五十五
「私はどういたしましょう、花も取って頂きました上に、この山に入りましてから貴方ばかり酷い目にお逢わせ申して、今までに、生命をお取られ遊ばすかと思いましたことが幾たびあったでございましょう。体も疵に遊ばして庇って下さいますから、勿体ない、私は一ヶ所擦剥きました処もございません。たとい前の世の約束事でも、これまでに御恩を受けますことはないのでございます。どうぞ私を打遣ってお逃げなすって下さいまし、お願でございます。貴方にこうして頂きますより殺されます方がどんなに心安いか分りません。失礼ながらお可哀そうで、片時もこんな恐い処に貴方をお置き申したくはございませんから。」と、嗚咽していう声も絶断。
少年はかえってつッけんどんに、
「生意気な講釈をするない、手前達の知ったこッちゃあねえや、見殺しにされるもんか。しかし、おい、おいらも、まさかこれほどとは思わなかったが、随分手に余る上に、ものは食わずよ。どこへ出て可いか方角が分らねえし、弱った。活きてる内ゃ助けてやらあ、不可なかったら覚悟しねえ。おいら父様はなし、母様は失くなったし、一人ぼッちで心細かったっけが、こんな時にゃあさっぱりだ、情なくも何ともねえが、汝は可哀そうだな。」といって、さすがの少年が目に暗涙を湛えて、膝下に、うつぎの花に埋もれて蹲る清い膚と、美しい黒髪とが、わななくのを見た。この一雫が身に染みたら、荒鷲の嘴に貫かれぬお雪の五体も裂けるであろう。
一言の答えも出来ない風情。
少年も愁然として無言で居たが、心すともなく極めて平気な調子で、
「しょうがねえやな、おい、そうしたら一所に死のうぜ。」と、自から頷くがごとく顔を傾けていった。
理学士は夢中ながら、おのが命をもって与えんとして、三年の間朝夕室を同じゅうした自分の口からも、かほどまでに情の籠った、しかも無邪気な、罪のないことをいい得なかったことを思って、ひしと胸を打たるるがごとくに感じたのである。
我にもあらず、最後を取乱したお雪の耳にも、かかる言は聞えたのであろう[#「あろう」は底本では「あらう」]。
「勿体のうございます。」と、神に謝するがごとくにいった。
「その意で諦めねえ。おい、そう泣くのは止せ、弱虫だと見ると馬鹿にするぜ、ももんがあ。」といって大空を。
「はい、もう泣きはいたしません。私が先へ覚悟をしておりましたものを、お可恥しゅうございます。」と、手をついて面を上げた。そして顔と顔を見合せた時、少年はほとんど友白髪まで添遂げた夫婦のごとく、事もなげに冷い玉かと見えるお雪の肩に手を掛けて、
「助かったら何よ、おいらが邸へ来ねえ、一所に楽をしようぜ、面白く暮そうな。」と、あたかも死を賭にしたこの難境は、将来のその楽のために造られた階梯であるように考えるらしく、絶望した窮厄の中に縷々として一脈の霊光を認めたごとく、嬉しげに且つ快げにいって莞爾とした。いまわの際に少年は、刻下無意識になった恋人に対して、為に生命を致すその報酬を求めたのではない。繊弱小心の人の、知死期の苦痛の幾分を慰めんとしたのである。
拓は夢に、我は棄てられるのであろうと思った、お雪は自分を見棄てるであろうと思った。少年がその時のその意気、その姿、その風情は、たとい淑徳貞操の現化した女神であっても、なお且つ、一糸蔽える者なきその身を抱かれて遮ぎり難く見えたから。
五十六
理学士はまた心から、十の我に百を加えても、なお遥かにその少年に及ばないことを認めたのである。
たとえば己が目は盲いたるに、少年の眼は秋の水のごとく、清く澄んで星のごとく輝くのである。我はお雪の供給に活きて、渠をして石滝の死地に陥らしめたのに、少年はその優しき姿と、斗大の胆をもって、渠を救うために目前荒鷲と戦っている。しかも事の行懸りから察し、人の語る処に因れば、この美少年は未見の知己、千破矢滝太郎に相違ない。千破矢は華族だ、今渠が来れ、共にこの労を慰めんといったのは、すなわちお雪を高家の室となさんという心である。されば少年がその意気と、その容貌と、風采と、その品位をもってして誰がこれを諾わざるべき。拓が身をもってお雪と地位をかえたとすれば、直ちに我を棄てて渠に愛を移すのは、世に最も公平なことであると思って、満身の血が冷くなった。けれどもあえて数の多量なるものが、愛を購い得るのではなかった。お雪は少年が優しく懸けた、肩の手を静かに払って、颯と赤らむ顔とともに、声の下で、
「はい、私はあのお邸へ上ります訳には参りませんのでございます。」
恐る恐るいうおもはゆげな状を、少年は瞻りながら、事もなげにいった。
「なぜだ。」
「内に拓さんという方がございます、花を欲しいと存じましたのも、皆その人のためなんですから。」と死を極めたものの、かえってかかることを憚らず言って差俯向く。
少年は屹となって、たちまち顔色を変えたのである。
理学士はこの時少年のいうことを聞こうとして、思わず堅唾を飲んだ。
夢中の美少年に憤った色が見え、
「おいら、島野とは違うぜ。今までな、おい、欲い思ったものは取らねえこたあねえ、しようと思ったことをしねえこたあなかったんだ。可いじゃあないか、不可ねえッて? 不可ねえか。うむそうか、可いや、へん、おいら詰らねえことをしたぜ。」
と投げるようにいって、大空を恍惚りと瞶めた風情。取留めのない夢の想で、拓はこの時少年がお雪に向ってなす処は、一つ一つ皆思うことあって、したかのごとく感じられて、快活かくのごとき者が、恋には恐るべき神秘を守って、今までに秋毫も、さる気色のなかったほど、一層大いなる力あることを感じて、愕然とした。同時に今までは、お雪を救うために造られた、巌に倚る一個白面、朱唇、年少、美貌の神将であるごとく見えたのが、たちまち清く麗しき娘を迷わすために姿を変じた、妄執の蛇であると心着いたが、手も足も動かず、叫ばんとする声も己が耳には入らなかった。
鷲がその三回目の襲撃を試みない瞬間、白い花も動かず、二人は熟として石に化したもののように見えた。やがて少年は袂を探って、一本の花を取出した。学識ある理学士が夢中の目は、直ちにそれを黒百合の花と認めたのである。
これがためにこそ餓えたり、傷付いたれ、物怪ある山に迷うたれ。荒鷲には襲わるる、少年の身に添えて守っていたと覚ゆるのを、掴むがごとく引出して、やにわに手を懸けて
り棄てようとした趣であった。けれども、お雪が物いいたげに瞳を動かして、衝と胸を抱いて立ったのを、卑むがごとく、嘲けるがごとく、憎むがごとく、はた憐むがごとくに熟と見て、舌打して、そのまま黒百合をお雪の手に与えると斉しく、巌を放れてすっくと立って、
「不可ねえや、お前良人があるんなら、おいら一所に死ぬのは厭だぜ。じゃあ、おい勝手にしねえ。」
といい棄てて、身を飜すとたちまち歩き去った。
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