四十二
その蔵屋という方の床几に、腰を懸けたのは島野紳士、ここに名物の吹上の水に対し、上衣を取って涼を納れながら、硝子盃を手にして、
「ああ、涼しいが風が止んだ、何だか曇って来たじゃあないか、雨はどうだろうな。」
客の人柄を見て招の女、お倉という丸ぽちゃが、片襷で塗盆を手にして出ている。
「はい、大抵持ちましょうと存じます。それとも急にこうやって雲が出て参りましたから、ふとすると石滝でお荒れ遊ばすかも分りません。」
「何だね、石滝でお荒れというのは。」
「それはあの、少しでも滝から先へ足踏をする者がございますと、暴風雨になるッて、昔から申しますのでございますが。」
島野は硝子盃を下に置いた。
「うむ、そして誰か入ったものがあるのかね。」
「今朝ほど、背負上を高くいたして、草鞋を穿きましてね、花籃を担ぎました、容子の佳い、美しい姉さんが、あの小さなお扇子を手に持って、」と言懸ると、何と心得たものか、紳士は衣袋の間から一本平骨の扇子を抜出して、胸の辺りを、さやさや。
「はあ、それが入ったのか。」
「さようでございます。その姉さんは貴方、こないだから、昼間参りましたり、晩方来ましたりいたしましては、この辺を胡乱々々して、行ったり来たりしていたのでございますがね。今日は七日目でございます。まさかそんなことはと存じておりますと、今朝ほどここの前を通りましてね、滝の方へ行ったきり帰りません、きっと入りましたのでございましょう。」
「何かね、全くそんな不思議な処かね。」
「貴方、お疑り遊ばすと暴風雨になりますよ。」といって、塗盆を片頬にあてて吻々と笑った、聞えた愛嬌者である。島野は顔の皮を弛めて、眉をびりびり、目を細うしたのは謂うまでもない。
「それは可いが姉さん、心太を一ツ出しておくれな。」
「はい、はい。」
「待ちたまえ、いや、それともまた降られない内に帰るとするかね。」
「どういたしまして、降りませんでも、貴方川留でございますよ。」
方二坪ばかり杉葉の暗い中にむくむくと湧上る、清水に浸したのを突にかけてずッと押すと、心太の糸は白魚のごときその手に搦んだ。皿に装って、はいと来る。島野は口も着けず下に置いて、
「そうして何かい、ついぞまだそこへ行った者を見たことはないのか。」
「いいえ、私が生れましてから始めてでございますが、貴方どうでございましょう、つい少しばかり前にいらっしゃいました、太った乱暴な、書生さんが、何ですか、その姉さんがここへ参りましたことを御存じの様子で、どうだとお聞きなさいますから、それそれ申しますと、うむといったッきり駈出して、その方もまだお帰になりません。」
「え、そりゃ何か、目の丸い、」
「はい、お色の黒い、いがぐり天窓の。もうもう貴方のようじゃあございませんよ、おほほほ。」
「いや!」とばかりでこの紳士、何か早や、にたりとしたが、急に真面目になって、
「ちょッ、しようがないな。」
「貴方御存じの方なんですか。」
「うむ、何だよ、その娘の跡を跟けまわしてな、から厭がられ切ってる癖に、狂犬のような奴だ、来たかい! 弱ったな、どうも、汝一人で。」
「何でございます。」
「いえさ、連は無かったのか。」
四十三
「ただお一人でございましたよ、豪そうなお方なんです。それに仕込杖なんぞ持っていらっしゃいましたから、私達がかれこれ申上げた処で、とてもお肯入れはなさりますまいと、そう思いまして黙って見ておりましたが、無事にお帰りなされば可うございますがね。」
島野は冷然として、
「何、犬に食われて死にゃあ可いんだ。」
「だって、姉さんはお可哀そうじゃございませんか。」
「そりゃお互様よ。」
「あれ、お安くございませんのね。でも、あの、二度あることは三度とやら申しますから、今日の内また誰かお入りなさりはしまいかと言って、内の父様も案じておりますから、貴方またその姉さんをお助けなさろうの何のッて、あすこへいらっしゃるのはお止し遊ばしまし。」
「だが、その滝の傍までは行っても差支が無いそうじゃないか。」
「そこまでなら偶に行く人もございますが、貴方何しろ真暗だそうですよ。もうそこへ参りました者でも、帰ると熱を煩って、七日も十日も寝る人があるのでございます。」
「熱はお前さんを見て帰ったって同一だ、何暗いたッて日中よ、構やしない。きっとそこらにうろついているに違いない、ちょっと僕は。おい、姉さん帰りに寄ろう。」
「お気をお着け遊ばしていらっしゃいましよ。」
島野は多磨太が先じたりと聞くより、胸の内安からず、あたふた床几を離れて立ったが、いざとなると、さて容易な処ではない。ほぼ一町もあるという、森の彼方にどうどうと響く滝の音は、大河を倒に懸けたように聞えて、その毛穴はここに居る身にもぞッと立った。島野は逡巡して立っている。
折から堤防伝いに蹄の音、一人砂烟を立てて、斜に小さく、空を駆けるかと見る見る近づき、懸茶屋の彼方から歩を緩めて、悠然と打って来た。茶屋の際の葉柳の下枝を潜って、ぬっくりと黒く顕われたのは、鬣から尾に至るまで六尺、長の高きこと三尺、全身墨のごとくにして夜眼一点の白あり、名を夕立といって知事の君が秘蔵の愛馬。島野は一目見て驚いて呆れた。しっくりと西洋鞍置いたるに胸を張って跨ったのは、美髯広額の君ではなく、一個白面の美少年。頭髪柔かにやや乱れた額少しく汗ばんで、玉洗えるがごとき頬のあたりを、さらさらと払った葉柳の枝を、一掴み馬上に掻遣り、片手に手綱を控えながら、一蹄三歩、懸茶屋の前に来ると、件の異彩ある目に逸疾く島野を見着けた。
「島野、」と呼懸けざま、飜然と下立ったのは滝太郎である。
常にジャムを領するをもって、自家の光彩を発揮する紳士は、この名馬夕立に対して恐入らざるを得ないので、
「おや、千破矢様、どうして貴方、」と渋面を造って頭を下げる。その時、駿足に流汗を被りながら、呼吸はあえて荒からぬ夕立の鼻面を取って、滝太郎は、自分も掌で額の髪を上げた。
「おい、姉や。」
「はい、」
「水を一杯、冷いのを大急だ。島野、可い処でお前に逢ったい。おいら、お前ン処の義作の来るまで、あすこの柳にでも繋いでおこうと思ったんだけれど、お前が居りゃあ世話はねえ。この馬返すからな、四十物町まで持って行ってくんねえ、頼むぜ、おい。」
呆れたものいいと、唐突の珍客に、茶屋の女どもは茫乎。
四十四
島野は、時というとこの苦手が顕れるのを、前世の因縁とでもいいたげな、弱り果てて、
「へい、その馬を持って帰れとおっしゃるんですか。」
と不平らしい顔をした。
「そうよ。」
「一体その何でございますが、私はどうも一向馬の方は心得ませんもんですから。」
「大丈夫だ。こう、お前一ツ内端じゃあねえか、知己だろう、暴れてくれるなって頼みねえ、どうもしやあしねえやな。そして乗られなかったら曳いて行くさ。だからちったア馬に乗ることも心懸けておくこッた、女にかかり合っているばかりが芸じゃあねえぜ。どうだ、色男。」と高慢なことを罪もなくいって、滝太郎は微笑んだ。
「失敬な。」も口の裡で、島野は顔を見らるると極悪そうに四辺をきょろきょろ。茶店の女は、目の前にほっかりと黒毛の駒が汗ばんで立ってるのを憚って、密と洋盃を齎らした。右手をのべて滝太郎が受ける時、駒は鬣を颯と振った。あれと吃驚して女は後へ。若君は轡を鳴らして、しっかと取りつつ、冷水の洋盃を長く差伸べて、盆に返し、
「沢山だ。おい、可いか、島野、預けるぜ。」
屹と向直って、早く手綱を棄てようとする。島野は狼狽えて両手を上げて、
「若様どうぞ、そりゃ平に、」とばかり、荒馬を一頭背負わされて、庄司重忠にあらざるよりは、誰かこれを驚かざるべき。見得も外聞も無しに恐れ入り、
「平に御容赦てッたような訳なんです。へい、全く不可ません。それにちっと待合わせるものもあるんでございますから。」
と窮したる笑顔を造って、渠はほとんど哀を乞う。
滝太郎は黙って頷くと斉しく、駒の鼻頭を引廻らした。蹄の上ること一尺、夕立は手綱を柳の樹に結えられて嘶いた。
「島野、おい、島野。」
この声を聞くごとに、実のこッた、紳士はぞッとする位で。
「へい、御用ですか。」
「お前、待合わせるものがあるッて、また別嬪じゃあねえか、花売のよ。」
「御串戯を、」と言ったが、内心抉られたように、ぎっくりして、穏ならず。
滝太郎は戯にいったばかり。そのまま茶屋の女を見返り、
「何ぞ食べるものをくれねえか、多い方が可いぜ。」
「姉さんおいしいものを、早く、冷たくして上げるが可い。」と、島野はてれ隠しに世辞をいった。
「はい、西瓜でも切りましょうか。心太、真桑、何を召あがります。」
「そんな水ッぽいもんじゃあねえや、べらぼうめ、そこいらに在る、有平だの、餡麺麭だの、駄菓子で結構だ。懐へ捻込んで行くんだから紙にでも包んでくんな。」と並べた箱の中に指しをする。
「どちらへいらっしゃいます。」
「石滝よ。」
驚いたのは茶店の女ばかりではない、島野も思わず顔を視める。
「兵粮だ、奥へ入って黒百合を取って来ようというんだから、日が暮れようも分らねえ。ひもじくなるとそいつを噛らあ、どうだ、お前、勇美さんに言いねえ、土産を持って行ってやるからッてよ。」
「途方もない、若様。それを取ろうッて、実はつい先刻だそうです。あの花売の女も石滝へ入ったんです。」
「うむ、」といった滝太郎の顔の色は動いた。滝の響を曇天に伝えて聞える、小川の彼方の森の方を、屹と見て、すっくと立って、
「あの阿魔がかい、そいつあ危え!」
先立って二度あることは三度とやら、見通の法印だった、蔵屋の亭主は奥から慌しく顔を出して、
「そりゃこそ、また一人。」
四十五
「やあ、島野さん、千破矢の若様はどうしました。」
「義作じゃないか、一体ありゃあどうしたんだね。お前、魔物が夕立に乗って降って来たから、驚いたろうじゃあないか。」と半は独言のようにぶつぶついう。
被った帽も振落したか、駆附けの呼吸もまだはずむ、お館の馬丁義作、大童で汗を拭き、
「どうしたって、あれでさ、お前様、私ゃ飛んでもねえどじを行ったで。へい、今朝旦那様をお役所へ送ってね、それからでさ、獣を引張って総曲輪まで帰って来ると、何に驚いたんだか、評判の榎があるって朝っぱらから化けもしめえに、畜生棹立になって、ヒイン、え、ヒインてんで。」
「暴れたかね。」
「あばれたにも何も、一体名代の代物でごぜえしょう、そいつがお前さん、盲目滅法界に飛出したんで、はっと思う途端に真俯向に転ったでさ。」
「おやおや、道理で額を擦剥いてら。」
義作は掌でべたべたと顔を撫でて、
「串戯じゃあがあせん、私ゃ一期で、ダーだと思ったね、地ん中へ顔を埋めてお前さん、ずるずると引摺られたから、ぐらぐらと来て気が遠くなったんで。しばらくして突立って、わってッて追い駆けると、もうわいわいという騒ぎで、砂煙が立ってまさ。あれから旅籠町へ抜けて、東四十物町を突切って、橋通りへ懸って神通を飛越そうてえ可恐い逸れ方だ。南無三宝、こりゃ加州まで行くことかと息切がして蒼くなりましたね。鳥居前のお前さん、乱暴じゃあがあせんか、華族様だってえのにどうです、もっともまああの方にゃあ不思議じゃねえようなものの、空樽の腰掛だね、こちとらだって夏向は恐れまさ、あのそら一膳飯屋から、横っちょに駆出したのが若様なんです。え、滝先生、滝公、滝坊、へん滝豪傑、こっちの大明神なんで。」とぐっと乗り、拳を握って力を入れると、島野は横を向いて、
「ふむ。」
「どうです、威勢が可いじゃがあせんか。突然畜生の前へ突立ったから、ほい、蹴飛ばされるまでもねえ、前足が揃って天窓の上を向うへ越すだろうと思うと、ひたりと留ったでさ。畜生、貧乏動をしやあがる腮の下へ、体を入れて透間がねえようにくッついて立つが早いか、ぽんと乗りの、しゃんしゃんさ。素人にゃあ出来やせん。義作、貸しねえ貸しねえてって例の我儘だから断りもされず、不断面倒臭くって困ったこともありましたっけが、先刻は真のこった、私ゃ手を合わせました。どうしてお前さんなんざ学者で先生だっていうけれど、からそんな時にゃあ腰を抜かすね。へい。何だって法律で馬にゃあ乗れませんや、どうでげす。」
「はい、お茶を一ツ。」
大気焔の馬丁は見たばかりで手にも取らず、
「おう、そんなもなあ、まだるッこしい。今に私ゃそこに湧いてるのに口をつけて干しちまうから打棄っておきねえ。はははは、ええ島野さん。おいらこれから石滝へ行くから、お前あとから取りに来ねえ、夕立はちょいと借りるぜって、そのまま乗出したもんだからね、そこいら中騒いでた徒に相済みませんを百万だら並べたんで。転んだ奴あ随分あったそうだけれど、大した怪我人もなし、持主が旦那様なんですから故障をいう奴もねえんで、そっちゃ安心をして追駈けて来ましたが、何は若様はどちらへ行ったんで。」
「じゃあ、その何だろう、馬騒ぎで血逆上がしたんだろう、本気じゃあないな。兵粮だって餡麺麭を捻込んで、石滝の奥へ、今の前橋を渡ったんだ、ちょうど一足違い位なもんだ。」
「やッ、」というて目をる義作と一所に吃驚したのは、茶店の女で、向うの鍵屋の当の敵、お米といって美しいのが、この折しも店先からはたはたと堤防へ駆出したことである。故こそあれ腕車が二台。
四十六
「もしもしちょいとどうぞ、どうぞちょいとお待ち遊ばして。」と路を遮ったので、威勢の可い腕車が二台ともばったり[#「ばったり」は底本では「ばつたり」]停る。米は顔を赤らめて手を膝に下げて、
「恐入ります、御免下さいまし。どちらの姫様ですか存じませんが、どうぞあちらへいらっしゃいましたら、私どもへお休み遊ばして下さいまし、後生でございます。」
先に腕車に乗ったのは、新しい紺飛白に繻子の帯を締めて、銀杏返に結った婦人。
「何だね、お前さん。」
「はい、鍵屋と申します御休憩所でございますが、よそと張合っておりますので。
今朝から向にばかりお客がございます処へ、またお馬に召した立派な若様がお立寄でございました。あのお倉さんというのが、それはもうこれ見よがしで、私は居ても立ってもいられません。あんまり悔しゅうございますから、どんなにお叱り遊ばしても宜うございます、お見懸け申しましてお願い申します。助けると思召して後生でございます、私どもへ。」
とおろおろ声で泣くようにいう。
「おや、じゃああのお茶屋の姉さんかい。」
「はい、さようでございます。」
「それでは御馳走をしてくれますか、」と背後の腕車で微笑みながらいったのは、米が姫様と申上げた、顔立も風采もそれに叶った気高いのが、思懸けず気軽である。
女はかえって答もなし得ず、俯向いてただお辞儀をした。
「それじゃ若衆さん。」
「おう、鍵屋だぜ。」
「あい、遣んねえ。」
車夫は呼交わしてそのまま曳出す。米は前へ駆抜けて、初音はこの時にこそ聞えたれ。横着にした、楫棒を越えて、前なるがまず下りると、石滝界隈へ珍しい白芙蓉の花一輪。微風にそよそよとして下立った、片辺に引添い、米は前へ立ってすらすらと入るのを、蔵屋の床几に居た両人、島野と義作がこれを差覗いて、慌しくひょいと立って、体と体が縒れるように並んで、急足につかつかと出た。
「お嬢様。」
「へい、お道どん、御苦労だね。」
「おや、義作さん、ここに。」
勇美子は店さきに入ろうとしたが、不意に会った内の者を顧みて、
「島野さんも来ていたの。」
「ええ、僕は大分久しい前からなんです。義作君はたった今、その馬が放れました一件で。」
「実は何でございます、飛んだ疎匆をいたしやして、へい。ねえ、お道どん、こういう訳なんだ、実は、」
「はあ、そりゃもう、路で聞きましたよ、飛んだことだったね、でもまあ可い塩梅に。」
「御家来さん、危うがしたな。」
「しかし怪我アしなさらなくって何よりだったよ。」と車夫どもは口々なり。お道もまた、
「そうねえ。」
「ええ、もう私ゃ怪我なんぞ厭やしませんが、何、皆千破矢の若様のお庇なんで、へい。」
「ちょいとどうなすったの、滝太郎さんは。」と姫は四辺を見て、御意遊ばす。
「お馬はあすこに居るじゃあないかね。」
「お嬢様、何ですか、その事でこちらへお越しなんですか。」
「何あのお雪のことなの。」
「姉さん、花売なんだがね、十八九でちょっとそういった風な女を見当りはしなかったかい。」
お道に聞かれて米が答えようとするのを、ちゃっと引取ったのは今両人が鍵屋の女客に引付けられて、店から出るのに気を揉んで、あとからついて出て立っている蔵屋の女。
「その人なら、存じております、今朝ほどでございました。」
「私だって知ってます。」と、米はつんとして倉を流。
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