三晩目に、漸とこさと山の麓へ着いたばかり。
織次は、小児心にも朝から気になって、蚊帳の中でも髣髴と蚊燻しの煙が来るから、続けてその翌晩も聞きに行って、汚い弟子が古浴衣の膝切な奴を、胸の処でだらりとした拳固の矢蔵、片手をぬい、と出し、人の顋をしゃくうような手つきで、銭を強請る、爪の黒い掌へ持っていただけの小遣を載せると、目を
ったが、黄色い歯でニヤリとして、身体を撫でようとしたので、衝と極が悪く退った頸へ、大粒な雨がポツリと来た。
忽ち大驟雨となったので、蒼くなって駈出して帰ったが、家までは七、八町、その、びしょ濡れさ加減思うべしで。
あと二夜ばかりは、空模様を見て親たちが出さなかった。
さて晴れれば晴れるものかな。磨出した良い月夜に、駒の手綱を切放されたように飛出して行った時は、もうデロレンの高座は、消えたか、と跡もなく、後幕一重引いた、あたりの土塀の破目へ、白々と月が射した。
茫となって、辻に立って、前夜の雨を怨めしく、空を仰ぐ、と皎々として澄渡って、銀河一帯、近い山の端から玉の橋を町家の屋根へ投げ懸ける。その上へ、真白な形で、瑠璃色の透くのに薄い黄金の輪郭した、さげ結びの帯の見える、うしろ向きで、雲のような女の姿が、すっと立って、するすると月の前を歩行いて消えた。……織次は、かつ思いかつ歩行いて、丁どその辻へ来た。
四
湯屋は郵便局の方へ背後になった。
辻の、この辺で、月の中空に雲を渡る婦の幻を見たと思う、屋根の上から、城の大手の森をかけて、一面にどんよりと曇った中に、一筋真白な雲の靡くのは、やがて銀河になる時節も近い。……視むれば、幼い時のその光景を目前に見るようでもあるし、また夢らしくもあれば、前世が兎であった時、木賊の中から、ひょいと覗いた景色かも分らぬ。待て、希くは兎でありたい。二股坂の狸は恐れる。
いや、こうも、他愛のない事を考えるのも、思出すのも、小北の許へ行くにつけて、人は知らず、自分で気が咎める己が心を、我とさあらぬ方へ紛らそうとしたのであった。
さて、この辻から、以前織次の家のあった、某……町の方へ、大手筋を真直に折れて、一丁ばかり行った処に、小北の家がある。
両側に軒の並んだ町ながら、この小北の向側だけ、一軒づもりポカリと抜けた、一町内の用心水の水溜で、石畳みは強勢でも、緑晶色の大溝になっている。
向うの溝から鰌にょろり、こちらの溝から鰌にょろり、と饒舌るのは、けだしこの水溜からはじまった事であろう、と夏の夜店へ行帰りに、織次は独りでそう考えたもので。
同一早饒舌りの中に、茶釜雨合羽と言うのがある。トあたかもこの溝の左角が、合羽屋、は面白い。……まだこの時も、渋紙の暖簾が懸った。
折から人通りが二、三人――中の一人が、彼の前を行過ぎて、フト見返って、またひょいひょいと尻軽に歩行出した時、織次は帽子の庇を下げたが、瞳を屹と、溝の前から、件の小北の店を透かした。
此処にまた立留って、少時猶予っていたのである。
木格子の中に硝子戸を入れた店の、仕事の道具は見透いたが、弟子の前垂も見えず、主人の平吉が半纏も見えぬ。
羽織の袖口両方が、胸にぐいと上るように両腕を組むと、身体に勢を入れて、つかつかと足を運んだ。
軒から直ぐに土間へ入って、横向きに店の戸を開けながら、
「御免なさいよ。」
「はいはい。」
と軽い返事で、身軽にちょこちょこと茶の間から出た婦は、下膨れの色白で、真中から鬢を分けた濃い毛の束ね髪、些と煤びたが、人形だちの古風な顔。満更の容色ではないが、紺の筒袖の上被衣を、浅葱の紐で胸高にちょっと留めた甲斐甲斐しい女房ぶり。些と気になるのは、この家あたりの暮向きでは、これがつい通りの風俗で、誰も怪しみはしないけれども、畳の上を尻端折、前垂で膝を隠したばかりで、湯具をそのままの足を、茶の間と店の敷居で留めて、立ち身のなりで口早なものの言いよう。
「何処からおいで遊ばしたえ、何んの御用で。」
と一向気のない、空で覚えたような口上。言つきは慇懃ながら、取附き端のない会釈をする。
「私だ、立田だよ、しばらく。」
もう忘れたか、覚えがあろう、と顔を向ける、と黒目がちでも勢のない、塗ったような瞳を流して、凝と見たが、
「あれ。」と言いさま、ぐったりと膝を支いた。胸を衝と反らしながら、驚いた風をして、
「どうして貴下。」
とひょいと立つと、端折った太脛の包ましい見得ものう、ト身を返して、背後を見せて、つかつかと摺足して、奥の方へ駈込みながら、
「もしえ! もしえ! ちょっと……立田様の織さんが。」
「何、立田さんの。」
「織さんですがね。」
「や、それは。」
という平吉の声が台所で。がたがた、土間を踏む下駄の音。
五
「さあ、お上り遊ばして、まあ、どうして貴下。」
とまた店口へ取って返して、女房は立迎える。
「じゃ、御免なさい。」
「どうぞこちらへ。」と、大きな声を出して、満面の笑顔を見せた平吉は、茶の室を越した見通しの奥へ、台所から駈込んで、幅の広い前垂で、濡れた手をぐいと拭きつつ、
「ずっと、ずっとずっとこちらへ。」ともう真中へ座蒲団を持出して、床の間の方へ直しながら、一ツくるりと立身で廻る。
「構っちゃ可厭だよ。」と衝と茶の間を抜ける時、襖二間の上を渡って、二階の階子段が緩く架る、拭込んだ大戸棚の前で、入ちがいになって、女房は店の方へ、ばたばたと後退りに退った。
その茶の室の長火鉢を挟んで、差むかいに年寄りが二人いた。ああ、まだ達者だと見える。火鉢の向うに踞って、その法然天窓が、火の気の少い灰の上に冷たそうで、鉄瓶より低い処にしなびたのは、もう七十の上になろう。この女房の母親で、年紀の相違が五十の上、余り間があり過ぎるようだけれども、これは女房が大勢の娘の中に一番末子である所為で、それ、黒のけんちゅうの羽織を着て、小さな髷に鼈甲の耳こじりをちょこんと極めて、手首に輪数珠を掛けた五十格好の婆が背後向に坐ったのが、その総領の娘である。
不沙汰見舞に来ていたろう。この婆は、よそへ嫁附いて今は産んだ忰にかかっているはず。忰というのも、煙管、簪、同じ事を業とする。
が、この婆娘は虫が好かぬ。何為か、その上、幼い記憶に怨恨があるような心持が、一目見ると直ぐにむらむらと起ったから――この時黄色い、でっぷりした眉のない顔を上げて、じろりと額で見上げたのを、織次は屹と唯一目。で、知らぬ顔して奥へ通った。
「南無阿弥陀仏。」
と折から唸るように老人が唱えると、婆娘は押冠せて、
「南無阿弥陀仏。」と生若い声を出す。
「さて、どうも、お珍しいとも、何んとも早や。」と、平吉は坐りも遣らず、中腰でそわそわ。
「お忙しいかね。」と織次は構わず、更紗の座蒲団を引寄せた。
「ははは、勝手に道楽で忙しいんでしてな、つい暇でもございまするしね、怠け仕事に板前で庖丁の腕前を見せていた所でしてねえ。ええ、織さん、この二、三日は浜で鰯がとれますよ。」と縁へはみ出るくらい端近に坐ると一緒に、其処にあった塵を拾って、ト首を捻って、土間に棄てた、その手をぐいと掴んで、指を揉み、
「何時、当地へ。」
「二、三日前さ。」
「雑と十四、五年になりますな。」
「早いものだね。」
「早いにも、織さん、私なんざもう御覧の通り爺になりましたよ。これじゃ途中で擦違ったぐらいでは、ちょっとお分りになりますまい。」
「否、些とも変らないね、相かわらず意気な人さ。」
「これはしたり!」
と天井抜けに、突出す腕で額を叩いて、
「はっ、恐入ったね。東京仕込のお世辞は強い。人、可加減に願いますぜ。」
と前垂を横に刎ねて、肱を突張り、ぴたりと膝に手を支いて向直る。
「何、串戯なものか。」と言う時、織次は巻莨を火鉢にさして俯向いて莞爾した。面色は凛としながら優しかった。
「粗末なお茶でございます、直ぐに、あの、入かえますけれど、お一ツ。」
と女房が、茶の室から、半身を摺らして出た。
「これえ、私が事を意気な男だとお言いなさるぜ、御馳走をしなけりゃ不可んね。」
「あれ、もし、お膝に。」と、うっかり平吉の言う事も聞落したらしかったのが、織次が膝に落ちた吸殻の灰を弾いて、はっとしたように瞼を染めた。
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