五十二
「いやもう久ぶりで癇癪をお起しなすって、こんな心持の可いことはござりません。私ゃ変な癖で、大旦那と貴方の癇癪声さえ聞きゃ、ぐっとその溜飲の下りますんで。へい、それで私も安心でござります、ついお心持を丈夫にしようとッて前のように太平楽は並べましたものの、私も涙が出ます、実は耐えておりました。」
慶造は情なさそうに笑いながら、
「大旦那様はそんなにも有仰ゃりますまいが、貴方の御病気の様子を奥様がお聞きなすって御覧じろ、大旦那様の一件で気病でお亡り遊ばしたようなお優しい、お心弱い方がどんなにお歎きでござりましょう。今じゃあ仏様で、草葉の蔭から、かえって小主公をお守りなすっていらっしゃるんで、その可愛い貴方のためにそういう処へ参りました娘なら、地獄だって、魔所だって、きっとお守りなさいましょうから、御心配にゃあ及びますまい。望の黒百合の花を取ってやがて戻って参りましょうが、しかし打遣っちゃあおかれません、貴方に御内縁の嬢さんなら、私にゃ新夫人様。いや話は別で、そうかといって見ております訳ではござりません。殊に千破矢様というのがその後へおいでなすったという風説、白魚の姉御がいった若様なんで、味方の大将を見殺にはされません。もっとも直ぐにその日、一昨日でござりますな、少からぬ係合の知事様の嬢さんも、あすこの茶屋まで駈着けましたそうで。あれそれと小田原をやってる処へ、また竜川とかいう千破矢の家の家老が貴方、参ったんだそうで、御主人の安否は拙者がか何かで、昔取った杵柄だ、腕に覚えがありますから、こりゃ強うがす、覚悟をして石滝へ入ろうとすると、どうでございましょう。四五間しかないそうですが、泥水を装って川へ一時に推出して来た、見る間に杭を浸して、早や橋板の上へちょろちょろと瀬が着く騒。大変だという内に、水足が来て足を嘗めたっていうんです。それがために皆が一雪崩に、引返したっていいますが、もっとも何だそうで、その前から風が出て大降になりました様子でござりますな。」
「ああ、その事は昨日知事の内から、道とかいう女中が来て私にいった。ちょいちょい見舞ってくれるんだ、今日もつい前に帰ったから聞いているよ。」
「それからはまるで三日、富山中は真暗で、止むかと思うと滝のように降出します。いや神通が切れた、郷屋敷田圃の堤防が崩れた、牛の淵から桜木町へ突懸る、四十物町が少し引くかと思うと、総曲輪が湖だという。それに、間を置いちゃあ大雨ですから市中は戦です。壁が壊れたり、材木が流れたりしますんですが、幸いまだ家が流れる程じゃあないので、ちょうど石滝の方は橋が出たという噂ですから、どうにか路は歩行かれましょう。お目に懸って、いよいと貴方でございます日にゃあ、こっちの嬢さんは御主人なり、一方にゃあ姉御がいった若様もいらっしゃる。どうでございましょう、この辺は水は大丈夫でございますか、もしそれが心配だと貴方ばかりではお目の御不自由、と打遣っちゃあ参られませんが。」
「慶造、六十年近くもここに居る荒物屋の婆さんがいうんだ、水には大丈夫だそうだから、私には構わんでも可い。」
心安く言ったので、慶造は雀躍をして、
「それじゃあ後髪を引かれねえで、可うがす。お二人の先途を見届けて参りましょう。小主公お気を着けなすって、後ともいわず直ぐに、」
といった。折からの雨はまた篠を束ねて、暗々たる空の、殊に黄昏を降静める。
慶造は眉を濡らす雫を払って、さし翳した笠を投出すと斉しく、七分三分に裳をぐい。
「してこいなと遣附けろ、や、本雨だ、威勢が可いぜえ。」
五十三
開戸から慶造が躍出したのを、拓は縁に出て送ったが、繁吹を浴びて身を退いて座に戻った、渠は茫然として手を束ぬるのみ。半は自分の体のごときお雪はあらず、余の大降に荒物屋の媼も見舞わないから、戸を閉め得ず、燈を点けることもしないで、渠はただ滝のなかに穴あるごとく、雨の音に紛れて物の音もせぬ真暗な家の内に数時間を消した。夜も初更を過ぎつと覚しい時、わずかに一度やや膝を動かして、机の前に寄ったばかり。三日の内にもかばかり長い間降詰めたのは、この時ばかりであった。おどろおどろしい雨の中に、遠く山を隔てた隣国の都と思うあたり、馳違う人の跫音、ものの響、洪水の急を報ずる乱調の湿った太鼓、人の叫声などがひとしきりひとしきり聞えるのを、奈落の底で聞くような思いをしながら、理学士は恐しい夢を見た。
こはいかに! 乾坤別有天。いずこともなく、天麗かに晴れて、黄昏か、朝か、気清しくして、仲秋のごとく澄渡った空に、日も月の形も見えない、たとえば深山にして人跡の絶えたる処と思うに、東西も分かず一筋およそ十四五町の間、雪のごとく、霞のごとく敷詰めた白い花。と見ると卯の花のようで、よく山奥の溪間、流に添うて群生ずる、のりうつぎ(サビタの一種)であることを認めた
時にそよとの風もなく、花はただ静かに咲満ちて、真白な中に、ここかしこ二ツ三ツ岩があった。その岩の辺りで、折々花が揺れて、さらさらと靡くのは、下を流るる水の瀬が絡まるのであろう、一鳥声せず。
理学士は、それともなく石滝の奥ではないかと、ふと心着いて恍惚となる処へ、吹落す疾風一陣。蒼空の半を蔽うた黒い鳥、片翼およそ一間余りもあろう[#「あろう」は底本では「あらう」]と思う鷲が、旋風を起して輪になって、ばッと落して、そのうつぎの花に翼を触れたと見ると、あッという人の叫声。途端に飜って舞上った時に、粉吹雪のごとくむらむらと散って立つ花片の中から、すっくと顕れた一個の美少年があった。捲り手の肱を曲げて手首から、垂々と血が流れる拳を握って、眦の切上った鋭い目にはッたと敵を睨んだが、打仰ぐ空次第に高く、鷲は早や光のない星のようになって消えた。
少年は、熟とその勁敵の逸し去ったのを見定めた様子であったが、そのまま滑かな岩に背を支えて、仰向けに倒れて、力なげに手を垂れて、太く疲れているもののようである。
やや有って、今少年が潜んでいた同じ花の下から密と出たのはお雪であった。黒髪は乱れて頸に縺れ頬に懸り、ふッくりした頬も肉落ちて、裾も袂もところどころ破れ裂けて、岩に縋り草を蹈み、荊棘の中を潜り潜った様子であるが、手を負うた少年の腕に縋って、懐紙で疵を押えた、紅はたちまちその幾枚かを通して染まったのである。
お雪は見るも痛々しく、目も眩れたる様して、おろおろ声で、
「痛みますか、痛みますか。」というのが判然聞える。
眠れるか、少年はわずかにその頭を掉ったが、血は留らず、圧えた懐紙は手にも耐らず染まったので、花の上に棄てた。一点紅、お雪は口を着けてその疵口を吸ったのである。
唇が触れた時、少年は清しい目を
って屹と見たが、また閉じて身動きもせず、手は忘れたもののようにお雪がするままに任せていた。
両人が姿を見ると、我にもあらず、理学士が肉は動いたのである。
五十四
しばらくするとお雪は帯の端を折返して、いつも締めている桃色の下〆を解いて、一尺ばかり曳出すと、手を掛けた衣は音がして裂けたのである。
その切で疵を巻いて、放すと、少年はほとんど無意識のごとく手を曲げて胸に齎して咽喉のあたりへ乗せたが、疲れてすやすやと睡った様子。顔のあたり、肩のあたり、はらはらと、来て、白く溜って、また入乱れて立つは、風に花片が散るのではない、前に大鷲がうつぎの森の静粛を破って以来、絶えず両人の身の辺に飛交う、花の色と等しい、小さな、数知れぬ蝶々で。
お雪は双の袂の真中を絞って持ち、留まれば美しい眉を顰める少年の顔の前を、絶えず払い退け、払い退けする。その都度死装束として身装を繕ったろう、清い襦袢の紅の袂は、ちらちらと蝶の中に交って、間あれば、おのが肩を打ち、且つ胸のあたりを払っていたが、たちまち顔を顰めて唇を曲げた。二ツ三ツ体を捩ったが慌しい、我を忘れて肌を脱いだ、単衣の背を溢れ出づる、雪なす膚にも縺るる紅、その乳のあたりからも袂からも、むらむらとして飛んだのは、件の白い蝶であった。
我身半はその蝶に化したるかと、お雪は呆れ顔をして身内を見たが、にわかに色を染めて密と少年を見ると、目を開かず。
お雪は吻と息を吐いて、肌を納めようとした手を動かすに遑なく、きゃッといって平伏した。声に応じて少年はかッぱと刎ね起きて押被さり、身をもってお雪を庇う。娘の体は再び花の中に埋もれたが、やや有って顕れた少年の背には、凄じい鈎形に曲った喙が触れた。大鷲は虚を伺って、とこうの隙なく蒼空から襲い来ったのであった。
倒れながら屹とその面を上げると、翼で群蝶を掻乱して、白い烟の立つ中で、鷲は颯と舞い上るのを、血走った目に瞶めながら少年は衝と立った。思わず胸に縋るお雪の手を取って扶けながら、行方を睨むと、谷を隔てて遥に見えるのは、杉ともいわず、栃ともいわず、檜ともいわず、二抱三抱に余る大喬木がすくすく天をさして枝を交えた、矢来のごとき木間々々には切倒したと覚しき同じほどの材木が積重なって、横わって、深森の中自から径を造るその上へ、一列になって、一ツ去れば、また一ツ、前なるが隠るれば、後なるが顕れて、ほとんど間断なく牛が歩いた。いずれも鼻頭におよそ三間余の長綱をつけて、姿形も森の中に定かならず、牛曳と見えるのが飛々に現れて、のッそり悠々として通っていたのであるが、今件の大鷲が、風を起して一翼に谷を越え、その峰ある処、件の森の中へあからさまに入ったと思うと、牛は宙に躍って跳狂うのが、一ツならず、二ツならず、咄嗟の間に眼を遮って七ツ数えると止んだ。
「しっかりしねえ、もう可いぜ。」といって、少年は手を放した。
お雪は血の気を失った顔を、恐る恐る上げて仰いだが、少年を見ると斉しく身を顫わした。
「あらまたお背中を、ちょいと大変でございますよ。」
「可いッてことよ、こればかしが何だ。」といったが、あわれ身を支えかねたか、またどっさりと岩に腰を掛ける。
お雪は失心の体で姿を繕うこともせず。両膝を折って少年の足許に跪いて、
「この足手纏さえございませねば、貴方お一方はお助り遊ばすのに訳はないのでございます。」
と、いう声も身も顫えたのである。
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