二十二
「左右して、婦人が、励ますように、賺すようにして勧めると、白痴は首を曲げてかの臍を弄びながら唄った。
木曽の御嶽山は夏でも寒い、
袷遣りたや足袋添えて。
(よく知っておりましょう、)と婦人は聞き澄して莞爾する。
不思議や、唄った時の白痴の声はこの話をお聞きなさるお前様はもとよりじゃが、私も推量したとは月鼈雲泥、天地の相違、節廻し、あげさげ、呼吸の続くところから、第一その清らかな涼しい声という者は、到底この少年の咽喉から出たものではない。まず前の世のこの白痴の身が、冥土から管でそのふくれた腹へ通わして寄越すほどに聞えましたよ。
私は畏って聞き果てると、膝に手をついたッきりどうしても顔を上げてそこな男女を見ることが出来ぬ、何か胸がキヤキヤして、はらはらと落涙した。
婦人は目早く見つけたそうで、
(おや、貴僧、どうかなさいましたか。)
急にものもいわれなんだが漸々、
(はい、なあに、変ったことでもござりませぬ、私も嬢様のことは別にお尋ね申しませんから、貴女も何にも問うては下さりますな。)
と仔細は語らずただ思い入ってそう言うたが、実は以前から様子でも知れる、金釵玉簪をかざし、蝶衣を纏うて、珠履を穿たば、正に驪山に入って、相抱くべき豊肥妖艶の人が、その男に対する取廻しの優しさ、隔なさ、深切さに、人事ながら嬉しくて、思わず涙が流れたのじゃ。
すると人の腹の中を読みかねるような婦人ではない、たちまち様子を悟ったかして、
(貴僧はほんとうにお優しい。)といって、得も謂われぬ色を目に湛えて、じっと見た。私も首を低れた、むこうでも差俯向く。
いや、行燈がまた薄暗くなって参ったようじゃが、恐らくこりゃ白痴のせいじゃて。
その時よ。
座が白けて、しばらく言葉が途絶えたうちに所在がないので、唄うたいの太夫、退屈をしたとみえて、顔の前の行燈を吸い込むような大欠伸をしたから。
身動きをしてな、
(寝ようちゃあ、寝ようちゃあ、)とよたよた体を持扱うわい。
(眠うなったのかい、もうお寝か。)といったが坐り直ってふと気がついたように四辺をした。戸外はあたかも真昼のよう、月の光は開け拡げた家の内へはらはらとさして、紫陽花の色も鮮麗に蒼かった。
(貴僧ももうお休みなさいますか。)
(はい、ご厄介にあいなりまする。)
(まあ、いま宿を寝かします、おゆっくりなさいましな。戸外へは近うござんすが、夏は広い方が結句宜うございましょう、私どもは納戸へ臥せりますから、貴僧はここへお広くお寛ぎがようござんす、ちょいと待って。)といいかけてつッと立ち、つかつかと足早に土間へ下りた、余り身のこなしが活溌であったので、その拍子に黒髪が先を巻いたまま項へ崩れた。
鬢をおさえて戸につかまって、戸外を透したが、独言をした。
(おやおやさっきの騒ぎで櫛を落したそうな。)
いかさま馬の腹を潜った時じゃ。」
二十三
この折から下の廊下に跫音がして、静に大跨に歩行いたのが、寂としているからよく。
やがて小用を達した様子、雨戸をばたりと開けるのが聞えた、手水鉢へ柄杓の響。
「おお、積った、積った。」と呟いたのは、旅籠屋の亭主の声である。
「ほほう、この若狭の商人はどこかへ泊ったと見える、何か愉快い夢でも見ているかな。」
「どうぞその後を、それから。」と聞く身には他事をいううちが牴牾しく、膠もなく続きを促した。
「さて、夜も更けました、」といって旅僧はまた語出した。
「たいてい推量もなさるであろうが、いかに草臥れておっても申上げたような深山の孤家で、眠られるものではない、それに少し気になって、はじめの内私を寝かさなかった事もあるし、目は冴えて、まじまじしていたが、さすがに、疲が酷いから、心は少しぼんやりして来た、何しろ夜の白むのが待遠でならぬ。
そこではじめの内は我ともなく鐘の音の聞えるのを心頼みにして、今鳴るか、もう鳴るか、はて時刻はたっぷり経ったものをと、怪しんだが、やがて気が付いて、こういう処じゃ山寺どころではないと思うと、にわかに心細くなった。
その時は早や、夜がものに譬えると谷の底じゃ、白痴がだらしのない寐息も聞えなくなると、たちまち戸の外にものの気勢がしてきた。
獣の跫音のようで、さまで遠くの方から歩行いて来たのではないよう、猿も、蟇も、居る処と、気休めにまず考えたが、なかなかどうして。
しばらくすると今そやつが正面の戸に近いたなと思ったのが、羊の鳴声になる。
私はその方を枕にしていたのじゃから、つまり枕頭の戸外じゃな。しばらくすると、右手のかの紫陽花が咲いていたその花の下あたりで、鳥の羽ばたきする音。
むささびか知らぬがきッきッといって屋の棟へ、やがておよそ小山ほどあろうと気取られるのが胸を圧すほどに近いて来て、牛が鳴いた、遠くの彼方からひたひたと小刻に駈けて来るのは、二本足に草鞋を穿いた獣と思われた、いやさまざまにむらむらと家のぐるりを取巻いたようで、二十三十のものの鼻息、羽音、中には囁いているのがある。あたかも何よ、それ畜生道の地獄の絵を、月夜に映したような怪しの姿が板戸一枚、魑魅魍魎というのであろうか、ざわざわと木の葉が戦ぐ気色だった。
息を凝すと、納戸で、
(うむ、)といって長く呼吸を引いて一声、魘れたのは婦人じゃ。
(今夜はお客様があるよ。)と叫んだ。
(お客様があるじゃないか。)
としばらく経って二度目のははっきりと清しい声。
極めて低声で、
(お客様があるよ。)といって寝返る音がした、更に寝返る音がした。
戸の外のものの気勢は動揺を造るがごとく、ぐらぐらと家が揺いた。
私は陀羅尼を呪した。
若不順我呪 悩乱説法者
頭破作七分 如阿梨樹枝
如殺父母罪 亦如厭油殃
斗秤欺誑人 調達破僧罪
犯此法師者 当獲如是殃
と一心不乱、さっと木の葉を捲いて風が南へ吹いたが、たちまち静り返った、夫婦が閨もひッそりした。」
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