三 夜(よ)はすでに十一時に近づきぬ。磧(かわら)は凄涼(せいりょう)として一箇(ひとり)の人影(じんえい)を見ず、天高く、露気(ろき)ひややかに、月のみぞひとり澄めりける。 熱鬧(ねっとう)を極(きわ)めたりし露店はことごとく形を斂(おさ)めて、ただここかしこに見世物小屋の板囲いを洩(も)るる燈火(ともしび)は、かすかに宵のほどの名残(なごり)を留(とど)めつ。河(かわ)は長く流れて、向山(むこうやま)の松風静かに度(わた)る処(ところ)、天神橋の欄干に靠(もた)れて、うとうとと交睫(まどろ)む漢子(おのこ)あり。 渠(かれ)は山に倚(よ)り、水に臨み、清風を担(にな)い、明月を戴(いただ)き、了然たる一身、蕭然(しょうぜん)たる四境、自然の清福を占領して、いと心地(ここち)よげに見えたりき。 折から磧の小屋より顕(あら)われたる婀娜者(あだもの)あり。紺絞りの首抜きの浴衣(ゆかた)を着て、赤毛布(ゲット)を引き絡(まと)い、身を持て余したるがごとくに歩みを運び、下駄(げた)の爪頭(つまさき)に戞々(かつかつ)と礫(こいし)を蹴遣(けや)りつつ、流れに沿いて逍遥(さまよ)いたりしが、瑠璃(るり)色に澄み渡れる空を打ち仰ぎて、「ああ、いいお月夜だ。寝るには惜しい」 川風はさっと渠の鬢(びん)を吹き乱せり。「ああ、薄ら寒くなってきた」 しかと毛布(ケット)を絡(まと)いて、渠はあたりを(みまわ)しぬ。「人っ子一人いやしない。なんだ、ほんとに、暑いときはわあわあ騒いで、涼しくなる時分には寝てしまうのか。ふふ、人間というものはいこじなもんだ。涼むんならこういうときじゃないか。どれ、橋の上へでも行ってみようか。人さえいなけりゃ、どこでもいい景色(けしき)なもんだ」 渠は再び徐々として歩を移せり。 この女は滝の白糸なり。渠らの仲間は便宜上旅籠(はたご)を取らずして、小屋を家とせるもの寡(すく)なからず。白糸も然(さ)なり。 やがて渠は橋に来りぬ。吾妻下駄(あずまげた)の音は天地の寂黙(せきもく)を破りて、からんころんと月に響けり。渠はその音の可愛(おかし)さに、なおしいて響かせつつ、橋の央(なかば)近く来たれるとき、やにわに左手(ゆんで)を抗(あ)げてその高髷(たかまげ)を攫(つか)み、「ええもう重っ苦しい。ちょっうるせえ!」 暴々(あらあら)しく引き解(ほど)きて、手早くぐるぐる巻きにせり。「ああこれで清々した。二十四にもなって高島田に厚化粧でもあるまい」 かくて白糸は水を聴(き)き、月を望み、夜色の幽静を賞して、ようやく橋の半ばを過ぎぬ。渠はたちまちのんきなる人の姿を認めぬ。何者かこれ、天地を枕衾(ちんきん)として露下月前に快眠せる漢子(おのこ)は、数歩のうちにありて(いびき)を立てつ。「おや! いい気なものだよ。だれだい、新じゃないか」 囃子方(はやしかた)に新という者あり。宵より出(い)でていまだ小屋に還(かえ)らざれば、それかと白糸は間近に寄りて、男の寝顔を(のぞ)きたり。 新はいまだかくのごとくのんきならざるなり。渠ははたして新にはあらざりき。新の相貌(そうぼう)はかくのごとく威儀あるものにあらざるなり。渠は千の新を合わせて、なおかつ勝(まさ)ること千の新なるべき異常の面魂(つらだましい)なりき。 その眉(まゆ)は長くこまやかに、睡(ねむ)れる眸子(まなじり)も凛如(りんじょ)として、正しく結びたる脣(くちびる)は、夢中も放心せざる渠が意気の俊爽(しゅんそう)なるを語れり。漆のごとき髪はやや生(お)いて、広き額(ひたい)に垂れたるが、吹き揚ぐる川風に絶えず戦(そよ)げり。 つくづく視(なが)めたりし白糸はたちまち色を作(な)して叫びぬ。「あら、まあ! 金さんだよ」 欄干に眠れるはこれ余人ならず、例の乗り合い馬車の馭者(ぎょしゃ)なり。「どうして今時分こんなところにねえ」 渠は跫音(あしおと)を忍びて、再び男に寄り添いつつ、「ほんとに罪のない顔をして寝ているよ」 恍惚(こうこつ)として瞳(ひとみ)を凝らしたりしが、にわかにおのれが絡(まと)いし毛布(ケット)を脱ぎて被(き)せ懸(か)けたれども、馭者は夢にも知らで熟睡(うまいね)せり。 白糸は欄干に腰を憩(やす)めて、しばらくなすこともあらざりしが、突然声を揚げて、「ええひどい蚊だ」膝(ひざ)のあたりをはたと拊(う)てり。この音にや驚きけん、馭者は眼覚(めさ)まして、叭(あくび)まじりに、「ああ、寝た。もう何時(なんどき)か知らん」 思い寄らざりしわがかたわらに媚(なま)めける声ありて、「もうかれこれ一時ですよ」 馭者は愕然(がくぜん)として顧みれば、わが肩に見覚えぬ毛布(ケット)ありて、深夜の寒を護(まも)れり。「や、毛布を着せてくだすったのは! あなた? でございますか」 白糸は微笑(えみ)を含みて、呆(あき)れたる馭者の面(おもて)を視(み)つつ、「夜露に打たれると体(からだ)の毒ですよ」 馭者は黙して一礼せり。白糸はうれしげに身を進めて、「あなた、その後は御機嫌(ごきげん)よう」 いよいよ呆(あき)れたる馭者は少しく身を退(すさ)りて、仮初(かりそめ)ながら、狐狸変化(こりへんげ)のものにはあらずやと心ひそかに疑えり。月を浴びてものすごきまで美しき女の顔を、無遠慮に打ち眺(なが)めたる渠の眼色(めざし)は、顰(ひそ)める眉の下より異彩を放てり。「どなたでしたか、いっこう存じません」白糸は片頬笑(かたほえ)みて、「あれ、情なしだねえ。私は忘れやしないよ」「はてな」と馭者は首(こうべ)を傾けたり。「金さん」と女はなれなれしく呼びかけぬ。 馭者はいたく驚けり。月下の美人生面(せいめん)にしてわが名を識(し)る。馭者たる者だれか驚かざらんや。渠は実にいまだかつて信ぜざりし狐狸(こり)の類にはあらずや、と心はじめて惑いぬ。「おまえさんはよっぽど情なしだよ。自分の抱いた女を忘れるなんということがあるものかね」「抱いた? 私が?」「ああ、お前さんに抱かれたのさ」「どこで?」「いい所(とこ)で!」 袖(そで)を掩(おお)いて白糸は嫣然(えんぜん)一笑せり。 馭者は深く思案に暮れたりしが、ようよう傾けし首(こうべ)を正して言えり。「抱いた記憶(おぼえ)はないが、なるほどどこかで見たようだ」「見たようだもないもんだ。高岡から馬車に乗ったとき、人力車と競走(かけっくら)をして、石動(いするぎ)手前からおまえさんに抱かれて、馬上(うま)の合い乗りをした女さ」「おお! そうだ」横手(よこで)を拍(う)ちて、馭者は大声(たいせい)を発せり、白糸はその声に驚かされて、「ええびっくりした。ねえおまえさん、覚えておいでだろう」「うむ、覚えとる。そうだった、そうだった」 馭者は脣辺(しんぺん)に微笑を浮かべて、再び横手を拍てり。「でも言われるまで憶(おも)い出さないなんざあ、あんまり不実すぎるのねえ」「いや、不実というわけではないけれど、毎日何十人という客の顔を、いちいち覚えていられるものではない」「それはごもっともさ。そうだけれども、馬上(うま)の合い乗りをするお客は毎日はありますまい」「あんなことが毎日あられてたまるものか」 二人は相見て笑いぬ。ときに数杵(すうしょ)の鐘声遠く響きて、月はますます白く、空はますます澄めり。 白糸はあらためて馭者に向かい、「おまえさん、金沢へは何日(いつ)、どうしてお出でなすったの?」 四顧寥廓(しこりょうかく)として、ただ山水と明月とあるのみ。戻(りょうれい)たる天風(てんぷう)はおもむろに馭者の毛布(ケット)を飄(ひるがえ)せり。「実はあっちを浪人してね……」「おやまあ、どうして?」「これも君ゆえさ」と笑えば、「御冗談もんだよ」と白糸は流眄(ながしめ)に見遣(みや)りぬ。「いや、それはともかくも、話説(はなし)をせんけりゃ解(わか)らん」 馭者は懐裡(ふところ)を捜(さぐ)りて、油紙の蒲簀莨入(かますたばこい)れを取り出だし、いそがわしく一服を喫して、直ちに物語の端を発(ひら)かんとせり。白糸は渠が吸い殻を撃(はた)くを待ちて、「済みませんが、一服貸してくださいな」 馭者は言下(ごんか)に莨入れとマッチとを手渡して、「煙管が壅(つま)ってます」「いいえ、結構」 白糸は一吃(いっきつ)を試みぬ。はたしてその言(ことば)のごとく、煙管は不快(こころわろ)き脂(やに)の音のみして、煙(けむり)の通うこと縷(いとすじ)よりわずかなり。「なるほどこれは壅(つま)ってる」「それで吸うにはよっぽど力が要(い)るのだ」「ばかにしないねえ」 美人は紙縷(こより)を撚(ひね)りて、煙管を通し、溝泥(どぶどろ)のごとき脂に面(おもて)を皺(しわ)めて、「こら! 御覧な、無性(ぶしょう)だねえ。おまえさん寡夫(やもめ)かい」「もちろん」「おや、もちろんとは御挨拶(あいさつ)だ。でも、情婦(いろ)の一人や半分(はんぶん)はありましょう」「ばかな!」と馭者は一喝(いっかつ)せり。「じゃないの?」「知れたこと」「ほんとに?」「くどいなあ」 渠はこの問答を忌まわしげに空嘯(そらうそぶ)きぬ。「おまえさんの壮年(とし)で、独身(ひとりみ)で、情婦がないなんて、ほんとに男子(おとこ)の恥辱(はじ)だよ。私が似合わしいのを一人世話してあげようか」 馭者は傲然(ごうぜん)として、「そんなものは要(い)らんよ」「おや、ご免なさいまし。さあ、お掃除(そうじ)ができたから、一服戴(いただ)こう」 白糸はまず二服を吃(きっ)して、三服目を馭者に、「あい、上げましょう」「これはありがとう。ああよく通ったね」「また壅(つま)ったときは、いつでも持ってお出でなさい」 大口開(あ)いて馭者は心快(こころよ)げに笑えり。白糸は再び煙管を仮(か)りて、のどかに烟(けぶり)を吹きつつ、「今の顛末(はなし)というのを聞かしてくださいな」 馭者は頷(うなず)きて、立てりし態(すがた)を変えて、斜めに欄干に倚(よ)り、「あのとき、あんな乱暴を行(や)って、とうとう人力車を乗っ越したのはよかったが、きゃつらはあれを非常に口惜(くや)しがってね、会社へむずかしい掛け合いを始めたのだ」 美人は眉(まゆ)を昂(あ)げて、「なんだってまた?」「何もかにも理窟(りくつ)なんぞはありゃせん。あの一件を根に持って、喧嘩(けんか)を仕掛けに来たのさね」「うむ、生意気な! どうしたい?」「相手になると、事がめんどうになって、実は双方とも商売のじゃまになるのだ。そこで、会社のほうでは穏便(おんびん)がいいというので、むろん片手落ちの裁判だけれど、私が因果を含められて、雇を解かれたのさ」 白糸は身に沁(し)む夜風にわれとわが身を抱(いだ)きて、「まあ、おきのどくだったねえ」 渠は慰むる語(ことば)なきがごとき面色(おももち)なりき。馭者は冷笑(あざわら)いて、「なあに、高が馬方だ」「けれどもさ、まことにおきのどくなことをしたねえ、いわば私のためだもの」 美人は愁然として腕を拱(こまぬ)きぬ。馭者はまじめに、「その代わり煙管の掃除をしてもらった」「あら、冗談じゃないよ、この人は。そうしておまえさんこれからどうするつもりなの?」「どうといって、やっぱり食う算段さ。高岡に彷徨(ぶらつ)いていたって始まらんので、金沢には士官がいるから、馬丁(べっとう)の口でもあるだろうと思って、探(さが)しに出て来た。今日(きょう)も朝から一日奔走(かけある)いたので、すっかり憊(くたび)れてしまって、晩方一風呂(ひとっぷろ)入(はい)ったところが、暑くて寝られんから、ぶらぶら納涼(すずみ)に出掛けて、ここで月を観(み)ていたうちに、いい心地(こころもち)になって睡(ね)こんでしまった」「おや、そう。そうして口はありましたか」「ない!」と馭者は頭(かしら)を掉(ふ)りぬ。 白糸はしばらく沈吟したりしが、「あなた、こんなことを申しちゃ生意気だけれど、お見受け申したところが、馬丁なんぞをなさるような御人体じゃないね」 馭者は長嘆せり。「生得(うまれ)からの馬丁でもないさ」 美人は黙して頷(うなず)きぬ。「愚痴(ぐち)じゃあるが、聞いてくれるか」 わびしげなる男の顔をつくづく視(なが)めて、白糸は渠の物語るを待てり。「私は金沢の士族だが、少し仔細(しさい)があって、幼少(ちいさい)ころに家(うち)は高岡へ引っ越したのだ。そののち私一人金沢へ出て来て、ある学校へ入っているうち、阿爺(おやじ)に亡(な)くなられて、ちょうど三年前だね、余儀なく中途で学問は廃止(やめ)さ。それから高岡へ還(かえ)ってみると、その日から稼(かせ)ぎ人というものがないのだ。私が母親を過ごさにゃならんのだ。何を言うにも、まだ書生中の体(からだ)だろう、食うほどの芸はなし、実は弱ったね。亡父(おやじ)は馬の家じゃなかったけれど、大の所好(すき)で、馬術では藩で鳴らしたものだそうだ。それだから、私も小児(こども)の時分稽古(けいこ)をして、少しは所得(おぼえ)があるので、馬車会社へ住み込んで、馭者となった。それでまず活計(くらし)を立てているという、まことに愧(は)ずかしい次第さ。しかし、私だってまさか馬方で果てる了簡(りょうけん)でもない、目的も希望(のぞみ)もあるのだけれど、ままにならぬが浮き世かね」 渠は茫々(ぼうぼう)たる天を仰ぎて、しばらく悵然(ちょうぜん)たりき。その面上(おもて)にはいうべからざる悲憤の色を見たり。白糸は情に勝(た)えざる声音(こわね)にて、「そりゃあ、もうだれしも浮き世ですよ」「うむ、まあ、浮き世とあきらめておくのだ」「今おまえさんのおっしゃった希望(のぞみ)というのは、私たちには聞いても解(わか)りはしますまいけれど、なんぞ、その、学問のことでしょうね?」「そう、法律という学問の修行さ」「学問をするなら、金沢なんぞより東京のほうがいいというじゃありませんか」 馭者は苦笑いして、「そうとも」「それじゃいっそ東京へお出でなさればいいのにねえ」「行けりゃ行くさ。そこが浮き世じゃないか」 白糸は軽(かろ)く小膝(ひざ)を拊(う)ちて、「黄金(かね)の世の中ですか」「地獄の沙汰(さた)さえ、なあ」 再び馭者は苦笑いせり。 白糸は事もなげに、「じゃあなた、お出(い)でなさいな、ねえ、東京へさ。もし、腹を立っちゃいけませんよ、失礼だが、私が仕送ってあげようじゃありませんか」 深沈なる馭者の魂も、このとき跳(おど)るばかりに動(ゆらめ)きぬ。渠は驚くよりむしろ呆れたり。呆るるよりむしろ慄(おのの)きたるなり。渠は色を変えて、この美しき魔性(ましょう)のものを睨(ね)めたりけり。さきに半円の酒銭(さかて)を投じて、他の一銭よりも吝(お)しまざりしこの美人の胆(たん)は、拾人の乗り合いをしてそぞろに寒心せしめたりき。銀貨一片に目(とうもく)せし乗り合いよ、君らをして今夜天神橋上の壮語を聞かしめなば、肝胆たちまち破れて、血は耳に迸出(ほとばし)らん。花顔柳腰の人、そもそもなんじは狐狸(こり)か、変化(へんげ)か、魔性か。おそらくは※脂(えんし)[#「月+因」、35-8]の怪物なるべし。またこれ一種の魔性たる馭者だも驚きかつ慄けり。 馭者は美人の意(こころ)をその面(おもて)に読まんとしたりしが、能(あた)わずしてついに呻(うめ)き出だせり。「なんだって?」 美人も希有(けう)なる面色(おももち)にて反問せり。「なんだってとは?」「どういうわけで」「わけも何もありはしない、ただおまえさんに仕送りがしてみたいのさ」「酔興な!」と馭者はその愚に唾(つば)するがごとく独語(ひとりご)ちぬ。「酔興さ。私も酔興だから、おまえさんも酔興に一番(ひとつ)私の志を受けてみる気はなしかい。ええ、金さん、どうだね」 馭者はしきりに打ち案じて、とこうの分別に迷いぬ。「そんなに慮(かんが)えることはないじゃないか」「しかし、縁も由縁(ゆかり)もないものに……」「縁というものも始めは他人どうし。ここでおまえさんが私の志を受けてくだされば、それがつまり縁になるんだろうじゃありませんかね」「恩を受ければ報(かえ)さんければならぬ義務がある。その責任が重いから……」「それで断わるとお言いのかい。なんだねえ、報恩(おんがえし)ができるの、できないのと、そんなことを苦にするおまえさんでもなかろうじゃないか。私だって泥坊に伯父(おじ)さんがあるのじゃなし、知りもしない人を捉(つかま)えて、やたらにお金を貢(みつ)いでたまるものかね。私はおまえさんだから貢いでみたいのさ。いくらいやだとお言いでも、私は貢ぐよ。後生(ごしょう)だから貢がしてくださいよ。ねえ、いいでしょう、いいよう! うんとお言いよ。構うものかね、遠慮も何も要(い)るものじゃない。私はおまえさんの希望(のぞみ)というのが(かな)いさえすれば、それでいいのだ。それが私への報恩(おんがえし)さ、いいじゃないか。私はおまえさんはきっとりっぱな人物(ひと)になれると想(おも)うから、ぜひりっぱな人物にしてみたくってたまらないんだもの。後生だから早く勉強して、りっぱな人物になってくださいよう」 その音(おん)柔媚(じゅうび)なれども言々風霜を挟(さしはさ)みて、凛(りん)たり、烈たり。馭者は感奮して、両眼に熱涙を浮かべ、「うん、せっかくのお志だ。ご恩に預かりましょう」 渠は襟(きん)を正して、うやうやしく白糸の前に頭(かしら)を下げたり。「なんですねえ、いやに改まってさ。そう、そんなら私の志を受けてくださるの?」 美人は喜色満面に溢(あふ)るるばかりなり。「お世話になります」「いやだよ、もう金さん、そんなていねいな語(ことば)を遣(つか)われると、私は気が逼(つま)るから、やっぱり書生言葉を遣ってくださいよ。ほんとに凛々(りり)しくって、私は書生言葉は大好きさ」「恩人に向かって済まんけれども、それじゃぞんざいな言葉を遣おう」「ああ、それがいいんですよ」「しかしね、ここに一つ窮(こま)ったのは、私が東京へ行ってしまうと、母親がひとりで……」「それは御心配なく。及ばずながら私がね……」 馭者は夢みる心地(ここち)しつつ耳を傾けたり。白糸は誠を面(おもて)に露(あら)わして、「きっとお世話をしますから」「いや、どうも重ね重ね、それでは実に済まん。私もこの報恩(おんがえし)には、おまえさんのために力の及ぶだけのことはしなければならんが、何かお所望(のぞみ)はありませんか」「だからさ、私の所望はおまえさんの希望が(かな)いさえすれば……」「それはいかん! 自分の所望(のぞみ)を遂げるために恩を受けて、その望みを果たしたで、報恩(おんがえし)になるものではない。それはただ恩に対するところのわが身だけの義務というもので、けっして恩人に対する義務ではない」「でも私が承知ならいいじゃありませんかね」「いくらおまえさんが承知でも、私が不承知だ」「おや、まあ、いやにむずかしいのね」 かく言いつつ美人は微笑(ほほえ)みぬ。「いや、理屈(りくつ)を言うわけではないがね、目的を達するのを報恩(おんがえし)といえば、乞食(こじき)も同然だ。乞食が銭をもらう、それで食っていく、渠らの目的は食うのだ。食っていけるからそれが方々で銭を乞(もら)った報恩(おんがえし)になるとはいわれまい。私は馬方こそするが、まだ乞食はしたくない。もとよりお志は受けたいのは山々だ。どうか、ねえ、受けられるようにして受けさしてください。すれば、私は喜んで受ける。さもなければ、せっかくだけれどお断わり申そう」 とみには返す語(ことば)もなくて、白糸は頭(かしら)を低(た)れたりしが、やがて馭者の面(おもて)を見るがごとく見ざるがごとく(うかが)いつつ、「じゃ言いましょうか」「うん、承ろう」と男はやや容(かたち)を正せり。「ちっと羞(は)ずかしいことさ」「なんなりとも」「諾(き)いてくださるか。いずれおまえさんの身に適(かな)ったことじゃあるけれども」「一応聴(き)いた上でなければ、返事はできんけれど、身に適ったことなら、ずいぶん諾くさ」 白糸は鬢(びん)の乱(おく)れを掻(か)き上げて、いくぶんの赧羞(はずか)しさを紛らわさんとせり。馭者は月に向かえる美人の姿の輝くばかりなるを打ち瞶(まも)りつつ、固唾(かたず)を嚥(の)みてその語るを待てり。白糸は始めに口籠(くちご)もりたりしが、直ちに心を定めたる気色(けしき)にて、「処女(きむすめ)のように羞(は)ずかしがることもない、いい婆(ばばあ)のくせにさ。私の所望(のぞみ)というのはね、おまえさんにかわいがってもらいたいの」「ええ!」と馭者は鋭く叫びぬ。「あれ、そんなこわい顔をしなくったっていいじゃありませんか。何も内君(おかみさん)にしてくれと言うんじゃなし。ただ他人らしくなく、生涯(しょうがい)親類のようにして暮らしたいと言うんでさね」 馭者は遅疑せず、渠の語るを追いて潔く答えぬ。「よろしい。けっしてもう他人ではない」 涼しき眼(め)と凛々しき眼とは、無量の意を含みて相合えり。渠らは無言の数秒の間に、不能語、不可説なる至微至妙の霊語を交えたりき。渠らが十年語りて尽くすべからざる心底の磅(ほうはく)は、実にこの瞬息において神会黙契されけるなり。ややありて、まず馭者は口を開きぬ。「私は高岡の片原町(かたはらまち)で、村越欣弥(むらこしきんや)という者だ」「私は水島友といいます」「水島友? そうしてお宅は?」 白糸ははたと語(ことば)に塞(つま)りぬ。渠は定まれる家のあらざればなり。「お宅はちっと窮(こま)ったねえ」「だって、家(うち)のないものがあるものか」「それがないのだからさ」 天下に家なきは何者ぞ。乞食(こつじき)の徒といえども、なおかつ雨露を凌(しの)ぐべき蔭(かげ)に眠らずや。世上の例(ならい)をもってせば、この人まさに金屋に入り、瑶輿(たまのこし)に乗るべきなり。しかるを渠は無宿(やどなし)と言う。その行ないすでに奇にして、その心また奇なりといえども、いまだこの言の奇なるには如(し)かず、と馭者は思えり。「それじゃどこにいるのだ」「あすこさ」と美人は磧(かわら)の小屋を指させり。 馭者はそなたを望みて、「あすことは?」「見世物小屋さ」と白糸は異様の微笑(えみ)を含みぬ。「ははあ、見世物小屋とは異(かわ)っている」 馭者は心ひそかに驚きたるなり。渠はもとよりこの女をもって良家の女子とは思い懸(か)けざりき、寡(すく)なくとも、海に山に五百年の怪物たるを看破したりけれども、見世物小屋に起き臥しせる乞食芸人の徒ならんとは、実に意表に出でたりしなり。とはいえども渠はさあらぬ体に答えたりき。白糸は渠の心を酌(く)みておのれを嘲(あざけ)りぬ。「あんまり異(かわ)りすぎてるわね」「見世物の三味線(しゃみせん)でも弾(ひ)いているのかい」「これでも太夫元(たゆうもと)さ。太夫だけになお悪いかもしれない」 馭者は軽侮(けいぶ)の色をも露(あら)わさず、「はあ、太夫! なんの太夫?」「無官の太夫じゃない、水芸の太夫さ。あんまり聞いておくれでないよ、面目(きまり)が悪いからさ」 馭者はますますまじめにて、「水芸の太夫? ははあ、それじゃこのごろ評判の……」 かく言いつつ珍しげに女の面(おもて)を(のぞ)きぬ。白糸はさっと赧(あから)む顔を背(そむ)けつつ、「ああもうたくさん、堪忍(かに)しておくれよ」「滝の白糸というのはおまえさんか」 白糸は渠の語(ことば)を手もて制しつ。「もういいってばさ!」「うん、なるほど!」と心の問うところに答え得たる風情(ふぜい)にて、欣弥は頷(うなず)けり。白糸はいよいよ羞じらいて、「いやだよ、もう。何がなるほどなんだね」「非常にいい女だと聞いていたが、なるほど……」「もういいってばさ」 つと身を寄せて、白糸はやにわに欣弥を撞(つ)きたり。「ええあぶねえ! いい女だからいいと言うのに、撞き飛ばすことはないじゃないか」「人をばかにするからさ」「ばかにするものか。実に美しい、何歳(いくつ)になるのだ」「おまえさん何歳(いくつ)になるの?」「私は二十六だ」「おや六なの? まだ若いねえ。私なんぞはもう婆(ばばあ)だね」「何歳(いくつ)さ」「言うと愛想を尽かされるからいや」「ばかな! ほんとに何歳だよ」「もう婆だってば。四さ」「二十四か! 若いね。二十歳(はたち)ぐらいかと想(おも)った」「何か奢(おご)りましょうよ」 白糸は帯の間より白縮緬(ちりめん)の袱紗(ふくさ)包みを取り出だせり。解(ひら)けば一束の紙幣を紙包みにしたるなり。「これに三十円あります。まあこれだけ進(あ)げておきますから、家(うち)の処置(かた)をつけて、一日も早く東京へおいでなさいな」「家(うち)の処置といって、別に金円(かね)の要(い)るようなことはなし、そんなには要らない」「いいからお持ちなさいよ」「全額(みんな)もらったらおまえさんが窮(こま)るだろう」「私はまた明日(あす)入(はい)る口があるからさ」「どうも済まんなあ」 欣弥は受け取りたる紙幣を軽(かろ)く戴(いただ)きて懐(ふところ)にせり。時に通り懸かりたる夜稼ぎの車夫は、怪しむべき月下の密会を一瞥(いちべつ)して、「お合い乗り、都合で、いかがで」 渠は愚弄(ぐろう)の態度を示して、両箇(ふたり)のかたわらに立ち住(ど)まりぬ。白糸はわずかに顧眄(みかえ)りて、棄(す)つるがごとく言い放てり。「要らないよ」「そうおっしゃらずにお召しなすって。へへへへへ」「なんだね、人をばかにして。一人(いちにん)乗りに同乗(あいのり)ができるかい」「そこはまたお話合いで、よろしいようにしてお乗んなすってください」 おもしろ半分に(まつわ)るを、白糸は鼻の端(さき)に遇(あしら)いて、「おまえもとんだ苦労性だよ。他(ひと)のことよりは、早く還(かえ)って、内君(うちの)でも悦(よろこ)ばしておやんな」 さすがに車夫もこの姉御の与(くみ)しやすからざるを知りぬ。「へい、これははばかり様。まああなたもお楽しみなさいまし」 渠は直ちに踵(きびす)を回(めぐ)らして、鼻唄(はなうた)まじりに行き過ぎぬ。欣弥は何思いけん、「おい、車夫(くるまや)!」とにわかに呼び住(と)めたり。 車夫(しゃふ)は頭(かしら)を振り向けて、「へえ、やっぱりお合い乗りですかね」「ばか言え! 伏木(ふしき)まで行くか」 渠の答うるに先だちて、白糸は驚きかつ怪しみて問えり。「伏木……あの、伏木まで?」 伏木はけだし上都(じょうと)の道、越後直江津(えちごなおえつ)まで汽船便ある港なり。欣弥は平然として、「これからすぐに発(た)とうと思う」「これから」と白糸はさすがに心(むね)を轟(とどろ)かせり。 欣弥は頷きたりし頭(かしら)をそのまま低(た)れて、見るべき物もあらぬ橋の上に瞳(ひとみ)を凝らしつつ、その胸中は二途の分別を追うに忙しかりき。「これからとはあんまり早急じゃありませんか。まだお話したいこともあるのだから、今夜はともかくも、ねえ」 一面は欣弥を説き、一面は車夫に向かい、「若い衆(しゅ)さん、済まないけれど、これを持って行っとくれよ」 渠が紙入れを捜(さぐ)るとき、欣弥はあわただしく、「車夫(くるまや)、待っとれ。行っちゃいかんぜ」「あれさ、いいやね。さあ、若い衆さんこれを持って行っとくれよ」 五銭の白銅を把(と)りて、まさに渡さんとせり。欣弥はその間(なか)に分け入りて、「少し都合があるのだから、これから遣(や)ってくれ」 渠は十分に決心の色を露わせり。白糸はとうていその動かす能わざるを覚(さと)りて、潔く未練を棄(す)てぬ。「そう。それじゃ無理に留めないけれども……」 このとき両箇(ふたり)の眼(まなこ)は期せずして合えり。「そうしてお母(かあ)さんには?」「道で寄って暇乞(いとまご)いをする、ぜひ高岡を通るのだから」「じゃ町はずれまで送りましょう。若衆さん、もう一台ないかねえ」「四、五町行きゃいくらもありまさあ。そこまでだからいっしょに召していらっしゃい」「お巫山戯(ふざけ)でないよ」 欣弥はすでに車上にありて、「車夫(くるまや)、どうだろう。二人乗ったら毀(こわ)れるかなあ、この車は?」「なあにだいじょうぶ。姉(ねえ)さんほんとにお召しなさいよ」「構うことはない。早く乗った乗った」 欣弥は手招けば、白糸は微笑(ほおえ)む。その肩を車夫はとんと拊(う)ちて、「とうとう異(おつ)な寸法になりましたぜ」「いやだよ、欣さん」「いいさ、いいさ!」と欣弥は一笑せり。 月はようやく傾きて、鶏声ほのかに白し。
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