四
「小一さん、小一さん。」
たとえば夜の睫毛のような、墨絵に似た松の枝の、白張の提灯は――こう呼んで、さしうつむいたお桂の前髪を濃く映した。
婀娜にもの優しい姿は、コオトも着ないで、襟に深く、黒に紫の裏すいた襟巻をまいたまま、むくんだ小按摩の前に立って、そと差覗きながら言ったのである。
褄が幻のもみじする、小流を横に、その一条の水を隔てて、今夜は分けて線香の香の芬と立つ、十三地蔵の塚の前には外套にくるまって、中折帽を目深く、欣七郎が杖をついて彳んだ。
(――実は、彼等が、ここに夜泣松の下を訪れたのは、今夜これで二度めなのであった――)
はじめに。……話の一筋が歯に挟ったほどの事だけれど、でも、その不快について処置をしたさに、二人が揃って、祭の夜を見物かたがた、ここへ来た時は。……「何だ、あの謙斎か、按摩め。こくめいで律儀らしい癖に法螺を吹いたな。」そこには松ばかり、地蔵ばかり、水ばかり、何の影も見えなかった。空の星も晃々として、二人の顔も冴々と、古橋を渡りかけて、何心なく、薬研の底のような、この横流の細滝に続く谷川の方を見ると、岸から映るのではなく、川瀬に提灯が一つ映った。
土地を知った二人が、ふとこれに心を取られて、松の方へ小戻りして、向合った崖縁に立って、谿河を深く透かすと、――ここは、いまの新石橋が架らない以前に、対岸から山伝いの近道するのに、樹の根、巌角を絶壁に刻んだ径があって、底へ下りると、激流の巌から巌へ、中洲の大巌で一度中絶えがして、板ばかりの橋が飛々に、一煽り飜って落つる白波のすぐ下流は、たちまち、白昼も暗闇を包んだ釜ヶ淵なのである。
そのほとんど狼の食い散した白骨のごとき仮橋の上に、陰気な暗い提灯の一つ灯に、ぼやりぼやりと小按摩が蠢めいた。
思いがけない事ではない。二人が顔を見合せながら、目を放さず、立つうちに、提灯はこちらに動いて、しばらくして一度、ふわりと消えた。それは、巌の根にかくれたので、やがて、縁日ものの竜燈のごとく、雑樹の梢へかかった。それは崖へ上って街道へ出たのであった。
――その時は、お桂の方が、衝と地蔵の前へ身を躱すと、街道を横に、夜泣松の小按摩の寄る処を、
「や、御趣向だなあ。」と欣七郎が、のっけに快活に砕けて出て、
「疑いなしだ、一等賞。」
小按摩は、何も聞かない振をして、蛙が手をくがごとく、指で捜りながら、松の枝に提灯を釣すと、謙斎が饒舌った約束のごとく、そのまま、しょぼんと、根に踞んで、つくばい立の膝の上へ、だらりと両手を下げたのであった。
「おい。一等賞君、おい一杯飲もう。一所に来たまえ。」
その時だ。
「ぴい、ぷう。」
笛を銜えて、唇を空ざまに吹上げた。
「分ったよ、一等賞だよ。」
「ぴい、ぷう。」
「さ、祝杯を上げようよ。」
「ぴい、ぷう。」
空嘯いて、笛を鳴す。
夫人が手招きをした。何が故に、そのうしろに竜女の祠がないのであろう、塚の前に面影に立った。
「ちえッ」舌うちとともに欣七郎は、強情、我慢、且つ執拗な小按摩を見棄てて、招かれた手と肩を合せた、そうして低声をかわしかわし、町の祭の灯の中へ、並んでスッと立去った。
「ぴい、ぷう。……」
「小一さん。」
しばらくして、引返して二人来た時は、さきにも言った、欣七郎が地蔵の前に控えて、夫人自ら小按摩に対したのである。
「ぴい、ぷう。」
「小一さん。」
「ぴい、ぷう。」
「大島屋の娘はね、幽霊になってしまったのよ。」
と一歩ひきさま、暗い方に隠れて待った、あの射的店の幽霊を――片目で覗いていた方のである――竹棹に結えたなり、ずるりと出すと、ぶらりと下って、青い女が、さばき髪とともに提灯を舐めた。その幽霊の顔とともに、夫人の黒髪、びん掻に、当代の名匠が本質へ、肉筆で葉を黒漆一面に、緋の一輪椿の櫛をさしたのが、したたるばかり色に立って、かえって打仰いだ按摩の化ものの真向に、一太刀、血を浴びせた趣があった。
「一所に、おいでなさいな、幽霊と。」
水ぶくれの按摩の面は、いちじくの実の腐れたように、口をえみわって、ニヤリとして、ひょろりと立った。
お桂さんの考慮では、そうした……この手段を選んで、小按摩を芸妓屋町の演芸館。……仮装会の中心点へ送込もうとしたのである。そうしてしまえば、ねだ下、天井裏のばけものまでもない……雨戸の外の葉裏にいても気味の悪い芋虫を、銀座の真中へ押放したも同然で、あとは、さばさばと寐覚が可い。
……思いつきで、幽霊は、射的店で借りた。――欣七郎は紳士だから、さすがにこれは阻んだので、かけあいはお桂さんが自分でした。毛氈に片膝のせて、「私も仮装をするんですわ。」令夫人といえども、下町娘だから、お祭り気は、頸脚に幽な、肌襦袢ほどは紅に膚を覗いた。……
もう容易い。……つくりものの幽霊を真中に、小按摩と連立って、お桂さんが白木の両ぐりを町に鳴すと、既に、まばらに、消えたのもあり、消えそうなのもある、軒提灯の蔭を、つかず離れず、欣七郎が護って行く。
芸妓屋町へ渡る橋手前へ、あたかも巨寺の門前へ、向うから渡る地蔵の釜。
「ぼうぼう、ぼうぼう。」
「ぐらッぐらッ、ぐらッぐらッ。」
「や、小按摩が来た……出掛けるには及ばぬわ、青牛よ。」
「もう。」
と、吠える。
「ぴい、ぷう。」
「ぼうぼう、ぼうぼう。」
「ぐらッぐらッ、ぐらッぐらッ。」
そこで、一行異形のものは、鶩の夢を踏んで、橋を渡った。
鬼は、お桂のために心を配って来たらしい。
演芸館の旗は、人の顔と、頭との中に、電飾に輝いた。……町の角から、館の前の広場へひしと詰って、露台に溢れたからである。この時は、軒提灯のあと始末と、火の用心だけに家々に残ったもののほか、町を挙げてここへ詰掛けたと言って可い。
そのかわり、群集の一重うしろは、道を白く引いて寂然としている。
「おう、お嬢さん……そいつを持ちます、俺の役だ。」
赤鬼は、直ちに半助の地声であった。
按摩の頭は、提灯とともに、人垣の群集の背後についた。
「もう、要らないわ、此店へ返して、ね。」
と言った。
「青牛よ。」
「もう。」
「生白い、いい肴だ。釜で煮べい。」
「もう。」
館の電飾が流るるように、町並の飾竹が、桜のつくり枝とともに颯と鳴った。更けて山颪がしたのである。
竹を掉抜きに、たとえば串から倒に幽霊の女を釜の中へ入れようとした時である。砂礫を捲いて、地を一陣の迅き風がびゅうと、吹添うと、すっと抜けて、軒を斜に、大屋根の上へ、あれあれ、もの干を離れて、白帷子の裾を空に、幽霊の姿は、煙筒の煙が懐手をしたように、遥に虚空へ、遥に虚空へ――
群集はもとより、立溢れて、石の点頭くがごとく、踞みながら視ていた、人々は、羊のごとく立って、あッと言った。
小一按摩の妄念も、人混の中へ消えたのである。
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