隼 五十三 一言亡状(いちげんぼうじょう)を極めたにも係わらず、英臣はかえって物静(ものしずか)に聞いた。「なぜか。」「馬丁(べっとう)貞造と不埒(ふらち)して、お道さんを産んだからです。」 強いて言(ことば)を落着けて、「それから、」「第二、お道さんを私に下さい。」「何でじゃ?」「私と、いい中です。」「むむ、」 と口の内で言った。「それから、」「第三、お菅さんを、島山から引取っておしまいなさい。」「なぜな。」「私と約束しました。」「誰と?」 はたと目を怒らすと、早瀬は澄まして、「私とさ。」「うむ、それから?」「第四、病院をお潰(つぶ)しなさい。」「なぜかい。」「医学士が毒を装(も)ります。」「まだ有った、のう。」と、落着いて尋ねた。「河野家の家庭は、かくのごとく汚(けが)れ果てた。……最早や、忰(せがれ)の嫁を娶(と)るのに、他(ひと)の大切な娘の、身分系図などを検(しら)べるような、不埒な事はいたしますまい。また一門の繁栄を計るために、娘どもを餌にして、婿を釣りますまい。 就中(なかんずく)、独逸文学者酒井俊蔵先生の令嬢に対して、身の程も弁えず、無礼を仕(つかまつ)りました申訳が無い、とお詫びなさい。 そうすりゃ大概、河野家は支離滅裂、貴下のいわゆる家族主義の滅亡さ。そこで敗軍した大将だ。貴下は安東村の貞造の馬小屋へでも引込(ひっこ)むんだ。ざっと、まあ、これだけさ。」 と帽子で、そよそよと胸を煽(あお)いだ。 時に蝕しつつある太陽を、いやが上に蔽(おお)い果さんずる修羅の叫喚(さけび)の物凄(ものすさまじ)く響くがごとく、油蝉の声の山の根に染み入る中に、英臣は荒らかな声して、「発狂人!」「ああ、狂人(きちがい)だ、が、他(ほか)の気違は出来ないことを云って狂うのに、この狂気(きちがい)は、出来る相談をして澄ましているばかりなんだよ。」 舌もやや釣る、唇を蠢(うごめ)かしつつ、「で、私(わし)がその請求を肯(き)かんけりゃ、汝(きさま)、どうすッとか言うんじゃのう。」と、太息を吐(つ)いたのである。「この毒薬の瓶をもって、ちと古風な事だけれど、恐れながらと、遣(や)ろうと云うのだ。それで大概、貴下の家は寂滅でしょうぜ。」 英臣は辛うじて罵(ののし)り得た。「騙(かたり)じゃのう、」「騙ですとも。」「強請(ゆすり)じゃが。汝(きさま)、」「強請ですとも。」「それで汝(きさま)人間か。」「畜生でしょうか。」「それでも独逸語の教師か。」「いいえ、」「学者と言われようか。」「どういたしまして、」「酒井の門生か。」「静岡へ来てからは、そんな者じゃありません。騙です。」「何、騙じゃ、」「強請です。畜生です。そして河野家の仇(あだ)なんです。」「黙れ!」 と一喝、虎のごとき唸(うなり)をなして、杖(ステッキ)をひしと握って、「無礼だ。黙れ、小僧。」「何だ、小父さん。」 と云った。英臣は身心ともに燃ゆるがごとき中にも、思わず掉下(ふりおろ)す得物を留めると、主税は正面へ顔を出して、呵々(からから)と笑って、「おい、己(おれ)を、まあ、何だと思う。浅草田畝(たんぼ)に巣を持って、観音様へ羽を伸(の)すから、隼(はやぶさ)の力(りき)と綽名(あだな)アされた、掏摸(すり)だよ、巾着切(きんちゃくきり)だよ。はははは、これからその気で附合いねえ、こう、頼むぜ、小父さん。」 五十四「己(おれ)が十二の小僧の時よ。朝露の林を分けて、塒(ねぐら)を奥山へ出たと思いねえ。蛙(けえろ)の面(つら)へ打(ぶっ)かけるように、仕かけの噴水が、白粉(おしろい)の禿げた霜げた姉さんの顔を半分に仕切って、洒亜(しゃあ)と出ていら。そこの釣堀に、四人連(づれ)、皆洋服で、まだ酔の醒(さ)めねえ顔も見えて、帽子は被(かぶ)っても大童(おおわらわ)と云う体だ。芳原げえりが、朝ッぱら鯉を釣っているじゃねえか。 釣ってるのは鯉だけれど、どこのか田畝の鰌(どじょう)だろう。官員で、朝帰りで、洋服で、釣ってりゃ馬鹿だ、と天窓(あたま)から呑んでかかって、中でも鮒(ふな)らしい奴の黄金鎖(きんぐさり)へ手を懸ける、としまった! この腕を呻(うん)と握られたんだ。 掴(つかま)えて打(ぶ)ちでもする事か、片手で澄まし込んで釣るじゃねえか。釣った奴を籠へ入れて、(小僧これを持って供をしろ。)ッて、一睨(ひとにらみ)睨まれた時は、生れて、はじめて縮(すく)んだのさ。 こりゃ成程ちょろッかな(隼)の手でいかねえ。よく顔も見なかったのがこっちの越度(おちど)で、人品骨柄を見たって知れる――その頃は台湾の属官だったが、今じゃ同一所(おんなじとこ)の税関長、稲坂と云う法学士で、大鵬(たいほう)のような人物、ついて居た三人は下役だね。 後で聞きゃ、ある時も、結婚したての細君を連れて、芳原を冷かして、格子で馴染(なじみ)の女に逢って、(一所に登楼(あが)るぜ。)と手を引いて飛込んで、今夜は情女(いろおんな)と遊ぶんだから、お前は次の室(ま)で待ってるんだ、と名代(みょうだい)へ追いやって、遊女(おいらん)と寝たと云う豪傑さね。 それッきり、細君も妬(や)かないが、旦那も嫉気(じんすけ)少しもなし。 いつか三月ばかり台湾を留守にして、若いその細君と女中と書生を残して置くと、どこの婦(おんな)も同一(おんなじ)だ。前(ぜん)から居る下役の媽々(かかあ)ども、いずれ夫人とか、何子とか云う奴等が、女同士、長官の細君の、年紀(とし)の若いのを猜(そね)んだやつさ。下女に鼻薬を飼って讒言(つげぐち)をさせたんだね。その法学士が内へ帰ると、(お帰んなさいまし、さて奥様はひょんな事。)と、書生と情交(わけ)があるように言いつける。とよくも聞かないで、――(出て行(ゆ)け。)――と怒鳴り附けた。 誰に云ったと思います。細君じゃない。その下女にさ。 どうです。のろかったり、妬過ぎたり、凡人業(わざ)じゃねえような、河野さん、貴下のお婿様(さん)連にゃ、こういうのは有りますまい。 己が掴(つかま)ったのはその人だ。首を縮(すく)めて、鯉の入(へえ)った籠を下げて、(魚籃(ぎょらん))の丁稚(でっち)と云う形で、ついて行(ゆ)くと、腹こなしだ、とぶらりぶらり、昼頃まで歩行(ある)いてさ、それから行ったのが真砂町の酒井先生の内だった。 学校のお留守だったが、親友だから、ずかずかと上って、小僧も二階へ通されたね。(奥さん、これにもお膳を下さい。)と掏摸(すり)にも、同一(おんなじ)ように、吸物膳。 女中の手には掛けないで、酒井さんの奥方ともあろう方が、まだ少(わか)かった――縮緬(ちりめん)のお羽織で、膳を据えて下すって、(遠慮をしないで召食(めしあが)れ、)と優しく言って下すった時にゃ、己(おら)あ始めて涙が出たのよ。 先生がお帰りなさると、四ツ膳の並んだ末に、可愛い小僧が居るじゃねえか。(何だい、)と聞かれたので、法学士が大口開いて(掏摸だよ。)と言われたので、ふッつり留(や)める気になったぜ、犬畜生だけ、情(なさけ)には脆(もろ)いのよ。 法学士が、(さあ、使賃だ、祝儀だ、)と一円出して、(酒が飲めなきゃ飯を食ってもう帰れ、御苦労だった、今度ッからもっと上手に攫(や)れよ。)と言われて、畳に喰(くい)ついて泣いていると、(親がないんだわねえ、)と、勿体ねえ、奥方の声がうるんだと思いねえ。(晩の飯を内で食って、翌日(あす)の飯をまた内で食わないか、酒井の籠で飼ってやろう、隼。)と、それから親鳥の声を真似(まね)て、今でも囀(さえず)る独逸語だ。 世の中にゃ河野さん、こんな猿を養って、育ててくれる人も有るのに、お前さん方は、まあ何という、べらぼうな料簡方(りょうけんかた)だい。 可愛い娘たちを玉に使って、月給高で、婿を選んで、一家(いっけ)の繁昌(はんじょう)とは何事だろう。 たまたま人間に生を受けて、しかも別嬪(べっぴん)に生れたものを、一生にたった一度、生命(いのち)とはつりがえの、色も恋も知らせねえで、盲鳥(めくらどり)を占めるように野郎の懐へ捻込(ねじこ)んで、いや、貞女になれ、賢母になれ、良妻になれ、と云ったって、手品の種を通わせやしめえし、そう、うまく行くものか。 見たが可い、こう、己(おれ)が腕がちょいと触ると、学校や、道学者が、新粉(しんこ)細工で拵(こしら)えた、貞女も賢母も良妻も、ばたばたと将棊倒しだ。」 英臣の目は血走った。 五十五「河野の家には限らねえ。およそ世の中に、家の為に、女の児(こ)を親勝手に縁附けるほど惨(むご)たらしい事はねえ。お為ごかしに理窟を言って、動きの取れないように説得すりゃ、十六や七の何にも知らない、無垢(むく)な女(むすめ)が、頭(かぶり)一ツ掉(ふ)り得るものか。羞含(はにか)んで、ぼうとなって、俯向(うつむ)くので話が極(きま)って、赫(かっ)と逆上(のぼ)せた奴を車に乗せて、回生剤(きつけ)のような酒をのませる、こいつを三々九度と云うのよ。そこで寝て起(おき)りゃ人の女房だ。 うっかり他(ひと)と口でも利きゃ、直ぐに何のかのと言われよう。それで二人が繋(つなが)って、光った態(なり)でもして歩行(ある)けば、親達は緋縅(ひおどし)の鎧(よろい)でも着たように汝(うぬ)が肩身をひけらかすんだね。 娘が惚れた男に添わせりゃ、たとい味噌漉(みそこし)を提げたって、玉の冠を被(かぶ)ったよりは嬉しがるのを知らねえのか。傍(はた)の目からは筵(むしろ)と見えても、当人には綾錦(あやにしき)だ。亭主は、おい、親のものじゃねえんだよ。 己が言うのが嘘だと思ったら、お道さんに聞いて見ねえ。病院長の奥様より、馬小屋へ入(へえ)っても、早瀬と世帯が持ちたいとよ。お菅さんにも聞いて見ねえ。」「不埒(ふらち)な奴だ?」 と揺(ゆらめ)いた英臣の髯の色、口を開(あ)いて、黒煙に似た。「不埒は承知よ。不埒を承知でした事を、不埒と言ったって怯然(びく)ともしねえ。豪(えら)い、と讃(ほ)めりゃ吃驚(びっくり)するがね。 今更慌てる事はないさ、はじめから知れていら。お前さんの許(とこ)のような家風で、婿を持たした娘たちと、情事(いろごと)をするくらい、下女を演劇(しばい)に連出すより、もっと容易(たやす)いのは通相場よ。 こう、もう威張ったって仕ようがねえ。恐怖(おっかな)くはないと言えば、」 と微笑(ほほえ)みながら、「そんな野暮な顔をしねえで、よく言うことを聞け、と云うに。―― おい、まだ驚く事があるぜ。もう一枝、河野の幹を栄(さかえ)さそうと、お前さんが頼みにしている、四番目の娘だがね、つい、この間、暑中休暇で、東京から帰って来た、手入らずの嬢さんは、医学士にけがされたぜ。 己に毒薬を装(も)らせたし、ばれかかったお道さんの一件を、穏便にさせるために、大奥方の計らいで、院長に押附(おッつ)けたんだ。己と合棒の万太と云う、幼馴染の掏摸の夥間(なかま)が、ちゃんと材料(たね)を上げていら。 やっぱり家の為だろう。河野家の名誉のために、旧悪を知ってる上、お道さんと不都合した、早瀬と云う者を毒殺しようと、娘を一人傷物にしたんじゃないか。 そこを言うのだ。児(こども)よりも家を大切がる残酷な親だと云うのは、よ。 なぜ手をついて懺悔(ざんげ)をしない。悪かった。これからは可愛い娘を決して名聞(みょうもん)のためには使いますまい。家柄を鼻にかけて他(ひと)の娘に無礼も申掛けますまい、と恐入ってしまわないよ。 小児(こども)一人犠牲(にえ)にして、毒薬なんぞ装らないでも、坊主になって謝(あやま)んねえな。」 五十六 面(おもて)も触(ふ)らず言(ことば)を継ぎ、「それに、お前さん何と云った。――この間も病院で、この掛合をする前に、念のために聞いた時だ。―― たって英吉君の嫁に欲しいとお言いなさる、私(わっし)が先生のお妙さんは、実は柳橋の芸者の子だが、それでも差支えは無いのですか、と尋ねたら、お前さん、もっての外な顔をして、いや、途方もない。そんな賤(いや)しい素性の者なら、たとえ英吉がその為に、憧(こが)れ死(じに)をしようとも、己たち両親が承知をせん。家名に係わる、と云ったろう。 こう、お前(めえ)たちにゃ限らねえ。世間にゃそうした情無(なさけね)え了簡な奴ばかりだから、そんな奴等へ面当(つらあて)に、河野の一家(いっけ)を鎗玉(やりだま)に挙げたんだ。 はじめから話にならねえ縁談だから可いけれど、これが先生も承知の上、嬢さんも好いた男で、いざ、と云う時、そでねえ系図しらべをされて、芸者の子だというだけで、破談にでもなった時の、先生御夫婦、お嬢さんの心持はどんなだろう。 己(おい)らそれを思うから、人間並にゃ附合えねえ肩書つきの悪丁稚(あくでっち)を、一人前に育てた上、大切な嬢さんに惚れているなら添わしてやろう、とおっしゃって下すった、先生御夫婦のお志。掏摸の野郎と顔をならべて、似而非(えせ)道学者の坂田なんぞを見返そうと云った江戸児(えどッこ)のお嬢さんに、一式の恩返し、二ツあっても上げたい命を、一ツ棄てるのは安価(やす)いものよ。 お前さんにゃ気の毒だ。さぞ御迷惑でございましょう。」 と丁寧に笑って言って、「迷惑や気の毒を勘酌(しんしゃく)して巾着切が出来るものか。真人間でない者に、お前(めえ)、道理を説いたって、義理を言って聞かしたって、巡査(おまわり)ほどにも恐くはねえから、言句(もんく)なしに往生するさ。軍(いくさ)に負けた、と思えば可(よ)かろう。 掏摸の指で突(つつ)いても、倒れるような石垣や、蟻で崩れる濛(ほり)を穿(ほ)って、河野の旗を立てていたって、はじまらねえ話じゃねえか。 お前さん、さぞ口惜(くやし)かろう。打(ぶ)ちたくば打て、殺したくば殺しねえ、義理を知って死ぬような道理を知った己じゃねえが、嬢さんに上げた生命(いのち)だから、その生命を棄てるので、お道さんや、お菅さんにも、言訳をするつもりだ。死んでも寂(さびし)い事はねえ、女房が先へ行って待っていら。 お蔦と二人が、毒蛇になって、可愛いお妙さんを守護する覚悟よ。見ろ、あの竜宮に在る珠は、悪竜が絡(まと)い繞(めぐ)って、その器に非ずして濫(みだ)りに近づく者があると、呪殺すと云うじゃないか。 呪詛(のろ)われたんだ、呪詛われたんだ。お妙さんに指を差して、お前たちは呪詛われたんだ。」 と膝に手を置き、片面(はんおもて)を、怪しきものの走るがごとく颯(さ)と暗くなった海に向けて、蝕ある凄(すご)き日の光に、水底(みなそこ)のその悪竜の影に憧るる面色(おももち)した時、隼の力の容貌は、かえって哲学者のごときものであった。 英臣は苔蒸せる石の動かざるごとく緘黙(かんもく)した。 一声高らかに雉子(きじ)が啼(な)くと、山は暗くなった。 勘助井戸の星を覗(のぞ)こうと、末の娘が真先(まっさき)に飜然(ひらり)と上って、続いて一人々々、名ある麗人の霊のごとく朦朧(もうろう)として露(あら)われた途端に、英臣はかねてその心構えをしたらしい、やにわに衣兜(かくし)から短銃(ピストル)を出して、衝(つ)と早瀬の胸を狙った。あわやと抱(いだ)き留めた惣助は刎倒(はねたお)されて転んだけれども、渠(かれ)危(あやう)し、と一目見て、道子と菅子が、身を蔽(おお)いに、背(せな)より、胸より、ひしと主税を庇(かば)ったので、英臣は、面(おもて)を背けて嘆息し、たちまち狙を外らすや否や、大夫人を射て、倒して、硝薬(しょうやく)の煙とともに、蝕する日の面(おもて)を仰ぎつつ、この傲岸(ごうがん)なる統領は、自からその脳を貫いた。 抱合って、目を見交わして、姉妹(きょうだい)の美人(たおやめ)は、身を倒(さかさま)に崖に投じた。あわれ、蔦に蔓(かずら)に留(とど)まった、道子と菅子が色ある残懐(なごり)は、滅びたる世の海の底に、珊瑚(さんご)の砕けしに異ならず。 折から沖を遥(はるか)に、光なき昼の星よと見えて、天に連(つらな)った一点の白帆は、二人の夫等の乗れる船にして、且つ死骸(なきがら)の俤(おもかげ)に似たのを、妙子に隠して、主税は高く小手を翳(かざ)した。 その夜(よ)、清水港の旅店において、爺(じじい)は山へ柴苅に、と嬢さんを慰めつつ、そのすやすやと寐(ね)たのを見て、お蔦の黒髪を抱(いだ)きながら、早瀬は潔く毒を仰いだのである。 早瀬の遺書は、酒井先生と、河野とに二通あった。 その文学士河野に宛(あ)てたは。――英吉君……島山夫人が、才と色とをもって、君の為に早瀬を擒(とりこ)にしようとしたのは事実である。また我自から、道子が温良優順の質に乗じて、謀(はか)って情を迎えたのも事実である。けれども、そのいずれの操をも傷(きずつ)けぬ。双互にただ黙会したのに過ぎないから、乞う、両位の令妹のために、その淑徳を疑うことなかれ。特に君が母堂の馬丁(ばてい)と不徳の事のごときは、あり触れた野人の風説に過ぎなかった。――事実でないのを確めたに就いて、我が最初の目的の達しられないのに失望したが、幸か、不幸か、浅間の社頭で逢った病者の名が、偶然貞造と云うのに便って、狂言して姉夫人を誘出(おびきだ)し得たのであった。従って、第四の令妹の事はもとより、毒薬の根も葉もないのを、深夜蛾(ひとりむし)が燈(ともしび)に斃(お)ちたのを見て、思い着いて、我が同類の万太と謀って、渠をして調えしめた毒薬を、我が手に薬の瓶に投じて、直ちに君の家厳に迫った。 不義、毒殺、たとえば父子、夫妻、最親至愛の間においても、その実否(じっぷ)を正すべく、これを口にすべからざる底(てい)の条件をもって、咄嗟(とっさ)に雷(らい)発して、河野家の家庭を襲ったのである。私は掏賊(すり)だ、はじめから敵に対しては、機謀権略、反間苦肉、有(あら)ゆる辣手段(らつしゅだん)を弄して差支えないと信じた。 要はただ、君が家系門閥(もんばつ)の誇の上に、一部の間隙を生ぜしめて、氏素性、かくのごとき早瀬の前に幾分の譲歩をなさしめん希望に過ぎなかったに、思わざりき、久能山上の事あらんとは。我は偏(ひとえ)に、君の家厳の、左右一顧の余裕のない、一時の激怒を惜(おし)むとともに、清冽一塵の交るを許さぬ、峻厳なるその主義に深大なる敬意を表する。 英吉君、能(あた)うべくは、我意を体して、より美(うつくし)く、より清き、第二の家庭を建設せよ。人生意気を感ぜずや――云々の意を認(したた)めてあった。 門族の栄華の雲に蔽(おお)われて、自家の存在と、学者の独立とを忘れていた英吉は、日蝕の日の、蝕の晴るると共に、嗟嘆(さたん)して主税に聞くべく、その頭脳は明(あきらか)に、その眼(まなこ)は輝いたのである。[#ここから2字下げ]早瀬は潔く云々以下、二十一行抹消。――前篇後篇を通じその意味にて御覧を願う。はじめ新聞に連載の時、この二十一行なし。後単行出版に際し都合により、徒(と)を添えたるもの。或(あるい)はおなじ単行本御所有の方々の、ここにお心つかいもあらんかとて。[#ここで字下げ終わり]明治四十(一九〇七)年一~四月 [#地付き]
底本:「泉鏡花集成12」筑摩書房 1997(平成9)年1月23日第1刷発行底本の親本:「鏡花全集」岩波書店※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)入力:真先芳秋校正:かとうかおりファイル作成:かとうかおり2000年8月17日公開青空文庫作成ファイル:このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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