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黒百合(くろゆり)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-22 13:13:48  点击:  切换到繁體中文



       五十五

「私はどういたしましょう、花も取って頂きました上に、この山に入りましてから貴方ばかりひどい目にお逢わせ申して、今までに、生命いのちをお取られ遊ばすかと思いましたことが幾たびあったでございましょう。体もきずに遊ばしてかばって下さいますから、勿体ない、私は一ヶ所擦剥すりむきました処もございません。たといさきの世の約束事でも、これまでに御恩を受けますことはないのでございます。どうぞ私を打遣うっちゃってお逃げなすって下さいまし、おねがいでございます。貴方にこうして頂きますより殺されます方がどんなに心安いか分りません。失礼ながらお可哀そうで、片時もこんなこわい処に貴方をお置き申したくはございませんから。」と、嗚咽おえつしていう声も絶断たえだえ
 少年はかえってつッけんどんに、
「生意気な講釈をするない、手前達てめえッちの知ったこッちゃあねえや、見殺しにされるもんか。しかし、おい、おいらも、まさかこれほどとは思わなかったが、随分手に余る上に、ものは食わずよ。どこへ出て可いか方角が分らねえし、弱った。きてる内ゃ助けてやらあ、不可いけなかったら覚悟しねえ。おいら父様おとっさんはなし、母様おっかさんくなったし、一人ぼッちで心細かったっけが、こんな時にゃあさっぱりだ、なさけなくも何ともねえが、てめえは可哀そうだな。」といって、さすがの少年が目に暗涙をたたえて、膝下しっかに、うつぎの花にうずもれてうずくまる清いはだえと、美しい黒髪とが、わななくのを見た。この一雫ひとしずくが身に染みたら、荒鷲あらわしはしに貫かれぬお雪の五体も裂けるであろう。
 一言のいらえも出来ない風情。
 少年も愁然しゅうぜんとして無言で居たが、心すともなく極めて平気な調子で、
「しょうがねえやな、おい、そうしたら一所に死のうぜ。」と、自からうなずくがごとく顔を傾けていった。
 理学士は夢中ながら、おのが命をもって与えんとして、三年みとせの間朝夕室をおなじゅうした自分の口からも、かほどまでに情のこもった、しかも無邪気な、罪のないことをいい得なかったことを思って、ひしと胸を打たるるがごとくに感じたのである。
 我にもあらず、最後を取乱したお雪の耳にも、かかることばは聞えたのであろう[#「あろう」は底本では「あらう」]
「勿体のうございます。」と、神に謝するがごとくにいった。
「そのつもりあきらめねえ。おい、そう泣くのは止せ、弱虫だと見ると馬鹿にするぜ、ももんがあ。」といって大空を。
「はい、もう泣きはいたしません。私が先へ覚悟をしておりましたものを、お可恥はずかしゅうございます。」と、手をついて面を上げた。そして顔と顔を見合せた時、少年はほとんど友白髪まで添遂げた夫婦みょうとのごとく、事もなげに冷い玉かと見えるお雪の肩に手を掛けて、
「助かったら何よ、おいらがやしきへ来ねえ、一所に楽をしようぜ、面白く暮そうな。」と、あたかも死をかけものにしたこの難境は、将来のそのたのしみのために造られた階梯かいていであるように考えるらしく、絶望した窮厄の中に縷々るるとして一脈の霊光を認めたごとく、嬉しげに且つ快げにいって莞爾かんじとした。いまわの際に少年は、刻下無意識になった恋人に対して、ために生命を致すその報酬を求めたのではない。繊弱小心の人の、知死の苦痛の幾分を慰めんとしたのである。
 拓は夢に、我は棄てられるのであろうと思った、お雪は自分を見棄てるであろうと思った。少年がその時のその意気、その姿、その風情は、たとい淑徳貞操の現化げんげした女神にょしんであっても、なお且つ、一糸おおえる者なきその身をいだかれて遮ぎり難く見えたから。

       五十六

 理学士はまた心から、とおの我に百を加えても、なおはるかにその少年に及ばないことを認めたのである。
 たとえばおのが目はいたるに、少年のまなこは秋の水のごとく、清く澄んで星のごとく輝くのである。我はお雪の供給にきて、かれをして石滝の死地におちいらしめたのに、少年はその優しき姿と、斗大の胆をもって、渠を救うために目前荒鷲と戦っている。しかも事の行懸ゆきががりから察し、人の語る処に因れば、この美少年は未見の知己、千破矢滝太郎に相違ない。千破矢は華族だ、今渠がきたれ、共にこの労を慰めんといったのは、すなわちお雪を高家の室となさんという心である。されば少年がその意気と、その容貌ようぼうと、風采ふうさいと、その品位をもってして誰がこれをうけがわざるべき。拓が身をもってお雪と地位をかえたとすれば、直ちに我を棄てて渠に愛を移すのは、世に最も公平なことであると思って、満身の血が冷くなった。けれどもあえて数の多量なるものが、愛をあがない得るのではなかった。お雪は少年が優しく懸けた、肩の手を静かに払って、さっと赤らむ顔とともに、声の下で、
「はい、私はあのお邸へ上ります訳には参りませんのでございます。」
 恐る恐るいうおもはゆげなさまを、少年はみまもりながら、事もなげにいった。
「なぜだ。」
「内に拓さんという方がございます、花を欲しいと存じましたのも、みんなその人のためなんですから。」と死を極めたものの、かえってかかることをはばからず言って差俯向さしうつむく。
 少年はきっとなって、たちまち顔色を変えたのである。
 理学士はこの時少年のいうことを聞こうとして、思わず堅唾かたずを飲んだ。
 夢中の美少年に憤った色が見え、
「おいら、島野とは違うぜ。今までな、おい、ほしい思ったものは取らねえこたあねえ、しようと思ったことをしねえこたあなかったんだ。可いじゃあないか、不可いけねえッて? 不可ねえか。うむそうか、可いや、へん、おいらつまらねえことをしたぜ。」
 と投げるようにいって、大空を恍惚うっとりとみつめた風情。取留めのない夢のおもいで、拓はこの時少年がお雪に向ってなす処は、一つびとつ皆思うことあって、したかのごとく感じられて、快活かくのごとき者が、恋には恐るべき神秘を守って、今までに秋毫しゅうごうも、さる気色のなかったほど、一層大いなる力あることを感じて、愕然がくぜんとした。同時に今までは、お雪を救うために造られた、いわおる一個白面、朱唇、年少、美貌びぼうの神将であるごとく見えたのが、たちまち清く麗しき娘を迷わすために姿を変じた、妄執の蛇であると心着いたが、手も足も動かず、叫ばんとする声もおのが耳にはらなかった。
 鷲がその三回目の襲撃を試みない瞬間、白い花も動かず、二人はじっとして石に化したもののように見えた。やがて少年は袂を探って、一本ひともとの花を取出した。学識ある理学士が夢中の目は、直ちにそれを黒百合の花と認めたのである。
 これがためにこそ餓えたり、傷付いたれ、物怪もののけある山に迷うたれ。荒鷲には襲わるる、少年の身に添えて守っていたと覚ゆるのを、つかむがごとく引出ひきいだして、やにわに手を懸けて※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)むしり棄てようとした趣であった。けれども、お雪が物いいたげに瞳を動かして、と胸を抱いて立ったのを、いやしむがごとく、あざけるがごとく、憎むがごとく、はたあわれむがごとくにじっと見て、舌打して、そのまま黒百合をお雪の手に与えるとひとしく、巌を放れてすっくと立って、
不可いけねえや、おめえ良人ていしがあるんなら、おいら一所に死ぬのは厭だぜ。じゃあ、おい勝手にしねえ。」
 といい棄てて、身を飜すとたちまち歩き去った。

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