宵 闇
四十
同(おなじ)、日曜の夜(よ)の事で。
日が暮れると、早瀬は玄関へ出て、框(かまち)に腰を掛けて、土間の下駄を引掛けたなり、洋燈(ランプ)を背後(うしろ)に、片手を突いて長くなって一人でいた。よくぞ男に生れたる、と云う陽気でもなく、虫を聞く時節でもなく、家は古いが、壁から生えた芒(すすき)も無し、絵でないから、一筆描(が)きの月のあしらいも見えぬ。
ト忌々(いみいみ)しいと言えば忌々しい、上框(あがりがまち)に、灯(ともしび)を背中にして、あたかも門火(かどび)を焚いているような――その薄あかりが、格子戸を透(すか)して、軒で一度暗くなって、中が絶えて、それから、ぼやけた輪を取って、朦朧(もうろう)と、雨曝(あまざれ)の木目の高い、門の扉(と)に映って、蝙蝠(こうもり)の影にもあらず、空を黒雲が行通うか何ぞのように、時々、むらむらと暗くなる……また明(あかる)くなる。
目も放さず、早瀬がそれを凝(じっ)と視(なが)める内に、濁ったようなその灯影が、二三度ゆらゆらと動いて、やがて礫(つぶて)した波が、水の面(おも)に月輪を纏(まと)めた風情に、白やかな婦(おんな)の顔がそこを覗(のぞ)いた。
門の扉(と)が開(あ)くでもなしに……続いて雪のような衣紋(えもん)が出て、それと映合(うつりあ)ってくッきりと黒い鬢(びん)が、やがて薄お納戸の肩のあたり、きらりと光って、帯の色の鮮麗(あざやか)になったのは――道子であった。
門に立忍んで、密(そ)と扉を開けて、横から様子を伺ったものである。
一目見ると、早瀬は、ずいと立って、格子を開けながら、手招ぎをする。と、立直って後姿になって、AB(アアベエ)横町の左右を※(みまわ)す趣であったが、うしろ向きに入って、がらがらと後を閉めると、三足ばかりを小刻みに急いで来て、人目の関には一重も多く、遮るものが欲しそうに、また格子を立てた。
「ようこそ、」と莞爾(にっこり)して云う。
姉夫人は、口を、畳んだ手巾(ハンケチ)で圧(おさ)えたが、すッすッと息が忙(せわ)しく、
「誰方(どなた)も……」
「誰も。」
「小使さんは?」
ともう馴染んだか尋ね得た。
「あれは朝っから、貞造の方へ遣ってあります。目の離せません容態ですから。」
「何から何まで難有(ありがと)う存じます……一人の親を……済みませんですねえ。」
とその手巾が目に障る。
「済まないのは私こそ。でもよく会場が抜けられましたな。」
「はい、色艶が悪いから、控所の茶屋で憩(やす)むように、と皆さんが、そう言って下さいましたから、好(い)い都合に、点燈頃(あかりのつきごろ)の混雑紛れに出ましたけれど、宅の車では悪うございますから、途中で辻待のを雇いますと、気が着きませんでしたが、それが貴下(あなた)、片々蠣目(かきめ)のようで、その可恐(こわ)らしい目で、時々振返っては、あの、幌(ほろ)の中を覗きましてね、私はどんなに気味が悪うござんしてしょう。やっとこの横町の角で下りて、まあ、御門まで参りましたけれども、もしかお客様でも有っては悪いから、と少時(しばらく)立っておりましたの。」
「お心づかい、お察し申します。」
と頭(こうべ)を下げて、
「島山さんの、お菅さんには。」
「今しがた参りました。あんなに遅くまで――こちら様に。」
「いいえ。」
「それでは道寄りをいたしましたのでございましょう。灯(あかり)の点(つ)きます少し前に見えましたっけ、大勢の中でございますから、遠くに姿を見ましたばかりで、別に言(ことば)も交わさないで、私は急いで出て参りましたので。」
「成程、いや、お茶も差上げませんで失礼ですが、手間が取れちゃまたお首尾が悪いと不可(いけ)ません。直ぐに、これから、」
「どうぞそうなすって下さいまし、貴下、御苦労様でございますねえ。」
「御苦労どころじゃありません。さあ、お供いたしましょう。」
ふと心着いたように、
「お待ちなさいよ、夫人(おくさん)。」
四十一
早瀬は今更ながら、道子がその白襟の品好く麗(うるわ)しい姿を視(なが)めて、
「宵暗(よいやみ)でも、貴女(あなた)のその態(なり)じゃ恐しく目に立って、どんな事でまたその蠣目の車夫なんぞが見着けまいものでもありません。ちょいと貴女手巾(ハンケチ)を。」
と慌(あわただ)しい折から手の触るも顧みず、奪うがごとく引取って、背後(うしろ)から夫人の肩を肩掛(ショオル)のように包むと、撫肩はいよいよ細って、身を萎(すく)めたがなお見好(よ)げな。
懐中(ふところ)からまた手拭(てぬぐい)を出して、夫人に渡して、
「姉(あね)さん冠(かぶ)りと云うのになさい、田舎者がするように。」
「どうせ田舎者なんですもの。」
と打傾いて、髷(まげ)にちょっと手を当てて、
「こうですか。」白地を被(かぶ)って俯向(うつむ)けば、黒髪こそは隠れたれ、包むに余る鬢(びん)の馥(か)の、雪に梅花を伏せたよう。
主税は横から右瞻左瞻(とみこうみ)て、
「不可(いけな)い、不可い、なお目立つ。貴女、失礼ですが、裾を端折(はしょ)って、そう、不可(いか)んな。長襦袢(ながじゅばん)が突丈(ついたけ)じゃ、やっぱり清元の出語(でがたり)がありそうだ。」
と口の裡(うち)に独言(つぶや)きつつ、
「お気味が悪くっても、胸へためて、ぐっと上げて、足袋との間を思い切って。ああ、おいたわしいな。」
「厭(いや)でございますね。」
「御免なさいよ。」
と言うが疾(はや)いか、早瀬の手は空を切って、体を踞(しゃが)んだと思うと、
「あれ、」
かっとなって、ふらふらと頭(つむり)重く倒れようとした――手を主税の肩に突いて、道子はわずかに支えたが、早瀬の掌(たなそこ)には逸早く壁の隅なる煤(すす)を掬(すく)って、これを夫人の脛(はぎ)に塗って、穂にあらわれて蔽(おお)われ果てぬ、尋常なその褄(つま)はずれを隠したのであった。
「もう、大丈夫、河野の令夫人(おくがた)とは見えやしない。」
と、框の洋燈(ランプ)を上から、フッ!
留南奇(とめき)を便(たより)に、身を寄せて、
「さあ、出掛けましょう。」
胸に当った夫人の肩は、誘わるるまで、震えていた。
この横町から、安東村へは五町に足りない道だけれども、場末の賤(しず)が家ばかり。時に雨もよいの夏雲の閉した空は、星あるよりも行方遥(はる)かに、たまさか漏るる灯の影は、山路なる、孤家(ひとつや)のそれと疑わるる。
名門の女子深窓に養われて、傍(かたわら)に夫無くしては、濫(みだ)りに他と言葉さえ交えまじきが、今日朝からの心の裡(うち)、蓋(けだ)し察するに余(あまり)あり。
我は不義者の児(こ)なりと知り、父はしかも危篤(きとく)の病者。逢うが別れの今世(こんじょう)に、臨終(いまわ)のなごりを惜(おし)むため、華燭(かしょく)銀燈輝いて、見返る空に月のごとき、若竹座を忍んで出た、慈善市(バザア)の光を思うにつけても、横町の後暗さは冥土(よみじ)にも増(まさ)るのみか。裾端折り、頬被(ほほかぶり)して、男――とあられもない姿。ちらりとでも、人目に触れて、貴女は、と一言聞くが最後よ、活きてはいられない大事の瀬戸。辛(から)く乗切って行(ゆ)く先は……実(まこと)の親の死目である。道子が心はどんなであろう。
大巌山の幻が、闇(やみ)の気勢(けはい)に目を圧(おさ)えて、用水の音凄(すさま)じく、地を揺(ゆ)るごとく聞えた時、道子は俤(おもかげ)さえ、衣(きぬ)の色さえ、有るか無きかの声して、
「夢ではないのでしょうかしら。宙を歩行(ある)きますようで、ふらふらして、倒れそうでなりません。早瀬さん、お袖につかまらして下さいまし。」
「しっかりと! 可(い)い塩梅(あんばい)に人通りもありませんから。」
人は無くて、軒を走る、怪しき狗(いぬ)が見えたであろう。紺屋の暖簾の鯛の色は、燐火(おにび)となって燃えもせぬが、昔を知ればひづめの音して、馬の形も有りそうな、安東村へぞ着きにける。
四十二
道子は声も※※(さまよ)うように、
「ここは野原でございますか。」
「なぜ、貴女?」
「真中(まんなか)に恐しい穴がございますよ。」
「ああ、それは道端の井戸なんです。」
と透(すか)しながら早瀬が答えた。古井戸は地獄が開けた、大(おおい)なる口のごとくに見えたのである。
早瀬より、忍び足する夫人の駒下駄が、かえって戦(おのの)きに音高く、辿々(たどたど)しく四辺(あたり)に響いて、やがて真暗(まっくら)な軒下に導かれて、そこで留まった。が、心着いたら、心弱い婦(ひと)は、得(え)堪えず倒れたであろう、あたかもその頸(うなじ)の上に、例の白黒斑(まだら)な狗(いぬ)が踞(うずくま)っているのである。
音訪(おとな)う間も無く、どたんと畳を蹴(け)て立つ音して、戸を開けるのと、ついその框(かまち)に真赤(まっか)な灯の、ほやの油煙に黒ずんだ小洋燈(こランプ)の見ゆるが同時で、ぬいと立ったは、眉の迫った、目の鋭い、細面(ほそおもて)の壮佼(わかもの)で、巾狭(はばぜま)な単衣(ひとえ)に三尺帯を尻下り、粋(いなせ)な奴(やっこ)を誰とかする、すなわち塾の(小使)で、怪! 怪! 怪! アバ大人を掏損(すりそ)こねた、万太(まんた)と云う攫徒(すり)である。
はたと主税と面(おもて)を合わせて、
「兄哥(あにい)!」
「…………」
「不可(いけね)えぜ。」と仮色(こわいろ)のように云った。
「何だ――馬鹿、お連がある。」
「やあ、先生、大変だ。」
「どう、大変。」
衝(つ)と入る。袂(たもと)に縋(すが)って、牲(にえ)の鳥の乱れ姿や、羽掻(はがい)を傷(いた)めた袖を悩んで、塒(ねぐら)のような戸を潜(くぐ)ると、跣足(はだし)で下りて、小使、カタリと後を鎖(さ)し、
「病人が冷くなったい。」
「ええ、」
「今駈出そうてえ処でさ。」
「医者か。」
「お医者は直ぐに呼んで来たがね、もう不可(いけね)えッて、今しがた帰ったんで。私(わっし)あ、ぼうとして坐っていましたが、何でもこりゃ先生に来て貰わなくちゃ、仕様がないと、今やっと気が附いて飛んで行こうと思った処で。」
「そんな法はない。死ぬなんて、」
と飛び込むと、坐ると同時(いっしょ)で、ただ一室(ひとま)だからそこが褥(しとね)の、筵(むしろ)のような枕許へ膝を落して、覗込(のぞきこ)んだが、慌(あわただ)しく居直って、三布蒲団(みのぶとん)を持上げて、骨の蒼(あお)いのがくッきり[#「くッきり」に傍点]見える、病人の仰向けに寝た胸へ、手を当てて熟(じっ)としたが、
「奥さん、」
と静(しずか)に呼ぶ。
道子が、取ったばかりの手拭を、引摺(ひきず)るように膝にかけて、振(ふり)を繕う遑(いとま)もなく、押並んで跪(ひざまず)いた時、早瀬は退(すさ)って向き直って、
「線香なんぞ買って――それから、種々(いろいろ)要るものを。」
「へい、宜(よ)うがす。」
ぼんやり戸口に立っていた小使は、その跣足(はだし)のまま飛んで出た。
と見れば、貞造の死骸(なきがら)の、恩愛に曳(ひ)かれて動くのが、筵に響いて身に染みるように、道子の膝は打震いつつ、幽(かすか)に唱名の声が漏れる。
「よく御覧なさいましよ。貴女も見せてお上げなさいよ。ああ、暗くって、それでは顔が、」
手洋燈を摺(ず)らして出したが、灯(あかり)が低く這って届かないので、裏が紺屋の物干の、破※子(やぶれれんじ)の下に、汚れた飯櫃(めしびつ)があった、それへ載せて、早瀬が立って持出したのを、夫人が伸上るようにして、霑(うるみ)をもった目を見据え、現(うつつ)の面(おもて)で受取ったが、両方掛けた手の震えに、ぶるぶると動くと思うと、坂になった蓋(ふた)を辷(すべ)って、※呀(あなや)と云う間に、袖に俯向(うつむ)いて、火を吹きながら、畳に落ちて砕けたではないか! 天井が真紫に、筵が赫(かっ)と赤くなった。
この明(あかり)で、貞造の顔は、活きて眼(まなこ)を開いたかと、蒼白(あおざめ)た鼻も見えたが、松明(たいまつ)のようにひらひらと燃え上る、夫人の裾の手拭を、炎ながら引掴(ひッつか)んで、土間へ叩き出した早瀬が、一大事の声を絞って、
「大変だ、帯に、」と一声。余りの事に茫(ぼう)となって、その時座を避けようとする、道子の帯の結目(むすびめ)を、引断(ひっき)れよ、と引いたので、横ざまに倒れた裳(もすそ)の煽(あお)り、乳(ち)のあたりから波打って、炎に燃えつと見えたのは、膚(はだえ)の雪に映る火をわずかに襦袢に隔てたのであった。トタンに早瀬は、身を投げて油の上をぐるぐると転げた。火はこれがために消えて、しばらくは黒白(あやめ)も分かず。阿部街道を戻り馬が、遥(はるか)に、ヒイインと嘶(いなな)く声。戸外(おもて)で、犬の吠ゆる声。
「可恐(おッそろし)い真暗ですね。」
品々を整えて、道の暗さに、提灯(ちょうちん)を借りて帰って来た、小使が、のそりと入ると、薄色の紋着を、水のように畳に流して、夫人はそこに伏沈んで、早瀬は窓をあけて、※子に腰をかけて、吻(ほっ)として腕をさすっていた。――猛虎肉酔初醒時(もうこにくにようてはじめてさむるとき)。揩磨苛痒風助威(かようをかいましてかぜいをたすく)。
廊下づたい
四十三
家の業でも、気の弱い婦(おんな)であるから、外科室の方は身震いがすると云うので、是非なく行(ゆ)かぬ事になっているが、道子は、両親の注意――むしろ命令で、午後十時前後、寝際には必ず一度ずつ、入院患者の病室を、遍(あまね)く見舞うのが勤めであった。
その時は当番の看護婦が、交代に二人ずつ附添うので、ただ(御気分はいかがですか、お大事になさいまし、)と、だけだけれども、心優しき生来(うまれつき)の、自(おのず)から言外の情が籠るため、病者は少なからぬ慰安を感じて、結句院長の廻診より、道子の端麗な、この姿を、待ち兼ねる者が多い。怪しからぬのは、鼻風邪ごときで入院して、貴女のお手ずからお薬を、と唸(うな)ると云うが、まさかであろう。
で――この事たるや、夫の医学士、名は理順(りじゅん)と云う――院長は余り賛成はしないのだけれども、病人を慰めるという仕事は、いかなる貴婦人がなすっても仔細(しさい)ない美徳であるし、両親もたって希望なり、不問に附して黙諾の体でいる。
ト今夜もばたばたと、上草履の音に連れて、下階(した)の病室を済ました後、横田の田畝(たんぼ)を左に見て、右に停車場(ステイション)を望んで、この向は天気が好いと、雲に連なって海が見える、その二階へ、雪洞(ぼんぼり)を手にした、白衣(びゃくえ)の看護婦を従えて、真中(まんなか)に院長夫人。雲を開いたように階子段(はしごだん)を上へ、髪が見えて、肩、帯が露(あらわ)れる。
質素(じみ)な浴衣に昼夜帯を……もっともお太鼓に結んで、紅鼻緒に白足袋であったが、冬の夜(よ)なぞは寝衣(ねまき)に着換えて、浅黄の扱帯(しごき)という事がある。そんな時は、寝白粉(ねおしろい)の香も薫る、それはた異香薫(くん)ずるがごとく、患者は御来迎、と称(とな)えて随喜渇仰。
また実際、夫人がその風采(とりなり)、その容色(きりょう)で、看護婦を率いた状(さま)は、常に天使のごとく拝まれるのであったに、いかにやしけむ、近い頃、殊に今夜あたり、色艶勝(すぐ)れず、円髷(まるまげ)も重そうに首垂(うなだ)れて、胸をせめて袖を襲(かさ)ねた状は、慎ましげに床し、とよりは、悄然(しょうぜん)と細って、何か目に見えぬ縛(いましめ)の八重の縄で、風に靡(なび)く弱腰かけて、ぐるぐると巻かれたよう。従って、前後を擁した二体の白衣も、天にもし有らば美しき獄卒の、法廷の高く高き処へ夫人を引立てて来たようである。
扉(ドア)を開放(あけはな)した室の、患者無しに行抜けの空は、右も左も、折から真白(まっしろ)な月夜で、月の表には富士の白妙(しろたえ)、裏は紫、海ある気勢(けはい)。停車場の屋根はきらきらと露が流れて輝く。
例に因って、室々へ、雪洞が入り、白衣が出で、夫人が後姿になり、看護婦が前に向き、ばたばたばた、ばたばたと規律正しい沈んだ音が長廊下に断えては続き、処々月になり、また雪洞がぽっと明(あか)くなって、ややあって、遥かに暗い裏階子(うらばしご)へ消える筈(はず)のが、今夜は廊下の真中(まんなか)を、ト一列になって、水彩色(みずさいしき)の燈籠の絵の浮いて出たように、すらすらこなたへ引返(ひっかえ)して来て、中程よりもうちっと表階子へ寄った――右隣が空いた、富士へ向いた病室の前へ来ると、夫人は立留って、白衣は左右に分れた。
順に見舞った中に、この一室だけは、行きがけになぜか残したもので。……
と見ると胡粉(ごふん)で書いた番号の札に並べて、早瀬主税と記してある。
道子は間(なか)に立って、徐(おもむろ)に左右を見返り、黙って目礼をして、ほとんど無意識に、しなやかな手を伸ばすと、看護婦の一人が、雪洞を渡して、それは両手を、一人は片手を、膝のあたりまで下げて、ひらりと雪の一団(ひとかたまり)。
ずッと離れて廊下を戻る。
道子は扉(ドア)に吸込まれた。ト思うと、しめ切らないその扉の透間から、やや背屈(せかが)みをしたらしい、低い処へ横顔を見せて廊下を差覗(さしのぞ)くと、表階子の欄干(てすり)へ、雪洞を中にして、からみついたようになって、二人附着(くッつ)いて、こなたを見ていた白衣が、さらりと消えて、壇に沈む。
四十四
寝台(ねだい)に沈んだ病人の顔の色は、これが早瀬か、と思うほどである。
道子は雪洞を裾に置いて、帯のあたりから胸を仄(ほの)かに、顔を暗く、寝台に添うて彳(たたず)んで、心(しん)を細めた洋燈(ランプ)のあかりに、その灰のような面(おもて)を見たが、目は明かに開いていた。
ト思うと、早瀬に顔を背けて、目を塞いだが、瞳は動くか、烈しく睫毛(まつげ)が震えたのである。
ややあって、
「早瀬さん、私が分りますか。」
「…………」
「ようよう今日のお昼頃から、あの、人顔がお分りになるようにおなんなさいましたそうでございますね。」
「お庇様(かげさま)で。」
と確(たしか)に聞えた。が、腹でもの云うごとくで、口は動かぬ。
「酷(ひど)いお熱だったんでございますのねえ。」
「看護婦に聞きました。ちょうど十日間ばかり、全(まる)ッきり人事不省で、驚きました。いつの間にか、もう、七月の中旬(なかば)だそうで。」と瞑(ねむ)ったままで云う。
「宅では、東京の妹たちが、皆(みんな)暑中休暇で帰って参りました。」
少し枕を動かして、
「英吉君も……ですか。」
「いいえ、あの人だけは参りませんの。この頃じゃ家(うち)へ帰られないような義理になっておりますから、気の毒ですよ。
ああ、そう申せば、」と優しく、枕許の置棚を斜(ななめ)に見て、
「貴下は、まあ、さぞ東京へお帰りなさらなければならなかったんでございましょうに。あいにく御病気で、ほんとうに間が悪うございましたわね。酒井様からの電報は御覧になりましたの?」
「見ました、先刻はじめて、」
と調子が沈む。
「二通とも、」
「二通とも。」
「一通はただ(直ぐ帰れ。)ですが、二度目のには、ツタビョウキ(蔦病気)――かねて妹から承っておりました。貴下の奥さんが御危篤(ごきとく)のように存じられます。御内の小使さん、とそれに草深の妹とも相談しまして、お枕許で、失礼ですが、電報の封を解きまして、私の名で、貴下がこのお熱の御様子で、残念ですがいらっしゃられない事を、お返事申して置きました。ですが、まあ、何という折が悪いのでございましょう。ほんとうにお察し申しております。」
「……病気が幸です。達者で居たって、どの面(つら)さげて、先生はじめ、顔が合されますもんですか。」
「なぜ? 貴下、」
と、熟(じっ)と頤(おとがい)を据えて、俯向(うつむ)いて顔を見ると、早瀬はわずかに目を開(あ)いて、
「なぜとは?」
「…………」
「第一、貴女に、見せられる顔じゃありません。」
と云う呼吸(いき)づかいが荒くなって、毛布(けっと)を乗出した、薄い胸の、露(あら)わな骨が動いた時、道子の肩もわなわなして、真白な手の戦(おのの)くのが、雪の乱るるようであった。
「安東村へおともをしたのは……夢ではないのでございますね。」
早瀬は差置かれた胸の手に、圧(お)し殺されて、あたかも呼吸の留るがごとく、その苦(くるしみ)を払わんとするように、痩細(やせほそ)った手で握って、幾度(いくたび)も口を動かしつつ辛うじて答えた。
「夢ではありません、が、この世の事ではないのです。お、お道さん、毒を、毒を一思いに飲まして下さい。」
と魚(うお)の渇けるがごとく悶(もだ)ゆる白歯に、傾く鬢(びん)からこぼるるよと見えて、衝(つ)と一片(ひとひら)の花が触れた。
颯(さっ)となった顔を背けて、
「夢でなければ……どうしましょう!」
と道子は崩れたように膝を折って、寝台の端に額を隠した。窓の月は、キラリと笄(こうがい)の艶(つや)に光って、雪燈(ぼんぼり)は仄かに玉のごとき頸(うなじ)を照らした。
これより前(さき)、看護婦の姿が欄干から消えて、早瀬の病室の扉(と)が堅く鎖(とざ)されると同時に、裏階子(うらはしご)の上へ、ふと顕(あらわ)れた一人(にん)の婦(おんな)があって、堆(うずたか)い前髪にも隠れない、鋭い瞳は、屹(き)と長廊下を射るばかり。それが跫音(あしおと)を密(ひそ)めて来て、隣の空室(あきま)へ忍んだことを、断って置かねばならぬ。こは道子等の母親である。
――同一(おなじ)事が――同一事が……五晩六晩続いた。
四十五
妙なことが有るもので、夜ごとに、道子が早瀬の病室を出る時間の後れるほど、人こそ替れ、二人ずつの看護婦の、階子段の欄干を離れるのが遅くなった。
どうせそこに待っていて、一所に二階を下りるのではない――要するに、遠くから、早瀬の室を窺う間が長くなったのである、と言いかえれば言うのである。
で、今夜もまた、早瀬の病室の前で、道子に別れた二人の白衣(びゃくえ)が、多時(しばらく)宙にかかったようになって、欄干の処に居た。
広庭を一つ隔てた母屋の方では、宵の口から、今度暑中休暇で帰省した、牛込桐楊塾の娘たちに、内の小児(こども)、甥(おい)だの、姪(めい)だのが一所になった処へ、また小児同志の客があり、草深の一家(いっけ)も来、ヴァイオリンが聞える、洋琴(オルガン)が鳴る、唱歌を唄う――この人数(にんず)へ、もう一組。菅子の妹の辰子というのが、福井県の参事官へ去年(こぞ)の秋縁着いてもう児(こ)が出来た。その一組が当河野家へ来揃うと、この時だけは道子と共に、一族残らず、乳母小間使と子守を交ぜて、ざっと五十人ばかりの人数で、両親(ふたおや)がついて、かねてこれがために、清水港(みなと)に、三保に近く、田子の浦、久能山、江尻はもとより、興津(おきつ)、清見(きよみ)寺などへ、ぶらりと散歩が出来ようという地を選んだ、宏大な別荘の設(もうけ)が有って、例年必ずそこへ避暑する。一門の栄華を見よ、と英臣大夫妻、得意の時で、昨年は英吉だけ欠けたが、……今年も怪しい。そのかわり、新しく福井県の顕官が加わるのである……
さて母屋の方は、葉越に映る燈(ともしび)にも景気づいて、小さいのが弄(もてあそ)ぶ花火の音、松の梢(こずえ)に富士より高く流星も上ったが、今は静(しずか)になった。
壇の下から音もなく、形の白い脊の高いものが、ぬいと廊下へ出た、と思うと、看護婦二人は驚いて退(すさ)った。
来たのは院長、医学士河野理順である。
ホワイト襯衣(しゃつ)に、縞(しま)の粗(あら)い慢(ゆるやか)な筒服(ずぼん)、上靴を穿(は)いたが、ビイルを呷(あお)ったらしい。充血した顔の、額に顱割(はちわれ)のある、髯(ひげ)の薄い人物で、ギラリと輝く黄金縁(きんぶち)の目金越に、看護婦等を睨(ね)め着けながら、
「君たちは……」
と云うた眼(まなこ)が、目金越に血走った。
「道子に附いているんじゃないか。」
「は、」と一人(にん)が頭(こうべ)を下げる。
「どうしたか。」
「は、早瀬さんの室を、お見舞になります時は、いつも私(わたくし)どもはお附き申しませんでございます。」と爽(さわやか)な声で答えた。
「なぜかい。」
「奥様がおっしゃいます。御本宅の英吉様の御朋友ですから、看護婦なぞを連れては豪(えら)そうに見えて、容体ぶるようで気恥かしいから、とおっしゃって、お連れなさいませんので、は……」と云う。
「いつもそうか。」
と尋ねた時、衣兜(かくし)に両手を突込んで、肩を揺(ゆす)った。
「はい、いつでも、」
「む、そうか。」と言い棄てに、荒らかに廊下を踏んだ。
「あれ、主人(あるじ)の跫音(あしおと)でございます。」
「院長ですか。」
道子は色を変えて、
「あれ、どうしましょう、こちらへ参りますよ。アレ、」
「院長が入院患者を見舞うのに、ちっとも不思議はありません。」と早瀬は寝ながら平然として云った。
目も尋常(ただ)ならず、おろおろして、
「両親も知りませんが、主人(あるじ)は酷(ひど)い目に逢わせますのでございますよ。」としめ木にかけられた様に袖を絞って立窘(たちすく)むと、
「寝台(ねだい)の下へお隠れなさい。可(い)いから、」
とむっくと起きた、早瀬は毛布(けっと)を飜(ひるがえ)して、夫人の裾を隠しながら、寝台に屹(きっ)と身構えたトタンに、
「院長さんが御廻診ですよう!」と看護婦の金切声が物凄(ものすご)く響いたのである。
理順は既に室に迫って、あわや開けようとすると、どこに居たか、忽然(こつぜん)として、母夫人が立露(たちあらわ)れて、扉(ドア)に手を掛けた医学士の二の腕を、横ざまにグッと圧(おさ)えて……曰く、
「院長。」
と、その得も言われぬ顔を、例の鋭い目で、じろりと見て、
「どうぞ、こちらへ。いいえ、是非。」
燃ゆるがごとき嫉妬の腕(かいな)を、小脇にしっかり抱込んだと思うと、早や裏階子の方へ引いて退(の)いた。――
蛍
四十六
「己(おれ)が分るか、分るか。おお酒井だ。分ったか、しっかりしな。」
酒井俊蔵ただ一人、臨終(いまわ)のお蔦の枕許に、親しく顔を差寄せた。次の間には……
「ああ、皆(みんな)居るとも。妙も居るよ。大勢居るから気を丈夫に持て! ただ早瀬が見えん、残念だろう、己も残念だ。病気で入院をしていると云うから、致方(いたしかた)が無い。断念(あきら)めなよ。」
と、黒髪ばかりは幾千代までも、早やその下に消えそうな、薄白んだ耳に口を寄せて、
「未来で会え、未来で会え。未来で会ったら一生懸命に縋着(すがりつ)いていて離れるな。己のような邪魔者の入らないように用心しろ。きっと離れるなよ。先生なんぞ持つな。
己はこういう事とは知らなんだ。お前より早瀬の方が可愛いから、あれに間違いの無いように、怪我の無いようにと思ったが、可哀相な事をしたよ。
早瀬に過失(あやまち)をさすまいと思う己の目には、お前の影は彼奴(あいつ)に魔が魅(さ)しているように見えたんだ。お前を悪魔だと思った、己は敵(かたき)だ。間(なか)をせい[#「せい」に傍点]たって処女(きむすめ)じゃない。真(まこと)逢いたくば、どんなにしても逢えん事はない。世間体だ、一所に居てこそ不都合だが、内証なら大目に見てやろうと思ったものを、お前たちだけに義理がたく、死ぬまで我慢をし徹(とお)したか。可哀相に。……今更卑怯な事は謂(い)わない、己を怨め、酒井俊蔵を怨め、己を呪(のろ)えよ!
どうだ、自分で心を弱くして、とても活きられない、死ぬなんぞと考えないで、もう一度石に喰(くい)ついても恢復(なお)って、生樹(なまき)を裂いた己へ面当(つらあて)に、早瀬と手を引いて復讐(しかえし)をして見せる元気は出せんか、意地は無いか。
もう不可(いけ)まいなあ。」
と、忘れたようなお蔦の手を膝へ取って、熟(じっ)と見て、
「瘠(や)せたよ。一昨日(おととい)見た時よりまた半分になった。――これ、目を開(あ)きなよ、しっかりしな、己だ、分ったか、ああ先生だよ。皆(みんな)居る、妙も来ている。姉さん――小芳か、あすこに居るよ。
なぜ、お前は気を長くして、早瀬が己ほどの者になるのを待たん、己でさえ芸者の情婦(いろ)は持余しているんだ、世の中は面倒さな。
あの腰を突けばひょろつくような若い奴が、お前を内へ入れて、それで身を立って行かれるものか。共倒れが不便(ふびん)だから、剣突(けんつく)を喰わしたんだが、可哀相に、両方とも国を隔って煩らって、胸一つ擦(さす)って貰えないのは、お前たち何の因果だ。
さぞ待っているだろうな、早瀬の来るのを。あれが来るから、と云って、お前、昨夜(ゆうべ)髪を結(い)ったそうだ。ああ、島田が好(よ)く出来た、己が見たよ。」
と云う時、次の室(ま)で泣音(なくね)がした。続いてすすり泣く声が聞えたが、その真先(まっさき)だったのは、お蔦のこれを結った、髪結のお増であった。芸妓(げいこ)島田は名誉の婦(おんな)が、いかに、丹精をぬきんでたろう。
上らぬ枕を取交えた、括蒲団(くくりぶとん)に一(いち)が沈んで、後毛(おくれげ)の乱れさえ、一入(ひとしお)の可傷(いたまし)さに、お蔦は薄化粧さえしているのである。
お蔦は恥じてか、見て欲(ほし)かったか、肩を捻(ひね)って、髷(まげ)を真向きに、毛筋も透通るような頸(うなじ)を向けて、なだらかに掛けた小掻巻(こがいまき)の膝の辺(あたり)に、一波打つと、力を入れたらしく寝返りした。
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