第七
また憎らしいのがある。腹立たしいのも他にあるけれども其も一場合に猿が憎らしかつたり、鳥が腹立たしかつたりするのとかはりは無いので、煎ずれば皆をかしいばかり、矢張噴飯材料なんで、別に取留めたことがありはしなかつた。
で、つまり情を動かされて、悲む、愁うる、楽む、喜ぶなどいふことは、時に因り場合に於ての母様ばかりなので。余所のものは何うであらうと些少も心には懸けないやうに日ましにさうなつて来た。しかしかういふ心になるまでには、私を教へるために毎日、毎晩、見る者、聞くものについて、母様がどんなに苦労をなすつて、丁寧に親切に飽かないで、熱心に、懇に噛むで含めるやうになすつたかも知れはしない。だもの、何うして学校の先生をはじめ、余所のものが少々位のことで、分るものか、誰だつて分りやしません。
処が、母様と私とのほか知らないことをモ一人他に知つてるものがあるさうで、始終母様がいつてお聞かせの、其は彼処に置物のやうに畏つて居る、あの猿―あの猿の旧の飼主であつた―老父さんの猿廻だといひます。
さつき私がいつた、猿に出処があるといふのはこのことで。
まだ私が母様のお腹に居た時分だツて、さういひましたつけ。
初卯の日、母様が腰元を二人連れて、市の卯辰の方の天神様へお参ンなすつて、晩方帰つて居らつしやつた、ちやうど川向ふの、いま猿の居る処で、堤坊[#「堤坊」はママ]の上のあの柳の切株に腰をかけて猿のひかへ綱を握つたなり、俯向いて、小さくなつて、肩で呼吸をして居たのが其猿廻のぢいさんであつた。
大方今の紅雀の其姉さんだの、頬白の其兄さんだのであつたらうと思はれる、男だの、女だの七八人寄つて、たかつて、猿にからかつて、きやあ/\いはせて、わあ/\笑つて、手を拍つて、喝采して、おもしろがつて、をかしがつて、散々慰むで、そら菓子をやるワ、蜜柑を投げろ、餅をたべさすワツて、皆でどつさり猿に御馳走をして、暗くなるとどや/\いつちまつたんだ。で、ぢいさんをいたはつてやつたものは、唯の一人もなかつたといひます。
あはれだとお思ひなすつて、母様がお銭を恵むで、肩掛を着せておやんなすつたら、ぢいさん涙を落して拝むで喜こびましたつて、さうして、
あゝ、奥様、私は獣になりたうございます。あいら、皆畜生で、この猿めが夥間でござりましやう。それで、手前達の同類にものをくはせながら、人間一疋の私には目を懸けぬのでござりますトさういつてあたりを睨むだ、恐らくこのぢいさんなら分るであらう、いや、分るまでもない、人が獣であることをいはないでも知つて居やうとさういつて母様がお聞かせなすつた、
うまいこと知てるな、ぢいさん。ぢいさんと母様と私と三人だ。其時ぢいさんが其まんまで控綱を其処ン処の棒杭に縛りツ放しにして猿をうつちやつて行かうとしたので、供の女中が口を出して、何うするつもりだつて聞いた。母様もまた傍からまあ捨児にしては可哀想でないかツて、お聞きなすつたら、ぢいさんにや/\と笑つたさうで、
はい、いえ、大丈夫でござります。人間をかうやつといたら、餓ゑも凍ゑもしやうけれど、獣でござりますから今に長い目で御覧じまし、此奴はもう決してひもじい目に逢ふことはござりませぬから
トさういつてかさね/″\恩を謝して分れて何処へか行つちまひましたツて。
果して猿は餓ゑないで居る。もう今では余程の年紀であらう。すりや、猿のぢいさんだ。道理で、功を経た、ものゝ分つたやうな、そして生まじめで、けろりとした、妙な顔をして居るんだ。見える/\、雨の中にちよこなんと坐つて居るのが手に取るやうに窓から見えるワ。
第八
朝晩見馴れて珍らしくもない猿だけれど、いまこんなこと考え出していろんなこと思つて見ると、また殊にものなつかしい、あのおかしな顔早くいつて見たいなと、さう思つて、窓に手をついてのびあがつて、づゝと肩まで出すと※[#「さんずい+散」、53-4]がかゝつて、眼のふちがひやりとして、冷たい風が頬を撫でた。
爾時仮橋ががた/\いつて、川面の小糠雨を掬ふやうに吹き乱すと、流が黒くなつて颯と出た。トいつしよに向岸から橋を渡つて来る、洋服を着た男がある。
橋板がまた、がツたりがツたりいつて、次第に近づいて来る、鼠色の洋服で、釦をはづして、胸を開けて、けば/\しう襟飾を出した、でつぷり紳士で、胸が小さくツて、下腹の方が図ぬけにはずんでふくれた、脚の短い、靴の大きな、帽子の高い、顔の長い、鼻の赤い、其は寒いからだ。そして大跨に、其逞い靴を片足づゝ、やりちがへにあげちやあ歩行いて来る、靴の裏の赤いのがぽつかり、ぽつかりと一ツづゝ此方から見えるけれど、自分じやあ、其爪さきも分りはしまい。何でもあんなに腹のふくれた人は臍から下、膝から上は見たことがないのだとさういひます。あら! あら! 短服に靴を穿いたものが転がつて来るぜと、思つて、じつと見て居ると、橋のまんなかあたりへ来て鼻眼鏡をはづした、※[#「さんずい+散」、53-15]がかゝつて曇つたと見える。
で、衣兜から半拭を出して、拭きにかゝつたが、蝙蝠傘を片手に持つて居たから手を空けやうとして咽喉と肩のあひだへ柄を挟んで、うつむいて、珠を拭ひかけた。
これは今までに幾度も私見たことのある人で、何でも小児の時は物見高いから、そら、婆さんが転んだ、花が咲いた、といつて五六人人だかりのすることが眼の及ぶ処にあれば、必ず立つて見るが何処に因らずで場所は限らない、すべて五十人以上の人が集会したなかには必ずこの紳士の立交つて居ないといふことはなかつた。
見る時にいつも傍の人を誰か知らつかまへて、尻上りの、すました調子で、何かものをいつて居なかつたことは殆んど無い、それに人から聞いて居たことは曾てないので、いつでも自分で聞かせて居る、が、聞くものがなければ独で、むゝ、ふむ、といつたやうな、承知したやうなことを独言のやうでなく、聞かせるやうにいつてる人で、母様も御存じで、彼は博士ぶりといふのであるとおつしやつた。
けれども鰤ではたしかにない、あの腹のふくれた様子といつたら、宛然、鮟鱇に肖て居るので、私は蔭じやあ鮟鱇博士とさういひますワ。此間も学校へ参観に来たことがある。其時も今被つて居る、高い帽子を持つて居たが、何だつてまたあんな度はづれの帽子を着たがるんだらう。
だつて、眼鏡を拭かうとして、蝙蝠傘を頤で押へて、うつむいたと思ふと、ほら/\、帽子が傾いて、重量で沈み出して、見てるうちにすつぼり、赤い鼻の上へ被さるんだもの。眼鏡をはづした上で帽子がかぶさつて、眼が見えなくなつたんだから驚いた、顔中帽子、唯口ばかりが、其口を赤くあけて、あはてゝ、顔をふりあげて、帽子を揺りあげやうとしたから蝙蝠傘がばツたり落ちた。落こちると勢よく三ツばかりくる/\とまつた間に、鮟鱇博士は五ツばかりおまはりをして、手をのばすと、ひよいと横なぐれに風を受けて、斜めに飛んで、遙か川下の方へ憎らしく落着いた風でゆつたりしてふわりと落ちるト忽ち矢の如くに流れ出した。
博士は片手で眼鏡を持つて、片手を帽子にかけたまゝ烈しく、急に、殆んど数へる遑がないほど靴のうらで虚空を踏むだ、橋ががた/\と動いて鳴つた。
「母様、母様、母様」
と私は足ぶみをした。
「あい。」としづかに、おいひなすつたのが背後に聞こえる。
窓から見たまゝ振向きもしないで、急込んで、
「あら/\流れるよ。」
「鳥かい、獣かい。」と極めて平気でいらつしやる。
「蝙蝠なの、傘なの、あら、もう見えなくなつたい、ほら、ね、流れツちまひました。」
「蝙蝠ですと。」
「あゝ、落ツことしたの、可哀想に。」
と思はず嘆息をして呟いた。
母様は笑を含むだお声でもつて、
「廉や、それはね、雨が晴れるしらせなんだよ。」
此時猿が動いた。
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