三十四
「掏(す)られた、盗(と)られたッて、幾干(いくら)ばかり台所の小遣(いりよう)をごまかして来やあがったか知らねえけれど、汝(てめえ)がその面(つら)で、どうせなけなしの小遣だろう、落しっこはねえ。
へん、鈍漢(のろま)。どの道、掏られたにゃ違えはねえが、汝がその間抜けな風で、内からここまで蟇口(がまぐち)が有るもんかい、疾(とっ)くの昔にちょろまかされていやあがったんだ。
さあ、お目通りで、着物を引掉(ひっぷる)って神田児(かんだッこ)の膚合(はだあい)を見せてやらあ、汝が口説く婦(おんな)じゃねえから、見たって目の潰(つぶ)れる憂慮(きづけえ)はねえ、安心して切立(きったて)の褌(ふんどし)を拝みゃあがれ。
ええこう、念晴しを澄ました上じゃ、汝(うぬ)、どうするか見ろ。」
「やあ、風が変った、風が変った。」
と酒井は快活に云って、原(もと)の席に帰った。
車掌台からどやどやと客が引込む、直ぐ後へ――見張員に事情を通じて、事件を引渡したと思われる――車掌が勢(いきおい)なく戻って、がちゃりと提革鞄(さげかばん)を一つ揺(ゆす)って、チチンと遣ったが、まだ残惜そうに大路に半身を乗出して人だかりの混々(ごたごた)揉むのを、通り過ぎ状(ざま)に見て進む。
と錦帯橋(きんたいきょう)の月の景色を、長谷川が大道具で見せたように、ずらりと繋(つなが)って停留していた幾つとない電車は、大通りを廻り舞台。事の起った車内では、風説(うわさ)とりどり。
あれは掏摸(すり)の術(て)でございます。はじめに恐入っていた様子じゃ、確に業(わざ)をしたに違いませんが、もう電車を下りますまでには同類の袂(たもと)へすっこかしにして、証拠が無いから逆捻(さかね)じを遣るでございます、と小商人(こあきんど)風の一分別ありそうなのがその同伴(つれ)らしい前垂掛(まえだれかけ)に云うと、こちらでは法然天窓(ほうねんあたま)の隠居様が、七度(ななたび)捜して人を疑えじゃ、滅多な事は謂われんもので、のう。
そうおっしゃれば、あの掏られた、と言いなさる洋服(ふく)を着た方も、おかしな御仁でござりますよ。此娘(これ)の貴下(あなた)、(と隣に腰かけた、孫らしい、豊肌(ぽってり)した娘の膝を叩いて、)簪(かんざし)へ、貴下、立っていてちょいちょい手をお触りなさるでございます。御仁体が、御仁体なり、この娘(こ)が恥かしがって、お止しよ、お止しよ、と申しますから、何をなさる、と口まで出ましたのを堪(こら)えていたのでござりますよ。お止しよ、お祖母さんと、その娘はまた同じことをここで云って、ぼうと紅くなる。
法然天窓は苦笑いをして……後からせせるやら、前からは毛の生えた、大(おおき)な足を突出すやら……など、浄瑠璃にもあって、のう、昔、この登り下りの乗合船では女子衆(おなごしゅ)が怪しからず迷惑をしたものじゃが、電車の中でも遣りますか、のう、結句、掏摸よりは困りものじゃて。
駄目でさ、だってお前さん、いきなり引摺り下ろしてしまったんだから、それ、ばらばら一緒に大勢が飛出しましたね、よしんばですね、同類が居た処で、疾(とっく)の前(さき)、どこかへ、すっ飛んでいるんですから手係りはありやしません。そうでなくって、一人も乗客(のりて)が散らずに居りゃ、私達(わっしだち)だって関合(かかりあ)いは抜けませんや。巡査(おまわり)が来て、一応検(しら)べるなんぞッて事になりかねません。ええ、後はどうなるッて、お前さん、掏摸は現行犯ですからね、証拠が無くって、知らないと云や、それまででさ。またほんとうに掏られたんだか何だか知れたもんじゃありません、どうせ間抜けた奴なんでさあね、と折革鞄(おりかばん)を抱え込んだ、どこかの中小僧らしいのが、隣合った田舎の親仁(おやじ)に、尻上りに弁じたのである。
いずれ道学先生のために、祝すべき事ではない。
あえて人の憂(うれい)を見て喜ぶような男ではないが、さりとて差当りああした中の礼之進のために、その憂を憂として悲(かなし)むほどの君子でもなかろう。悪くすると(状を見ろ。)ぐらいは云うらしい主税が、風向きの悪い大人の風説(うわさ)を、耳を澄まして聞き取りながら、太(いた)く憂わしげな面色(おももち)で。
実際鬱込(ふさぎこ)んでいるのはなぜか。
忘れてはならぬ、差向いに酒井先生が、何となく、主税を睨(にら)むがごとくにしていることを。
三十五
鬱ぐも道理(ことわり)、そうして電車の動くままに身を任せてはいるものの、主税は果してどこへ連れらるるのか、雲に乗せられたような心持がするのである。
もっとも、薬師の縁日で一所になって、水道橋から外濠線(そとぼりせん)に乗った時は、仰せに因って飯田町なる、自分の住居(すまい)へ供をして行ったのであるが、元来その夜は、露店の一喝と言い、途中の容子と言い、酒井の調子が凜(りん)として厳しくって、かねて恩威並び行わるる師の君の、その恩に預かれそうではなく、罰利生(ばちりしょう)ある親分の、その罰の方が行われそうな形勢は、言わずともの事であったから、電車でも片隅へ蹙(すく)んで、僥倖(さいわい)そこでも乗客(のりて)が込んだ、人蔭になって、眩(まばゆ)い大目玉の光から、顔を躱(か)わして免(まぬか)れていたは可いが、さて、神楽坂で下りて、見附の橋を、今夜に限って、高い処のように、危っかしく渡ると、件(くだん)の売卜者(うらない)の行燈(あんどう)が、真黒(まっくろ)な石垣の根に、狐火かと見えて、急に土手の松風を聞く辺(あたり)から、そろそろ足許が覚束なくなって、心も暗く、吐胸(とむね)を支(つ)いたのは、お蔦の儀。
ひとえに御目玉の可恐(おそろし)いのも、何を秘(かく)そう繻子(しゅす)の帯に極(きわま)ったのであるから、これより門口へかかる……あえて、のろけるにしもあらずだけれども、自分の跫音(あしおと)は、聞覚えている。
その跫音が、他の跫音と共に、澄まして音信(おとず)れれば、(お帰んなさい。)で、出て来るは定のもの。分けて、お妙の事を、やきもき気を揉んでいる処。それが為にこうして出向いた、真砂町の様子を聞き度さに、特(こと)に、似たもの夫婦の譬(たとえ)、信玄流の沈勇の方ではないから、随分飜然(ひらり)と露(あらわ)れ兼ねない。
いざ、露れた場合には……と主税は冷汗になって、胸が躍る。
あいにく例(いつも)のように話しもしないで、ずかずか酒井が歩行(ある)いたので、とこう云う間(ひま)もなかった、早や我家の路地が。
堪(たま)りかねて、先生と、呼んで、女中(おんな)が寝ていますと失礼ですから、一足! と云うが疾(はや)いか、(お先へ、)は身体(からだ)で出て、横ッ飛びに駈(か)け抜ける内も、ああ、我ながら拙(つたな)い言分。
(待て! 待て!)
それ、声が掛った。
酒井はそこで足を留めた。
屹(きっ)と立って、
(宵から寐(ね)るような内へ、邪魔をするは気の毒だ。他(わき)へ行こう、一緒に来な。)
で路が変って、先生のするまま、鷲(わし)に攫(さら)われたような思いで乗ったのが、この両国行――
なかなか道学者の風説(うわさ)に就いて、善悪ともに、自から思虜を回(めぐ)らすような余裕とては無いのである。
電車が万世橋(めがね)の交叉点を素直(まっす)ぐに貫いても、鷲は翼を納めぬので、さてはこのまま隅田川(おおかわ)へ流罪(ながし)ものか、軽くて本所から東京の外へ追放になろうも知れぬ。
と観念の眼(まなこ)を閉じて首垂(うなだ)れた。
「早瀬、」
「は、」
「降りるんだ。」
一場展開した広小路は、二階の燈(ひ)と、三階の燈と、店の燈と、街路の燈と、蒼(あお)に、萌黄(もえぎ)に、紅(くれない)に、寸隙(すきま)なく鏤(ちりば)められた、綾(あや)の幕ぞと見る程に、八重に往来(ゆきか)う人影に、たちまち寸々(ずたずた)と引分けられ、さらさらと風に連れて、鈴を入れた幾千の輝く鞠(まり)となって、八方に投げ交わさるるかと思われる。
ここに一際夜の雲の濃(こま)やかに緑の色を重ねたのは、隅田へ潮がさすのであろう、水の影か、星が閃(きらめ)く。
我が酒井と主税の姿は、この広小路の二点となって、浅草橋を渡果てると、富貴竈(ふうきかまど)が巨人のごとく、仁丹が城のごとく、相対して角を仕切った、横町へ、斜めに入って、磨硝子(すりがらす)の軒の燈籠の、媚(なまめ)かしく寂寞(ひっそり)して、ちらちらと雪の降るような数ある中を、蓑(みの)を着た状(さま)して、忍びやかに行くのであった。
柏 家
三十六
やがて、貸切と書いた紙の白い、その門の柱の暗い、敷石のぱっと明(あかる)い、静粛(しん)としながら幽(かすか)なように、三味線(さみせん)の音(ね)が、チラチラ水の上を流れて聞える、一軒大構(おおがまえ)の料理店の前を通って、三つ四つ軒燈籠の影に送られ、御神燈の灯に迎えられつつ、地(つち)の濡れた、軒に艶(つや)ある、その横町の中程へ行くと、一条(ひとすじ)朧(おぼろ)な露路がある。
芸妓家(げいしゃや)二軒の廂合(ひあわい)で、透かすと、奥に薄墨で描いたような、竹垣が見えて、涼しい若葉の梅が一木(ひとき)、月はなけれど、風情を知らせ顔にすっきりと彳(たたず)むと、向い合った板塀越に、青柳の忍び姿が、おくれ毛を銜(くわ)えた態(てい)で、すらすらと靡(なび)いている。
梅と柳の間を潜(くぐ)って、酒井はその竹垣について曲ると、処がら何となく羽織の背の婀娜(あだ)めくのを、隣家(となり)の背戸の、低い石燈籠がト踞(しゃが)んだ形で差覗(さしのぞ)く。
主税は四辺(あたり)を見て立ったのである。
先生がその肩の聳(そび)えた、懐手のまま、片手で不精らしくとんとんと枝折戸(しおりど)を叩くと、ばたばたと跫音(あしおと)聞えて、縁の雨戸が細目に開いた。
と派手な友染の模様が透いて、真円(まんまる)な顔を出したが、燈(あかり)なしでも、その切下げた前髪の下の、くるッとした目は届く。隔ては一重で、つい目の前(さき)の、丁子巴の紋を見ると、莞爾々々(にこにこ)と笑いかけて、黙って引込(ひっこ)むと、またばたばたばた。
程もあらせず、どこかでねじを圧したと見える、その小座敷へ、電燈が颯(さっ)と点(つ)くのを合図に、中脊で痩(やせ)ぎすな、二十(はたち)ばかりの細面(ほそおもて)、薄化粧して眉の鮮明(あざやか)な、口許(くちもと)の引緊(ひきしま)った芸妓(げいこ)島田が、わざとらしい堅気づくり。袷(あわせ)をしゃんと、前垂がけ、褄(つま)を取るのは知らない風に、庭下駄を引掛(ひっか)けて、二ツ三ツ飛石を伝うて、カチリと外すと、戸を押してずッと入る先生の背中を一ツ、黙言(だんまり)で、はたと打った。これは、この柏屋(かしわや)の姐(ねえ)さんの、小芳(こよし)と云うものの妹分で、綱次(つなじ)と聞えた流行妓(はやりっこ)である。
「大層な要害だな。」
「物騒ですもの。」
「ちっとは貯蓄(たま)ったか。」
と粗雑(ぞんざい)に廊下へ上る。先生に従うて、浮かぬ顔の主税と入違いに、綱次は、あとの戸を閉めながら、
「お珍らしいこと。」
「…………。」
「蔦吉姉さんはお達者?」と小さな声。
主税はヒヤリとして、ついに無い、ものをも言わず、恐れた顔をして、ちょっと睨(にら)んで、そっと上って、開けた障子へ身体(からだ)は入れたが、敷居際へ畏(かしこ)まる。
酒井先生、座敷の真中へぬいと突立ったままで――その時茶がかった庭を、雨戸で消して入(い)り来る綱次に、
「どうだ、色男が糶出(せりだ)したように見えるか。」
とずッと胸を張って見せる。
「私には解りません、姉さんにお見せなさいまし、今に帰りますから、」
「そう目前(めさき)が利かないから、お茶を挽(ひ)くのよ。当節は女学生でも、今頃は内には居ない。ちっと日比谷へでも出かけるが可(い)い。」
「憚様(はばかりさま)、お座敷は宵の口だけですよ。」
と姿見の前から座蒲団をするりと引いて、床の間の横へ直した。
「さあ、早瀬さん。」と、もう一枚。
主税は膝の傍(わき)へ置いたままなり。
友染の羽織を着たのが、店から火鉢を抱えて来て、膝と一所に、お大事のもののように据えると、先生は引跨(ひんまた)ぐ体に胡坐(あぐら)の膝へ挟んで、口の辺(あたり)を一ツ撫でて、
「敷きな、敷きな。」
と主税を見向いた。
「はい、」
とばかりで、その目玉に射られるようで堅くなってどこも見ず、面(おもて)を背けると端(はし)なく、重箪笥(かさねだんす)の前なる姿見。ここで梳(くしけず)る柳の髪は長かろう、その姿見の丈が高い。
三十七
「お敷きなさいなね、貴下(あなた)、此家(ここ)へいらっしゃりゃ、先生も何もありはしません、御遠慮をなさらなくっても可いんですよ。」
と意気、文学士を呑む。この女は、主税が整然(きちん)としているのを、気の毒がるより、むしろ自分の方が、為に窮屈を感ずるので。
その癖、先生には、かえって、遠慮の無い様子で、肩を並べるようにして支膝(つきひざ)で坐りながら、火鉢の灰をならして、手でその縁をスッと扱(しご)く。
「茶を一ツ、熱いのを。」
酒井は今のを聞かない振で、
「それから酒だ。」
綱次は入口の低い襖(ふすま)を振返って、ト拝む風に、雪のような手を敲(たた)く。
「自分で起(た)て。少(わか)いものが、不精を極(き)めるな。」
「厭(いや)ですよ。ちゃんと番をしていなくっては。姉さんに言いつかっているんだから。」
と言いながら、人懐かしげに莞爾(にっこり)して、
「ねえ、早瀬さん。」
「で、ございますかな。」とようよう膝去(いざ)り出して、遠くから、背を円くして伸上って、腕を出して、巻莨(まきたばこ)に火を点(つ)けたが、お蔦が物指(ものさし)を当てた襦袢(じゅばん)の袖が見えたので、気にして、慌てて、引込める。
「ちっと透かさないか、籠(こも)るようだ。」
「縁側ですか。」
「ううむ、」
と頭(かぶり)を掉(ふ)ったので、すっと立って、背後(うしろ)の肱掛窓(ひじかけまど)を開けると、辛うじて、雨落だけの隙(すき)を残して、厳(いかめ)しい、忍返しのある、しかも真新(まあたらし)い黒板塀が見える。
「見霽(みはら)しでも御覧なさいよ。」
と主税を振向いてまた笑う。
酒井が凝(じっ)と、その塀を視(なが)めて、
「一面の杉の立樹だ、森々としたものさ。」
と擽(くすぐ)って、独(ひとり)で笑った。
「しかし山焼の跡だと見えて、真黒は酷(ひど)いな。俺もゆくゆくは此家(こちら)へ引取られようと思ったが、裏が建って、川が見えなくなったから分別を変えたよ。」
そこへ友染がちらちら来る。
「お出花を、早く、」
「はあ、」
「熱くするんだよ。」
「これ、小児(こども)ばっかり使わないで、ちっと立って食うものの心配でもしろ。民(たみ)はどうした、あれは可(い)い。小老実(こまめ)に働くから。今に帰ったら是非酌をさせよう。あの、愛嬌(あいきょう)のある処で。」
「そんなに、若いのが好(すき)なら、御内のお嬢さんが可いんだわ。ねえ早瀬さん。」
これには早瀬も答えなかったが、先生も苦笑した。
「妙も近頃は不可(いけな)くなったよ。奥方と目配(めくばせ)をし合って、とかく銚子をこぎって不可(いか)ん。第一酌をしないね。学校で、(お酌さん。)と云うそうだ。小児どもの癖に、相応に皮肉なことを云うもんだ。」
「貴郎(あなた)には小児でも、もうお嫁入盛(ざかり)じゃありませんか。どうかすると、こっちへもいらっしゃる、学校出の方にゃ、酒井さんの天女(エンゼル)が、何のと云っちゃ、あの、騒いでおいでなさるのがありますわ。」
「あの、嬰児(あかんぼ)をか、どこの坊やだ。」
「あら、あんなことを云って。こちらの早瀬さんなんかでも、ちょうど似合いの年紀頃(としごろ)じゃありませんか。」
と何でものう云ってのけたが、主税は懐中(ふところ)の三世相とともに胸に支(つか)えて俯向(うつむ)いた。
「その癖、当人は嫁入と云や鼠の絵だと思っているよ。」
と云いかけて莞爾(かんじ)として、
「むむ、これは、猫の前で危い話だ。」
と横顔へ煙を吹くと、
「引掻(ひっか)いてよ。」と手を挙げたが、思い出したように座を立って、
「どうしたんだろうねえ、電話は、」と呟(つぶや)いて出ようとする。
「おい、阿婆(おっかあ)は?」
「もう寐(ね)ました。」
「いや、老人(としより)はそう有りたい。」
座の白ける間は措かず、綱次はすぐに引返(ひっかえ)して、
「姉さんは、もう先方(むこう)は出たそうですわ。」
云う間程なく、矢を射るような腕車(くるま)一台、からからと門(かど)に着いたと思うと、
「唯今(ただいま)!」と車夫の声。
三十八
「そうかい。」
と……意味のある優しい声を、ちょいと誰かに懸けながら、一枚の襖(ふすま)音なく、すらりと開(あ)いて入ったのは、座敷帰りの小芳である。
瓜核顔(うりざねがお)の、鼻の準縄(じんじょう)な、目の柔和(やさし)い、心ばかり面窶(おもやつれ)がして、黒髪の多いのも、世帯を知ったようで奥床しい。眉のやや濃い、生際(はえぎわ)の可(い)い、洗い髪を引詰(ひッつ)めた総髪(そうがみ)の銀杏返(いちょうがえ)しに、すっきりと櫛の歯が通って、柳に雨の艶(つや)の涼しさ。撫肩の衣紋(えもん)つき、少し高目なお太鼓の帯の後姿が、あたかも姿見に映ったれば、水のように透通る細長い月の中から抜出したようで気高いくらい。成程この婦(おんな)の母親なら、芸者家の阿婆(おっかあ)でも、早寝をしよう、と頷(うなず)かれる。
「まあ、よくいらしってねえ。」
と主税の方へ挨拶して、微笑(ほほえ)みながら、濃い茶に鶴の羽小紋の紋着(もんつき)二枚袷(あわせ)、藍気鼠(あいけねずみ)の半襟、白茶地(しらちゃじ)に翁格子(おきなごうし)の博多の丸帯、古代模様空色縮緬(ちりめん)の長襦袢(ながじゅばん)、慎ましやかに、酒井に引添(ひっそ)うた風采(とりなり)は、左支(さしつか)えなく頭(つむり)が下るが、分けてその夜(よ)の首尾であるから、主税は丁寧に手を下げて、
「御機嫌宜(よ)う、」と会釈をする。
その時、先生撫然(ぶぜん)として、
「芸者に挨拶をする奴があるか。」
これに一言句(ひともんく)あるべき処を、姉さんは柔順(おとなし)いから、
「お出花が冷くなって、」
と酒井の呑さしを取って、いそいそ立って、開けてある肱掛窓(ひじかけまど)から、暗い雨落へ、ざぶりと覆(かえ)すと、斜めに見返って、
「大(おおき)な湯覆(ゆこぼ)しだな、お前ン許(とこ)のは。」
「あんな事ばかり云って、」
と、主税を見て莞爾(にっこり)して、白歯を染めても似合う年紀(とし)、少しも浮いた様子は見えぬ。
それから、小芳は伏目になって、二人の男へ茶を注(つ)いだが、ここに居ればその役目の、綱次は車が着いた時、さあお帰りだ、と云うとともに、はらはら座敷を出たのと知るべし。
酒井は軽(かる)く襟を扱(しご)いて、
「そこで、御馳走は、」
「綱次さんが承知をしてます。」
「また寄鍋だろう、白滝沢山と云う。」
「どうですか。」
と横目で見て、嬉しそうに笑(えみ)を含む。
「いずれ不漁(しけ)さ。」
と打棄(うっちゃ)るように云ったが、向直って、
「早瀬、」と呼んだ声が更(あらた)まった。
「ええ。」
「先刻(さっき)の三世相を見せろ。」
一仔細(ひとしさい)なくてはならぬ様子があるので、ぎょっとしながら、辞(いな)むべき数(すう)ではない。……柏家は天井裏を掃除しても、こんなものは出まいと思われる、薄汚れたのを、電燈の下(もと)に、先生の手に、もじもじと奉る。
引取(ひっと)って、ぐいと開けた、気が入って膝を立てた、顔の色が厳しくなった。と見て胆(きも)を冷したのは主税で、小芳は何の気も着かないから、晴々しい面色(おももち)で、覗込(のぞきこ)んで、
「心当りでも出来たんですか。」
不答(こたえず)。煙草の喫(すい)さしを灰の中へ邪険に突込(つっこ)み、
「何は、どうした。」
と唐突(だしぬけ)に聞かれたので、小芳は恍惚(うっとり)したように、酒井の顔を視(なが)めると……
「あれよ、ちょいと意気な、清元の旨(うま)い、景気の可(い)い、」
いいいい本を引返(ひっかえ)して、
「扱帯(しごき)で、鏡に向った処は、絵のようだという評判の……」
と凝(じっ)と見られて、小芳は引入れられたように、
「蔦吉さん。」
と云って、喫いかけた煙管(きせる)を忘れる。
主税は天窓(あたま)から悚然(ぞっ)とした。
「あれはどうした。」
「え、」
「俺はさっぱり山手(のて)になって容子を知らんが、相変らず繁昌(はんじょう)か。」
三十九
小芳は我知らず、(ああ、どうしよう。)と云う瞳が、主税の方へ流るるのを、無理に堪(こら)えて、酒井を瞻(みまも)った顔が震えて、
「蔦吉さんはもう落籍(ひき)ましたそうです。」
と言わせも果てずに、
「(そうです。)は可怪(おかし)い。近所に居ながら、知らんやつがあるか、判然(はっきり)謂(い)え、落籍(ひい)たのか!」
「はい、」と伏目になったトタンに、優しげな睫毛(まつげ)が、(どうかなさいよ。)と、主税の顔へ目配せする。
酒井は、主税を見向きもしないで、悠々とした調子になり、
「そりゃ可い事をした、泥水稼業を留(や)めたのは芽出度い。で、どこに居る、当時は………よ?」
「私はよく存じませんので……あの、どこか深川に居るんですって。」
「深川? 深川と云う人に落籍されたのか、川向うの深川かい。」
「…………。」
「どうだよ、おい、知らない奴があるか。お前、仲が好くって、姉妹(きょうだい)のようだと云ったじゃないか。姉妹分が落籍たのに、その行先が分らない、べら棒があるもんかい。
姉さんとか、小芳さんとか云って、先方(さき)でも落籍(ひき)祝いに、赤飯ぐらい配ったろう、お前食ったろう、そいつを。
蒸立だとか、好い色だとか云って、喜んでよ、こっちからも、※(にんべん)の切手の五十銭ぐらい祝ったろう。小遣帳に記(つ)いているだろう。その婦(おんな)の行先が知れない奴があるものか。
知らなきゃ馬鹿だ。もっとも、己(おれ)のような素一歩(すいちぶ)と腐合おうと云う料簡方(りょうけんかた)だから、はじめから悧怜(りこう)でないのは知れてるんだ。馬鹿は構わん、どうせ、芸者だ、世間並じゃない。芸者の馬鹿は構わんが、薄情は不可(いか)んな! 薄情は。薄情な奴は俺(おい)ら真平だ。」
「いつ、私が、薄情な、」
と口惜(くや)しく屹(きっ)となる処を、酒井の剣幕が烈(はげし)いので、悄(しお)れて声が霑(うる)んだのである。
「薄情でない! 薄情さ。懇意な婦(おんな)の、居処を知らなけりゃ薄情じゃないか。」
「だって、貴郎(あなた)。だって、先方(さき)でも、つい音信(たより)をしないもんですから、」
「先方(さき)が音信(たより)をしなくっても、お前の薄情は帳消は出来ん。なぜこっちから尋ねんのだ。こんな稼業だから、暇が無い。行通(ゆきかよい)はしないでも、居処が分らんじゃ、近火(きんか)はどうする! 火事見舞に町内の頭(かしら)も遣らん、そんな仲よしがあるものか、薄情だよ、水臭いよ。」
姉さんの震えるのを見て、身から出た主税は堪(たま)りかねて、
「先生、」
と呼んだが、心ばかりで、この声は口へは出なかった。
酒井は耳にも掛けないで、
「済まん事さ、俺も他人でないお前を、薄情者にはしたくないから、居処を教えてやろう。
堀の内へでも参詣(まい)る時は道順だ。煎餅の袋でも持って尋ねてやれ。おい、蔦吉は、当時飯田町五丁目の早瀬主税の処に居るよ。」
真蒼(まっさお)になって、
「先生、」
「早瀬!」
と一声屹(きっ)となって、膝を向けると、疾風一陣、黒雲を捲(ま)いて、三世相を飛ばし来って、主税の前へはたと落した。
眼の光射るがごとく
「見ろ! 野郎は、素袷(すあわせ)のすッとこ被(かぶり)よ。婦(おんな)は編笠を着て三味線(さみせん)を持った、その門附(かどつけ)の絵のある処が、お前たちの相性だ。はじめから承知だろう。今更本郷くんだりの俺の縄張内を胡乱(うろ)ついて、三世相の盗人覗(ぬすっとのぞ)きをするにゃ当るまい。
その間抜けさ加減だから、露店(ほしみせ)の亭主に馬鹿にされるんだ。立派な土百姓になりゃあがったな、田舎漢(いなかもの)め!」
四十
主税はようよう、それも唾(つば)が乾くか、かすれた声で、
「三世相を見ておりましたのは、何も、そんな、そんな訳じゃございません……」とだけで後が続かぬ。
「翻訳でも頼まれたか、前世は牛だとか、午(うま)だとか。」
と串戯(じょうだん)のような警抜な詰問が出たので、いささか言(ことば)が引立(ひった)って、
「いいえ、実はその何でございまして。その、この間中から、お嬢さんの御縁談がはじまっております、と聞きましたもんですから、」
小芳はそっと酒井を見た。この間(なか)でも初に聞いた、お妙の縁談と云うのを珍らしそうに。
「ははあ、じゃ何か、妙と、河野英吉との相性を検(しら)べたのかい。」
果せる哉(かな)、礼之進が運動で、先生は早や平家の公達(きんだち)を御存じ、と主税は、折柄も、我身も忘れて、
「はい、」と云って、思わず先生の顔を見ると、瞼(まぶた)が颯(さっ)と暗くなるまで、眉の根がじりりと寄って、
「大きに、お世話だ。酒井俊蔵と云う父親と、歴然(れっき)とした、謹(夫人の名。)と云う母親が附いている妙の縁談を、門附風情が何を知って、周章(あわて)なさんな。
僭上(せんじょう)だよ、無礼だよ、罰当り!
お前が、男世帯をして、いや、菜が不味(まず)いとか、女中(おんな)が焼豆腐ばかり食わせるとか愚痴った、と云って、可(い)いか、この間持って行った重詰なんざ、妙が独活(うど)を切って、奥さんが煮たんだ。お前達ア道具の無い内だから、勿体(もったい)ない、一度先生が目を通して、綺麗に装(も)ってあるのを、重箱のまま、売婦(ばいた)とせせり箸(ばし)なんぞしやあがって、弁松にゃ叶わないとか、何とか、薄生意気な事を言ったろう。
よく、その慈姑(くわい)が咽喉(のど)に詰って、頓死(とんし)をしなかったよ。
無礼千万な、まだその上に、妙の縁談の邪魔をするというは何事だ。」
と大喝した。
主税は思わず居直って、
「邪魔を……私(わ)、私(わたくし)が、邪魔なんぞいたしますものでございますか。」
「邪魔をしない! 邪魔をせんものが、縁談の事に付いて、坂田が己(おれ)に紹介を頼んだ時、お前なぜそれを断ったんだ。」
「…………」
「なぜ断った?」
「あんな、道学者、」
「道学者がどうした。結構さ。道学者はお前のような犬でない、畜生じゃないよ。何か、お前は先方(さき)の河野一家の理想とか、主義とかに就いて、不服だ、不賛成だ、と云ったそうだ。不服も不賛成もあったものか。人間並の事を云うな。畜生の分際で、出過ぎた奴だ。
第一、汝(きさま)のような間違った料簡(りょうけん)で、先生の心が解るのかよ! お前は不賛成でも己は賛成だか、お前は不服でも己は心服だか――知れるかい。
何のかのと、故障を云って、(御門生は、令嬢に思召しがあるのでごわりましょう。)と坂田が歯を吸って、合点(のみこ)んでいたが、どうだ。」
「ええ! あの、痘痕(あばた)が、」
と色をかえて戦(わなな)いた。主税はしかも点々(たらたら)と汗を流して、
「他(ほか)の事とは違います、聞棄てになりません。私(わたくし)は、私は、これは、改めて、坂田に談じなければなりません。」
「何だ、坂田に談じる? 坂田に談じるまでもない。己がそう思ったらどうするんだ、先生が、そう思ったら何とするよ。」
「誰が、先生、そんな事。」
「いいや、内の玄関の書生も云った、坂田が己の許(とこ)へ来たと云うと、お前の目の色が違うそうだ。車夫も云った、車夫の女房も云ったよ。(誰か妙の事を聞きに来たものはないか。)と云って、お前、車屋でまで聞くんだそうだな。恥しくは思わんか、大きな態(なり)をしやあがって、薄髯(うすひげ)の生えた面(つら)を、どこまで曝(さら)して歩行(ある)いているんだ。」
と火鉢をぐいぐいと揺(ゆすぶ)って。
四十一
「あっちへ蹌々(ひょろひょろ)、こっちへ踉々(よろよろ)、狐の憑(つ)いたように、俺の近所を、葛西(かさい)街道にして、肥料桶(こえたご)の臭(におい)をさせるのはどこの奴だ。
何か、聞きゃ、河野の方で、妙の身体(からだ)に探捜(さぐり)を入れるのが、不都合だとか、不意気(ぶいき)だとか言うそうだが、」
噫(ああ)、礼之進が皆饒舌(しゃべ)った……
「意気も不意気も土百姓の知った事かい。これ、河野はお前のような狐憑じゃないのだぜ。
学位のある、立派な男が、大切な嫁を娶(と)るのだ。念を入れんでどうするものか。検(しら)べるのは当前(あたりまえ)だ。芸者を媽々(かかあ)にするんじゃない。
また己(おれ)の方じゃ、探捜を入れて貰いたいのよ。さあ、どこでも非難をして見ろ、と裸体(はだか)で見せて差支えの無いように、己と、謹とで育てたんだ。
何が可恐(おそろし)い? 何が不平だ? 何が苦しい? 己は、渠等(かれら)の検べるのより、お前がそこらをまごつく方がどのくらい迷惑か知れんのだ。
よしんば、奴等に、身元検べをされるのが迷惑とする、癪(しゃく)に障るとなりゃ、己がちゃんと心得てる。この指一本、妙の身体(からだ)を秘(かく)した日にゃ、按摩(あんま)の勢揃ほど道学者輩が杖(つえ)を突張って押寄せて、垣覗(かきのぞ)きを遣ったって、黒子(ほくろ)一点(ひとつ)も見せやしない、誰だと思う、おい、己だ。」
とまた屹(きっ)と見て、
「なぜ、泰然と落着払って、いや、それはお芽出度い、と云って、頼まれた時、紹介をせん。癪に障る、野暮だ、と云う道学者に、ぐッと首根ッ子を圧(おさ)えられて、(早瀬氏はこれがために、ちと手負猪(じし)でごわりましてな。)なんて、歯をすすらせるんだ。
馬鹿野郎! 俺(おい)ら弟子はいくらでもある、が小児(こども)の内から手許に置いて、飴(あめ)ン棒までねぶらせて、妙と同一(ひとつ)内で育てたのは、汝(きさま)ばかりだ。その子分が、道学者に冷かされるような事を、なぜするよ。
(世間に在るやつでごわります。飼犬に手を噛(か)まれると申して。以来あの御門生には、令嬢お気を着けなさらんと相成りませんで。)坂田が云ったを知ってるか。
馬鹿野郎、これ、」
と迫った調子に、慈愛が籠って、
「さほどの鈍的(とんちき)でもなかったが、天罰よ。先生の目を眩(くら)まして、売婦(ばいた)なんぞ引摺込む罰が当って、魔が魅(さ)したんだ。
嫁入前の大事な娘だ、そんな狐の憑いた口で、向後(こうご)妙の名も言うな。
生意気に道学者に難癖なんぞ着けやあがって、汝(てめえ)の面当(つらあて)にも、娘は河野英吉にたたッ呉れるからそう思え。」
「貴郎(あなた)、」
と小芳が顔を上げて、
「早瀬さんに、どんな仕損いが、お有んなすったか存じませんが、決して、お内や、お嬢さんの……(と声が曇って、)お為悪かれ、と思ってなすったんじゃござんすまいから、」
「何だ。為悪かれ、と思わん奴が、なぜ芸者を引摺込んで、師匠に対して申訳のないような不埒(ふらち)を働く。第一お前も、」
稲妻が西へ飛んで、
「同類だ、共謀(ぐる)だ、同罪だよ。おい、芸者を何だと思っている。藪入(やぶいり)に新橋を見た素丁稚(すでっち)のように難有(ありがた)いもんだと思っているのか。馬鹿だから、己が不便(ふびん)を掛けて置きゃ、増長して、酒井は芸者の情婦(いろ)を難有がってると思うんだろう。高慢に口なんぞ突出しやがって、俯向(うつむ)いておれ。」
はっと首垂(うなだ)れたが、目に涙一杯。
「そんな、貴郎、難有がってるなんのッて、」
「難有くないものを、なぜ俺の大事な弟子に蔦吉を取持ったんだい!」
主税は手を支(つ)いて摺(ず)って出た。
「先(せ)、先生、姉さんは、何にも御存じじゃございません、それは、お目違いでございまして、」
と大呼吸(おおいき)を胸で吐(つ)くと、
「黙れ! 生れてから、俺(おいら)、目違いをしたのは、お前達二人ばかりだ。」
四十二
「お言葉を反(かえ)しますようでございますが、」
主税は小芳の自分に対する情が仇(あだ)になりそうなので、あるにもあられず据身(すえみ)になって、
「誰がそういうことをお耳に入れましたか存じませんが、芸者が内に居りますなんてとんだ事でございます。やっぱり、あの坂田の奴が、怪しかりません事を。私(わたくし)は覚悟がございます、彼奴(あいつ)に対しましては、」と目の血走るまで意気込んだが、後暗い身の明(あかり)は、ちっとも立つのではなかった。
「覚悟がある、何の覚悟だ。己(おれ)に申訳が無くって、首を縊(くく)る覚悟か。」
「いえ、坂田の畜生、根もない事を、」
「馬鹿!」
と叱(しっ)して、調子を弛(ゆる)めて、
「も休み休み言え。失礼な、他人の壁訴訟を聞いて、根も無い事を疑うような酒井だと思っているか。お前がその盲目(めくら)だから悪い事を働いて、一端(いっぱし)己の目を盗んだ気で洒亜々々(しゃあしゃあ)としているんだ。
先刻(さっき)どうした、牛込見附でどうしたよ。慌てやあがって、言種(いいぐさ)もあろうに、(女中が寝ていますと失礼ですから。)と駈出した、あれは何の状(ざま)だ。婆(ばばあ)が高利貸をしていやしまい、主人(あるじ)の留守に十時前から寝込む奴がどこに在る。
また寝ていれば無礼だ、と誰が云ったい。これ、お前たちに掛けちゃ、己の目は暗(やみ)でも光るよ。飯田町の子分の内には、玄関の揚板の下に、どんな生意気な、婦(おんな)の下駄が潜んでるか、鼻緒の色まで心得てるんだ。べらぼうめ、内証(ないしょう)でする事は客の靴へ灸を据えるのさえ秘(かく)しおおされないで、(恐るべき家庭でごわります。)と道学者に言われるような、薄っぺらな奴等が、先生の目を抜こうなぞと、天下を望むような叛逆を企てるな。
悪事をするならするように、もっと手際よく立派に遣れ。見事に己を間抜けにして見ろ。同じ叱言(こごと)を云うんでも、その点だけは恐入ったと、鼻毛を算(よ)まして讃(ほ)めてやるんだ。三下め、先生の目を盗んでも、お前なんぞのは、たかだか駈出しの(タッシェン、ディープ)だ。」
これは、(攫徒(すり))と云う事だそうである。主税は折れるように手をハッと支(つ)いた。
「恐入ったか、どうだ。」
「ですが、全く、その、そんな事は……」
「無い?」
「…………」
「芸者は内に居ないと云うのか。」
「はい。」
霹靂(へきれき)のごとく、
「帰れ!」
小芳が思わず肩を窘(すく)める。
「早瀬さん、私、私じゃ、」
と声が消えて、小芳は紋着(もんつき)の袖そのまま、眉も残さず面(おもて)を蔽(おお)う。
「いや、愛想の尽きた蛆虫(うじむし)め、往生際の悪い丁稚(でっち)だ。そんな、しみったれた奴は盗賊(どろぼう)だって風上にも置きやしない、酒井の前は恐れ多いよ、帰れ!
これ、姦通(まおとこ)にも事情はある、親不孝でも理窟を云う。前座のような情実(わけ)でもあって、一旦内へ入れたものなら、猫の児(こ)の始末をするにも、鰹節(かつおぶし)はつきものだ。談(はなし)を附けて、手を切らして、綺麗に捌(さば)いてやろうと思って、お前の許(とこ)へ行くつもりで、百と、二百は、懐中(ふところ)に心得て出て来たんだ。
この段になっても、まだ、ああ、心得違いをいたしました。先生よしなに、とは言い得ないで、秘し隠しをする料簡(りょうけん)じゃ、汝(うぬ)が家を野天(のでん)にして、婦(おんな)とさかっていたいのだろう。それで身が立つなら立って見ろ。口惜(くや)しくば、おい、こうやって馴染(なじみ)の芸者を傍(そば)に置いて、弟子に剣突(けんつく)をくわせられる、己のような者になって出直して来い。
さあ、帰れ、帰れ、帰れ! 汚(けがら)わしい。帰らんか。この座敷は己の座敷だ。己の座敷から追出すんだ。帰らんか、野郎、帰れと云うに、そこを起(た)たんと蹴殺(けころ)すぞ!」
「あれ、お謝罪(わび)をなさいまし。」と小芳が楯(たて)に、おろおろする。
主税は、砕けよ、と身を揉んで、
「小芳さん、お取なしを願います。」と熟(じっ)と瞻(みつ)めて色が変った。
「奥さんに、奥さんに、お願いなさいよ、」
四十三
「何を、奥さんに頼めだい、黙れ。謹が芸者の取持なんぞすると思うか。先刻(さっき)も云う通り、芳、お前も同類だ、同類は同罪だよ。早瀬を叩出した後じゃ己(おれ)が追出(おんで)る、お前ともこれきりだから、そう思え。」
と言わるるままに、忍び音が、声に出て、肩の震えが、袖を揺(ゆす)った。小芳は幼(いとけな)いもののごとく、あわれに頭(かぶり)を掉(ふ)って、厭々をするのであった。
「姉さん、」
と思込んだ顔を擡(もた)げた、主税は瞼(まぶた)を引擦(ひっこす)って、元気づいたような……調子ばかりで、一向取留の無い様子、しどろになって、
「貴女(あなた)は、貴女は御心配下さいませんように……先生、」
と更(あらた)めて、両手を支(つ)いて、息を切って、
「申訳がございません。とんだ連累(まきぞえ)でお在んなさいます。どうぞ、姉さんには、そんな事をおっしゃいません様に、私(わたくし)を御存分になさいまして。」
「存分にすれば蹴殺すばかりよ。」
と吐出すように云って、はじめて、豊かに煙を吸った。
「じゃ恐入ったんだな。
内に蔦吉が居るんだな。
もう陳じないな。」
「心得違いをいたしまして……何とも申しようがございません。」
と吻(ほっ)と息を吐(つ)いたと思うと、声が霑(うる)む。
最早罪に伏したので、今までは執成(とりな)すことも出来なかった小芳が、ここぞ、と見計(みはから)って、初心にも、袂(たもと)の先を爪(つま)さぐりながら、
「大目に見てお上(あげ)なすって下さいまし。蔦吉さんも仇(あだ)な気じゃありません。決(け)して早瀬さんのお世帯の不為(ふため)になるような事はしませんですよ。一生懸命だったんですから。あんな派手な妓(こ)が落籍祝(ひきいわい)どころじゃありません、貴郎(あなた)、着換(きがえ)も無くしてまで、借金の方をつけて、夜遁(よに)げをするようにして落籍(ひい)たんですもの。
堅気に世帯が持てさえすれば、その内には、世間でも、商売したのは忘れましょうから、早瀬さんの御身分に障るようなこともござんすまい。もうこの節じゃ、洗濯ものも出来るし、単衣(ひとえもの)ぐらい縫えますって、この間も夜晩(おそ)く私に逢いに来たんですがね。」
と婀娜(あだ)な涙声になって、
「羽織が無いから日中は出られない、と拗(す)ねたように云うのがねえ、どんなに嬉しそうだったでしょう。それに土地(ところ)馴れないのに、臆病(おくびょう)な妓ですから、早瀬さんがこうやって留守にしていなさいます、今頃は、どんなに心細がって、戸に附着(くッつ)いて、土間に立って、帰りを待っているか知れません、私あそれを思うと……」
と空色の、瞼(まぶた)を染めて、浅く圧(おさ)えた襦袢(じゅばん)の袖口。月に露添う顔を見て、主税もはらはらと落涙する。
「世迷言(よまいごと)を言うなよ。」
と膠(にべ)もなく、虞氏(ぐし)が涙(なんだ)を斥(しりぞ)けて、
「早瀬どうだ、分れるか。」
「行処(ゆきどこ)もございません、仕様が無いんでございますから、先生さえ、お見免(みのが)し下さいますれば、私(わたくし)の外聞や、そんな事は。世間体なんぞ。」と半(なかば)云って唾(つ)が乾く。
「いや、不可(いか)ん、許しやしないよ。」
「そう仰有(おっしゃ)って下さいますのも、世間を思って下さいますからでございます。もう、私(わたくし)は、自分だけでは、決心をいたしまして、世間には、随分一人前の腕を持っていながら、財産を当に婿養子になりましたり、汝(てまえ)が勝手に嫁にすると申して、人の娘の体格検査を望みましたり、」
と赫(かっ)となって、この時やや血の色が眉宇(びう)に浮んだ。
「女学校の教師をして、媒妁(なこうど)をいたしましたり……それよりか、拾人(ひろいて)の無い、社会の遺失物(おとしもの)を内へ入れます方が、同じ不都合でも、罪は浅かろうと存じまして。それも決して女房になんぞ、しますわけではございません。一生日蔭ものの下女同様に、ただ内証(ないしょう)で置いてやりますだけのことでございますから。」
「血迷うな。腕があって婿養子になる、女学校で見合をする、そりゃ勝手だ、己の弟子じゃないんだから、そのかわり芸者を内へ入れる奴も弟子じゃないのだ、分らんか。」
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