您现在的位置: 贯通日本 >> 作家 >> 泉 鏡花 >> 正文

黒百合(くろゆり)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-22 13:13:48  点击:  切换到繁體中文



       二十六

「心得てるさ、ちっとも気あつかいのいらないように万事取計らうから可いよ。向うが空屋あきやで両隣がはたけでな、つんぼの婆さんが一人で居るという家が一軒、……どうだね、」と物凄ものすごいことをいう。この紳士は権柄けんぺいずくにおためごかしを兼ねて、且つ色男なんだから極めて計らいにくいのであります。
 勇美子の用でも何でもない。大方こんなこととは様子にも悟っていたが、打着けに言われたので、お雪も今更ぎょっとした。
みちも遠うございますから、おそくなりましょう、直ぐあの、お邸の方へ参っちゃあ不可いけませんか。」
「何、遠慮することはないさ。」
 これだもの。…………
「いいえ、」といったばかり。お雪は遁帰にげかえ機掛きっかけもなし、声を立てるすうでもなし、理窟をいうわけにもかず、急におなかが痛むでもない。手もつけられねば、ものも言われず。
 こみちややそのなかばを過ぎて、総曲輪に近くなると、島野は莞爾にこやかに見返って、
「どうだ、御飯でも食べて、それからそのうちへ行くとしようか。」
 お雪はものもいい得ない。背後うしろから大きな声で、
おごれ奢れ、やあ、棄置かれん。」と無遠慮にわめいてぬいと出た、この野面のづらを誰とかする。白薩摩の汚れた単衣ひとえ、紺染の兵子帯へこおび、いが栗天窓ぐりあたま団栗目どんぐりめ、ころころと肥えて丈の低きが、藁草履わらぞうり穿うがちたる、あにそれ多磨太にあらざらんや。
 島野は悪い処へ、という思入おもいれあり。
「おや、どちらへ。」
「ははあ、貴公と美人とが趣く処へどこへなと行くで。奢れ! 大分ほッついたで、夕飯の腹も、ちょうど北山とやらじゃわい。」
「いいえさ、どこへ行くんです。」と島野は生真面目きまじめになって押えようとする、と肩をゆすって、
「知事が処じゃ。」
「今ッからね。」
「うむ、勇美子さんが来てくれいと言うものじゃでの。」
「へい、」と妙な顔をする。
 多磨太、大得意。
なんよ、また道寄も遣らかすわい。向うが空屋で両隣は畠だ、聾のばばあが留守をしとる、ちっとも気遣きづかいはいらんのじゃ、万事わしが心得た。」
「驚いたね。」
「どうじゃ、恐入ったか。うむ、好事魔多し、月に村雲じゃろ。はははは、感多少かい、先生。」
「何もその、だからそういったじゃアありませんか。君、僕だけは格別で。」
あにしからん、この美肉をよ、貴様一人で賞翫しょうがんしてみい、たちまち食傷して生命にかかわるぞ。じゃからわしが注意して、あらかじめ後をけて、好意一足の藁草履をもたらしきたった訳じゃ、感謝して可いな。」
 島野は苦々しい顔色かおつきで、
「奢ります、いずれ奢るから、まあ、君、君だって、分ってましょう。それ、だから奢りますよ、奢りますよ。」
豚肉とんにく不可いかんぞ。」
「ええ、もうずっとそこン処はね。」
「何、貴様のずっとはずっと見当が違うわい。そのいわゆるずっとというのは軍鶏しゃもなんじゃろ、しからずんばうなぎか。」
「はあ、何でも、」とうなずくのを、見向もしないで。
あらず、わしが欲する処はの、ゆうにあらず、にあらず、牛豚ぎゅうとん、軍鶏にあらず、鰻にあらず。」
「おやおや、」
「小羊の肉よ!」
「何ですって、」
「どうだ、※(「虫+奚」、第3水準1-91-59)※(「虫+斥」、第3水準1-91-53)ばった蟷螂かまきり、」といいながら、お雪と島野をかわがわる、笑顔で※(「目+句」、第4水準2-81-91)みまわしても豪傑だからにらむがごとし。

       二十七

 島野は持余した様子で、苦り切って、ただ四辺あたりを見廻すばかり。多磨太は藁草履の片足を脱いで、砂だらけなので毛脛けずねこすった。
ぶよす、蚋が螫すわ。どうじゃ、歩き出そうでないか。たまらん、こりゃ、立っとッちゃあらち明かん、さあさきね、貴公。美人は真中まんなかよ、わし殿しんがりを打つじゃ、早うせい。」
 島野はたまりかねて、五六歩かたわらけて目で知らせて、
「ちょいと、君、雀部さん、ちょいと。」
「何じゃ、」と裾をつかみ上げて、多磨太はずかずかと寄る。
 島野は真顔になって、口説くように、
「かねて承知なんじゃあないか、君、ここは一番ひとつ粋を通して、ずっと大目に見てくれないじゃあ困りますね。」となさけなそうにいった。
「どうするんかい、」
「何さ、どうするッて。」
「貴公、どこへしょびくんじゃ、あの美人をよ、巧く遣りおるの。うう、」と団栗目を細うして、変な声で、えへ、えへ、えへ。
「しょびくたって何も君、まったくさ、お嬢さんが用があるそうだ。」
「嘘をけい、誰じゃと思うか、ああ。貴公目下のこの行為は、公の目から見ると拐帯かどわかしじゃよ、詐偽さぎじゃな。我輩警察のために棄置かん、直ちに貴公のその額へ、白墨で、輪を付けて、交番へ引張ひっぱるでな、左様さよ思え、はははは。」
串戯じょうだんをいっちゃあ不可いけません。」
「何、構わず遣るぞ。しゃくじゃ、第一、あの美人は、わしさきへ目を着けて、その一挙一動を探って、兄じゃというのが情男いろおとこなことまで貴公にいうてやった位でないかい。考えてみい、いかに慇懃いんぎんを通じようといって、貴公ではと思うで、なぶる気で打棄うっちゃっておいたわ。今夜のように連出されては、こりゃならんわい。向面むこうづらへ廻って断乎として妨害を試みる、なんじにジャムあれば我に交番ありよ。来るか、対手あいてになるか、来い、さあ来い。両雄並び立たず、一番勝敗を決すべい。」
 と腕まくりをして大乗気、手がつけられたものではない。島野もここに至って、あきらめて、ぐッと砕け、
「どうです、一ツ両雄並び立とうではありませんか、ものは相談だ。」と思切っていう。多磨太は目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはって耳をそばだてた。
「ふむ、立つか、見事両雄がな。」
「耳を、」肩を取って、口をつけ、二人はの下蔭にささやきを交え、手を組んで、短いのと、長いのと、四脚を揃えたのがかすかに見える。お雪は少し離れて立って、身を切裂かるる思いである。
 当座の花だ、むずかしい事はない、安泊やすどまりへでも引摺込ひきずりこんで、裂くことは出来ないが、美人たぼ身体からだを半分ずつよ、丶丶丶の令息むすこと、丶丶の親類とで慰むのだ。土民の一少婦、美なりといえどもあえて物の数とするには足らぬ。
「ね、」
(笑って答えず。)
 多磨太はうなずいて身を退いて、両雄いい合わせたようにきっとお雪を見返った。
 こみちかぶさった樹々の葉に、さらさらと渡って、すそから、袂から冷々ひやひやはだに染み入る夜の風は、以心伝心二人の囁を伝えて、お雪は思わず戦悚ぞっとした。もう前後あとさきわきまえず、しばらくもそばには居たたまらなくなって、そのまま、
「島野さん、おつれ様もお見え遊ばしたし、失礼いたしますから、お嬢様にはどうぞ、」も震え声で口のうち、返事は聞きつけないで、引返ひっかえそうとする。
「待ちなさい、」
「待て、おい、おい、おい、待て!」といいさま追いすがって、多磨太は警部長の令息であるから傍若無人。
「あれ、」とげにかかる、小腕こがいなをむずと取られた。なりも、ふりも、くれない白脛しらはぎ

       二十八

※(「足+宛」、第3水準1-92-36)もがくない、※(「虫+奚」、第3水準1-91-59)※(「虫+斥」、第3水準1-91-53)ばった、わはは、はは、」多磨太は容赦なくそのいわゆる小羊を引立ひったてた。
「あれ、放して、」
「おい、声を出しちゃあ不可いかん、黙っていな、おとなしくしてついておいで。あれそれ謂っちゃあ第一何だ、お前の恥だ。往来で見ッともない、人が目をつけて顔を見るよ。」と島野は落着いたものである。多磨太は案をたないばかりで、
「しかり、あきらめて覚悟をせい。うおの中でもこいとなると、品格が可いでな、まないたに乗るとねんわい。声を立てて、助かろうと思うてもらち明かんよ。我輩あえてはばからず、こうやって手を握ったまま十字街頭を歩くんじゃ。誰でも可い、何をするととがめりゃ、黙れとくらわす。此女こいつ取調とりしらべの筋があるで、交番まで引立ひったてる、わしは雀部じゃというてみい、何奴どいつもひょこひょこと米搗虫こめつきむしよ。」
「呑気なものさね、」と澄まし切って、島野は会心の微笑を浮べた。
「さあ、行こう、何も冥途めいどへ連れて行くんじゃあないよ。謂わばまあ殿様のお手が着くといったようなものさ。どうして雀部やわしを望んだって、花売なんぞが、口も利かれるもんじゃあない、難有ありがたく思うが可いさ。」
 法学生の堕落したのが、上部を繕ってる衣を脱いだ狼と、虎とで引挟ひっぱさみ、縛って宙に釣ったよりは恐しい手籠てごめの仕方。そのまま歩き出した、一筋路。わかい女を真中まんなかに、おのこが二人要こそあれと、総曲輪の方から来かかってあゆみとどめ、あわいを置いて前屈まえかがみになって透かしたが、繻子しゅすの帯をぎゅうと押えて呑込んだという風で、立直って片蔭に忍んだのは、前夜えのきの下で、銀流ぎんながしの粉を売った婦人おんなであった。
 お雪は呼吸いきさえ高うはせず、気を詰めて、汗になって、
「まあ、この手を放して、ねえ、手を放して、」とそぞろである。
「可いわ、放すからげちゃあならんぞ、」
「何、逃げれば、つかまえる分のことさ、」
 あらかじめ因果を含めたからと、高をくくって、手を放すと半ば夢中、身を返して湯の谷の方へ走ろうとする。
「やい、うぬ!」
 藁草履を蹴立てて飛着いて、多磨太が暗まぎれに掻掴かいつかむ、鉄拳かなこぶしに握らせて、自若として、少しも騒がず、
「色男!」といって呵々からからと笑ったのは、男の声。呆れて棒立になった多磨太は、余りのことにその手を持ったまま動かず、ほとんど無意識にすくんだ。
「島野か、そこに居るのは。島野、おい、島野じゃないか。」
 紳士はぎょっとして、思わず調子はずれに、
、誰です。」
おいらだ、滝だよ。おい、ちょいと誰だか手を握った奴があるぜ。串戯じょうだんじゃあない、気味が悪いや、そういってお前放さしてくんな。おう、後生大事と握ってやがらあ。」
 先刻さっき荒物屋の納戸で、おうなと蚊の声の中にことばを交えた客はすなわちこれである。媼は、誰とも、いかなる氏素性の少年とも弁えぬが、去年秋銃猟の途次みちすがら、渋茶を呑みに立寄って以来、婆や、うちは窮屈で為方しかたがねえ、と言っては、夜昼くつろぎに来るので、里の乳母のように心安くなった。ただ風変りな貴公子だとばかり思ってはいるが、――その時お雪が島野に引出されたのを見て、納戸へ転込ころげこんで胸を打って歎くので、一人の婦人おんなを待つといって居合わせたのが、笑いながら駆出して湯の谷からすくいに来たのであった。

       二十九

 子爵千破矢滝太郎は、今年が十九で、十一の時まで浅草俵町たわらまちの質屋の赤煉瓦あかれんがと、屑屋くずやの横窓との間の狭い路地を入った突当りの貧乏長家に育って、納豆を食い、水を飲み、夜はお稲荷いなりさんの声を聞いて、番太の菓子をかじった江戸児えどッこである。
 母親と祖父じいとがあって、はじめは、湯島三丁目に名高い銀杏いちょうの樹に近い処に、立派な旅籠屋はたごや兼帯の上等下宿、三階づくりやかたの内に、地方から出て来る代議士、大商人おおあきんどなどを宿して華美はで消光くらしていたが、滝太郎が生れて三歳みッつになった頃から、年紀としはまだ二十四であった、若い母親が、にわかに田舎ものは嫌いだ、虫が好かぬ、一所の内に居ると頭痛がすると言い出して、地方の客の宿泊をことごとく断った。神田の兄哥あにい、深川の親方が本郷へ来て旅籠を取るすうではないから、家業はそれっきりである上に、俳優狂やくしゃぐるいを始めて茶屋小屋ばいりをする、角力取すもうとり、芸人を引張込ひっぱりこんで雲井を吹かす、酒を飲む、骨牌かるたもてあそぶ、爪弾つまびきを遣る、洗髪あらいがみの意気な半纏着はんてんぎで、晩方からふいとうちを出ては帰らないという風。
 滝太郎の祖父じいは母親には継父であったが、目を閉じ、口をふさいでもの言わず、するがままにさせておくと、瞬く内に家も地所も人手に渡った。うまでもなく四人の口を過ごしかねるようになったので、大根畠に借家して半歳ばかり居食いぐいをしたが、見す見す体にかんなを懸けて削りくすようなものであるから、近所では人目がある、浅草へ行って蔵前辺に屋台店でも出してみよう、煮込おでんのつゆを吸っても、かつえて死ぬにはましだという、祖父の繰廻しで、わずか残った手廻てまわりの道具を売ってうごきをつけて、その俵町の裏長屋へ越して、祖父は着馴きなれぬ半纏被はんてんぎに身をやつして、孫の手を引きながら佐竹ヶ原から御徒町辺おかちまちあたりの古道具屋を見歩いたが、いずれも高直たかね[#「高直たかね」はママ]で力及ばず、ようよう竹町の路地の角に、黒板塀に附着くッつけて売物という札をってあった、屋台を一個ひとつ、持主の慈悲で負けてもらって、それから小道具を買揃えて、いそいそ俵町にいて帰ると、馴れないことで、その辺の見計いはしておかなかった、くだんの赤煉瓦と横窓との間の路地は、入口が狭いので、どうしても借家まで屋台を曳込ひきこむことが出来ないので、そのまま夜一夜よひとよ置いたために、三晩とはかず盗まれてしまったので、祖父は最後の目的の水の泡になったのに、落胆して煩い着いたが、滝太郎の舌が廻って、祖父ちゃん祖父ちゃん、というのを聞いて、それを思出に世を去った。
 後は母親が手一ツで、細い乳を含めてる、幼児おさなごが玉のような顔を見ては、世に何等かの大不平あってしかりしがごとき母親が我慢の角も折れたかして、涙で半襟の紫の色のせるのも、汗で美しい襦袢じゅばんの汚れるのもいとわず、意とせず、些々ささたる内職をして苦労をし抜いて育てたが、六ツ七ツ八ツにもなれば、ぜんも別にして食べさせたいので、手内職では追着おッつかないから、世話をするものがあって、毎日吾妻橋を越してある製糸場に通っていた。
 留守になると、橋手前には腕白盛わんぱくざかりの滝太一人、行儀をしつけるものもなし、居まわりが居まわりなんで、鼻緒を切らすと跣足はだし駆歩行かけあるく、袖が切れれば素裸すッぱだかで躍出る。砂をつかむ、小砂利を投げる、溝泥どぶどろ掻廻かきまわす、喧嘩けんかはするが誰も味方をするものはない。日が暮れなければ母親は帰らぬから、昼の内は孤児みなしご同様。親が居ないと侮って、ちょいと小遣でもあるてあいは、除物のけものにしていじめるのを、太腹ふとッぱらの勝気でものともせず、愚図々々いうと、まわらぬ舌で、自分が仰向あおむいて見るほどの兄哥あにいに向って、べらぼうめ!

       三十

 その悪戯いたずらといったらない、長屋内は言うに及ばず、横町裏町までね廻って、片時の間も手足をじっとしてはいないから、余りその乱暴を憎らしがる女房かみさん達は、金魚だ金魚だとそういった。けだし美しいが食えないというこころだそうな。
 滝太はその可愛い、品のある容子ようすに似ず、また極めて殺伐さつばつで、ものの生命いのちを取ることを事ともしない。蝶、蜻蛉とんぼあり蚯蚓みみず、目を遮るに任せてこれを屠殺とさつしたが、馴るるに従うて生類を捕獲するすさみに熟して、蝙蝠こうもりなどは一たび干棹ほしざおふるえば、立処たちどころに落ちたのである。虫も蛙となり、蛇となって、九ツ十ウに及ぶ頃は、薪雑棒まきざっぽうで猫をって殺すようになった。あのね、ぶんなぐるとね、飛着くよ。その時は何でもないの、もうちッとひどくくらわすと、丸ッこくなってね、フッてんだ。うなっておっかねえ目をするよ、恐いよ。そこをも一ツつところりと死ぬさ。でもね、坊はね、あのはじめの内は手が震えてね、そこでしちゃッたい。今じゃ、化猫わけなしだと、心得澄したもので。あれさ妄念もうねん可恐おそろしい、化けて出るからお止しよといえば、だから坊はね、おいらのせいじゃあないぞッて、そう言わあ。滝太郎はものの命を取る時に限らず、するな、止せ、不可いけないと人のいうことをあえてする時は、手を動かしながら、幾たびもおいらのせいじゃないぞと、口癖のようにいつも言う。
 井戸端で水を浴びたり、合長屋の障子を、トつばで破いて、その穴から舌を出したり、路地の木戸を※(「石+鬼」、第3水準1-82-48)いしころでこつこつやったり、柱を釘できずをつけたり、階子はしごを担いで駆出すやら、地蹈鞴じだんだんで唱歌を唄うやら、物真似は真先まっさきに覚えて来る、喧嘩の対手あいては泣かせて帰る。ある時も裏町の人数八九名に取占とっちめられて路地内へげ込むのを、容赦なく追詰めると、滝はひさしを足場にある長屋の屋根へ這上はいあがって、かわらくって投出した。やんちゃんもここに至っては棄置かれず、言付け口をするも大人げないと、始終蔭言かげごとばかり言っていた女房かみさん達、たまりかねて、ちと滝太郎をたしなめるようにと、ってから帰る母親に告げた事がある。
 しかるに、近所では美しいと、しおらしいで評判の誉物ほめものだった母親が、ごうもこれをまこととはしない。ただそうですか済みませんとばかり、人前では当らず障らずに挨拶をして、滝や、滝やと不断の通りやさしい声。
 それもそのはず、滝は他に向って乱暴狼藉ろうぜき[#ルビの「ろうぜき」は底本では「ろうせき」]を極め、はばからず乳虎にゅうこの威をふるうにもかかわらず、母親の前ではおおきな声でものも言わず、灯頃ひともしころ辻の方に母親の姿が見えると、駆出して行って迎えて帰る。それからは畳を歩行ある跫音あしおともしない位、以前のおもかげしのばるる鏡台の引出ひきだしの隅に残った猿屋の小楊枝こようじさきで字をついて、膝も崩さず母親の前にかしこまって、二年級のおさらいをするのが聞える。あれだから母親おッかさんは本当にしないのだと、隣近所では切歯はがみをしてもどかしがった。
 学校は私立だったが、先生はまたなく滝太郎を可愛がって、一度同級の者と掴合つかみあいをしてげて帰って、それッきり、登校しないのを、先生がわざわざ母親の留守にむかいに来て連れて行って、そのために先生はほかの生徒の父兄等に信用を失って、席札はくしの歯の折れるように透いて無くなったが、あえてこころにも留めないで、ますます滝太郎を愛育した。いかにか見処みどころがあったのであろう。

       三十一

 しかるに先生は教うるにいかなる事をもってしたのであるか、まさかに悪智慧わるぢえを着けはしまい。前年その長屋の表町に道普請があって、向側へ砂利を装上もりあげたから、この町を通る腕車荷車は不残のこらず路地口の際をいて通ることがあった。雨が続いて泥濘ぬかるみになったのを見澄して、滝太が手ですくい、丸太で掘って、地面をくぼめておき、木戸に立って車の来るのを待っていると、くぼみ雨溜あめだまりで探りがらず、来るほどの車は皆輪が喰い込んで、がたりとなる。さらぬだに持余すのにこの陥羂おとしわなかかっては、後へもさきへも行くのではないから、汗になって弱るのを見ると、会心のえみらして滝太、おじさん押してやろう、幾干いくらかくんねえ、と遣ったのである。自から頼む所がなくなってはさるはかりごともしはせまい、憎まれものの殺生ずきはまた相応した力もあった。それはともかく、あの悪智慧のほどが可恐おそろしい、行末が思い遣られると、見るもの聞くもの舌を巻いた。滝太郎がその挙動を、鋭い目で角の屑屋の物置みたような二階の格子窓に、世をはばかる監視中の顔をあてて、匍匐はらばいになって見ていた、窃盗せっとう、万引、詐偽さぎもその時二十はたちまでにすうを知らず、ちょうど先月までくらい込んでいた、巣鴨が十たび目だというすごい女、渾名あだなを白魚のお兼といって、日向ひなたでは消えそうな華奢きゃしゃ姿。島田が黒いばかり、透通るような雪の肌の、骨も見え透いた美しいのに、可恐おそろしい悪党。すべて滝太郎の立居挙動ふるまいに心を留めて、人が爪弾つまはじきをするのを、独り遮ってめちぎっていたが、滝ちゃん滝ちゃんといって可愛がること一通ひととおりでなかった処。……
 滝太郎が、そののち十一の秋、母親が歿みまかると、双葉にしてらざればなどと、差配佐次兵衛、講釈に聞いて来たことをそのまま言出して、合長屋が協議の上、欠けた火鉢の灰までをおあしにして、それで出合だしあいの涙金を添えて持たせ、道でとびにでもさらわれたら、世の中が無事でい位な考えで、俵町から滝太郎を。

上一页  [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10]  ... 下一页  >>  尾页


 

作家录入:贯通日本语    责任编辑:贯通日本语 

  • 上一篇作家:

  • 下一篇作家:
  •  
     
     
    网友评论:(只显示最新10条。评论内容只代表网友观点,与本站立场无关!)
     

    没有任何图片作家

    广告

    广告