二十五
客が来れば姿を隠すお蔦が内に居るほどで、道学先生と太刀打して、議論に勝てよう道理が無い。主税の意気ずくで言うことは、ただ礼之進の歯ですすられるのみであったが、厭なものは厭だ、と城を枕に討死をする態度で、少々自棄(やけ)気味の、酒井先生へ紹介は断然、お断り。
そこを一つお考え直されて、と言(ことば)を残して帰った後で、アバ大人が媒妁(なこうど)ではなおの事。とお妙の顔が蒼(あお)くなって殺されでもするように、酒も飲まないで屈託をする、とお蔦はお蔦で、かくまってあった姫君を、鐘を合図に首討って渡せ、と懸合われたほどの驚き加減。可愛い夫が可惜(いとおし)がる大切なお主(しゅう)の娘、ならば身替りにも、と云う逆上(のぼ)せ方。すべてが浄瑠璃の三の切(きり)を手本だが、憎くはない。
さあ、貴郎、そうしていらっしゃる処ではありません、早く真砂町へおいでなすって、先生が何なら奥様(おくさん)まで、あんな許(とこ)へは御相談なさいませんように、お頼みなさらなくッちゃ不可(いけ)ません。ちょいと、羽織を着換えて、と箪笥(たんす)をがたりと引いて、アア、しばらく御無沙汰なすった、明日(あした)め[#「め」に傍点]組が参りますから、何ぞお土産をお持ちなさいまし、先生はさっぱりしたものがお好きだ、と云うし、彼奴(あいつ)が片思いになるように鮑(あわび)がちょうど可い、と他愛もない。
馬鹿を云え、縁談の前(さき)へ立って、讒口(なかぐち)なんぞ利こうものなら、己(おれ)の方が勘当だ、そんな先生でないのだから、と一言にして刎(は)ねられた、柳橋の策不被用焉(もちいられず)。
また考えて見れば、道学者の説を待たずとも、河野家に不都合はない。英吉とても、ただちとだらしの無いばかり、それに結婚すれば自然治まる、と自分も云えば、さもあろう。人の前で、母様(かあさん)と云おうが、父様(とうさま)と云おうが、道義上あえて差支(さしつかえ)はない、かえって結構なくらいである。
そのこれを難ずるゆえんは……曰く……言い難しだから、表向きはどこへも通らぬ。
困ったな、と腕を組めば、困りましたねえ、とお蔦も鬱(ふさ)ぐ。
ここへ大いなる福音を齎(もた)らし来ったのはお源で。
手廻りの使いに遣(や)ったのに、大分後れたにもかかわらず、水口の戸を、がたひし勢(いきおい)よく、唯今(ただいま)帰りました、あの、御新造様(ごしんぞさん)、大丈夫でございます。
明後日(あさって)出来るのかい、とお蔦がきりもりで、夏の掻巻(かいまき)に、と思って古浴衣の染を抜いて形を置かせに遣ってある、紺屋へ催促の返事か、と思うと、そうでない。
この忠義ものは、二人の憂(うれい)を憂として、紺屋から帰りがけに、千栽ものの、風呂敷包を持ったまま、内の前を一度通り越して、見附へ出て、土手際の売卜者(うらない)に占(み)て貰った、と云うのであった。
対手(あいて)は学士の方ですって、それまで申して占て貰いましたら、とても縁は無い断念(あきら)めものだ、と謂(い)いましたから、私は嬉しくって、三銭の見料へ白銅一つ発奮(はず)みました。可い気味でございますと、独りで喜んでアハアハ笑う。
まあ、嬉しいじゃないか、よく、お前、お嬢さんの年なんか知っていたね、と云うと、勿怪(もっけ)な顔をして、いいえ、誰方(どなた)のお年も存じません。お蔦は腑(ふ)に落ちない容子をして、売卜者(うらないしゃ)は、年紀(とし)を聞きゃしないかい。ええ、聞きましたから私の年を謂ってやりました。
当前(あたりまえ)よ、対手が学士でお前じゃ、と堪(たま)りかねて主税が云うのを聞いて、目を※(みは)って、しばらくして、ええ! 口惜(くやし)いと、台所へ逃込んで、売卜屋の畜生め、どたどたどた。
二人は顔を見合せて、ようように笑(わらい)が出た。
すぐにお蔦が、新しい半襟を一掛(ひとかけ)礼に遣って、その晩は市が栄えたが。
二三日経(た)って、ともかく、それとなく、お妙がお持たせの重箱を返しかたがた、土産ものを持って、主税が真砂町へ出向くと、あいにく、先生はお留守、令夫人(おくがた)は御墓参、お妙は学校のひけが遅かった。
二十六
仮にその日、先生なり奥方なりに逢ったところで、縁談の事に就いて、とこう謂(い)うつもりでなく、また言われる筋でもなかったが、久闊振(ひさしぶり)ではあり、誰方(どなた)も留守と云うのに気抜けがする。今度来た玄関の書生は馴染(なじみ)が薄いから、巻莨(まきたばこ)の吸殻沢山な火鉢をしきりに突着けられても、興に乗る話も出ず。しかしこの一両日に、坂田と云う道学者が先生を訪問はしませんか、と尋ねて、来ない、と聞いただけを取柄。土産ものを包んで行った風呂敷を畳みもしないで突込んで、見ッともないほど袂(たもと)を膨らませて、ぼんやりして帰りがけ、その横町の中程まで来ると、早瀬さん御機嫌宜しゅう、と頓興(とんきょう)に馴々しく声を懸けた者がある。
玄関に居た頃から馴染の車屋で、見ると障子を横にして眩(まばゆ)い日当りを遮った帳場から、ぬい、と顔を出したのは、酒井へお出入りのその車夫(わかいしゅ)。
おうと立停まって一言二言交すついでに、主税はふと心付いて、もしやこの頃、先生の事だの、お嬢さんの事を聞きに来たものはないか、と聞くと、月はじめにモオニングを着た、痘痕(あばた)のある立派な旦那が。
来たか! へい、お目出たい話なんだからちっとばかり様子を聞かせな、とおっしゃいましてね。終(しまい)にゃ、き様、お伴をするだろう、懸(かか)りつけの医師(いしゃ)はどこだ、とお尋ねなさいましたっけ。
台所から、筒袖を着た女房が、ひょっこり出て来て、おやまあ早瀬さん、と笑いかけて、いいえ、やどでもここが御奉公と存じましてね、もうもう賞(ほ)めて賞めて賞め抜いてお聞かせ申しましてございますよ。お嬢様も近々御縁が極(きま)りますそうで、おめでとう存じます、えへへ、と燥(はしゃ)いだ。
余計な事を、と不興な顔をして、不愛想に分れたが、何も車屋へ捜りを入れずともの事だ、またそれにしても、モオニング着用は何事だと、苦々しさ一方ならず。
曲角の漬物屋、ここいらへも探偵(いぬ)が入ったろうと思うと、筋向いのハイカラ造りの煙草屋がある。この亭主もベラベラお饒舌(しゃべり)をする男だが、同じく申上げたろう、と通りがかりに睨(にら)むと、腰かけ込んだ学生を対手(あいて)に、そのまた金歯の目立つ事。
内へ帰ると、お蔦はお蔦で、その晩出直して、今度は自分が売卜(うらない)の前へ立つと、この縁はきっと結ばる、と易が出たので、大きに鬱(ふさ)ぐ。
もっとも売卜者も如才はない。お源が行ったのに較べれば、容子を見ただけでも、お蔦の方が結ばるに違いないから。
一日措(お)いて、主税が自分嘱(たの)まれのさる学校の授業を済まして帰って来ると、門口にのそりと立って、頤(あご)を撫でながら、じろじろ門札を視(なが)めていたのが、坂田礼之進。
早やここから歯をスーと吸って、先刻(さっき)からお待ち申して……はちと変だ。
さては誰も物申(ものもう)に応うるものが無かったのであろう。女中(おんな)は外出(そとで)で? お蔦は隠れた。……
無人(ぶにん)で失礼。さあ、どうぞ、と先方(さき)は編上靴(あみあげぐつ)で手間が取れる。主税は気早に靴を脱いで、癇癪紛(かんしゃくまぎれ)に、突然二階へ懸上る。段の下の扉(ひらき)の蔭から、そりゃこそ旦那様。と、にょっと出た、お源を見ると、取次に出ないも道理、勝手働きの玉襷(たまだすき)、長刀(なぎなた)小脇に掻込(かいこ)んだりな。高箒(たかぼうき)に手拭(てぬぐい)を被(かぶ)せたのを、柄長に構えて、逆上(のぼ)せた顔色(がんしょく)。
馬鹿め、と噴出(ふきだ)して飛上る後から、ややあって、道学先生、のそりのそり。
二階の論判(ろッぱん)一時(ひととき)に余りけるほどに、雷様の時の用心の線香を芬(ふん)とさせ、居間から顕(あら)われたのはお蔦で、艾(もぐさ)はないが、禁厭(まじない)は心ゆかし、片手に煙草を一撮(ひとつまみ)。抜足で玄関へ出て、礼之進の靴の中へ。この燃草(もえぐさ)は利(きき)が可かった。※(ぱっ)と煙が、むらむらと立つ狼煙(のろし)を合図に、二階から降りる気勢(けはい)。飜然(ひらり)路地へお蔦が遁込(にげこ)むと、まだその煙は消えないので、雑水(ぞうみず)を撒(ま)きかけてこの一芸に見惚れたお源が、さしったりと、手でしゃくって、ざぶりと掛けると、おかしな皮の臭がして、そこら中水だらけ。
二十七
それ熟々(つらつら)、史を按(あん)ずるに、城なり、陣所、戦場なり、軍(いくさ)は婦(おんな)の出る方が大概敗(ま)ける。この日、道学先生に対する語学者は勝利でなく、礼之進の靴は名誉の負傷で、揚々と引挙げた。
ゆえ如何(いかん)となれば、お厭(いや)とあれば最早紹介は求めますまい、そのかわりには、当方から酒井家へ申入れまする、この縁談に就きまして、貴方(あなた)から先生に向って、河野に対する御非難をなされぬよう。御意見は御意見、感情問題は別として、これだけはお願い申したいでごわりまするが、と婉曲に言いは言ったが、露骨に遣(や)ったら、邪魔をする勿(なかれ)であるから、御懸念無用と、男らしく判然(はっきり)答えたは可いけれども、要するに釘を刺されたのであった。
礼之進の方でも、酒井へ出入りの車夫(くるまや)まで捜(さぐり)を入れた程だから、その分は随分手が廻って、従って、先生が主税に対する信用の点も、情愛のほども、子のごとく、弟のごときものであることさえ分ったので、先んずれば人を制すで、ぴたりとその口を圧(おさ)えたのであろう。
讒口(なかぐち)は決して利かない、と早瀬は自分も言ったが、またこの門生の口一ツで、見事、纏(まとま)る縁も破ることは出来たのだったに。
ここで賽(さい)は河野の手に在矣(ありい)。ともかくもソレ勝負、丁か半かは酒井家の意志の存する処に因るのみとぞなんぬる。
先生が不承知を言えばだけれども、諾、とあればそれまで。お妙は河野英吉の妻になるのである。河野英吉の妻にお妙がなるのであるか。
お蔦さえ、憂慮(きづか)うよりむしろ口惜(くやし)がって、ヤイヤイ騒ぐから、主税の、とつおいつは一通りではない。何は措(おい)ても、余所(よそ)ながら真砂町の様子を、と思うと、元来お蔦あるために、何となく疵(きず)持足、思いなしで敷居が高い。
で何となく遠のいて、ようよう二日前に、久しぶりで御機嫌窺(うかが)いに出た処、悪くすると、もう礼之進が出向いて、縁談が始まっていそうな中へ、急に足近くは我ながら気が咎める。
愚図々々(ぐずぐず)すれば、貴郎(あなた)例(いつも)に似合わない、きりきりなさいなね……とお蔦が歯痒(はがゆ)がる。
勇を鼓して出掛けた日が、先生は、来客があって、お話中。玄関の書生が取次ぐ、と(この次、来い。)は、ぎょっとした。さりとて曲がない。内証(ないしょう)のお蔦の事、露顕にでも及んだかと、まさかとは思うが気怯(きおく)れがして、奥方にもちょいと挨拶をしたばかり。その挨拶を受けらるる時の奥方が、端然として針仕事の、気高い、奥床しい、懐(なつかし)い姿を見るにつけても、お蔦に思較べて、いよいよ後暗(うしろめた)さに、あとねだりをなさらないなら、久しぶりですから一銚子(ひとちょうし)、と莞爾(にっこり)して仰せある、優しい顔が、眩(まぶし)いように後退(しりごみ)して、いずれまた、と逃出すがごとく帰りしなに、お客は誰?……とそっと玄関の書生に当って見ると、坂田礼之進、噫(ああ)、止(やん)ぬる哉(かな)。
しばらくは早瀬の家内、火の消えたるごとしで、憂慮(きづかわ)しさの余り、思切って、更に真砂町へ伺ったのが、すなわち薬師の縁日であったのである。
ちと、恐怖(おずおず)の形で、先ず玄関を覗(のぞ)いて、書生が燈下に読書するのを見て、またお邪魔に、と頭から遠慮をして、さて、先生は、と尋ねると、前刻御外出。奥様(おくさん)は、と云うと、少々御風邪の気味。それでは、お見舞に、と奥に入ろうとする縁側で、女中(おんな)が、唯今すやすやと御寐(おやすみ)になっていらっしゃいます、と云う。
悄々(すごすご)玄関へ戻って、お嬢さんは、と取って置きの頼みの綱を引いて見ると、これは、以前奉公していた女中(おんな)で、四ッ谷の方へ縁附(かたづ)いたのが、一年ぶりで無沙汰見舞に来て、一晩御厄介になる筈(はず)で、お夜食が済むと、奥方の仰(おおせ)に因り、お嬢さんのお伴をして、薬師の縁日へ出たのであった。
それでは私も通(とおり)の方を、いずれ後刻(のちほど)、とこれを機(しお)に。出しなにまた念のために、その後、坂田と云うのは来ませんか、と聞くと、アバ大人ですか、と書生は早や渾名を覚えた。ははは、来ましたよ。今日の午後(ひるすぎ)。
男金女土
二十八
主税は、礼之進が早くも二度の魁(かけ)を働いたのに、少なからず機先を制せられたのと――かてて加えてお蔦の一件が暴露(ばれ)たために、先生が太(いた)く感情を損ねられて、わざとにもそうされるか、と思われないでもない――玄関の畳が冷く堅いような心持とに、屈託の腕を拱(こまぬ)いて、そこともなく横町から通りへ出て、件(くだん)の漬物屋の前を通ると、向う側がとある大構(おおがまえ)の邸の黒板塀で、この間しばらく、三方から縁日の空が取囲んで押揺(おしゆる)がすごとく、きらきらと星がきらめいて、それから富坂をかけて小石川の樹立(こだち)の梢(こずえ)へ暗くなる、ちょっと人足の途絶え処。
東へ、西へ、と置場処の間数(けんすう)を示した標杙(くい)が仄白(ほのしろ)く立って、車は一台も無かった。真黒(まっくろ)な溝の縁に、野を焚(や)いた跡の湿ったかと見える破風呂敷(やぶれぶろしき)を開いて、式(かた)のごとき小灯(こともし)が、夏になってもこればかりは虫も寄るまい、明(あかり)の果敢(はかな)さ。三束(みたば)五束(いつたば)附木(つけぎ)を並べたのを前に置いて、手を支(つ)いて、縺(もつ)れ髪の頸(うなじ)清らかに、襟脚白く、女房がお辞儀をした、仰向けになって、踏反(ふんぞ)って、泣寐入(なきねい)りに寐入ったらしい嬰児(あかんぼ)が懐に、膝に縋(すが)って六歳(むッつ)ばかりの男の子が、指を銜(くわ)えながら往来をきょろきょろと視(なが)める背後(うしろ)に、母親のその背(せな)に凭(もた)れかかって、四歳(よッつ)ぐらいなのがもう一人。
一陣(ひとしきり)風が吹くと、姿も店も吹き消されそうで哀(あわれ)な光景(ありさま)。浮世の影絵が鬼の手の機関(からくり)で、月なき辻へ映るのである。
さりながら、縁日の神仏は、賽銭(さいせん)の降る中ならず、かかる処にこそ、影向(ようごう)して、露にな濡れそ、夜風に堪えよ、と母子(おやこ)の上に袖笠して、遠音に観世ものの囃子(はやし)の声を打聞かせたまうらんよ。
健在(すこやか)なれ、御身等、今若、牛若、生立(おいた)てよ、と窃(ひそか)に河野の一門を呪(のろ)って、主税は袂(たもと)から戛然(かちり)と音する松の葉を投げて、足疾(と)くその前を通り過ぎた。
ふと例の煙草屋の金歯の亭主が、箱火鉢を前に、胸を反らせて、煙管(きせる)を逆に吹口でぴたり戸外(おもて)を指して、ニヤリと笑ったのが目に附くと同時に、四五人店前(みせさき)を塞いだ書生が、こなたを見向いて、八の字が崩れ、九の字が分れたかと一同に立騒いで、よう、と声を懸ける、万歳、と云う、叱(しっ)、と圧(おさ)えた者がある。
向うの真砂町の原は、真中あたり、火定の済んだ跡のように、寂しく中空へ立つ火気を包んで、黒く輪になって人集(ひとだか)り。寂寞(ひっそり)したその原のへりを、この時通りかかった女が二人。
主税は一目見て、胸が騒いだ。右の方のが、お妙である。
リボンも顔も単(ひとえ)に白く、かすりの羽織が夜の艶(つや)に、ちらちらと蝶が行交う歩行(あるき)ぶり、紅(くれない)ちらめく袖は長いが、不断着の姿は、年も二ツ三ツ長(た)けて大人びて、愛らしいよりも艶麗(あでやか)であった。
風呂敷包を左手(ゆんで)に載せて、左の方へ附いたのは、大一番の円髷(まるまげ)だけれども、花簪(はなかんざし)の下になって、脊が低い。渾名を鮹(たこ)と云って、ちょんぼりと目の丸い、額に見上げ皺(じわ)の夥多(おびただ)しい婦(おんな)で、主税が玄関に居た頃勤めた女中(おさん)どん。
心懸けの好(い)い、実体(じってい)もので、身が定まってからも、こうした御機嫌うかがいに出る志。お主(しゅう)の娘に引添(ひっそ)うて、身を固めて行(ゆ)く態(ふり)の、その円髷の大(おおき)いのも、かかる折から頼もしい。
煙草屋の店でくるくるぱちぱち、一打(いちダアス)ばかりの眼球(めのたま)の中を、仕切(しきっ)て、我身でお妙を遮るように、主税は真中へ立ったから、余り人目に立つので、こなたから進んで出て、声を掛けるのは憚(はばか)って差控えた。
そうしてお妙が気が付かないで、すらすらと行過ぎたのが、主税は何となく心寂しかった。つい前(さき)の年までは、自分が、ああして附いて出たに。
とリボンが靡(なび)いて、お妙は立停まった。
肩が離れて、大(おおき)な白足袋の色新しく、附木(つけぎ)を売る女房のあわれな灯(ともしび)に近(ちかづ)いたのは円髷で。実直ものの丁寧に、屈(かが)み腰になって手を出したは、志を恵んだらしい。親子が揃って額(ぬか)ずいた時、お妙の手の巾着(きんちゃく)が、羽織の紐の下へ入って、姿は辻の暗がりへ。
書生たちは、ぞろぞろと煙草屋の軒を出て、斉(ひとし)く星を仰いだのである。
二十九
○男金女土(おとこかねおんなつち)大(おおい)に吉(よし)、子五人か九人あり衣食満ち富貴(ふっき)にして――
男金女土こそ大吉よ
衣食みちみち…………
と歌の方も衣食みちみちのあとは、虫蝕(むしくい)と、雨染(あまじ)みと、摺剥(すりむ)けたので分らぬが、上に、業平(なりひら)と小町のようなのが対向(さしむか)いで、前に土器(かわらけ)を控えると、万歳烏帽子(まんざいえぼし)が五人ばかり、ずらりと拝伏した処が描いてある。いかさまにも大吉に相違ない。
主税は、お妙の背後(うしろ)姿を見送って、風が染みるような懐手で、俯向(うつむ)き勝ちに薬師堂の方へ歩行(ある)いて来て、ここに露店の中に、三世相がひっくりかえって、これ見よ、と言わないばかりなのに目が留まって、漫(そぞろ)に手に取って、相性の処を開けたのであった。
その英吉が、金の性(しょう)、お妙が、土性であることは、あらかじめお蔦が美(うつくし)い指の節から、寅卯戌亥(とらういぬい)と繰出したものである。
半吉ででもある事か、大(おおい)に吉(よし)は、主税に取って、一向に芽出度(めでたく)ない。勿論、いかに迷えば、と云って、三世相を気にするような男ではないけれども、自分はとにかく、先生は言うに及ばずながら、奥方はどうかすると、一白九紫を口にされる。同じ相性でも、始(はじめ)わるし、中程宜しからず、末覚束(おぼつか)なしと云う縁なら、いくらか破談の方に頼みはあるが……衣食満ち満ち富貴……は弱った。
のみならず、子五人か、九人あるべしで、平家の一門、藤原一族、いよいよ天下に蔓(はびこ)らんずる根ざしが見えて容易でない。
すでに過日(いつか)も、現に今日の午後(ひるすぎ)にも、礼之進が推参に及んだ、というきっさきなり、何となく、この縁、纏まりそうで、一方ならず気に懸る。
ああ、先生には言われぬ事、奥方には遠慮をすべき事にしても、今しも原の前で、お妙さんを見懸けた時、声を懸けて呼び留めて、もし河野の話が出たら、私は厭(いや)、とおっしゃいよ、と一言いえば可かったものを。
大道で話をするのが可訝(おかし)ければ、その辺の西洋料理へ、と云っても構わず、鳥居の中には藪蕎麦(やぶそば)もある。さしむかいに云うではなし、円髷も附添った、その女中(おんな)とても、長年の、犬鷹朋輩の間柄、何の遠慮も仔細(しさい)も無かった。
お妙さんがまた、あの目で笑って、お小遣いはあるの? とは冷評(ひやか)しても、どこかへ連れられるのを厭味らしく考えるような間(なか)ではないに、ぬかったことをしたよ。
なぞと取留めもなく思い乱れて、凝(じっ)とその大吉を瞻(みつ)めていると、次第次第に挿画(さしえ)の殿上人に髯(ひげ)が生えて、たちまち尻尾のように足を投げ出したと思うと、横倒れに、小町の膝へ凭(もた)れかかって、でれでれと溶けた顔が、河野英吉に、寸分違わぬ。
「旦那いかがでございます。えへへ、」と、かんてらの灯の蔭から、気味の悪い唐突(だしぬけ)の笑声(わらいごえ)は、当露店の亭主で、目を細うして、額で睨(にら)んで、
「大分御意に召しましたようで、えへへ。」
「幾干(いくら)だい。」
とぎょっとした主税は、空(くう)で値を聞いて見た。
「そうでげすな。」
と古帽子の庇(ひさし)から透かして、撓(た)めつつ、
「二十銭にいたして置きます。」と天窓(あたま)から十倍に吹懸(ふっか)ける。
その時かんてらが煽(あお)る。
主税は思わず三世相を落して、
「高価(たか)い!」
「お品が少うげして、へへへ、当節の九星早合点、陶宮手引草などと云う活版本とは違いますで、」
「何だか知らんが、さんざ汚れて引断(ひっち)ぎれているじゃないか。」
「でげすがな、絵が整然(ちゃん)としておりますでな、挿絵は秀蘭斎貞秀で、こりゃ三世相かきの名人でげす。」
と出放題な事を云う。相性さえ悪かったら、主税は二十銭のその二倍でもあえて惜くはなかったろう。
「余り高価いよ。」と立ちかける。
「お幾干で? ええ、旦那。」
と引据(ひっす)えるように圧(おさ)えて云った。
「半分か。」
「へい。」
「それだって廉(やす)くはない。」
三十
亭主は膝を抱いて反身(そりみ)になり、禅の問答持って来い、という高慢な顔色(がんしょく)で。
「半価値(ねだん)は酷(ひど)うげす。植木屋だと、じゃあ鉢は要りませんか、と云って手を打つんでげすがな。画だけ引剥(ひっぺが)して差上げる訳にも参りませんで。どうぞ一番(ひとつ)御奮発を願いてえんで。五銭や十銭、旦那方にゃ何だけの御散財でもありゃしません。へへへへへ、」
「一体高過ぎる、無法だよ。」
と主税はその言い種(ぐさ)が憎いから、ますます買う気は出なくなる。
「でげすがな、これから切通しの坂を一ツお下りになりゃ、五両と十両は飛ぶんでげしょう。そこでもって、へへへ、相性は聞きたし年紀(とし)は秘(かく)したしなんて寸法だ。ええ、旦那、三世相は御祝儀にお求め下さいな。」
いよいよむっとして、
「要らない。」と、また立とうとする。
「じゃもう五銭、五百、たった五銭。」
片手を開いて、肱(ひじ)で肩癖(けんぺき)の手つきになり、ばらばらと主税の目前(めさき)へ揉(も)み立てる。
憤然として衝(つッ)と立った。主税の肩越しにきらりと飛んで、かんてらの燻(くすぶ)った明(あかり)を切って玉のごとく、古本の上に異彩を放った銀貨があった。
同時に、
「要るものなら買って置け。」
と※(さび)のある、凜(りん)とした声がかかった。
主税は思わず身を窘(すく)めた。帽子を払って、は、と手を下げて、
「先生。」
露店の亭主は這出して、慌てて古道具の中へ手を支(つ)いて、片手で銀貨を圧(おさ)えながら、きょとんと見上げる。
茶の中折帽(なかおれ)を無造作に、黒地に茶の千筋、平お召の一枚小袖。黒斜子(くろななこ)に丁子巴(ちょうじどもえ)の三つ紋の羽織、紺の無地献上博多の帯腰すっきりと、片手を懐に、裄短(ゆきみじか)な袖を投げた風采は、丈高く痩(や)せぎすな肌に粋(いなせ)である。しかも上品に衣紋(えもん)正しく、黒八丈(くろはち)の襟を合わせて、色の浅黒い、鼻筋の通った、目に恐ろしく威のある、品のある、[#「、」は底本では「。」と誤記]眉の秀でた、ただその口許(くちもと)はお妙に肖(に)て、嬰児(みどりご)も懐(なつ)くべく無量の愛の含まるる。
一寸見(ちょっとみ)には、かの令嬢にして、その父ぞとは思われぬ。令夫人(おくがた)は許嫁(いいなずけ)で、お妙は先生がいまだ金鈕(きんぼたん)であった頃の若木の花。夫婦(ふたり)の色香を分けたのである、とも云うが……
酒井はどこか小酌の帰途(かえり)と覚しく、玉樹一人縁日の四辺(あたり)を払って彳(たたず)んだ。またいつか、人足もややこの辺(あたり)に疎(まばら)になって、薬師の御堂の境内のみ、その中空も汗するばかり、油煙が低く、露店(ほしみせ)の大傘(おおがらかさ)を圧している。
会釈をしてわずかに擡(もた)げた、主税の顔を、その威のある目で屹(きっ)と見て、
「少(わか)いものが何だ、端銭(はした)をかれこれ人中で云っている奴があるかい、見っともない。」
と言い棄てて、直ぐに歩を移して、少し肩の昂(あが)ったのも、霜に堪え、雪を忍んだ、梅の樹振は潔い。
呆気(あっけ)に取られた顔をして、亭主が、ずッと乗出しながら、
「へい。」
とばかり怯(おび)えるように差出した三世相を、ものをも言わず引掴(ひッつか)んで、追縋(おいすが)って跡に附くと、早や五六間前途(むこう)へ離れた。
「どうも恐入ります。ええ、何、別に入用(いりよう)なのじゃないのでございますから、はい、」
と最初の一喝に怯気々々(びくびく)もので、申訳らしく独言(ひとりごと)のように言う。
酒井は、すらりと懐手のまま、斜めに見返って、
「用(い)らないものを、何だって価を聞くんだ。素見(ひやか)すのかい、お前は、」
「…………」
「素見すのかよ。」
「ええ、別に、」と俯向(うつむ)いて怨めしそうに、三世相を揉み、且つ捻(ひね)くる。
少時(しばらく)して、酒井はふと歩(あゆみ)を停めて、
「早瀬。」
「はい、」
とこの返事は嬉しそうに聞えたのである。
三十一
名を呼ばれるさえ嬉しいほど、久闊(しばらく)懸違(かけちが)っていたので、いそいそ懐かしそうに擦寄ったが、続いて云った酒井の言(ことば)は、太(いた)く主税の胸を刺した。
「どこへ行くんだ。」
これで突放されたようになって、思わず後退(あとしざ)りすること三尺半。
この前(さき)の、原一つ越した横町が、先生の住居(すまい)である。そなたに向って行くのに、従って歩行(ある)くものを、(どこへ行く。)は情ない。散々の不首尾に、云う事も、しどろになって、
「散歩でございます。」
「わざわざ、ここの縁日へ出て来たのか。」
「いいえ、実は……」
といささか取附くことが出来た……
「先刻、御宅へ伺いましたのですが、御留守でございましたから、後程にまた参りましょうと存じまして、その間この辺にぶらついておりました。先生は、」
酒井がずッと歩行(ある)き出したので、たじたじと後を慕うて、
「どちらへ?」
「俺か。」
「ずッと御帰宅(おかえり)でございますか。」
知れ切ったような事を、つなぎだけに尋ねると、この答えがまた案外なものであった。
「俺は、何だ、これからお前の処へ出掛けるんだ。」
「ええ!」と云ったが、何は措(お)いても夜が明けたように勇み立って、
「じゃ、あのこちらから……角の電車へ、」と自分は一足引返(ひっかえ)したが、慌ててまた先へ出て、
「お車を申しましょうか。」
とそわそわする。
「水道橋まで歩行くが可い。ああ、酔醒(えいざ)めだ。」と、衣紋(えもん)を揺(ゆす)って、ぐっと袖口へ突込んだ、引緊(ひきし)めた腕組になったと思うと、林檎(りんご)の綺麗な、芭蕉実(バナナ)の芬(ふん)と薫る、燈(あかり)の真蒼(まっさお)な、明(あかる)い水菓子屋の角を曲って、猶予(ためら)わず衝(つ)と横町の暗がりへ入った。
下宿屋の瓦斯(がす)は遠し、顔が見えないからいくらか物が云いよくなって、
「奥さんが、お風邪気(け)でいらっしゃいますそうで、不可(いけ)ませんでございます。」
「逢ったか。」
「いえ、すやすやお寐(やす)みだと承りましたから、御遠慮申しました。」
「妙は居たかい。」
「四谷へ縁附(かたづ)いております、先(せん)のお光(みつ)をお連れなさいまして、縁日へ。」
「そうか、娘(こども)が出歩行(である)くようじゃ、大した御容態でもなしさ。」
と少し言(ことば)が和らいで来たので、主税は吻(ほっ)と呼吸(いき)を吐(つ)いて、はじめて持扱った三世相を懐中(ふところ)へ始末をすると、壱岐殿坂(いきどのざか)の下口(おりぐち)で、急な不意打。
「お前の許(とこ)でも皆(みんな)健康(たっしゃ)か。」
また冷りとした。内には女中と……自分ばかり、(皆健康か。)は尋常事(ただごと)でない。けれども、よもや、と思うから、その(皆)を僻耳(ひがみみ)であろう、と自分でも疑って、
「はい?」
と、聞直したつもりを、酒井がそのまま聞流してしまったので(さようでございます。)と云う意味になる。
で、安からぬ心地がする。突当りの砲兵工廠(ぞうへい)の夜の光景は、楽天的に視(ながめ)ると、向島の花盛を幻燈で中空へ顕わしたようで、轟々(ごうごう)と轟(とどろ)く響が、吾妻橋を渡る車かと聞なさるるが、悲観すると、煙が黄に、炎が黒い。
通りかかる時、蒸気が真白(まっしろ)な滝のように横ざまに漲(みなぎ)って路を塞いだ。
やがて、水道橋の袂(たもと)に着く――酒井はその雲に駕(が)して、悠々として、早瀬は霧に包まれて、ふらふらして。
無言の間、吹かしていた、香の高い巻莨(まきたばこ)を、煙の絡んだまま、ハタとそこで酒井が棄てると、蒸気は、ここで露になって、ジューと火が消える。
萌黄(もえぎ)の光が、ぱらぱらと暗(やみ)に散ると、炬(きょ)のごとく輝く星が、人を乗せて衝(つ)と外濠(そとぼり)を流れて来た。
電 車
三十二
河野から酒井へ申込んだ、その縁談の事の為ではないが、同じこの十二日の夜(よ)、道学者坂田礼之進は、渠(かれ)が、主なる発企者で且つ幹事である処の、男女交際会――またの名、家族懇話会――委(くわ)しく註するまでもない、その向の夫婦が幾組か、一処に相会して、飲んだり、食ったり、饒舌(しゃべ)ったり……と云うと尾籠(びろう)になる。紳士貴婦人が互に相親睦(あいしんぼく)する集会で、談政治に渉(わた)ることは少ないが、宗教、文学、美術、演劇、音楽の品定めがそこで成立つ。現代における思潮の淵源、天堂と食堂を兼備えて、薔薇(しょうび)薫じ星の輝く美的の会合、とあって、おしめ[#「おしめ」に傍点]と襷(たすき)を念頭に置かない催しであるから、留守では、芋が焦げて、小児(こども)が泣く。町内迷惑な……その、男女交際会の軍用金。諸処から取集めた百有余円を、馴染(なじみ)の会席へ支払いの用があって、夜、モオニングを着て、さて電燈の明(あかる)い電車に乗った。
(アバ大人ですか、ハハハ今日の午後(ひるすぎ)。)と酒井先生方の書生が主税に告げたのと、案ずるに同日であるから、その編上靴は、一日に市中のどのくらいに足跡を印するか料られぬ。御苦労千万と謂わねばならぬ。
先哲曰く、時は黄金である。そんな隙潰(ひまつぶ)しをしないでも、交際会の会費なら、その場で請取って直ぐに払いを済したら好さそうなものだが、一先ず手許へ引取って、更(あらた)めて夫子自身(ふうしみずから)を労するのは? 知らずや、この勘定の時は、席料なしに、そこの何とか云う姉さんに、茶の給仕をさせて無銭(ただ)で手を握るのだ、と云ったものがある。世には演劇(しばい)の見物の幹事をして、それを縁に、俳優(やくしゃ)と接吻(キス)する貴婦人もあると云うから。
もっともこれは、嘘であろう。が、会費を衣兜(かくし)にして、電車に乗ったのは事実である。
「ええ、込合いますから御注意を願います。」
礼之進は提革(さげかわ)に掴(つかま)りながら、人と、車の動揺の都度、なるべく操りのポンチたらざる態度を保って、しこうして、乗合の、肩、頬、耳などの透間から、痘痕(あばた)を散らして、目を配って、鬢(びんずら)、簪(かんざし)、庇(ひさし)、目つきの色々を、膳の上の箸休めの気で、ちびりちびりと独酌の格。ああ、江戸児(えどッこ)はこの味を知るまい、と乗合の婦(おんな)の移香を、楽(たのし)みそうに、歯をスーと遣(や)って、片手で頤(あご)を撫でていたが、車掌のその御注意に、それと心付くと、俄然(がぜん)として、慄然(りつぜん)として、膚(はだ)寒うして、腰が軽い。
途端に引込(ひっこ)めた、年紀(とし)の若い半纏着(はんてんぎ)の手ッ首を、即座の冷汗と取って置きの膏汗(あぶらあせ)で、ぬらめいた手で、夢中にしっかと引掴(ひッつか)んだ。
道学先生の徳孤ならず、隣りに掏摸(すり)が居たそうな。
「…………」
と、わなないて、気が上ずッて、ただ睨(にら)む。
対手(あいて)は手拭(てぬぐい)も被(かぶ)らない職人体のが、ギックリ、髪の揺れるほど、頭(ず)を下げて、
「御免なすって、」と盗むように哀憐(あわれみ)を乞う目づかいをする。
「出、出しおろう、」
と震え声で、
「馬鹿!」と一つ極(き)めつけた。
「どうぞ、御免なすって、真平、へい……」
と革に縋(すが)ったまま、ぐったりとなって、悄気(しょげ)返った職人の状(さま)は、消えも入りたいとよりは、さながら罪を恥じて、自分で縊(くびくく)ったようである。
「コリャ」とまた怒鳴って、満面の痘痕を蠢(うごめ)かして、堪(こら)えず、握拳(にぎりこぶし)を挙げてその横頬(よこづら)を、ハタと撲(ぶ)った。
「あ、痛(いた)、」
と横に身を反(そ)らして、泣声になって、
「酷(ひ)、酷(ひど)うござんすね……旦那、ア痛々(たた)、」
も一つ拳で、勝誇って、
「酷いも何も要ったものか。」
哄(どっ)と立上る多人数(たにんず)の影で、月の前を黒雲が走るような電車の中。大事に革鞄(かばん)を抱きながら、車掌が甲走った早口で、
「御免なさい、何ですか、何ですか。」
三十三
カラアの純白(まっしろ)な、髪をきちんと分けた紳士が、職人体の半纏着を引捉(ひっとら)えて、出せ、出せ、と喚(わめ)いているからには、その間の消息一目して瞭然(りょうぜん)たりで、車掌もちっとも猶予(ためら)わず、むずと曲者の肩を握(とりしば)った。
「降りろ――さあ、」
と一ツしゃくり附けると、革を離して、蹌踉(よろよろ)と凭(もた)れかかる。半纏着にまた凭れ懸かるようになって、三人揉重(もみかさ)なって、車掌台へ圧(お)されて出ると、先(せん)から、がらりと扉を開けて、把手(ハンドル)に手を置きながら、中を覗込(のぞきこ)んでいた運転手が、チリン無しにちょうどそこの停留所に車を留めた。
御嶽山(おんたけさん)を少し進んだ一ツ橋通(どおり)を右に見る辺りで、この街鉄は、これから御承知のごとく東明館前を通って両国へ行くのである。
「少々お待ちを……」
と車掌も大事件の肩を掴まえているから、息急(せ)いて、四五人押込もうとする待合わせの乗組を制しながら、後退(あとじさ)りに身を反(そ)らせて、曲者を釣身に出ると、両手を突張(つっぱ)って礼之進も続いて、どたり。
後からぞろぞろと七八人、我勝ちに見物に飛出たのがある。事ありと見て、乗ろうとしたのもそのまま足を留めて、押取巻(おっとりま)いた。二人ばかり婦(おんな)も交って。
外へ、その人数を吐出したので、風が透いて、すっきり透明になって、行儀よく乗合の膝だけは揃いながら、思い思いに捻向(ねじむ)いて、硝子戸(がらすど)から覗く中に、片足膝の上へ投げて、丁子巴(ちょうじどもえ)の羽織の袖を組合わせて、茶のその中折を額深(ひたいぶか)く、ふらふら坐眠(いねむ)りをしていたらしい人物は、酒井俊蔵であった。
けれども、礼之進が今、外へ出たと見ると同時に、明かにその両眼を※(みひら)いた瞳には、一点も睡(ねむ)そうな曇(くもり)が無い。
惟(おも)うに、乗合いの蔭ではあったが、礼之進に目を着けられて、例の(ますます御翻訳で。)を前置きに、(就きましては御縁女儀、)を場処柄も介(かま)わず弁じられよう恐(おそれ)があるため、計略ここに出たのであろう。ただしその縁談を嫌ったという形跡はいささかも見当らぬが。
「攫(や)られたのかい。」
「はい、」
と見ると、酒井の向い合わせ、正面を右へ離れて、ちょうどその曲者の立った袖下の処に主税が居て、かく答えた。
「何でございますか、騒ぎです。」
先生の前で、立騒いでは、と控えたが、門生が澄まし込んで冷淡に膝に手を置いているにも係わらず、酒井はずッと立って、脊高(せだか)く車掌台へ出かけて、ここにも立淀む一団(ひとかたまり)の、弥次の上から、大路へ顔を出した……時であった。
主客顛倒(しゅかくてんどう)、曲者の手がポカリと飛んで、礼之進の痘痕(あばた)は砕けた、火の出るよう。
「猿唐人め。」
あろう事か、あっと頬げたを圧(おさ)えて退(すさ)る、道学者の襟飾(ネクタイ)へ、斜(はすっ)かいに肩を突懸(つっか)けて、横押にぐいと押して、
「何だ、何だ、何だ、何だと? 掏摸(すり)だ、盗賊(どろぼう)だと……クソを啖(くら)え。ナニその、胡麻和(ごまあえ)のような汝(てめえ)が面(つら)を甜(な)めろい! さあ、どこに私(わっし)が汝(てめえ)の紙入を掏(す)ったんだ。
こっちあまた、串戯(じょうだん)じゃねえ。込合ってる中だから、汝の足でも踏んだんだろう、と思ってよ。足ぐれえ踏んだにしちゃ、怒りようが御大層だが、面を見や、踵(かかと)と大した違えは無えから、ははは、」
と夜の大路へ笑(わらい)が響いて、
「汝(てめえ)の方じゃ、面を踏まれた分にして、怒りやがるんだ、と断念(あきら)めてよ。難有(ありがた)く思え、日傭取(ひようとり)のお職人様が月給取に謝罪(あやま)ったんだ。
いつ出来た規則だか知らねえが、股(もも)ッたア出すなッてえ、肥満(ふと)った乳母(おんば)どんが焦(じれ)ッたがりゃしめえし、厭味ッたらしい言分だが、そいつも承知で乗ってるからにゃ、他様(ほかさま)の足を踏みゃ、引摺下(ひきずりおろ)される御法だ、と往生してよ。」
と、車掌にひょこと頭を下げて、
「へいこら、と下りてやりゃ、何だ、掏摸だ。掏摸たア何でえ。」
また礼之進に突懸(つっかか)る。
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