泉鏡花集成2 |
ちくま文庫、筑摩書房 |
1996(平成8)年4月24日 |
1996(平成8)年4月24日第1刷 |
1996(平成8)年4月24日第1刷 |
鏡花全集 第四巻 |
岩波書店 |
1941(昭和16)年12月25日 |
序
越中の国立山なる、石滝の奥深く、黒百合となんいうものありと、語るもおどろおどろしや。姫百合、白百合こそなつかしけれ、鬼と呼ぶさえ、分けてこの凄じきを、雄々しきは打笑い、さらぬは袖几帳したまうらむ。富山の町の花売は、山賤の類にあらず、あわれに美しき女なり。その名の雪の白きに愛でて[#「愛でて」は底本では「愛でで」]、百合の名の黒きをも、濃い紫と見たまえかし。
明治三十五年寅壬[#「寅壬」は縦中横]三月
[#改ページ]
一
「島野か。」
午少し過ぐる頃、富山県知事なにがしの君が、四十物町の邸の門で、活溌に若い声で呼んだ。
呼ばれたのは、知事の君が遠縁の法学生、この邸に奇寓する食客であるが、立寄れば大樹の蔭で、涼しい服装、身軽な夏服を着けて、帽を目深に、洋杖も細いので、猟犬ジャム、のほうずに耳の大いのを後に従え、得々として出懸ける処、澄ましていたのが唐突に、しかも呼棄てにされたので。
およそ市中において、自分を呼棄てにするは、何等の者であろうと、且つ怪み、且つ憤って、目を尖らして顔を上げる。
「島野。」
「へい、」と思わず恐入って、紳士は止むことを得ず頭を下げた。
「勇美さんは居るかい。」と言いさま摺れ違い、門を入ろうとして振向いて言ったのは、十八九の美少年である。絹セルの単衣、水色縮緬の帯を背後に結んだ、中背の、見るから蒲柳の姿に似ないで、眉も眦もきりりとした、その癖口許の愛くるしいのが、パナマの帽子を無造作に頂いて、絹の手巾の雪のような白いのを、泥に染めて、何か包んだものを提げている。
成程これならば、この食客的紳士が、因ってもって身の金箔とする処の知事の君をも呼棄てにしかねはせぬ。一国の門閥、先代があまねく徳を布いた上に、経済の道宜しきを得たので、今も内福の聞えの高い、子爵千破矢家の当主、すなわち若君滝太郎である。
「お宅でございます、」と島野紳士は渋々ながら恭しい。
「学校は休かしら。」
「いえ、土曜日なんで、」
「そうか、」と謂い棄てて少年はずッと入った。
「ちょッ。」
その後を見送って、島野はつくづく舌打をした。この紳士の不平たるや、単に呼棄てにされて、その威厳の幾分を殺がれたばかりではない。誰も誰も一見して直ちに館の飼犬だということを知って、これを従えた者は、知事の君と別懇の者であるということを示す、活きた手形のようなジャムの奴が、連れて出た己を棄てて、滝太郎の後から尾を振りながら、ちょろちょろと入ったのであった。
「恐れるな。小天狗め、」とさも悔しげに口の内に呟いて、洋杖をちょいとついて、小刻に二ツ三ツ地の上をつついたが、懶げに帽の前を俯向けて、射る日を遮り、淋しそうに、一人で歩き出した。
「ジャム、」
真先に駈けて入った猟犬をまず見着けたのは、当館の姫様で勇美子という。襟は藤色で、白地にお納戸で薩摩縞の単衣、目のぱッちりと大きい、色のくッきりした、油気の無い、さらさらした癖の無い髪を背へ下げて、蝦茶のリボン飾、簪は挿さず、花畠の日向に出ている。
二
この花畠は――門を入ると一面の芝生、植込のない押開いた突当が玄関、その左の方が西洋造で、右の方が廻廊下で、そこが前栽になっている。一体昔の大名の別邸を取払った幾分の造作が残ったのに、件の洋風の室数を建て増したもので、桃色の窓懸を半ば絞った玄関傍の応接所から、金々として綺羅びやかな飾附の、呼鈴、巻莨入、灰皿、額縁などが洩れて見える――あたかもその前にわざと鄙めいた誂で。
日車は莟を持っていまだ咲かず、牡丹は既に散果てたが、姫芥子の真紅の花は、ちらちらと咲いて、姫がものを言う唇のように、芝生から畠を劃って一面に咲いていた三色菫の、紫と、白と、紅が、勇美子のその衣紋と、その衣との姿に似て綺麗である。
「どうして、」
体は大いが、小児のように飛着いて纏わる猟犬のあたまを抑えた時、傍目も触らないで玄関の方へ一文字に行こうとする滝太郎を見着けた。
「おや、」
同時に少年も振返って、それと見ると、芝生を横截って、つかつかと間近に寄って、
「ちょいとちょいと、今日はね、うんと礼を言わすんだ、拝んで可いな。」と莞爾々々しながら、勢よく、棒を突出したようなものいいで、係構なしに、何か嬉しそう。
言葉つきなら、仕打なら、人の息女とも思わぬを、これがまた気に懸けるような娘でないから、そのまま重たげに猟犬の頭を後に押遣り、顔を見て笑って、
「何?」
「何だって、大変だ、活きてるんだからね。お姫様なんざあ学者の先生だけれども、こいつあ分らない。」と件の手巾の包を目の前へ撮んでぶら下げた。その泥が染んでいる純白なのを見て、傾いて、
「何です。」
「見ると驚くぜ、吃驚すらあ、草だね、こりゃ草なんだけれど活きてるよ。」
「は、それは活きていましょうとも。草でも樹でも花でも、皆活きてるではありませんか。」という時、姫芥子の花は心ありげに袂に触れて閃いた。が、滝太郎は拗ねたような顔色で、
「また始めたい、理窟をいったってはじまらねえ。可いからまあ難有うと、そういってみねえな、よ、厭なら止せ。」
「乱暴ねえ、」
「そっちアまた強情だな、可いじゃあないか難有う……と。」
「じゃアまああっちへ参りましょう。」
と言いかけて勇美子は身を返した。塀の外をちらほらと人の通るのが、小さな節穴を透して遙に昼の影燈籠のように見えるのを、熟と瞻って、忘れたように跪居る犬を、勇美子は掌ではたと打って、
「ほら、」
ジャムは二三尺飛退って、こちらを向いて、けろりとしたが、衝と駈出して見えなくなった。
「活きてるんだな。やっぱり。」といって滝太郎一笑す。
振向いて見たばかり、さすがこれには答えないで、勇美子は先に立って鷹揚である。
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