十一
「訳のないこと、子供衆でも誰でも出来る。ちょいと水をつけておいて、柔かにぐいぐいとこう遣りさえすりゃ、あい、鷹化して鳩となり、傘変わって助六となり、田鼠化して鶉となり、真鍮変じて銀となるッ。」
「雀入海中為蛤か。」と、立合の中から声を懸けるものがあった。
婦人はその声の主を見透そうとするごとく、人顔をじろりと見廻わし、黙って莞爾して、また陳立てる。
「さあさあ召して下さい、召して下さいよ。御当地は薬が名物、津々浦々までも効能が行渡るんでございますがね、こればかりは看板を掛けちゃ売らないのですよ。一家秘法の銀流、はい、やい、お立合のお方は御遠慮なく、お持合せ[#「お持合せ」は底本では「お待合せ」]のお煙管なり、お簪なり、これへ出してお験しなさいまし、目の前で銀にしてお慰に見せましょう、御遠慮には及びません。」
といってちょいと句切り、煙管を手にして、莨を捻りながら、動静を伺って、
「さあさあ、誰方でもどうでござんす。」
若い同士耳打をするのがあり、尻を突いて促すのがあり、中には耳を引張るのがある。止せ、と退る、遣着けろ、と出る、ざまあ見ろ、と笑うやら、痛え、といって身悶えするやら、一斉に皆うようよ。有触れた銀流し、汚い親仁なら何事もあるまい、いずれ器量が操る木偶であろう。
「姉や。」
この時、人の背後から呼んだ、しかしこれは、前に黄な声を発して雀海中に入ってを云々したごとき厭味なものではない。清しい活溌なものであった。
婦人は屹と其方を見る、トまた悪怯れず呼懸けて、
「姉や、姉や。」
「何でございますか、は、私、」
「指環でも出来るかい。」
「ええ、出来ますとも、何でもお出しなさいましよ。」
「そう、」と極めてその意を得たという調子で、いそいそずッと出て、店前の地へ伝法に屈んだのは、滝太郎である。遊好の若様は時間に関らず、横町で糸を切って、勇美子の頭飾をどうして取ったか、人知れず掌に弄んだ上に、またここへ来てその姿を顕した。
滝太郎は、さすがに玉のような美しい手を握って、猶予わず、売物の銀流の粉の包、お験しの真鍮板、水入、絹の切などを並べた女の膝の前に真直に出した。指環のきらりとするのを差向けて、
「こいつを一つ遣ってくんねえな。」
立合の手合はもとより、世擦れて、人馴れて、この榎の下を物ともせぬ、弁舌の爽な、見るから下っ腹に毛のない姉御も驚いて目をった。その容貌、その風采、指環は紛うべくもない純金であるのに、銀流しを懸けろと言うから。
「これですかい。」
「ちょいと遣っておくんな。」
「結構じゃありませんかね。」
「お銭がなくっちゃあ不可ねえか、ここにゃ持っていねえんだが、可かったらつけてくんねえ。後で持たして寄越すぜ。」
と真顔でいう、言葉つき、顔形、目の中をじっと見ながら、
「そんな吝じゃアありませんや。お望なら、どれ、附けて上げましょう。」と婦人は切の端に銀流を塗して、滝太郎の手を密と取った。
「ようよう、」とまた後の方で、雀海中に入った時のごとき、奇なる音声を発する者あり。
十二
「可いぜ、可いぜ、沢山だ、」と滝太郎はやや有って手を引こうとする、ト指の尖を握ったのを放さないで、銀流の切を摺着けながら、
「よくして上げましょう、もう少しですから。」
「沢山だよ。」
「いいえ、これだけじゃあ綺麗にはなりません。」と婦人は急に止めそうにもない。
「さあ、大変。」
「お静に、お静に。」
「構わず、ぐっと握るべしさ、」
「しっかり頼むぜ。」
などと立合はわやわやいうのを、澄したもので、
「口切の商でございます、本磨にして、成程これならばという処を見せましょう、これから艶布巾をかけて、仕上げますから。」
「止せ。」
滝太郎の声はやや激して、振放そうとして力を入れる。押えて動かさず、
「ま、もうちっと辛抱をなさいましな、これから裏の方を磨きましょうね。」
婦人はこういいつつ、ちらちらと目をつけて、指環の形、顔、服装、天窓から爪先まで、屹と見てはさりげなく装うのを、滝太郎は独り見て取って、何か憚る処あるらしく、一度は一度、婦人が黒い目で睨む数の重るに従うて、次第に暗々裡に己を襲うものが来り、近いて迫るように覚えて、今はほとんど耐難くなったと見え、知らず知らず左の手が、片手その婦人に持たれた腕に懸って、力を添えて放そうとする。肩は聳え、顔には薄く血を染めて、滝太郎は眉を顰めた。
「可いッてんだい。」
「お待ち!」とばかりで婦人も商売を忘れて、別に心あって存するごとく、瞳を据えて面を合せた。
ちょうどその時、四五十歩を隔てた、夜店の賑かな中を、背後の方で、一声高く、馬の嘶くのが、往来の跫音を圧して近々と響いた。
と思うと、滝太郎は、うむ、といって、振向いたが、吃驚したように、
「義作だ、おう、ここに居るぜ。」
「ちょいと、」
「ええ、」
「あれ、」といって振返された手を押えた。指の間には紅一滴、見る見る長くなって、手首へ掛けて糸を引いて血が流れた。
「姉さん、」
「どうなすった。」
押魂消た立合は、もう他人ではなくなって、驚いて声を懸ける。滝太郎はもう影も見えない。
婦人は顔の色も変えないで、切で、血を押えながら、姉さん被のまま真仰向けに榎を仰いだ。晴れた空も梢のあたりは尋常ならず、木精の気勢暗々として中空を籠めて、星の色も物凄い。
「おや、おや、おかしいねえ、変だよ、奇体なことがあるものだよ。露か知らん、上の枝から雫が落ちたそうで、指が冷りとしたと思ったら、まあ。」
「へい、引掻いたんじゃありませんか。」
「今のが切ったんじゃないんですかい。」
「指環で切れるものかね、御常談を、引掻いたって、血が流れるものですか。」
「さればさ。」
「厭だ、私は、」と薄気味の悪そうな、悄げた様子で、婦人は人の目に立つばかり身顫をして黙った。榎の下寂として声なし、いずれも顔を見合せたのである。
十三
「何だね、これは。」
「叱、」と押えながら、島野紳士のセル地の洋服の肱を取って、――奥を明け広げた夏座敷の灯が漏れて、軒端には何の虫か一個唸を立ててはたと打着かってはまた羽音を響かす、蚊が居ないという裏町、俗にお園小路と称える、遊廓桜木町の居まわりに在り、夜更けて門涼の団扇が招くと、黒板塀の陰から頬被のぬっと出ようという凄い寸法の処柄、宵の口はかえって寂寞している。――一軒の格子戸を背後へ退った。
これは雀部多磨太といって、警部長なにがし氏の令息で、島野とは心合の朋友である。
箱を差したように両人気はしっくり合ってるけれども、その為人は大いに違って、島野は、すべて、コスメチック、香水、巻莨、洋杖、護謨靴という才子肌。多磨太は白薩摩のやや汚れたるを裾短に着て、紺染の兵児帯を前下りの堅結、両方腕捲をした上に、裳を撮上げた豪傑造り。五分刈にして芋のようにころころと肥えた様子は、西郷の銅像に肖て、そして形の低い、年紀は二十三。まだ尋常中学を卒業しないが、試験なんぞをあえて意とするような吝なのではない。
島野を引張り着けて、自分もその意気な格子戸を後に五六歩。
「見たか。」
島野は瘠ぎすで体も細く、釣棹という姿で洋杖を振った。
「見た、何さ、ありゃ。門札の傍へ、白で丸い輪を書いたのは。」
「井戸でない。」
「へえ。」
「飲用水の印ではない、何じゃ、あれじゃ。その、色事の看板目印というやつじゃ。まだ方々にあるわい。試みに四五軒見しょう、一所に来う、歩きながら話そうで。まずの、」
才子と豪傑は、鼠のセル地と白薩摩で小路の黄昏の色に交り、くっ着いて、並んで歩く。
ここに注意すべきは多磨太が穿物である。いかに辺幅を修せずといって、いやしくも警部長の令息で、知事の君の縁者、勇美子には再従兄に当る、紳士島野氏の道伴で、護謨靴と歩を揃えながら、何たる事! 藁草履の擦切れたので、埃をはたはた。
歩きながら袂を探って、手帳と、袂草と一所くたに掴み出した。
「これ見い、」
紳士は軽く目を注いで、
「白墨かい。」
「はははは、白墨じゃが、何と、」
「それで、」と言懸けて、衣兜に堆く、挟んでおく、手巾の白いので口の辺をちょいと拭いた。
「うむ、おりゃ、近頃博愛主義になってな、同好の士には皆見せてやる事にした。あえてこの慰を独擅にせんのじゃで、到る処俺が例の観察をして突留めた奴の家には、必ず、門札の下へ、これで、ちょいとな。」
「ふん、はてね。」
「貴様今見たか、あれじゃ、あの形じゃ。目立たぬように丸い輪を付けておくことにしたんじゃ。」
「御趣向だね。」
「どうだ、今の家には限らずな、どこでも可いぞ、あの印の付いた家を随時窺って見い。殊に夜な、きっと男と女とで、何かしら、演劇にするようなことを遣っとるわ。」
十四
多磨太は言懸けて北叟笑み、
「貴様も覚えておいてちと慰みに覗いて見い。犬川でぶらぶら散歩して歩いても何の興味もないで、私があの印を付けておく内は不残趣味があるわい。姦通かな、親々の目を盗んで密会するかな、さもなけりゃ生命がけで惚れたとか、惚れられたとかいう奴等、そして男の方は私等構わんが、女どもはいずれも国色じゃで、先生難有いじゃろ。」
ぎろりとした眼で島野を見ると、紳士は苦笑して、
「変ったお慰だね、よくそして見付けますなあ。」
「ははあ、なんぞ必ずしも多く労するを用いん。国民皆堕落、優柔淫奔になっとるから、夜分なあ、暗い中へ足を突込んで見い。あっちからも、こっちからも、ばさばさと遁出すわ、二疋ずつの、まるでもって蟷螂が草の中から飛ぶようじゃ。其奴の、目星い処を選取って、縦横に跡を跟けるわい。ここぞという極めが着いた処で、印を付けておくんじゃ。私も初手の内は二軒三軒と心覚えにしておいたが、蛇の道は蛇じゃ、段々その術に長ずるに従うて、蔓を手繰るように、そら、ぞろぞろ見付かるで。ああ遣って印をして、それを目的にまた、同好の士な、手下どもを遣わす、巡査、探偵などという奴が、その喜ぶこと一通でないぞ。中には夜行をするのに、あの印ばかり狙いおる奴がある。ぐッすり寐込んででもいようもんなら、盗賊が遁込んだようじゃから、なぞというて、叩き起して周章てさせる。」
「酷いことを!」
島野は今更のように多磨太の豪傑面を瞻った。
「何に其等はほんの前芸じゃわい。一体何じゃぞ、手下どもにも言って聞かせるが、野郎と女と両方夢中になっとる時は常識を欠いて社会の事を顧みぬじゃから、脱落があってな、知らず知らず罪を犯しおるじゃ。私はな、ただ秘密ということばかりでも一種立派な罪悪と断ずるで、勿論市役所へ届けた夫婦には関係せぬ。人の目を忍ぶほどの中の奴なら、何か後暗いことをしおるに相違ないでの。仔細に観察すると、こいつ禁錮するほどのことはのうても、説諭位はして差支えないことを遣っとるから、掴み出して警察で発かすわい。」
「大変だね。」
「発くとの、それ親に知れるか、亭主に知れるか、近所へ聞える。何でも花火を焚くようなもので、その途端に光輝天に燦爛するじゃ。すでにこないだも東の紙屋の若い奴が、桜木町である女と出来合って、意気事を極めるちゅうから、癪に障ってな、いろいろ験べたが何事もないで、為方がない、内に居る母親が寺参をするのに木綿を着せて、汝が傾城買をするのに絹を纏うのは何たることじゃ、という廉をもって、説諭をくらわした。」
「それで何かね、警察へ呼出しかね。」
「ははあ、幾ら俺が手下を廻すとって、まさかそれほどの事では交番へも引張り出せないで、一名制服を着けて、洋刀を佩びた奴を従えて店前へ喚き込んだ。」
「おやおや、」
「何、喧嘩をするようにして言って聞かせても、母親は昔気質で、有るものを着んのじゃッて。そんなことを構うもんか、こっちはそのせいで藁草履を穿いて歩いてる位じゃもの。」
さなり、多磨太君の藁草履は、人の跡を跟けるのに跫音を立てぬ用意である。
十五
「それからの、山田下の植木屋の娘がある、美人じゃ。貴様知ってるだろう、あれがな、次助というて、近所の鋳物師の忰と出来た。先月の末、闇の晩でな、例のごとく密行したが、かねて目印の付いてる部じゃで、密と裏口へ廻ると、木戸が開いていたから、庭へ入った。」
「構わず?」
「なに咎めりゃ私が名乗って聞かせる、雀部といえば一縮じゃ。貴様もジャムを連れて堂々濶歩するではないか、親の光は七光じゃよ。こうやって二人並んで歩けばみんな途を除けるわい。」
島野は微笑して黙って頷いた。
「はははは、愉快じゃな。勿論、淫魔を駆って風紀を振粛し、且つ国民の遊惰を喝破する事業じゃから、父爺も黙諾の形じゃで、手下は自在に動くよ。既にその時もあれじゃ、植木屋の庭へこの藁草履を入れて掻廻わすと、果せるかな、、蟷螂。」
「まさか、」
「うむ、植木屋の娘と其奴と、貴様、植込の暗い中に何か知らん歎いておるわい。地面の上で密会なんざ、立山と神通川とあって存する富山の体面を汚すじゃから、引摺出した。」
「南無三宝、はははは。」
「挙動が奇怪じゃ、胡乱な奴等、来い! と言うてな、角の交番へ引張って行って、吐せと、二ツ三ツ横面をくらわしてから、親どもを呼出して引渡した。ははは、元来東洋の形勢日に非なるの時に当って、植込の下で密会するなんざ、不埒至極じゃからな。」
「罪なこッたね、悪い悪戯だ、」と言懸けて島野は前後を見て、杖を突いた、辻の角で歩を停めたので。
「どこへ行こうかね。」
榎の梢は人の家の物干の上に、ここからも仰いで見らるる。
「総曲輪へ出て素見そうか。まあ来いあそこの小間物屋の女房にも、ちょいと印が付いておるじゃ。」
「行き届いたもんですな。」
「まだまだこれからじゃわい。」
「さよう、君のは夜が更けてからがおかしいだろうが、私は、その晩くなると家が妙でないから失敬しよう。」
「ははあ、どこぞ行くんかい。」
「ちょいと。」
「そんなら行け。だが島野、」と言いながら紳士の顔を、皮の下まで見透かすごとくじろりと見遣って、多磨太はにやり。
擽られるのを耐えるごとく、極めて真面目で、
「何かね、」
「注意せい、貴様の体にも印が着いたぞ。」
「え!」と吃驚して慌てて見ると、上衣の裾に白墨で丸いもの。
「どうじゃ。」
「失敬な、」とばかり苦い顔をして、また手巾を引出した。島野はそそくさと払い落して、
「止したまえ。」
「ははは、構わん、遣れ。あの花売は未曾有の尤物じゃ、また貴様が不可なければ私が占めよう。」
「大分、御意見とは違いますように存じますが。」
「英雄色を好むさ。」と傲然として言った。二人が気の合うのはすなわちここで、藁草履と猟犬と用いる手段は異なるけれども、その目的は等いのである。
島野は気遣わしそうに見えて、
「まさか、君、花売が処へは、用いまいね、何を、その白墨を。」
「可いわい、一ツぐらい貴様に譲ろう。油断をするな、那奴また白墨一抹に価するんじゃから。」
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