三尺くらい、この下には雑多な岩が並ぶとみえて、ちらちらちらちらと玉の簾を百千に砕いたよう、件の鰐鮫の巌に、すれつ、縋れつ。」
二十五
「ただ一筋でも巌を越して男滝に縋りつこうとする形、それでも中を隔てられて末までは雫も通わぬので、揉まれ、揺られて具さに辛苦を嘗めるという風情、この方は姿も窶れ容も細って、流るる音さえ別様に、泣くか、怨むかとも思われるが、あわれにも優しい女滝じゃ。
男滝の方はうらはらで、石を砕き、地を貫く勢、堂々たる有様じゃ、これが二つ件の巌に当って左右に分れて二筋となって落ちるのが身に浸みて、女滝の心を砕く姿は、男の膝に取ついて美女が泣いて身を震わすようで、岸に居てさえ体がわななく、肉が跳る。ましてこの水上は、昨日孤家の婦人と水を浴びた処と思うと、気のせいかその女滝の中に絵のようなかの婦人の姿が歴々、と浮いて出ると巻込まれて、沈んだと思うとまた浮いて、千筋に乱るる水とともにその膚が粉に砕けて、花片が散込むような。あなやと思うと更に、もとの顔も、胸も、乳も、手足も全き姿となって、浮いつ沈みつ、ぱッと刻まれ、あッと見る間にまたあらわれる。私は耐らず真逆に滝の中へ飛込んで、女滝をしかと抱いたとまで思った。気がつくと男滝の方はどうどうと地響打たせて。山彦を呼んで轟いて流れている。ああその力をもってなぜ救わぬ、儘よ!
滝に身を投げて死のうより、旧の孤家へ引返せ。汚らわしい欲のあればこそこうなった上に躊躇するわ、その顔を見て声を聞けば、かれら夫婦が同衾するのに枕を並べて差支えぬ、それでも汗になって修行をして、坊主で果てるよりはよほどのましじゃと、思切って戻ろうとして、石を放れて身を起した、背後から一ツ背中を叩いて、
(やあ、ご坊様。)といわれたから、時が時なり、心も心、後暗いので喫驚して見ると、閻王の使ではない、これが親仁。
馬は売ったか、身軽になって、小さな包みを肩にかけて、手に一尾の鯉の、鱗は金色なる、溌剌として尾の動きそうな、鮮しい、その丈三尺ばかりなのを、顋に藁を通して、ぶらりと提げていた。何んにも言わず急にものもいわれないで瞻ると、親仁はじっと顔を見たよ。そうしてにやにやと、また一通りの笑い方ではないて、薄気味の悪い北叟笑をして、
(何をしてござる、ご修行の身が、このくらいの暑で、岸に休んでいさっしゃる分ではあんめえ、一生懸命に歩行かっしゃりや、昨夜の泊からここまではたった五里、もう里へ行って地蔵様を拝まっしゃる時刻じゃ。
何じゃの、己が嬢様に念が懸って煩悩が起きたのじゃの。うんにゃ、秘さっしゃるな、おらが目は赤くッても、白いか黒いかはちゃんと見える。
地体並のものならば、嬢様の手が触ってあの水を振舞われて、今まで人間でいようはずがない。
牛か馬か、猿か、蟇か、蝙蝠か、何にせい飛んだか跳ねたかせねばならぬ。谷川から上って来さしった時、手足も顔も人じゃから、おらあ魂消たくらい、お前様それでも感心に志が堅固じゃから助かったようなものよ。
何と、おらが曳いて行った馬を見さしったろう。それで、孤家へ来さっしゃる山路で富山の反魂丹売に逢わしったというではないか、それみさっせい、あの助平野郎、とうに馬になって、それ馬市で銭になって、お銭が、そうらこの鯉に化けた。大好物で晩飯の菜になさる、お嬢様を一体何じゃと思わっしゃるの)。」[#「)。」」はママ]
私は思わず遮った。
「お上人?」
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