五
「あれさ、ちょいと、用がある、」
と女房は呼止める。
奴は遁げ足を向うのめりに、うしろへ引かれた腰附で、
「だって、号外が忙しいや。あ、号外ッ、」
「ちょいと、あれさ、何だよ、お前、お待ッてばねえ。」
衝と身を起こして追おうとすると、奴は駈出した五足ばかりを、一飛びに跳ね返って、ひょいと踞み、立った女房の前垂のあたりへ、円い頤、出額で仰いで、
「おい、」という。
出足へ唐突に突屈まれて、女房の身は、前へしないそうになって蹌踉いた。
「何だねえ、また、吃驚するわね。」
「へへへ、番ごとだぜ、弱虫やい。」
「ああ、可いよ、三ちゃんは強うございますよ、強いからね、お前は強いからそのベソを掻いたわけをお話しよ。」
「お前は強いからベソを掻いたわけ、」と念のためいってみて、瞬した、目が渋そう。
「不可ねえや、強いからベソをなんて、誰が強くってベソなんか掻くもんだ。」
「じゃ、やっぱり弱虫じゃないか。」
「だって姉さん、ベソも掻かざらに。夜一夜亡念の火が船について離れねえだもの。理右衛門なんざ、己がベソをなんていう口で、ああ見えてその時はお念仏唱えただ。」と強がりたさに目をる。
女房はそれかあらぬか、内々危んだ胸へひしと、色変るまで聞咎め、
「ええ、亡念の火が憑いたって、」
「おっと、……」
とばかり三之助は口をおさえ、
「黙ろう、黙ろう、」と傍を向いた、片頬に笑を含みながら吃驚したような色である。
秘すほどなお聞きたさに、女房はわざとすねて見せ、
「可いとも、沢山そうやってお秘しな。どうせ、三ちゃんは他人だから、お浜の婿さんじゃないんだから、」
と肩を引いて、身を斜め、捩り切りそうに袖を合わせて、女房は背向になンぬ。
奴は出る杭を打つ手つき、ポンポンと天窓をたたいて、
「しまった! 姉さん、何も秘すというわけじゃねえだよ。
こんの兄哥もそういうし、乗組んだ理右衛門徒えも、姉さんには内証にしておけ、話すと恐怖がるッていうからよ。」
「だから、皆で秘すんだから、せめて三ちゃんが聞かせてくれたって可じゃないかね。」
「むむ、じゃ話すだがね、おらが饒舌ったって、皆にいっちゃ不可えだぜ。」
「誰が、そんなことをいうもんですか。」
「お浜ッ児にも内証だよ。」
と密と伸上ってまた縁側から納戸の母衣蚊帳を差覗く。
「嬰児が、何を知ってさ。」
「それでも夢に見て魘されら。」
「ちょいと、そんなに恐怖い事なのかい。」と女房は縁の柱につかまった。
「え、何、おらがベソを掻いて、理右衛門が念仏を唱えたくらいな事だけんども。そら、姉さん、この五月、三日流しの鰹船で二晩沖で泊ったっけよ。中の晩の夜中の事だね。
野だも山だも分ンねえ、ぼっとした海の中で、晩めに夕飯を食ったあとでよ。
昼間ッからの霧雨がしとしと降りになって来たで、皆胴の間へもぐってな、そん時に千太どんが漕がしっけえ。
急に、おお寒い、おお寒い、風邪揚句だ不精しょう。誰ぞかわんなはらねえかって、艫からドンと飛下りただ。
船はぐらぐらとしただがね、それで止まるような波じゃねえだ。どんぶりこッこ、すっこッこ、陸へ百里やら五十里やら、方角も何も分らねえ。」
女房は打頷いた襟さみしく、乳の張る胸をおさえたのである。
六
「晩飯の菜に、塩からさ嘗め過ぎた。どれ、糠雨でも飲むべい、とってな、理右衛門どんが入交わって漕がしつけえ。
や、おぞいな千太、われ、えてものを見て逃げたな。と艫で爺さまがいわっしゃるとの、馬鹿いわっしゃい、ほんとうに寒気がするだッて、千太は天窓から褞袍被ってころげた達磨よ。
ホイ、ア、ホイ、と浪の中で、幽に呼ばる声がするだね。
どこからだか分ンねえ、近いようにも聞えれば、遠いようにも聞えるだ。
来やがった、来やがった、陽気が悪いとおもったい! おらもどうも疝気がきざした。さあ、誰ぞ来てやってくれ、ちっと踞まねえじゃ、筋張ってしょ事がない、と小半時でまた理右衛門爺さまが潜っただよ。
われ漕げ、頭痛だ、汝漕げ、脚気だ、と皆苦い顔をして、出人がねえだね。
平胡坐でちょっと磁石さ見さしつけえ、此家の兄哥が、奴、汝漕げ、といわしったから、何の気もつかねえで、船で達者なのは、おらばかりだ、おっとまかせ。」と、奴は顱巻の輪を大きく腕いっぱいに占める真似して、
「いきなり艫へ飛んで出ると、船が波の上へ橋にかかって、雨で辷るというもんだ。
どッこいな、と腰を極めたが、ずッしりと手答えして、槻の大木根こそぎにしたほどな大い艪の奴、のッしりと掻いただがね。雨がしょぼしょぼと顱巻に染みるばかりで、空だか水だか分らねえ。はあ、昼間見る遠い処の山の上を、ふわふわと歩行くようで、底が轟々と沸えくり返るだ。
ア、ホイ、ホイ、アホイと変な声が、真暗な海にも隅があってその隅の方から響いて来ただよ。
西さ向けば、西の方、南さ向けば南の方、何でもおらがの向いた方で聞えるだね。浪の畝ると同一に声が浮いたり沈んだり、遠くなったりな、近くなったり。
その内ぼやぼやと火が燃えた。船から、沖へ、ものの十四五町と真黒な中へ、ぶくぶくと大きな泡が立つように、ぼッと光らあ。
やあ、火が点れたいッて、おらあ、吃驚して喚くとな、……姉さん。」
「おお、」と女房は変った声音。
「黙って、黙って、と理右衛門爺さまが胴の間で、苫の下でいわっしゃる。
また、千太がね、あれもよ、陸の人魂で、十五の年まで見ねえけりゃ、一生逢わねえというんだが、十三で出っくわした、奴は幸福よ、と吐くだあね。
おらあ、それを聞くと、艪づかを握った手首から、寒くなったあ。」
「……まあ、厭じゃないかね、それでベソを掻いたんだね、無理はないよ、恐怖いわねえ。」
とおくれ毛を風に吹かせて、女房も悚然とする。奴の顔色、赤蜻蛉、黍の穂も夕づく日。
「そ、そんなくれえで、お浜ッ児の婿さんだ、そんなくれえでベソなんか掻くべいか。
炎というだが、変な火が、燃え燃え、こっちへ来そうだで、漕ぎ放すべいと艪をおしただ。
姉さん、そうすると、その火がよ、大方浪の形だんべい、おらが天窓より高くなったり、船底へ崖が出来るように沈んだり、ぶよぶよと転げやあがって、船脚へついて、海蛇ののたくるようについて来るだ。」
「………………」
「そして何よ、ア、ホイ、ホイ、アホイと厭な懸声がよ、火の浮く時は下へ沈んで、火の沈む時は上へ浮いて、上下に底澄んで、遠いのが耳について聞えるだ。」
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