高野聖 |
角川文庫、角川書店 |
1971(昭和46)年4月20日改版初版 |
1999(平成11)年2月10日改版40版 |
一
越中高岡より倶利伽羅下の建場なる石動まで、四里八町が間を定時発の乗り合い馬車あり。
賃銭の廉きがゆえに、旅客はおおかた人力車を捨ててこれに便りぬ。車夫はその不景気を馬車会社に怨みて、人と馬との軋轢ようやくはなはだしきも、わずかに顔役の調和によりて、営業上相干さざるを装えども、折に触れては紛乱を生ずることしばしばなりき。
七月八日の朝、一番発の馬車は乗り合いを揃えんとて、奴はその門前に鈴を打ち振りつつ、
「馬車はいかがです。むちゃに廉くって、腕車よりお疾うござい。さあお乗んなさい。すぐに出ますよ」
甲走る声は鈴の音よりも高く、静かなる朝の街に響き渡れり。通りすがりの婀娜者は歩みを停めて、
「ちょいと小僧さん、石動までいくら? なに十銭だとえ。ふう、廉いね。その代わりおそいだろう」
沢庵を洗い立てたるように色揚げしたる編片の古帽子の下より、奴は猿眼を晃かして、
「ものは可試だ。まあお召しなすってください。腕車よりおそかったら代は戴きません」
かく言ううちも渠の手なる鈴は絶えず噪ぎぬ。
「そんなりっぱなことを言って、きっとだね」
奴は昂然として、
「虚言と坊主の髪は、いったことはありません」
「なんだね、しゃらくさい」
微笑みつつ女子はかく言い捨てて乗り込みたり。
その年紀は二十三、四、姿はしいて満開の花の色を洗いて、清楚たる葉桜の緑浅し。色白く、鼻筋通り、眉に力みありて、眼色にいくぶんのすごみを帯び、見るだに涼しき美人なり。
これはたして何者なるか。髪は櫛巻きに束ねて、素顔を自慢に※脂[#「月+因」、6-15]のみを点したり。服装は、将棊の駒を大形に散らしたる紺縮みの浴衣に、唐繻子と繻珍の昼夜帯をばゆるく引っ掛けに結びて、空色縮緬の蹴出しを微露し、素足に吾妻下駄、絹張りの日傘に更紗の小包みを持ち添えたり。
挙止侠にして、人を怯れざる気色は、世磨れ、場慣れて、一条縄の繋ぐべからざる魂を表わせり。想うに渠が雪のごとき膚には、剳青淋漓として、悪竜焔を吐くにあらざれば、寡なくも、その左の腕には、双枕に偕老の名や刻みたるべし。
馬車はこの怪しき美人をもって満員となれり。発車の号令は割るるばかりにしばらく響けり。向者より待合所の縁に倚りて、一篇の書を繙ける二十四、五の壮佼あり。盲縞の腹掛け、股引きに汚れたる白小倉の背広を着て、ゴムの解れたる深靴を穿き、鍔広なる麦稈帽子を阿弥陀に被りて、踏ん跨ぎたる膝の間に、茶褐色なる渦毛の犬の太くたくましきを容れて、その頭を撫でつつ、専念に書見したりしが、このとき鈴の音を聞くと斉しく身を起こして、ひらりと御者台に乗り移れり。
渠の形躯は貴公子のごとく華車に、態度は森厳にして、そのうちおのずから活溌の気を含めり。陋しげに日にみたる面も熟視れば、清※明眉[#「目+盧」、7-12]、相貌秀でて尋常ならず。とかくは馬蹄の塵に塗れて鞭を揚ぐるの輩にあらざるなり。
御者は書巻を腹掛けの衣兜に収め、革紐を附けたる竹根の鞭を執りて、徐かに手綱を捌きつつ身構うるとき、一輛の人力車ありて南より来たり、疾風のごとく馬車のかたわらを掠めて、瞬く間に一点の黒影となり畢んぬ。
美人はこれを望みて、
「おい小僧さん、腕車よりおそいじゃないか」
奴のいまだ答えざるに先だちて、御者はきと面を抗げ、かすかになれる車の影を見送りて、
「吉公、てめえまた腕車より疾えといったな」
奴は愛嬌よく頭を掻きて、
「ああ、言った。でもそう言わねえと乗らねえもの」
御者は黙して頷きぬ。たちまち鞭の鳴るとともに、二頭の馬は高く嘶きて一文字に跳ね出だせり。不意を吃いたる乗り合いは、座に堪らずしてほとんど転び墜ちなんとせり。奔馬は中を駈けて、見る見る腕車を乗っ越したり。御者はやがて馬の足掻きを緩め、渠に先を越させぬまでに徐々として進行しつ。
車夫は必死となりて、やわか後れじと焦れども、馬車はさながら月を負いたる自家の影のごとく、一歩を進むるごとに一歩を進めて、追えども追えども先んじがたく、ようよう力衰え、息逼りて、今や殪れぬべく覚ゆるころ、高岡より一里を隔つる立野の駅に来たりぬ。
この街道の車夫は組合を設けて、建場建場に連絡を通ずるがゆえに、今この車夫が馬車に後れて、喘ぎ喘ぎ走るを見るより、そこに客待ちせる夥間の一人は、手に唾して躍り出で、
「おい、兄弟しっかりしなよ。馬車の畜生どうしてくりょう」
やにわに対曳きの綱を梶棒に投げ懸くれば、疲れたる車夫は勢いを得て、
「ありがてえ! 頼むよ」
「合点だい!」
それと言うまま挽き出だせり。二人の車夫は勇ましく相呼び相応えつつ、にわかに驚くべき速力をもて走りぬ。やがて町はずれの狭く急なる曲がりかどを争うと見えたりしが、人力車は無二無三に突進して、ついに一歩を抽きけり。
車夫は諸声に凱歌を揚げ、勢いに乗じて二歩を抽き、三歩を抽き、ますます馳せて、軽迅丸の跳るがごとく二、三間を先んじたり。
向者は腕車を流眄に見て、いとも揚々たりし乗り合いの一人は、
「さあ、やられた!」と身を悶えて騒げば、車中いずれも同感の色を動かして、力瘤を握るものあり、地蹈を踏むもあり、奴を叱してしきりに喇叭を吹かしむるもあり。御者は縦横に鞭を揮いて、激しく手綱を掻い繰れば、馬背の流汗滂沱として掬すべく、轡頭に噛み出だしたる白泡は木綿の一袋もありぬべし。
かかるほどに車体は一上一下と動揺して、あるいは頓挫し、あるいは傾斜し、ただこれ風の落ち葉を捲き、早瀬の浮き木を弄ぶに異ならず。乗り合いは前後に俯仰し、左右に頽れて、片時も安き心はなく、今にもこの車顛覆るか、ただしはその身投げ落とさるるか。いずれも怪我は免れぬところと、老いたるは震い慄き、若きは凝瞳になりて、ただ一秒ののちを危ぶめり。
七、八町を競争して、幸いに別条なく、馬車は辛くも人力車を追い抽きぬ。乗り合いは思わず手を拍ちて、車も憾くばかりに喝采せり。奴は凱歌の喇叭を吹き鳴らして、後れたる人力車を麾きつつ、踏み段の上に躍れり。ひとり御者のみは喜ぶ気色もなく、意を注ぎて馬を労り駈けさせたり。
怪しき美人は満面に笑みを含みて、起伏常ならざる席に安んずるを、隣たる老人は感に堪えて、
「おまえさんどうもお強い。よく血の道が発りませんね。平気なものだ、女丈夫だ。私なんぞはからきし意気地はない。それもそのはずかい、もう五十八だもの」
その言の訖わらざるに、車は凸凹路を踏みて、がたくりんと跌きぬ。老夫は横様に薙仆されて、半ば禿げたる法然頭はどっさりと美人の膝に枕せり。
「あれ、あぶない!」
と美人はその肩をしかと抱きぬ。
老夫はむくむく身を擡げて、
「へいこれは、これはどうもはばかり様。さぞお痛うございましたろう。御免なすってくださいましよ。いやはや、意気地はありません。これさ馬丁さんや、もし若い衆さん、なんと顛覆るようなことはなかろうの」
御者は見も返らず、勢籠めたる一鞭を加えて、
「わかりません。馬が跌きゃそれまででさ」
老夫は眼を円くして狼狽えぬ。
「いやさ、転ばぬ前の杖だよ。ほんにお願いだ、気を着けておくれ。若い人と違って年老のことだ、放り出されたらそれまでだよ。もういいかげんにして、徐々とやってもらおうじゃないか。なんと皆さんどうでございます」
「船に乗れば船頭任せ。この馬車にお乗んなすった以上は、わたしに任せたものとして、安心しなければなりません」
「ええ途方もない。どうして安心がなるものか」
呆れはてて老夫は呟けば、御者ははじめて顧みつ。
「それで安心ができなけりゃ、御自分の脚で歩くです」
「はいはい。それは御深切に」
老夫は腹だたしげに御者の面を偸視せり。
後れたる人力車は次の建場にてまた一人を増して、後押しを加えたれども、なおいまだ逮ばざるより、車夫らはますます発憤して、悶ゆる折から松並み木の中ほどにて、前面より空車を挽き来たる二人の車夫に出会いぬ。行き違いさまに、綱曳きは血声を振り立て、
「後生だい、手を仮してくんねえか。あの瓦多馬車の畜生、乗っ越さねえじゃ」
「こっとらの顔が立たねえんだ」と他の一箇は叫べり。
血気事を好む徒は、応と言うがままにその車を道ばたに棄てて、総勢五人の車夫は揉みに揉んで駈けたりければ、二、三町ならずして敵に逐い着き、しばらくは相並びて互いに一歩を争いぬ。
そのとき車夫はいっせいに吶喊して馬を駭ろかせり。馬は懾えて躍り狂いぬ。車はこれがために傾斜して、まさに乗り合いを振り落とさんとせり。
恐怖、叫喚、騒擾、地震における惨状は馬車の中に顕われたり。冷々然たるはひとりかの怪しき美人のみ。
一身をわれに任せよと言いし御者は、風波に掀翻せらるる汽船の、やがて千尋の底に汨没せんずる危急に際して、蒸気機関はなお漾々たる穏波を截ると異ならざる精神をもって、その職を竭くすがごとく、従容として手綱を操り、競争者に後れず前まず、隙だにあらば一躍して乗っ越さんと、睨み合いつつ推し行くさまは、この道堪能の達者と覚しく、いと頼もしく見えたりき。
されども危急の際この頼もしさを見たりしは、わずかにくだんの美人あるのみなり。他はみな見苦しくも慌て忙きて、あまたの神と仏とは心々に祷られき。なおかの美人はこの騒擾の間、終始御者の様子を打ち瞶りたり。
かくて六箇の車輪はあたかも同一の軸にありて転ずるごとく、両々相並びて福岡というに着けり。ここに馬車の休憩所ありて、馬に飲い、客に茶を売るを例とすれども、今日ばかりは素通りなるべし、と乗り合いは心々に想いぬ。
御者はこの店頭に馬を駐めてけり。わが物得つと、車夫はにわかに勢いを増して、手を揮り、声を揚げ、思うままに侮辱して駈け去りぬ。
乗り合いは切歯をしつつ見送りたりしに、車は遠く一団の砂煙に裹まれて、ついに眼界のほかに失われき。
旅商人体の男は最も苛ちて、
「なんと皆さん、業肚じゃございませんか。おとなげのないわけだけれど、こういう行き懸かりになってみると、どうも負けるのは残念だ。おい、馬丁さん、早く行ってくれたまえな」
「それもそうですけれどもな、老者はまことにはやどうも。第一この疝に障りますのでな」
と遠慮がちに訴うるは、美人の膝枕せし老夫なり。馬は群がる蠅と虻との中に優々と水飲み、奴は木蔭の床几に大の字なりに僵れて、むしゃむしゃと菓子を吃らえり。御者は框に息いて巻き莨を燻しつつ茶店の嚊と語りぬ。
「こりゃ急に出そうもない」と一人が呟けば、田舎女房と見えたるがその前面にいて、
「憎々しく落ち着いてるじゃありませんかね」
最初の発言者はますます堪えかねて、
「ときに皆さん、あのとおり御者も骨を折りましたんですから、お互い様にいくらか酒手を奮みまして、もう一骨折ってもらおうじゃございませんか。なにとぞ御賛成を願います」
渠は直ちに帯佩げの蟇口を取り出して、中なる銭を撈りつつ、
「ねえあなた、ここでああ惰けられてしまった日には、仏造って魂入れずでさ、冗談じゃない」
やがて銅貨三銭をもって隗より始めつ。帽子を脱ぎてその中に入れたるを、衆人の前に差し出して、渠はあまねく義捐を募れり。
あるいは勇んで躍り込みたる白銅あり。あるいはしぶしぶ捨てられたる五厘もあり。ここの一銭、かしこの二銭、積もりて十六銭五厘とぞなりにける。
美人は片すみにありて、応募の最終なりき。隗の帽子は巡回して渠の前に着せるとき、世話人は辞を卑うして挨拶せり。
「とんだお附き合いで、どうもおきのどく様でございます」
美人は軽く会釈するとともに、その手は帯の間に入りぬ。小菊にて上包みせる緋塩瀬の紙入れを開きて、渠はむぞうさに半円銀貨を投げ出だせり。
余所目に瞥たる老夫はいたく驚きて面を背けぬ、世話人は頭を掻きて、
「いや、これは剰銭が足りない。私もあいにく小かいのが……」
と腰なる蟇口に手を掛くれば、
「いいえ、いいんですよ」
世話人は呆れて叫びぬ。
「これだけ? 五十銭!」
これを聞ける乗り合いは、さなきだに、何者なるか、怪しき別品と目を着けたりしに、今この散財の婦女子に似気なきより、いよいよ底気味悪く訝れり。
世話人は帽子を揺り動かして銭を鳴らしつつ、
「〆て金六十六銭と五厘! たいしたことになりました。これなら馬は駈けますぜ」
御者はすでに着席して出発の用意せり。世話人は酒手を紙に包みて持ち行きつ。
「おい、若い衆さん、これは皆さんからの酒手だよ。六十六銭と五厘あるのだ。なにぶんひとつ奮発してね。頼むよ」
渠は気軽に御者の肩を拊きて、
「隊長、一晩遊べるぜ」
御者は流眄に紙包みを見遣りて空嘯きぬ。
「酒手で馬は動きません」
わずかに五銭六厘を懐にせる奴は驚きかつ惜しみて、有意的に御者の面を眺めたり。好意を無にせられたる世話人は腹立ちて、
「せっかく皆さんが下さるというのに、それじゃいらないんだね」
車は徐々として進行せり。
「戴く因縁がありませんから」
「そんな生意気なことを言うもんじゃない。骨折り賃だ。まあ野暮を言わずに取っときたまえてことさ」
六十六銭五厘はまさに御者のポケットに闖入せんとせり。渠は固く拒みて、
「思し召しはありがとうございますが、規定の賃銭のほかに骨折り賃を戴く理由がございません」
世話人は推し返されたる紙包みを持て扱いつつ、
「理由も糸瓜もあるものかな。お客が与るというんだから、取っといたらいいじゃないか。こういうものを貰って済まないと思ったら、一骨折って今の腕車を抽いてくれたまえな」
「酒手なんぞは戴かなくっても、十分骨は折ってるです」
世話人は冷笑いぬ。
「そんなりっぱな口を※[#「口+世」、16-16]いたって、約束が違や世話はねえ」
御者はきと振り顧りて、
「なんですと?」
「この馬車は腕車より迅いという約束だぜ」
儼然として御者は答えぬ。
「そんなお約束はしません」
「おっと、そうは言わせない。なるほど私たちにはしなかったが、この姉さんにはどうだい。六十六銭五厘のうち、一人で五十銭の酒手をお出しなすったのはこのかただよ。あの腕車より迅く行ってもらおうと思やこそ、こうして莫大な酒手も奮もうというのだ。どうだ、先生、恐れ入ったか」
鼻蠢かして世話人は御者の背を指もて撞きぬ。渠は一言を発せず、世話人はすこぶる得意なりき。美人は戯るるがごとくに詰れり。
「馬丁さん、ほんとに約束だよ、どうしたってんだね」
なお渠は緘黙せり。その脣を鼓動すべき力は、渠の両腕に奮いて、馬蹄たちまち高く挙ぐれば、車輪はその輻の見るべからざるまでに快転せり。乗り合いは再び地上の瀾に盪られて、浮沈の憂き目に遭いぬ。
縦騁五分間ののち、前途はるかに競争者の影を認め得たり。しかれども時遅れたれば、容易に追迫すべくもあらざりき。しこうして到着地なる石動はもはや間近になれり。今にして一躍のもとに乗り越さずんば、ついに失敗を取らざるを得ざるべきなり。憐れむべし過度の馳に疲れ果てたる馬は、力なげに俛れたる首を聯べて、策てども走れども、足は重りて地を離れかねたりき。
何思いけん、御者は地上に下り立ちたり。乗り合いはこはそもいかにと見る間に、渠は手早く、一頭の馬を解き放ちて、
「姉さん済みませんが、ちょっと下りてください」
乗り合いは顔を見合わせて、この謎を解くに苦しめり。美人は渠の言うがままに車を下れば、
「どうかこちらへ」と御者はおのれの立てる馬のそばに招きぬ。美人はますますその意を得ざれども、なお渠の言うがままに進み寄りぬ。御者はものをも言わず美人を引っ抱えて、ひらりと馬に跨りたり。
魂消たるは乗り合いなり。乗り合いは実に魂消たるなり。渠らは千体仏のごとく面を鳩め、あけらかんと頤を垂れて、おそらくは画にも観るべからざるこの不思議の為体に眼を奪われたりしに、その馬は奇怪なる御者と、奇怪なる美人と、奇怪なる挙動とを載せてましぐらに馳せ去りぬ。車上の見物はようやくわれに復りて響動めり。
「いったいどうしたんでしょう」
「まず乗せ逃げとでもいうんでしょう」
「へえ、なんでございます」
「客の逃げたのが乗り逃げ。御者のほうで逃げたのだから乗せ逃げでしょう」
例の老夫は頭を悼り悼り呟けり。
「いや洒落どころか。こりゃ、まあどうしてくれるつもりだ」
不審の眉を攅めたる前の世話人は、腕を拱きつつ座中をして、
「皆さん、なんと思し召す? こりゃ尋常事じゃありませんぜ。ばかを見たのはわれわれですよ。全く駈け落ちですな。どうもあの女がさ、尋常の鼠じゃあんめえと睨んでおきましたが、こりゃあまさにそうだった。しかしいい女だ」
「私は急ぎの用を抱えている身だから、こうして安閑としてはいられない。なんとこの小僧に頼んで、一匹の馬で遣ってもらおうじゃございませんか。ばかばかしい、銭を出して、あの醜態を見せられて、置き去りを吃うやつもないものだ」
「全くそうでごさいますよ。ほんとに巫山戯た真似をする野郎だ。小僧早く遣ってくんな」
奴は途方に暮れて、曩より車の前後に出没したりしが、
「どうもおきのどく様です」
「おきのどく様は知れてらあ。いつまでこうしておくんだ。早く遣ってくれ、遣ってくれ!」
「私にはまだよく馬が動きません」
「活きてるものの動かないという法があるものか」
「臀部を引っ撲け引っ撲け」
奴は苦笑いしつつ、
「そんなことを言ったっていけません。二頭曳きの車ですから、馬が一匹じゃ遣り切れません」
「そんならここで下りるから銭を返してくれ」
腹立つ者、無理言う者、呟く者、罵る者、迷惑せる者、乗り合いの不平は奴の一身に湊まれり。渠はさんざんに苛まれてついに涙ぐみ、身の措き所に窮して、辛くも車の後に竦みたりき。乗り合いはますます躁ぎて、敵手なき喧嘩に狂いぬ。
御者は真一文字に馬を飛ばして、雲を霞と走りければ、美人は魂身に添わず、目を閉じ、息を凝らし、五体を縮めて、力の限り渠の腰に縋りつ。風は※々[#「風にょう」+「容」の「口」に代えて「又」、20-11]と両腋に起こりて毛髪竪ち、道はさながら河のごとく、濁流脚下に奔注して、身はこれ虚空を転ぶに似たり。
渠は実に死すべしと念いぬ。しだいに風歇み、馬駐まると覚えて、直ちに昏倒して正気を失いぬ。これ御者が静かに馬より扶け下ろして、茶店の座敷に舁き入れたりしときなり。渠はこの介抱を主の嫗に嘱みて、その身は息をも継かず再び羸馬に策ちて、もと来し路を急ぎけり。
ほどなく美人は醒めて、こは石動の棒端なるを覚りぬ。御者はすでにあらず。渠はその名を嫗に訊ねて、金さんなるを知りぬ。その為人を問えば、方正謹厳、その行ないを質せば学問好き。
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