四 滝の白糸は越後の国新潟(にいがた)の産にして、その地特有の麗質を備えたるが上に、その手練の水芸は、ほとんど人間業(わざ)を離れて、すこぶる驚くべきものなりき。さればいたるところ大入り叶(かな)わざるなきがゆえに、四方の金主(きんす)は渠(かれ)を争いて、ついに例(ためし)なき莫大(ばくだい)の給金を払うに到(いた)れり。 渠は親もあらず、同胞(はらから)もあらず、情夫(つきもの)とてもあらざれば、一切(いっさい)の収入はことごとくこれをわが身ひとつに費やすべく、加うるに、豁達豪放(かったつごうほう)の気は、この余裕あるがためにますます膨張(ぼうちょう)して、十金(じっきん)を獲(う)れば二十金(にじっきん)を散ずべき勢いをもって、得るままに撒(ま)き散らせり。これ一つには、金銭を獲るの難(かた)きを渠は知らざりしゆえなり。 渠はまた貴族的生活を喜ばず、好みて下等社会の境遇を甘んじ、衣食の美と辺幅の修飾とを求めざりき。渠のあまりに平民的なる、その度を放越(ほうえつ)して鉄拐(てっか)となりぬ。往々見るところの女流の鉄拐は、すべて汚行と、罪業と、悪徳との養成にあらざるなし。白糸の鉄拐はこれを天真に発して、きわめて純潔清浄なるものなり。 渠は思うままにこの鉄拐を振り舞わして、天高く、地広く、この幾歳(いくとせ)をのどかに過ごしたりけるが、いまやすなわちしからざるなり。村越欣弥は渠が然諾を信じて東京に遊学せり。高岡に住めるその母は、箸(はし)を控えて渠が饋餉(きしょう)を待てり。白糸は月々渠らを扶持すべき責任ある世帯持ちの身となれり。 従来の滝の白糸は、まさにその放逸を縛し、その奇骨を挫(ひし)ぎて、世話女房のお友とならざるを得ざるべきなり。渠はついにその責任のために石を巻き、鉄を捩(ね)じ、屈すべからざる節を屈して、勤倹小心の婦人となりぬ。その行ないにおいてはなおかつ滝の白糸たる活気をば有(たも)ちつつ、その精神は全く村越友として経営苦労しつ。その間は実に三年(みとせ)の長きに亙(わた)れり。 あるいは富山(とやま)に赴(い)き、高岡に買われ、はた大聖寺(だいしょうじ)福井に行き、遠くは故郷の新潟に興行し、身を厭(いと)わず八方に稼(かせ)ぎ廻(まわ)りて、幸いにいずくも外(はず)さざりければ、あるいは血をも濺(そそ)がざるべからざる至重(しちょう)の責任も、その収入によりて難なく果たされき。 されども見世物の類(たぐい)は春夏の二季を黄金期とせり。秋は漸(ようや)く寂しく、冬は霜枯れの哀れむべきを免れざるなり。いわんや北国の雪(せつ)世界はほとんど一年の三分の一を白き物の中に蟄居(ちっきょ)せざるべからざるや。ことに時候を論ぜざる見世物と異なりて、渠の演芸はおのずから夏炉冬扇のきらいあり。その喝采(やんや)は全く暑中にありて、冬季は坐食す。 よし渠は糊口(ここう)に窮せざるも、月々十数円の工面(くめん)は尋常手段の及ぶべきにあらざるなり。渠はいかにしてかなき袖(そで)を振りける? 魚は木に縁(よ)りて求むべからず、渠は他日の興行を質入れして前借りしたりしなり。 その一年、その二年は、とにもかくにもかくのごとき算段によりて過ごしぬ。その三年ののちは、さすがに八方塞(ふさ)がりて、融通の道も絶えなむとせり。 翌年の初夏金沢の招魂祭を当て込みて、白糸の水芸は興行せられたりき。渠は例の美しき姿と妙なる技(わざ)とをもって、希有(けう)の人気を取りたりしかば、即座に越前福井なるなにがしという金主附(つ)きて、金沢を打ち揚げしだい、二箇月間三百円にて雇わんとの相談は調(ととの)いき。 白糸は諸方に負債ある旨を打ち明けて、その三分の二を前借りし、不義理なる借金を払いて、手もとに百余円を剰(あま)してけり。これをもってせば欣弥母子(おやこ)が半年の扶持に足るべしとて、渠は顰(ひそ)みたりし愁眉(しゅうび)を開けり。 されども欣弥は実際半年間の仕送りを要せざるなり。 渠の希望(のぞみ)はすでに手の達(とど)くばかりに近づきて、わずかにここ二、三箇月を支(ささ)うるを得ば足れり。無頓着(むとんじゃく)なる白糸はただその健康を尋ぬるのみに安んじて、あえてその成業の期を問わず、欣弥もまたあながちこれを告げんとは為(な)さざりき。その約に負(そむ)かざらんことを虞(おそ)るる者と、恩中に恩を顧みざる者とは、おのおのその務むべきところを務むるに専(もっぱら)なりき。 かくて翌日まさに福井に向かいて発足すべき三日目の夜の興行を(お)わりたりしは、一時に垂(なんな)んとするころなりき。白昼(ひるま)を欺くばかりなりし公園内の万燈(まんどう)は全く消えて、雨催(あまもよい)の天(そら)に月はあれども、四面※(おうぼつ)[#「さんずい+孛」、49-15]として煙(けぶり)の布(し)くがごとく、淡墨(うすずみ)を流せる森のかなたに、たちまち跫音(あしおと)の響きて、がやがやと罵(ののし)る声せるは、見世物師らが打ち連れ立ちて公園を引き払うにぞありける。この一群れの迹(あと)に残りて語合(かたら)う女あり。「ちょいと、お隣の長松(ちょうまつ)さんや、明日(あした)はどこへ行きなさる?」 年増(としま)の抱(いだ)ける猿(さる)の頭を撫(な)でて、かく訊(たず)ねしは、猿芝居と小屋を並べし轆轤首(ろくろくび)の因果娘なり。「はい、明日は福井まで参じます」 年増は猿に代わりて答えぬ。轆轤首は愛相よく、「おおおお、それはまあ遠い所へ」「はい、ちと遠方でございますと言いなよ。これ、長松、ここがの、金沢の兼六園といって、百万石のお庭だよ。千代公(ちょんこ)のほうは二度目だけれど、おまえははじめてだ。さあよく見物しなよ」 渠は抱(いだ)きし猿を放ち遣(や)りぬ。 折からあなたの池のあたりに、マッチの火のぱっと燃えたる影に、頬被(ほおかぶ)りせる男の顔は赤く顕(あら)われぬ。黒き影法師も両三箇(ふたつみつ)そのかたわらに見えたりき。因果娘は偸視(すかしみ)て、「おや、出刃打ちの連中があすこに憩(やす)んでいなさるようだ」「どれどれ」と見向く年増の背後(うしろ)に声ありて、「おい、そろそろ出掛けようぜ」 旅装束したる四、五人の男は二人のそばに立ち住(ど)まりぬ。年増は直ちに猿を抱き取りて、「そんなら、姉(ねえ)さん」「参りましょうかね」 両箇(ふたり)の女は渠らとともに行きぬ。続きて一団また一団、大蛇(だいじゃ)を籠(かご)に入れて荷(にな)う者と、馬に跨(またが)りて行く曲馬芝居の座頭(ざがしら)とを先に立てて、さまざまの動物と異形の人類が、絡繹(らくえき)として森蔭(もりかげ)に列を成せるその状(さま)は、げに百鬼夜行一幅の活図(かっと)なり。 ややありて渠らはみな行き尽くせり。公園は森邃(しんすい)として月色ますます昏(くら)く、夜はいまや全くその死寂に眠れるとき、谺(こだま)に響き、水に鳴りて、魂消(たまぎ)る一声(ひとこえ)、「あれえ!」 五 水は沈濁して油のごとき霞(かすみ)が池(いけ)の汀(みぎわ)に、生死も分かず仆(たお)れたる婦人あり。四肢(し)を弛(ゆる)めて地(つち)に領伏(ひれふ)し、身動きもせでしばらく横たわりたりしが、ようよう枕(まくら)を返して、がっくりと頭(かしら)を俛(た)れ、やがて草の根を力におぼつかなくも立ち起(あ)がりて、(よろめ)く体(たい)をかたわらなる露根松(ねあがりまつ)に辛(から)くも支(ささ)えたり。 その浴衣(ゆかた)は所々引き裂け、帯は半ば解(ほど)けて脛(はぎ)を露(あら)わし、高島田は面影を留(とど)めぬまでに打ち頽(くず)れたり。こはこれ、盗難に遇(あ)えりし滝の白糸が姿なり。 渠はこの夜の演芸を(お)わりしのち、連日の疲労一時に発して、楽屋の涼しき所に交睫(まどろ)みたりき。一座の連中は早くも荷物を取纏(まと)めて、いざ引き払わんと、太夫(たゆう)の夢を喚(よ)びたりしに、渠は快眠を惜しみて、一足先に行けと現(うつつ)に言い放ちて、再び熟睡せり。渠らは豪放なる太夫の平常(へいぜい)を識(し)りければ、その言うままに捨て置きて立ち去りけるなり。 程(ほど)経て白糸は目覚(めざ)ましぬ。この空小屋(あきごや)のうちに仮寝(うたたね)せし渠の懐(ふところ)には、欣弥が半年の学資を蔵(おさ)めたるなり。されども渠は危うかりしとも思わず、昼の暑さに引き替えて、涼しき真夜中の幽静(しずか)なるを喜びつつ、福井の金主が待てる旅宿に赴(おもむ)かんとて、そこまで来たりけるに、ばらばらと小蔭より躍(おど)り出ずる人数(にんず)あり。 みなこれ屈竟(くっきょう)の大男(おおおのこ)、いずれも手拭(てぬぐ)いに面(おもて)を覆(つつ)みたるが五人ばかり、手に手に研(と)ぎ澄ましたる出刃庖丁(でばぼうちょう)を提(ひさ)げて、白糸を追っ取り巻きぬ。 心剛(こころたしか)なる女なれども、渠はさすがに驚きて佇(たたず)めり。狼藉者(ろうぜきもの)の一個(ひとり)は濁声(だみごえ)を潜めて、「おう、姉(ねえ)さん、懐中(ふところ)のものを出しねえ」「じたばたすると、これだよ、これだよ」 かく言いつつ他の一個(ひとり)はその庖丁を白糸の前に閃(ひらめ)かせば、四挺(ちょう)の出刃もいっせいに晃(きらめ)きて、女の眼(め)を脅かせり。 白糸はすでにその身は釜中(ふちゅう)の魚たることを覚悟せり。心はいささかも屈せざれども、力の及ぶべからざるをいかにせん。進みて敵すべからず、退きては遁(のが)るること難(かた)し。 渠はその平生(へいぜい)においてかつ百金を吝(お)しまざるなり。されども今夜懐(ふところ)にせる百金は、尋常一様の千万金に直(あたい)するものにして、渠が半身の精血とも謂(い)っつべきなり。渠は換えがたく吝しめり。今ここにこれを失わんか、渠はほとんど再びこれを獲(う)るの道あらざるなり。されども渠はついに失わざるべからざるか、豪放豁達(かったつ)の女丈夫も途方に暮れたりき。「何をぐずぐずしてやがるんで! サッサと出せ、出せ」 白糸は死守せんものと決心せり。渠の脣(くちびる)は黒くなりぬ。渠の声はいたく震いぬ。「これは与(や)られないよ」「与(く)れなけりゃ、ふんだくるばかりだ」「遣(や)っつけろ、遣っつけろ!」 その声を聞くとひとしく、白糸は背後(うしろ)より組み付かれぬ。振り払わんとする間もあらで、胸も挫(ひし)ぐるばかりの翼緊(はがいじ)めに遭(あ)えり。たちまち暴(あら)くれたる四隻(よつ)の手は、乱雑に渠の帯の間と内懐とを撈(かきさが)せり。「あれえ!」と叫びて援(すく)いを求めたりしは、このときの血声なりき。「あった、あった」と一個(ひとり)の賊は呼びぬ。「あったか、あったか」と両三人の声は※(こた)[#「應」の「心」に代えて「言」、53-13]えぬ。 白糸は猿轡(さるぐつわ)を吃(はま)されて、手取り足取り地上に推し伏せられつ。されども渠は絶えず身を悶(もだ)えて、跋(は)ね覆(か)えさんとしたりしなり。にわかに渠らの力は弛(ゆる)みぬ。虚(すか)さず白糸は起き復(かえ)るところを、はたと仆(けたお)されたり。賊はその隙(ひま)に逃げ失(う)せて行くえを知らず。 惜しみても、惜しみてもなお余りある百金は、ついに還(かえ)らざるものとなりぬ。白糸の胸中は沸くがごとく、焚(も)ゆるがごとく、万感の心(むね)を衝(つ)くに任せて、無念已(や)む方(かた)なき松の下蔭(したかげ)に立ち尽くして、夜の更(ふ)くるをも知らざりき。「ああ、しかたがない、何も約束だと断念(あきら)めるのだ。なんの百ぐらい! 惜しくはないけれど、欣さんに済まない。さぞ欣さんが困るだろうねえ。ええ、どうしよう、どうしたらよかろう」 渠はひしとわが身を抱(いだ)きて、松の幹に打ち当てつ。ふとかたわらを見れば、漾々(ようよう)たる霞が池は、霜の置きたるように微黯(ほのぐら)き月影を宿せり。 白糸の眼色(めざし)はその精神の全力を鍾(あつ)めたるかと覚しきばかりの光を帯びて、病めるに似たる水の面(おも)を屹(き)と視(み)たり。「ええ、もうなんともかとも謂(い)えないいやな心地(こころもち)だ。この水を飲んだら、さぞ胸が清々するだろう! ああ死にたい。こんな思いをするくらいなら死んだほうがましだ。死のう! 死のう!」 渠は胸中の劇熱を消さんがために、この万斛(ばんこく)の水をば飲み尽くさんと覚悟せるなり。渠はすでに前後を忘じて、一心死を急ぎつつ、蹌踉(よろよろ)と汀(みぎわ)に寄れば、足下(あしもと)に物ありて晃(きらめ)きぬ。思わず渠の目はこれに住(とど)まりぬ。出刃庖丁なり! これ悪漢が持てりし兇器(きょうき)なるが、渠らは白糸を手籠(てご)めにせしとき、かれこれ悶着(もんちゃく)の間に取り遺(おと)せしを、忘れて捨て行きたるなり。 白糸はたちまち慄然(りつぜん)として寒さを感(おぼ)えたりしが、やがて拾い取りて月に翳(かざ)しつつ、「これを証拠に訴えれば手掛かりがあるだろう。そのうちにはまたなんとか都合もできよう。……これは今死ぬのは。……」 この証拠物件を獲(え)たるがために、渠はその死を思い遏(とどま)りて、いちはやく警察署に赴かんと、心変わればいまさら忌まわしきこの汀(みぎわ)を離れて、渠は推し仆(たお)されたりしあたりを過ぎぬ。無念の情は勃然(ぼつぜん)として起これり。繊弱(かよわ)き女子(おんな)の身なりしことの口惜(くちお)しさ! 男子(おとこ)にてあらましかばなど、言い効(がい)もなき意気地(いくじ)なさを憶(おも)い出でて、しばしはその恨めしき地を去るに忍びざりき。 渠は再び草の上に一物(あるもの)を見出だせり。近づきてとくと視れば、浅葱地(あさぎじ)に白く七宝繋(つな)ぎの洗い晒(ざら)したる浴衣(ゆかた)の片袖(かたそで)にぞありける。 またこれ賊の遺物なるを白糸は暁(さと)りぬ。けだし渠が狼藉(ろうぜき)を禦(ふせ)ぎし折に、引き断(ちぎ)りたる賊の衣(きぬ)の一片なるべし。渠はこれをも拾い取り、出刃を裹(つつ)みて懐中(ふところ)に推し入れたり。 夜はますます闌(た)けて、霄(そら)はいよいよ曇りぬ。湿りたる空気は重く沈みて、柳の葉末も動かざりき。歩むにつれて、足下(あしもと)の叢(くさむら)より池に跋(は)ね込む蛙(かわず)は、礫(つぶて)を打つがごとく水を鳴らせり。 行く行く項(うなじ)を低(た)れて、渠は深くも思い悩みぬ。「だが、警察署へ訴えたところで、じきにあいつらが捕(つかま)ろうか。捕ったところで、うまく金子(かね)が戻るだろうか。あぶないものだ。そんなことを期(あて)にしてぐずぐずしているうちには、欣さんが食うに窮(こま)ってくる。私の仕送りを頼みにしている身の上なのだから、お金が到(い)かなかった日には、どんなに窮るだろう。はてなあ! 福井の金主のほうは、三百円のうち二百円前借りをしたのだから、まだ百円というものはあるのだ。貸すだろうか、貸すまい。貸さない、貸さない、とても貸さない! 二百円のときでもあんなに渋ったのだ。けれども、こういう事情(わけ)だとすっかり打ち明けて、ひとつ泣き付いてみようかしらん。だめなことだ、あの老爺(おやじ)だもの。のべつに小癪(こしゃく)に障(さわ)ることばっかり陳(なら)べやがって、もうもうほんとに顔を見るのもいやなんだ。そのくせまた持ってるのだ! どうしたもんだろうなあ。ああ、窮った、窮った。やっぱり死ぬのか。死ぬのはいいが、それじゃどうも欣さんに義理が立たない。それが何より愁(つら)い! といって才覚のしようもなし。……」 陰々として鐘声の度(わた)るを聞けり。「もう二時だ。はてなあ!」 白糸は思案に余って、歩むべき力も失せつ。われにもあらで身を靠(もた)せたるは、未央柳(びおうりゅう)の長く垂(た)れたる檜(ひのき)の板塀(いたべい)のもとなりき。 こはこれ、公園地内に六勝亭(ろくしょうてい)と呼べる席貸(せきが)しにて、主翁(あるじ)は富裕の隠居なれば、けっこう数寄(すき)を尽くして、営業のかたわらその老いを楽しむところなり。 白糸が佇(たたず)みたるは、その裏口の枝折(しおり)門の前なるが、いかにして忘れたりけむ、戸を鎖(さ)さでありければ、渠が靠(もた)るるとともに戸はおのずから内に啓(ひら)きて、吸い込むがごとく白糸を庭の内にぞ引き入れたる。 渠はしばらく惘然(ぼうぜん)として佇みぬ。その心には何を思うともなく、きょろきょろとあたりを(みまわ)せり。幽寂に造られたる平庭を前に、縁の雨戸は長く続きて、家内は全く寝鎮(ねしず)まりたる気勢(けはい)なり。白糸は一歩を進め、二歩を進めて、いつしか「寂然の森(しげり)」を出でて、「井戸囲い」のほとりに抵(いた)りぬ。 このとき渠は始めて心着きて驚けり。かかる深夜に人目を窃(ぬす)みて他の門内に侵入するは賊の挙動(ふるまい)なり。われははからずも賊の挙動をしたるなりけり。 ここに思い到(いた)りて、白糸はいまだかつて念頭に浮かばざりし盗(とう)というなる金策の手段あるを心着きぬ。ついで懐なる兇器に心着きぬ。これ某(なにがし)らがこの手段に用いたりし記念(かたみ)なり。白糸は懐に手を差し入れつつ、頭(かしら)を傾けたり。 良心は疾呼(しっこ)して渠を責めぬ。悪意は踴躍(ゆうやく)して渠を励ませり。渠は疾呼の譴責(けんせき)に遭(あ)いては慚悔(ざんかい)し、また踴躍の教峻を受けては然諾せり。良心と悪意とは白糸の恃(たの)むべからざるを知りて、ついに迭(たが)いに闘(たたか)いたりき。「道ならないことだ。そんな真似(まね)をした日には、二度と再び世の中に顔向けができない。ああ、恐ろしいことだ、……けれども才覚ができなければ、死ぬよりほかはない。この世に生きていないつもりなら、羞汚(はじ)も顔向けもありはしない。大それたことだけれども、金は盗(と)ろう。盗ってそうして死のう死のう!」 かく思い定めたれども、渠の良心はけっしてこれを可(ゆる)さざりき。渠の心は激動して、渠の身は波に盪(ゆら)るる小舟(おぶね)のごとく、安んじかねて行きつ、還(もど)りつ、塀ぎわに低徊(ていかい)せり。ややありて渠は鉢前(はちまえ)近く忍び寄りぬ。されどもあえて曲事(くせごと)を行なわんとはせざりしなり。渠(かれ)は再び沈吟せり。 良心に逐(お)われて恐惶(きょうこう)せる盗人は、発覚を予防すべき用意に遑(いとま)あらざりき。渠が塀ぎわに徘徊(はいかい)せしとき、手水口(ちょうずぐち)を啓(ひら)きて、家内の一個(ひとり)は早くすでに白糸の姿を認めしに、渠は鈍(おそ)くも知らざりけり。 鉢前の雨戸は不意に啓きて、人は面(おもて)を露(あら)わせり。白糸あなやと飛び退(すさ)る遑(ひま)もなく、「偸児(どろぼう)!」と男の声は号(さけ)びぬ。 白糸の耳には百雷の一時に落ちたるごとく轟(とどろ)けり。精神錯乱したるその瞬息に、懐なりし出刃は渠の右手(めて)に閃(ひらめ)きて、縁に立てる男の胸をば、柄(つか)も透(とお)れと貫きたり。 戸を犇(ひしめ)かして、男は打ち僵(たお)れぬ。朱(あけ)に染みたるわが手を見つつ、重傷(いたで)に唸(うめ)く声を聞ける白糸は、戸口に立ち竦(すく)みて、わなわなと顫(ふる)いぬ。 渠はもとより一点の害心だにあらざりしなり。われはそもそもいかにしてかかる不敵の振舞(ふるまい)をなせしかを疑いぬ。見れば、わが手は確かに出刃を握れり。その出刃は確かに男の胸を刺しけるなり。胸を刺せしによりて、男は殪(たお)れたるなり。されば人を殺せしはわれなり、わが手なりと思いぬ。されども白糸はわが心に、わが手に、人を殺せしを覚えざりしなり。渠は夢かと疑えり。「全く殺したのだ。こりゃ、まあ大変なことをした! どういう気で私はこんなことをしたろう?」 白糸は心乱れて、ほとんどその身を忘れたる背後(うしろ)に、「あなた、どうなすった?」 と聞こゆるは寝惚(ねぼ)れたる女の声なり。白糸は出刃を隠して、きっとそなたを見遣(みや)りぬ。 灯影(ひかげ)は縁を照らして、跫音(あしおと)は近づけり。白糸はひたと雨戸に身を寄せて、何者か来たると(うかが)いぬ。この家の内儀なるべし。五十ばかりの女は寝衣姿(ねまきすがた)のしどけなく、真鍮(しんちゅう)の手燭(てしょく)を翳(かざ)して、覚めやらぬ眼を(みひら)かんと面(おもて)を顰(ひそ)めつつ、よたよたと縁を伝いて来たりぬ。死骸(しがい)に近づきて、それとも知らず、「あなた、そんな所(とこ)に寝て……どうなすっ。……」 燈(あかし)を差し向けて、いまだその血に驚く遑(いとま)あらざるに、「静かに!」と白糸は身を露わして、庖丁を衝(つ)き付けたり。 内儀は賊の姿を見るより、ペったりと膝(ひざ)を折り敷き、その場に打ち俯(ふ)して、がたがたと慄(ふる)いぬ。白糸の度胸はすでに十分定まりたり。「おい、内君(おかみさん)、金を出しな。これさ、金を出せというのに」 俯して答(いら)えなき内儀の項(うなじ)を、出刃にてぺたぺたと拍(たた)けり。内儀は魂魄(たましい)も身に添わず、「は、は、はい、はい、は、はい」「さあ、早くしておくれ。たんとは要(い)らないんだ。百円あればいい」 内儀はせつなき呼吸(いき)の下より、「金子(かね)はあちらにありますから。……」「あっちにあるならいっしょに行こう。声を立てると、おいこれだよ」 出刃庖丁は内儀の頬(ほお)を見舞えり。渠はますます恐怖して立つ能(あた)わざりき。「さあ早くしないかい」「た、た、た、ただ……いま」 渠は立たんとすれども、その腰は挙(あ)がらざりき。されども渠はなお立たんと焦(あせ)りぬ。腰はいよいよ挙がらず。立たざればついに殺されんと、渠はいとど慌(あわ)てつ、悶(もだ)えつ、辛くも立ち起がりて導けり。二間(ふたま)を隔つる奥に伴いて、内儀は賊の需(もと)むる百円を出だせり。白糸はまずこれを収めて、「内君、いろいろなことを言ってきのどくだけれど、私の出たあとで声を立てるといけないから、少しの間だ、猿轡(さるぐつわ)を箝(は)めてておくれ」 渠は内儀を縛(いまし)めんとて、その細帯を解かんとせり。ほとんど人心地(ひとごこち)あらざるまでに恐怖したりし主婦(あるじ)は、このときようよう渠の害心あらざるを知るより、いくぶんか心落ちいつつ、はじめて賊の姿をば認め得たりしなり。こはそもいかに! 賊は暴(あら)くれたる大の男(おのこ)にはあらで、軆度(とりなり)優しき女子(おんな)ならんとは、渠は今その正体を見て、与(くみ)しやすしと思えば、「偸児(どろぼう)!」と呼び懸(か)けて白糸に飛び蒐(かか)りつ。 自糸は不意を撃たれて驚きしが、すかさず庖丁の柄(え)を返して、力任せに渠の頭を撃てり。渠は屈せず、賊の懐に手を捻(ね)じ込みて、かの百円を奪い返さんとせり。白糸はその手に咬(か)み着き、片手には庖丁振り抗(あ)げて、再び柄をもて渠の脾腹(ひばら)を吃(くら)わしぬ。「偸児! 人殺し!」と地蹈鞴(じだたら)を踏みて、内儀はなお暴(あら)らかに、なおけたたましく、「人殺し! 人殺しだ!」と血声を絞りぬ。 これまでなりと観念したる白糸は、持ちたる出刃を取り直し、躍り狂う内儀の吭(のんど)を目懸(めが)けてただ一突きと突きたりしに、覘(ねら)いを外(はず)して肩頭(かたさき)を刎(は)ね斫(き)りたり。 内儀は白糸の懐に出刃を裹(つつ)みし片袖を撈(さぐ)り得(あ)てて、引っ掴(つか)みたるまま遁(のが)れんとするを、畳み懸けてその頭(かしら)に斫(き)り着けたり。渠はますます狂いて再び喚(わめ)かんとしたりしかば、白糸は触(あた)るを幸いめった斫(ぎ)りにして、弱るところを乳の下深く突き込みぬ。これ実に最後の一撃なりけるなり。白糸は生まれてよりいまだかばかりおびただしき血汐(ちしお)を見ざりき。一坪の畳は全く朱(あけ)に染みて、あるいは散り、あるいは迸(ほとばし)り、あるいはぽたぽたと滴(したた)りたる、その痕(あと)は八畳の一間にあまねく、行潦(にわたずみ)のごとき唐紅(からくれない)の中に、数箇所の傷を負いたる内儀の、拳(こぶし)を握り、歯を噛(く)い緊(し)めてのけざまに顛覆(うちかえ)りたるが、血塗(ちまぶ)れの額越(ひたいご)しに、半ば閉じたる眼(まなこ)を睨(にら)むがごとく凝(す)えて、折もあらばむくと立たんずる勢いなり。 白糸は生まれてより、いまだかかる最期(さいご)の愴惻(あさましき)を見ざりしなり。かばかりおびただしき血汐! かかるあさましき最期! こはこれ何者の為業(しわざ)なるぞ。ここに立てるわが身のなせし業なり。われながら恐ろしきわが身かな、と白糸は念(おも)えり。渠の心は再び得堪(えた)うまじく激動して、その身のいまや殺されんとするを免(のが)れんよりも、なお幾層の危うき、恐ろしき想(おも)いして、一秒もここにあるにあられず、出刃を投げ棄(す)つるより早く、あとをも見ずしていっさんに走り出ずれば、心急(こころせ)くまま手水口の縁に横たわる躯(むくろ)のひややかなる脚(あし)に跌(つまず)きて、ずでんどうと庭前(にわさき)に転(まろ)び墜(お)ちぬ。渠は男の甦(よみがえ)りたるかと想いて、心も消え消えに枝折門まで走れり。 風やや起こりて庭の木末(こずえ)を鳴らし、雨はぽっつりと白糸の面(おもて)を打てり。
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