欠けた瀬戸火鉢は一つある。けれども、煮ようたって醤油なんか思いもよらない。焼くのに、炭の粉もないんです。政治狂が便所わきの雨樋の朽ちた奴を……一雨ぐらいじゃ直ぐ乾く……握り壊して来る間に、お雪さんは、茸に敷いた山草を、あの小石の前へ挿しましたっけ。古新聞で火をつけて、金網をかけました。処で、火気は当るまいが、溢出ようが、皆引掴んで頬張る気だから、二十ばかり初茸を一所に載せた。残らず、薄樺色の笠を逆に、白い軸を立てて、真中ごろのが、じいじい音を立てると、……青い錆が茸の声のように浮いて動く。
(塩はどうした。)
(ござんせん。)
(魚断、菜断、穀断と、茶断、塩断……こうなりゃ鯱立ちだ。)
と、主人が、どたりと寝て、両脚を大の字に開くと、
(あああ、待ちたまえ、逆になった方が、いくらか空腹さが凌げるかも知れんぞ。経験じゃ。)
と政治狂が、柱へ、うんと搦んで、尻を立てた。
(ぼくは、はや、この方が楽で、もう遣っとるが。)
と、水浸しの丸太のような、脚気の足を、襖の破れ桟に、ぶくぶくと掛けている。
(幹もやれよ。)
と主人が、尻で尺蠖虫をして、足をまた突張って、
(成程、気がかわっていい、茸は焼けろ、こっちはやけだ。)
その挙げた足を、どしんと、お雪さんの肩に乗せて、柔かな細頸をしめた時です。
(ああ、ひもじいを逆にすれば、おなかが、くちいんだわね。)
と真俯向けに、頬を畳に、足が、空で一つに、ひたりとついて、白鳥が目を眠ったようです。
ハッと思うと、私も、つい、脚を天井に向けました。――その目の前で、
(男は意気地がない、ぐるぐる廻らなくっちゃあ。)
名工のひき刀が線を青く刻んだ、小さな雪の菩薩が一体、くるくると二度、三度、六地蔵のように廻る……濃い睫毛がチチと瞬いて、耳朶と、咽喉に、薄紅梅の血が潮した。
(初茸と一所に焼けてしまえばいい。)
脚気は喘いで、白い舌を舐めずり、政治狂は、目が黄色に光り、主人はけらけらと笑った。皆逆立ちです。そして、お雪さんの言葉に激まされたように、ぐたぐたと肩腰をゆすって、逆に、のたうちました。
ひとりでに、頭のてっぺんへ流れる涙の中に、網の初茸が、同じように、むくむくと、笠軸を動かすと、私はその下に、燃える火を思った。
皆、咄嗟の間、ですが、その、廻っている乳が、ふわふわと浮いて、滑らかに白く、一列に並んだように思う……
(心配しないでね。)
と莞爾していった、お雪さんの言が、逆だから、(お遁げ、危い。)と、いうように聞えて、その白い菩薩の列の、一番框へ近いのに――導かれるように、自分の頭と足が摺って出ると、我知らず声を立てて、わッと泣きながら遁出したんです。
路地口の石壇を飛上り、雲の峰が立った空へ、桟橋のような、妻恋坂の土に突立った、この時ばかり、なぜか超然として――博徒なかまの小僧でない。――ひとり気が昂ると一所に、足をなぐように、腰をついて倒れました。」
天地震動、瓦落ち、石崩れ、壁落つる、血煙の裡に、一樹が我に返った時は、もう屋根の中へ屋根がめり込んだ、目の下に、その物干が挫げた三徳のごとくになって――あの辺も火は疾かった――燃え上っていたそうである。
これ――十二年九月一日の大地震であった。
「それがし、九識の窓の前、妙乗の床のほとりに、瑜伽の法水を湛え――」
時に、舞台においては、シテなにがし。――山の草、朽樹などにこそ、あるべき茸が、人の住う屋敷に、所嫌わず生出づるを忌み悩み、ここに、法力の験なる山伏に、祈祷を頼もうと、橋がかりに向って呼掛けた。これに応じて、山伏が、まず揚幕の裡にて謡ったのである。が、鷺玄庵と聞いただけでも、思いも寄らない、若く艶のある、しかも取沈めた声であった。
幕――揚る。――
「――三密の月を澄ます所に、案内申さんとは、誰そ。」
すらすらと歩を移し、露を払った篠懸や、兜巾の装は、弁慶よりも、判官に、むしろ新中納言が山伏に出立った凄味があって、且つ色白に美しい。一二の松も影を籠めて、袴は霧に乗るように、三密の声は朗らかに且つ陰々として、月清く、風白し。化鳥の調の冴えがある。
「ああ、婦人だ。……鷺流ですか。」
私がひそかに聞いたのに、
「さあ。」
一言いったきり、一樹が熟と凝視めて、見る見る顔の色がかわるとともに、二度ばかり続け様に、胸を撫でて目をおさえた。
先を急ぐ。……狂言はただあら筋を言おう。舞台には茸の数が十三出る。が、実はこの怪異を祈伏せようと、三山の法力を用い、秘密の印を結んで、いら高の数珠を揉めば揉むほど、夥多しく一面に生えて、次第に数を増すのである。
茸は立衆、いずれも、見徳、嘯吹、上髭、思い思いの面を被り、括袴、脚絆、腰帯、水衣に包まれ、揃って、笠を被る。塗笠、檜笠、竹子笠、菅の笠。松茸、椎茸、とび茸、おぼろ編笠、名の知れぬ、菌ども。笠の形を、見物は、心のままに擬らえ候え。
「――あれあれ、」
女山伏の、優しい声して、
「思いなしか、茸の軸に、目、鼻、手、足のようなものが見ゆる。」
と言う。詞につれて、如法の茸どもの、目を剥き、舌を吐いて嘲けるのが、憎く毒々しいまで、山伏は凛とした中にもかよわく見えた。
いくち、しめじ、合羽、坊主、熊茸、猪茸、虚無僧茸、のんべろ茸、生える、殖える。蒸上り、抽出る。……地蔵が化けて月のむら雨に托鉢をめさるるごとく、影朧に、のほのほと並んだ時は、陰気が、緋の毛氈の座を圧して、金銀のひらめく扇子の、秋草の、露も砂子も暗かった。
女性の山伏は、いやが上に美しい。
ああ、窓に稲妻がさす。胸がとどろく。
たちまち、この時、鬼頭巾に武悪の面して、極めて毒悪にして、邪相なる大茸が、傘を半開きに翳し、みしと面をかくして顕われた。しばらくして、この傘を大開きに開く、鼻を嘯き、息吹きを放ち、毒を嘯いて、「取て噛もう、取て噛もう。」と躍りかかる。取着き引着き、十三の茸は、アドを、なやまし、嬲り嬲り、山伏もともに追込むのが定であるのに。――
「あれへ、毒々しい半びらきの菌が出た、あれが開いたらばさぞ夥多しい事であろう。」
山伏の言につれ、件の毒茸が、二の松を押す時である。
幕の裙から、ひょろりと出たものがある。切禿で、白い袖を着た、色白の、丸顔の、あれは、いくつぐらいだろう、這うのだから二つ三つと思う弱々しい女の子で、かさかさと衣ものの膝ずれがする。菌の領した山家である。舞台は、山伏の気が籠って、寂としている。ト、今まで、誰一人ほとんど跫音を立てなかった処へ、屋根は熱し、天井は蒸して、吹込む風もないのに、かさかさと聞こえるので、九十九折の山路へ、一人、篠、熊笹を分けて、嬰子の這出したほど、思いも掛けねば無気味である。
ああ、山伏を見て、口で、ニヤリと笑う。
悚然とした。
「鷺流?」
這う子は早い。谿河の水に枕なぞ流るるように、ちょろちょろと出て、山伏の裙に絡わると、あたかも毒茸が傘の轆轤を弾いて、驚破す、取て噛もう、とあるべき処を、――
「焼き食おう!」
と、山伏の、いうと斉しく、手のしないで、数珠を振って、ぴしりと打って、不意に魂消て、傘なりに、毒茸は膝をついた。
返す手で、
「焼きくおう。焼きくおう。」
鼻筋鋭く、頬は白澄む、黒髪は兜巾に乱れて、生競った茸の、のほのほと並んだのに、打振うその数珠は、空に赤棟蛇の飛ぶがごとく閃いた。が、いきなり居すくまった茸の一つを、山伏は諸手に掛けて、すとんと、笠を下に、逆に立てた。二つ、三つ、四つ。――
多くは子方だったらしい。恐れて、魅せられたのであろう。
長上下は、脇座にとぼんとして、ただ首の横ざまに傾きまさるのみである。
「一樹さん。」
真蒼になって、身体のぶるぶると震う一樹の袖を取った、私の手を、その帷子が、落葉、いや、茸のような触感で衝いた。
あの世話方の顔と重って、五六人、揚幕から。切戸口にも、楽屋の頭が覗いたが、ただ目鼻のある茸になって、いかんともなし得ない。その二三秒時よ。稲妻の瞬く間よ。
見物席の少年が二三人、足袋を空に、逆になると、膝までの裙を飜して仰向にされた少女がある。マッシュルームの類であろう。大人は、立構えをし、遁身になって、声を詰めた。
私も立とうとした。あの舞台の下は火になりはしないか。地震、と欄干につかまって、目を返す、森を隔てて、煉瓦の建もの、教会らしい尖塔の雲端に、稲妻が蛇のように縦にはしる。
静寂、深山に似たる時、這う子が火のつくように、山伏の裙を取って泣出した。
トウン――と、足拍子を踏むと、膝を敷き、落した肩を左から片膚脱いだ、淡紅の薄い肌襦袢に膚が透く。眉をひらき、瞳を澄まして、向直って、
「幹次郎さん。」
「覚悟があります。」
つれに対すると、客に会釈と、一度に、左右へ言を切って、一樹、幹次郎は、すっと出て、一尺ばかり舞台の端に、女の褄に片膝を乗掛けた。そうして、一度押戴くがごとくにして、ハタと両手をついた。
「かなしいな。……あれから、今もひもじいわ。」
寂しく微笑むと、掻いはだけて、雪なす胸に、ほとんど玲瓏たる乳が玉を欺く。
「御覧なさい――不義の子の罰で、五つになっても足腰が立ちません。」
「うむ、起て。……お起ち、私が起たせる。」
と、かッきと、腕にその泣く子を取って、一樹が腰を引立てたのを、添抱きに胸へ抱いた。
「この豆府娘。」
と嘲りながら、さもいとしさに堪えざるごとく言う下に、
「若いお父さんに骨をお貰い。母さんが血をあげる。」
俯向いて、我と我が口にその乳首を含むと、ぎんと白妙の生命を絞った。ことこと、ひちゃひちゃ、骨なし子の血を吸う音が、舞台から響いた。が、子の口と、母の胸は、見る見る紅玉の柘榴がこぼれた。
颯と色が薄く澄むと――横に倒れよう――とする、反らした指に――茸は残らず這込んで消えた――塗笠を拾ったが、
「お客さん――これは人間ではありません。――紅茸です。」
といって、顔をかくして、倒れた。顔はかくれて、両手は十ウの爪紅は、世に散る卍の白い痙攣を起した、お雪は乳首を噛切ったのである。
一昨年の事である。この子は、母の乳が、肉と血を与えた。いま一樹の手に、ふっくりと、且つ健かに育っている。
不思議に、一人だけ生命を助かった女が、震災の、あの劫火に追われ追われ、縁あって、玄庵というのに助けられた。その妾であるか、娘分であるかはどうでもいい。老人だから、楽屋で急病が起って、踊の手練が、見真似の舞台を勤めたというので、よくおわかりになろうと思う。何、何、なぜ、それほどの容色で、酒場へ出なかった。とおっしゃるか? それは困る、どうも弱ったな。一樹でも分るまい。なくなった、みどり屋のお雪さんに……お聞き下さい。
昭和五(一九三○)年九月
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