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開扉一妖帖(かいひいちようちょう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-22 12:34:05  点击:  切换到繁體中文



「ああ、やっと、思出した……おつまさん。」
「市場の、さしみの……」
 と莞爾にっこりする。
「おさらいは構わないが、さ、さしあたって、水の算段はあるまいか、一口でもいいんだが。」
「おひや。暑そうね、お前さん、真赤まっかになって。」
 と、扇子おうぎを抜いて、風をくれつつ、
「私も暑い。赤いでしょう。」
「しんは青くなっているんだよ……息が切れて倒れそうでね。」
「おひや、ありますよ。」
「有りますか。」
「もう、二階ばかり上の高い処に、海老屋えびやの屋根の天水おけの雪の遠見ってのがありました。」
「聞いても飛上りたいが、お妻さん、動悸どうきが激しくって、動くと嘔きそうだ。下へもおりられないんだよ。恩にるから、何とか一杯。」
「おっしゃるな。すぐに算段をしますから。まったく、いやに蒸すことね。その癖、乾き切ってさ。」
 とついと立って、
「五月雨の……と心持でも濡れましょう。池のまこもに水まして、いずれが、あやめ杜若かきつばた、さだかにそれと、よし原に、ほど遠からぬ水神へ……」
 扇子おうぎをつかって、トントンと向うの段を、天井の巣へ、鳥のようにひらりと行く。
 一あめ、さっと聞くおもい、なりも、ふりも、うっちゃった容子のうちに、争われぬ手練てだれが見えて、こっちは、ほっと息をいた。……
 ――踊が上手うまい、声もよし、三味線さみせんはおもて芸、下方したかたも、笛まで出来る。しかるに芸人の自覚といった事が少しもない。顔だちも目についたが、色っぽく見えない処へ、なまめかしさなどはもなかった。その頃、銀座さんととなうる化粧問屋の大尽だいじんがあって、あらたに、「仙牡丹せんぼたん」という白粉おしろいを製し、これが大当りに当った、祝と披露を、枕橋まくらばし八百松やおまつで催した事がある。
 すそいて帳場に起居たちいの女房の、婀娜あだにたおやかなのがそっくりで、半四郎茶屋と呼ばれた引手茶屋の、大尽は常客だったが、芸妓げいしゃは小浜屋の姉妹きょうだいが一の贔屓ひいきだったから、その祝宴にも真先まっさきに取持った。……当日は伺候しこうの芸者大勢がいずれも売出しの白粉の銘、仙牡丹にちなんだ趣向をした。幇間ほうかんなかまは、大尽客を、獅子ししなぞらえ、黒牡丹と題して、金の角の縫いぐるみの牛になって、大広間へ罷出まかりいで、馬には狐だから、牛に狸が乗った、滑稽おどけはては、縫ぐるみを崩すと、幇間同士が血のしたたるビフテキを捧げて出た、獅子の口へ、身をにえにして奉った、という生命いのちした、奉仕サアビスである。
(――同町内というではないが、信也氏は、住居すまいも近所で、鴾画伯とは別懇だから、時々その細君の京千代に、茶の間で煙草話に聞いている――)

 小浜屋の芸妓姉妹は、その祝宴の八百松で、その京千代と、――中の姉のおたみ――(これは仲之町を圧して売れた、)――小股こまたの切れた、色白なのが居て、二人で、囃子はやしを揃えて、すなわち連獅子れんじしに骨身を絞ったというのに――上の姉のこのお妻はどうだろう。興たけなわなる汐時しおどき、まのよろしからざる処へ、田舎の媽々かかあ肩手拭かたてぬぐいで、引端折ひっぱしょりの蕎麦そばきり色、草刈籠くさかりかごのきりだめから、へぎ盆に取って、上客からずらりと席順に配って歩行あるいて、「くいなせえましょう。」と野良声を出したのを、何だとまあ思います?

(――鴾の細君京千代のお京さんの茶の間話に聞いたのだが――)

 つぶしあん牡丹餅ぼたもちさ。ために、浅からざる御不興をこうむった、そうだろう。新製売出しの当り祝につぶしは不可いけない。のみならず、酒宴の半ばへ牡丹餅は可笑おかしい。が、すねたのでも、ふうしたのでも何でもない、かのおんなの性格の自然に出でた趣向であった。
 ……ここに、信也氏のために、きつけの水をむべく、屋根の雪の天水桶を志して、環海ビルジングを上りつつある、つぶし餡のお妻が、さてもその後、黄粉か、胡麻ごまか、いろが出来て、日光へ駆落ちした。およそ、獅子大じんに牡丹餅をくわせた姉さんなるものの、生死いきしにのあい手を考えて御覧なさい。相撲か、役者か、渡世人か、いきな処で、こはだのすしは、もう居ない。ひねった処で、かりん糖売か、皆違う。こちの人は、京町の交番に新任のお巡査まわりさん――もっとも、角海老かどえびとかのお職が命まで打込んで、あがり藤の金紋のついた手車で、楽屋入をさせたという、新派の立女形たておやま、二枚目を兼ねた藤沢浅次郎に、よくていたのだそうである。
 あいびきには無理が出来る。いかんせん世のならいである。いずれは身のつまりで、げて心中の覚悟だった、が、華厳けごんの滝へ飛込んだり、並木の杉でぶら下ろうなどというのではない。女形おやま、二枚目に似たりといえども、彰義隊しょうぎたいの落武者を父にして旗本の血の流れ淙々そうそうたる巡査である。御先祖の霊前に近く、覚悟はよいか、嬉しゅうござんす、お妻の胸元を刺貫き――洋刀サアベルか――はてな、そこまでは聞いておかない――返す刀で、峨々ががたる巌石いわおそびらに、十文字の立ち腹を掻切かっきって、大蘇芳年たいそよしとしの筆のさえを見よ、描く処の錦絵にしきえのごとく、黒髪山の山裾に血を流そうとしたのであった。が、仏法僧のなく覚束おぼつかなし、誰に助けらるるともなく、生命いのち生きて、浮世のうらを、古河銅山の書記かきやくになって、二年ばかり、子まで出来たが、気の毒にも、山小屋、飯場のパパは、煩ってなくなった。
 お妻は石炭くずで黒くなり、枝炭のごとく、すすけた姑獲鳥うぶめのありさまで、おはぐろどぶ暗夜やみに立ち、刎橋はねばしをしょんぼりと、嬰児あかんぼを抱いて小浜屋へ立帰る。……と、場所がよくない、そこらの口の悪いのが、日光がえりを、美術の淵源地えんげんち、荘厳の廚子ずしから影向ようごうした、女菩薩にょぼさつとは心得ず、ただ雷の本場と心得、ごろごろさん、ごろさんと、以来かのおんなを渾名あだなした。――嬰児が、二つ三つ、片口をきくようになると、可哀相かわいそうに、いつどこで覚えたか、ママを呼んで、ごよごよちゃん、ごよちゃま。

 ○日月星昼夜織分じつげつせいちゅうやのおりわけ――ごろからの夫婦喧嘩に、なぜ、かかさんをぶたしゃんす、もうかんにんと、ごよごよごよ、と雷のが泣いて留める、くだん浄瑠璃じょうるりだけは、一生の断ちものだ、と眉にも頬にもしわを寄せたが、のぞめば段もの端唄はうたといわず、前垂まえだれ掛けで、ほがらかに、またしめやかに、唄って聞かせるお妻なのであった。
 前垂掛――そう、髪もいぼじり巻同然で、紺の筒袖つつッぽで台所を手伝いながら――そう、すなわち前に言った、浜町の鳥料理の頃、鴾氏に誘われて四五たび出掛けた。お妻が、わが信也氏を知ったというはそこなのである。が、とりなりも右の通りで、ばあや、同様、と遠慮をするのを、鴾画伯に取っては、外戚がいせきの姉だから、座敷へ招じてさかずきをかわし、大分いけて、ほろりと酔うと、誘えば唄いもし、促せば、立って踊った。家元がどうの、流儀がどうの、合方の調子が、あのの、ものの、と七面倒に気取りはしない。口三味線ざみせんで間にあって、そのまま動けば、筒袖つつッぽも振袖で、かついだ割箸が、柳にしない、花に咲き、さす手の影は、じきそこの隅田の雲に、時鳥ほととぎすがないたのである。
 それでは、おなじに、吉原を焼出されて、一所に浜町へ落汐おちしおか、というと、そうでない。ママ、ごよごよは出たり引いたり、ぐれたり、飲んだり、八方流転の、そして、その頃はまた落込みようが深くって、しばらく行方が知れなかった。ほども遠い、……奥沢の九品仏くほんぶつへ、くるわ講中こうじゅうがおまいりをしたのが、あの辺の露店の、ぼろ市で、着たのはくたびれた浴衣だが、白地の手拭てぬぐいを吉原かぶりで、色の浅黒い、すっきり鼻のたかいのが、朱羅宇しゅらう長煙草ながぎせるで、片靨かたえくぼ煙草たばこを吹かしながら田舎の媽々かかあと、引解ひっときもののの掛引をしていたのをたと言う……その直後である……浜町の鳥料理。
 お妻が……言った通り、気軽に唄いもし、踊りもしたのに、一夜あるよ、近所から時借りの、三味線の、爪弾つめびきで……

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