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婦系図(おんなけいず)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-22 12:14:54  点击:  切换到繁體中文



       十七

 寝たのはかれこれ一時。
 膳は片附いて、火鉢の火の白いのが果敢(はか)ないほど、夜も更けて、寂(しん)と寒くなったが、話に実が入(い)ったのと、もう寝よう、もう寝ようで炭も継がず。それでも火の気が便りだから、横坐りに、褄(つま)を引合せて肩で押して、灰の中へ露(あら)わな肱(ひじ)も落ちるまで、火鉢の縁(ふち)に凭(もた)れかかって、小豆(あずき)ほどな火を拾う。……湯上りの上、昼間歩行(ある)き廻った疲れが出た菅子は、髪も衣紋も、帯も姿も萎(な)えたようで、顔だけは、ほんのりした――麦酒(ビイル)は苦くて嫌い、と葡萄酒を硝子杯(コップ)に二ツばかりの――酔(えい)さえ醒めず、黒目は大きく睫毛(まつげ)が開いて、艶やかに湿(うるお)って、唇の紅(くれない)が濡れ輝く。手足は冷えたろうと思うまで、頭(かしら)に気が籠った様子で、相互(たがい)の話を留(や)めないのを、余り晩(おそ)くなっては、また御家来衆(しゅ)が、変にでも思うと不可(いけ)ませんから、とそれこそ、人に聞えたら変に思われそうな事を、早瀬が云って、それでも夫人のまだ話し飽かないのを、幾度(いくたび)促しても肯入(ききい)れなかったが……火鉢で隔てて、柔かく乗出していた肩の、衣(きぬ)の裏がするりと辷(すべ)った時、薄寒そうに、がっくりと頷(うなず)くと見ると、早急(さっきゅう)にフイと立つ……。
 膝に搦(から)んだ裳(もすそ)が落ちて、蹌踉(よろ)めく袖が、はらりと、茶棚の傍(わき)の襖(ふすま)に当った。肩を引いて、胸を反(そ)らして、おっくらしく、身体(からだ)で開けるようにして、次室(つぎ)へ入る。
 板廊下を一つ隔てて、そこに四畳半があるのに、床が敷いてあって、小児が二人背中合せに枕して、真中(まんなか)に透いた処がある。乳母(うば)が両方を向いて寝かし附けたらしいが、よく寝入っていて、乳母は居なかった。
 トそこを通り越して、見えなくなったきり、襖も閉めないで置きながら、夫人はしばらく経(た)っても来なかった。 
 早瀬は灰に突込んだ堆(うずたか)い巻莨(まきたばこ)の吸殻を視(なが)めながら、ああ、喫(の)んだと思い、ああ、饒舌(しゃべ)ったと考える。
 その話、と云うのが、かねて約束の、あの、ギョウテの(エルテル)を直訳的にという註文で、伝え聞くかの大詩聖は、ある時シルレルと葡萄の杯を合せて、予等(われら)が詩、年を経るに従いていよいよ貴からんことこの酒のごとくならん、と誓ったそうだわね、と硝子杯(コップ)を火に翳(かざ)してその血汐(ちしお)のごとき紅(くれない)を眉に宿して、大した学者でしょう、などと夫人、得意であったが、お酌が柳橋のでなくっては、と云う機掛(きっかけ)から、エルテルは後日(ごにち)にして、まあ、題も(ハヤセ)と云うのを是非聞かして下さい、酒井さんの御意見で、お別れなすった事は、東京で兄にも聞きましたが、恋人はどうなさいました。厭だわ、聞かさなくっちゃ、と強いられた。
 早瀬は悉(くわ)しく懺悔(ざんげ)するがごとく語ったが、都合上、ここでは要を摘んで置く。……
 義理から別離(わかれ)話になると、お蔦は、しかし二度芸者(つとめ)をする気は無いから、幸いめ[#「め」に傍点]組の惣助(そうすけ)の女房は、島田が名人の女髪結。柳橋は廻り場で、自分も結って貰って懇意だし、め[#「め」に傍点]組とはまたああいう中で、打明話が出来るから、いっそその弟子になって髪結で身を立てる。商売をひいてからは、いつも独りで束ねるが、銀杏返(いちょうがえ)しなら不自由はなし、雛妓(おしゃく)の桃割ぐらいは慰みに結ってやって、お世辞にも誉められた覚えがある。出来ないことはありますまい、親もなし、兄弟もなし、行く処と云えば元の柳橋の主人の内、それよりは肴屋(さかなや)へ内弟子に入って当分梳手(すきて)を手伝いましょう。……何も心まかせ、とそれに極(き)まった。この事は、酒井先生も御承知で、内証(ないしょう)で飯田町の二階で、直々(じきじき)に、お蔦に逢って下すって、その志の殊勝なのに、つくづく頷(うなず)いて、手ずから、小遣など、いろいろ心着(こころづけ)があった、と云う。
 それぎり、顔も見ないで、静岡へ引込(ひっこ)むつもりだったが、め[#「め」に傍点]組の惣助の計らいで、不意に汽車の中で逢って、横浜まで送る、と云うのであった。ところが終列車で、浜が留まりだったから、旅籠(はたご)も人目を憚(はばか)って、場末の野毛の目立たない内へ一晩泊った。
(そんな時は、)
 と酔っていた夫人が口を挟んで、顔を見て笑ったので、しばらくして、
(背中合わせで、別々に。)
 翌日、平沼から急行列車に乗り込んで、そうして夫人(あなた)に逢ったんだと。……


     うつらうつら

       十八

 中途で談話(はなし)に引入れられて鬱(ふさ)ぐくらい、同情もしたが、芸者なんか、ほんとうにお止しなさいよ、と夫人が云う。主税は、当初(はじめ)から酔わなきゃ話せないで陶然としていたが、さりながら夫人、日本広しといえども、私にお飯(まんま)を炊(たい)てくれた婦(おんな)は、お蔦の他ありません。母親の顔も知らないから、噫(ああ)、と喟然(きぜん)として天井を仰いで歎ずるのを見て、誰が赤い顔をしてまで、貸家を聞いて上げました、と流眄(しりめ)にかけて、ツンとした時、失礼ながら、家で命は繋(つな)げません、貴女は御飯が炊けますまい。明日は炊くわ。米を※(に)るのだ、と笑って、それからそれへ花は咲いたのだったが、しかし、気の毒だ、可哀相に、と憐愍(あわれみ)はしたけれども、徹頭徹尾、(芸者はおよしなさい。)……この後たとい酒井さんのお許可(ゆるし)が出ても、私が不承知よ。で、さてもう、夜が更けたのである。
 出て来ない――夫人はどうしたろう。
 がたがた音がした台所も、遠くなるまで寂寞(ひっそり)して、耳馴れたれば今更めけど、戸外(おもて)は数(す)万の蛙(かわず)の声。蛙、蛙、蛙、蛙、蛙と書いた文字に、一ツ一ツ音があって、天地(あめつち)に響くがごとく、はた古戦場を記した文に、尽(ことごと)く調(しらべ)があって、章と句と斉(ひと)しく声を放って鳴くがごとく、何となく雲が出て、白く移り行くに従うて、動揺(どよみ)を造って、国が暗くなる気勢(けはい)がする。
 時に湯気の蒸した風呂と、庇合(ひあわい)の月を思うと、一生の道中記に、荒れた駅路(うまやじ)の夜の孤旅(ひとりたび)が思出される。
 渠(かれ)は愁然として額を圧(おさ)えた。
「どうぞお休み下さりまし。」
 と例の俯向(うつむ)いた陰気な風で、敷居越に乳母が手を支(つ)いた。
「いろいろお使い立てます。」
 と直ぐにずッと立って、
「どちらですか。」
「そこから、お座敷へどうぞ……あの、先刻はまた、」と頭(つむり)を下げた。
 寝床はその、十畳の真中(まんなか)に敷いてあった。
 枕許(まくらもと)に水指(みずさし)と、硝子杯(コップ)を伏せて盆がある。煙草盆を並べて、もう一つ、黒塗金蒔絵(きんまきえ)の小さな棚を飾って、毛糸で編んだ紫陽花(あじさい)の青い花に、玉(ぎょく)の丸火屋(まるぼや)の残燈(ありあけ)を包んで載せて、中の棚に、香包を斜めに、古銅の香合が置いてあって、下の台へ鼻紙を。重しの代りに、女持の金時計が、底澄んで、キラキラ星のように輝いていた。
 じろりと視(なが)めて、莞爾(にっこり)して、蒲団に乗ると、腰が沈む。天鵝絨(びろうど)の括枕(くくりまくら)を横へ取って、足を伸(のば)して裙(すそ)にかさねた、黄縞(きじま)の郡内に、桃色の絹の肩当てした掻巻(かいまき)を引き寄せる、手が辷(すべ)って、ひやりと軽(かろ)くかかった裏の羽二重が燃ゆるよう。
 トタンに次の書斎で、するすると帯を解く音がしたので、まだ横にならなかった主税は、掻巻の襟に両肱を支いた。
 乳母が何か云ったようだったが、それは聞えないで、派手な夫人の声して、
「ああ、このまま寝ようよ。どうせ台なしなんだから。」
 と云ったと思うと、隔ての襖(ふすま)の左右より、中ほどがスーと開(あ)いたが、こなたの十畳の京間は広し、向うの灯(あかり)も暗いから、裳(もすそ)はかくれて、乳(ち)の下の扱帯(しごき)が見えた。
「お休みなさい。」
「失礼。」
 と云う。襖を閉めて肩を引いた。が、幻の花環一つ、黒髪のありし辺(あたり)、宙に残って、消えずに俤(おもかげ)に立つ。
 主税は仰向けに倒れたが、枕はしないで、両手を廻して、しっかと後脳を抱いた。目はハッキリと※(みひら)いて、失せやらぬその幻を視めていた。時過ぎる、時過ぎる、その時の過ぎる間に、乳母が長火鉢の処の、洋燈(ランプ)を消したのが知れて、しっこは、しっこは、と小児(こども)に云うのが聞えたが、やがて静まって、時過ぎた。
 早瀬は起上って、棚の残燈(ありあけ)を取って、縁へ出た。次の書斎を抜けるとまた北向きの縁で、その突当りに、便所(かわや)があるのだが、夫人が寝たから、大廻りに玄関へ出て、鞠子の婢(おさん)の寝た裙(すそ)を通って、板戸を開けて、台所(だいどこ)の片隅の扉(ひらき)から出て、小用を達(た)して、手を洗って、手拭(てぬぐい)を持つと、夫人が湯で使ったのを掛けたらしい、冷く手に触って、ほんのり白粉(おしろい)の香(におい)がする。

       十九

 寝室(ねま)へ戻って、何か思切ったような意気込で、早瀬は勢(いきおい)よく枕して目を閉じたが、枕許の香(こう)は、包を開けても見ず、手拭の移香でもない。活々した、何の花か、その薫の影はないが、透通って、きらきら、露を揺(ゆす)って、幽(かすか)な波を描いて恋を囁(ささや)くかと思われる一種微妙な匂が有って、掻巻の袖を辿(たど)って来て、和(やわら)かに面(おもて)を撫でる。
 それを掻払(かいはら)うごとく、目の上を両手で無慚(むざん)に引擦(ひっこす)ると、ものの香はぱっと枕に遁(に)げて、縁側の障子の隅へ、音も無く潜んだらしかったが、また……有りもしない風を伝って、引返(ひっかえ)して、今度は軽(かろ)く胸に乗る。
 寝返りを打てば、袖の煽(あおり)にふっと払われて、やがて次の間と隔ての、襖の際に籠った気勢(けはい)、原(もと)の花片(はなびら)に香が戻って、匂は一処に集ったか、薫が一汐(ひとしお)高くなった。
 快い、さりながら、強い刺戟を感じて、早瀬が寝られぬ目を開けると、先刻(さっき)(お休みなさい。)を云った時、菅子がそこへ長襦袢の模様を残した、襖の中途の、人の丈の肩あたりに、幻の花環は、色が薄らいで、花も白澄んだけれども、まだ歴々(ありあり)と瞳に映る。
 枕に手を支(つ)き、むっくり起きると、あたかもその花環の下、襖の合せ目の処に、残燈(ありあけ)の隈(くま)かと見えて、薄紫に畳を染めて、例の菫(すみれ)色の手巾(ハンケチ)が、寂然(せきぜん)として落ちたのに心着いた。
 薫はさてはそれからと、見る見る、心ゆくばかりに思うと、萌黄(もえぎ)に敷いた畳の上に、一簇(ひとむれ)の菫が咲き競ったようになって、朦朧(もうろう)とした花環の中に、就中(なかんずく)輪(りん)の大きい、目に立つ花の花片が、ひらひらと動くや否や、立処(たちどころ)に羽にかわって、蝶々に化けて、瞳の黒い女の顔が、その同一(おなじ)処にちらちらする。
 早瀬は、甘い、香(かんば)しい、暖かな、とろりとした、春の野に横(よこた)わる心地で、枕を逆に、掻巻の上へ寝巻の腹ん這(ばい)になって、蒲団の裙に乗出しながら、頬杖(ほおづえ)を支いて、恍惚(うっとり)した状(さま)にその菫を見ている内、上にたたずむ蝶々と斉(ひと)しく、花の匂が懐しくなったと見える。
 やおら、手を伸して紫の影を引くと、手巾はそのまま手に取れた。……が菫には根が有って、襖の合せ目を離れない。
 不思議に思って、蝶々がする風情に、手で羽のごとく手巾を揺動かすと、一寸(すん)ばかり襖が……開(あ)……い……た。
 と見ると、手巾の片端に、紅(くれない)の幻影(まぼろし)が一条(ひとすじ)、柔かに結ばれて、夫人の閨(ねや)に、するすると繋(つなが)っていたのであった。
 菫が咲いて蝶の舞う、人の世の春のかかる折から、こんな処には、いつでもこの一条が落ちている、名づけて縁(えにし)の糸と云う。禁断の智慧(ちえ)の果実(このみ)と斉(ひと)しく、今も神の試みで、棄てて手に取らぬ者は神の児(こ)となるし、取って繋ぐものは悪魔の眷属(けんぞく)となり、畜生の浅猿(あさま)しさとなる。これを夢みれば蝶となり、慕えば花となり、解けば美しき霞となり、結べば恐しき蛇となる。
 いかに、この時。
 隔ての襖が、より多く開いた。見る見る朱(あか)き蛇(くちなわ)は、その燃ゆる色に黄金の鱗(うろこ)の絞を立てて、菫の花を掻潜(かいくぐ)った尾に、主税の手首を巻きながら、頭(かしら)に婦人の乳(ち)の下を紅(くれない)見せて噛(か)んでいた。
 颯(さっ)と花環が消えると、横に枕した夫人の黒髪、後向きに、掻巻の襟を出た肩の辺(あたり)が露(あらわ)に見えた。残燈(ありあけ)はその枕許にも差置いてあったが、どちらの明(あかり)でも、繋いだものの中は断たれず。……
 ぶるぶる震うと、夫人はふいと衾(ふすま)を出て、胸を圧(おさ)えて、熟(じっ)と見据えた目に、閨の内を※(みまわ)して※(ぼう)としたようで、まだ覚めやらぬ夢に、菫咲く春の野を※※(さまよ)うごとく、裳(もすそ)も畳に漾(ただよ)ったが、ややあって、はじめてその怪い扱帯(しごき)の我を纏(まと)えるに心着いたか、あ、と忍び音に、魘(うな)された、目の美しい蝶の顔は、俯向けに菫の中へ落ちた。


     思いやり

       二十

 妙子は同伴(つれ)も無しにただ一人、学校がえりの態(なり)で、八丁堀のとある路地へ入って来た。
 通うその学校は、麹町(こうじまち)辺であるが、どこをどう廻ったのか、真砂町(まさごちょう)の嬢さんがこの辺へ来るのは、旅行をするようなもので、野山を越えてはるばると……近所で温習(なら)っている三味線(さみせん)も、旅の衣はすずかけの、旅の衣はすずかけの。
 目で聞くごとくぱっちりと、その黒目勝なのを※(みは)ったお妙は、鶯の声を見る時と同一(おんなじ)な可愛い顔で、路地に立って※(みま)わしながら橘(たちばな)に井げたの紋、堀の内講中(こうじゅう)のお札を並べた、上原(かんばら)と姓だけの門札(かどふだ)を視(なが)めて、単衣(ひとえ)の襟をちょいと合わせて、すっとその格子戸へ寄って、横に立って、洋傘(ひがさ)を支(つ)いたが、声を懸けようとしたらしく、斜めに覗(のぞ)き込んだ顔を赤らめて、黙って俯向(うつむ)いて俯目(ふしめ)になった。口許(くちもと)より睫毛(まつげ)が長く、日にさした影は小さく軒下に隠れた。
 コトコトとその洋傘(ひがさ)で、爪先(つまさき)の土を叩いていたが、
「御免なさい。」
 とようよう云う、控え目だったけれども、朗(ほがらか)に清(すず)しい、框(かまち)の障子越にずッと透(とお)る。
 中からよく似た、やや落着いた静(しずか)な声で、
「はあ、誰方(どなた)?」
 お妙は自分から調子が低く、今のは聞えない分に極(き)めていたのを、すぐの返事は、ちと不意討という風で、吃驚(びっくり)して顔を上げる。
「誰方、」
「あの……髪結さんの内はこっちでしょうか。」
「はい、こちらでございますが。」と座を立った気勢(けはい)に連れて、もの云う調子が婀娜(あだ)になる。
 と真正面(まっしょうめん)に内を透かして、格子戸に目を押附(おッつ)ける。
「何ぞ御用。」
 といくらか透いていた障子をすらりと開ける。粋で、品の佳(い)い、しっとりした縞(しま)お召に、黒繻子(くろじゅす)の丸帯した御新造(ごしんぞ)風の円髷(まるまげ)は、見違えるように質素(じみ)だけれども、みどりの黒髪たぐいなき、柳橋の小芳(こよし)であった。
 立身(たちみ)で、框から外を見たが、こんな門(かど)には最明寺、思いも寄らぬ令嬢風に、急いで支膝(つきひざ)になって、
「あいにく出掛けて居(お)りませんが、貴嬢(あなた)、どちら様でいらっしゃいますか。帰りましたら、直ぐ上りますように申しましょう。」
 瞳も離さないで視めたお妙が、後馳(おくれば)せに会釈して、
「そう、でも、あの、誰方かおいででしょう。内へ来て貰うんじゃないの。私が結って欲しいのよ。どうせ、こんなのですから、」
 と指でも圧(おさ)えず、惜気(おしげ)なく束髪の鬢(びん)を掉(ふ)って、
「お師匠さんでなくっても可(い)いんです。お弟子さんがお在(いで)なら、ちょいと結んで下さいな。」
 縋(すが)って頼むように仇(あど)なく云って、しっかり格子に掴(つか)まって、差覗きながら、
「小母さんでも可いわ。」
 我を(小母さん)にして髪を結って、と云われたので、我ながら忘れたように、心から美しい笑顔になって、
「貴嬢、まあ、どちらから。あの、御近所でいらっしゃいますか。」
「いいえ、遠いのよ。」
「お遠うございますか。」
「本郷だわ。」
「ええ、」
「私ねえ、本郷のねえ、酒井と云うの。」
「お嬢様、まあ、」
 と土間に一足おろしさまに、小芳は、急いで框から開ける手が、戸に掴まったお妙の指を、中から圧(おさ)えたのも気が附かぬか、駒下駄(こまげた)の先を、逆(さかさ)に半分踏まえて、片褄蹴出(かたづまけだ)しのみだれさえ、忘れたように瞻(みまも)って、
「お妙様。」
「小母さんは、早瀬さんの……あの……お蔦さん?」

       二十一

「いらっしゃいまし、」
 と小芳が太(いた)く更(あらた)まって、三指を突いた時、お妙は窮屈そうに六畳の上座(じょうざ)へ直されていたのである。
貴嬢(あなた)、まあ、どうしてこんな処へ、たった御一人なんですか。途中で何かございませんでしたか、お暑かったでしょうのに。唯今(ただいま)手拭を絞って差上げます。」
 と一斉(いっとき)に云いかけられて、袖で胸を煽(あお)いでいた手を留めて、
「暑いんじゃないの、私極(きまり)が悪いから、それでもって、あの、」
 と袂(たもと)を顔に当てて、鈴のような目ばかり出して、
「小母さんが、お蔦さん?」と低声(こごえ)でまた聞いた。
「あれ、どうしましょう。あんまり思懸けない方がお見えなさいましたもんですから、私は狼狽(とっち)てしまってさ。ほほほ、いうことも前後(あとさき)になるんですもの、まあ、御免なさいまし。
 私は……じゃありません。その……何でございますよ、お蔦さんが煩らって寝ておりますので、見舞に来たんでございます。」
「ええ、御病気。」と憂慮(きづかわ)しげに打傾く。
「はあ、久しい間、」
沢山(たんと)、悪くって?」
「いいえ、そんなでもないようですけれど、臥(ふせ)っておりますから、お髪(ぐし)はあげられませんでしょう。ですが、御緩(ごゆっ)くり、まあ、なさいまし。この頃では、お増さんも気に掛けて、早く帰って参りますから、ほんとうに……お嬢さん、」
 と擦寄って、うっかりと見惚(みと)れている。
 上框(あがりぐち)が三畳で、直ぐ次がこの六畳。前の縁が折曲(おりまが)った処に、もう一室(ひとま)、障子は真中(まんなか)で開いていたが、閉った蔭に、床があれば有るらしい。
 向うは余所(よそ)の蔵で行詰ったが、いわゆる猫の額ほどは庭も在って、青いものも少しは見える。小綺麗さは、酔(のん)だくれには過ぎたりといえども、お増と云う女房の腕で、畳も蒼(あお)い。上原とあった門札こそ、世を忍ぶ仮の名でも何でもない、すなわちこれめ[#「め」に傍点]組の住居(すまい)、実は女髪結お増の家と云ってしかるべきであろう。
 惣助の得意先は、皆、渠(かれ)を称して恩田百姓と呼ぶ。註に不及(およばず)、作取(つくりど)りのただ儲け、商売(あきない)で儲けるだけは、飲むも可(よ)し、打(ぶ)つも可し、買うも可しだが、何がさてそれで済もうか。儲けを飲んで、資本(もとで)で買って、それから女房の衣服(きもの)で打つ。
 それお株がはじまった、と見ると、女房はがちがちがちと在りたけの身上(しんしょう)へ錠をおろして、鍵を昼夜帯へ突込んで、当分商売はさせません、と仕事に出る、
 トかますの煙草入に湯銭も無い。おなまめだんぶつ、座敷牢だ、と火鉢の前に縮(すく)まって、下げ煙管(ぎせる)の投首が、ある時悪心増長して、鉄瓶を引外(ひっぱ)ずし、沸立(にた)った湯を流(ながし)へあけて、溝の湯気の消えぬ間に、笊蕎麦(ざるそば)で一杯(いち)を極(き)めた。
 その時女房に勘当されたが、やっとよりが戻って以来、金目な物は重箱まで残らず出入先へ預けたから、家には似ない調度の疎末(そまつ)さ。どこを見てもがらんとして、間狭(ませま)な内には結句さっぱりして可(よ)さそうなが、お妙は目を外らす壁張りの絵も無いので、しきりに袂(たもと)を爪繰って、
「可いのよ、小母さん、髪結さんの許(とこ)だから、極りが悪いからそう云って来たけれど、髪なんぞ結(い)わなくったって構わなくってよ。ちっとも私、結いたくはないの、」
 と投出したように云って、
「早瀬さんの、あの、主税さんの奥さんに、私、お目にかかれなくって?」
「姉さん、」
 ト、障子の内から。
「あい、」と小芳が立構えで、縁へ振向いてそなたを見込むと、
「私、そこへ行っても可(い)いかい?」
 小芳が急いで縁づたいで、障子を向うへ押しながら、膝を敷居越に枕許。
 枕についた肩細く、半ば掻巻(かいまき)を藻脱けた姿の、空蝉(うつせみ)のあわれな胸を、痩(や)せた手でしっかりと、浴衣に襲(かさ)ねた寝衣(ねまき)の襟の、はだかったのを切なそうに掴(つか)みながら、銀杏返しの鬢(びん)の崩れを、引結(ひきゆわ)えた頭(かしら)重げに、透通るように色の白い、鼻筋の通った顔を、がっくりと肩につけて、吻(ほっ)と今呼吸(いき)をしたのはお蔦である。

       二十二

 お蔦は急に起上った身体(からだ)のあがきで、寝床に添った押入の暗い方へ顔の向いたを、こなたへ見返すさえ術(じゅつ)なそうであった。
 枕から透く、その細う捩(よ)れた背(せな)へ、小芳が、密(そっ)と手を入れて、上へ抱起すようにして、
「切なくはないかい、お蔦さん、起きられるかい、お前さん、無理をしては不可(いけな)いよ。」
「ああ、難有(ありがと)う、」
 とようよう起直って、顱巻(はちまき)を取ると、あわれなほど振りかかる後れ毛を掻上げながら、
「何だか、骨が抜けたようで可笑(おかし)いわ、気障(きざ)だねえ、ぐったりして。」
 と蓮葉(はすは)に云って、口惜(くや)しそうに力のない膝を緊(し)め合わせる。
 お妙はもう六畳の縁へ立って来て、障子に掴まって覗(のぞ)いていたが、
「寝ていらっしゃいよ、よう、そうしておいでなさいよ。私がそこへ行ってよ。」
 とそれまで遠慮したらしかったが、さあとなると、飜然(ひらり)と縁を切って走込むばかりの勢(いきおい)――小芳の方が一目先へ御見の済んだ馴染(なじみ)だけ、この方が便りになったか、薄くお太鼓に結んだ黒繻子のその帯へ、擦着(すりつ)くように坐って、袖のわきから顔だけ出して、はじめて逢ったお蔦の顔を、瞬もしないで凝(じっ)と視(なが)める。
 肩を落して、お蔦が蒲団の外へ出ようとするのを、
「よう、そうしていらっしゃいなね。そんなにして、私は困るわ。」
「はじめまして、」
 と余り白くて、血の通るのは覚束(おぼつか)ない頸(うなじ)を下げて、手を支(つ)きつつ、
「失礼でございますから、」
「よう、私困るのよ。寝ていて下さらなくっては。小母さん、そう云って下さいな。」
 と気を揉んで、我を忘れて、小芳の背中をとんとんと叩いて、取次げ、と急(あせ)って云う。
 その優しさが身に浸みたか、お蔦の手をしっかり握った、小芳の指も震えつつ、
「お蔦さん、可いから寝ておいでな、お嬢さんがあんなに云って下さるからさ。」
「いいえ、そんなじゃありません。切なければ直(じ)きに寝ますよ。お嬢さん、難有(ありがと)う存じます。貴嬢(あなた)、よくおいで下さいましたのね。」
「そして、よく家(うち)が知れましたわね。この辺へは、滅多においでなさいましたことはござんせんでしょうにねえ。」
 小芳はまた今更感心したように熟々(つくづく)云った。
「はあ、分らなくってね。私、方々で聞いて極(きま)りが悪かったわ。探すのさえ煩(むず)かしいんですもの。何だか、あの、小母さんたちは、ちょいとは、あの、逢って下さらなかろうと思って、私、心配ッたらなかってよ。」
「私たちが……」
「なぜでございますえ。」
 と両方へ身を開いて、お妙を真中(まんなか)にして左右から、珍らしそうに顔を見ると、俯向(うつむ)きながら打微笑み、
「だって私は、ちっともお金子(かね)が無いんですもの。お茶屋へ行って、呼ばなくっては逢えないのじゃありませんか。」
 お蔦がハッと吐息(といき)をつくと、小芳はわざと笑いながら、
「怪我にもそんな事があるもんですか。それに、お蔦さんも、もう堅気です。私が、何も……あの、もっとも、私に逢おうとおっしゃって下すったのではござんせんが、」
 となぜか、怨めしそうな、しかも優(やさし)い目で瞻(みまも)って、
「私は何も、そんな者じゃありませんのに。」
「厭よ、小母さん、私両方とも写真で見て知っていてよ。」
 と仇気(あどけ)なく、小芳の肩へ手を掛けて、前髪を推込むばかり、額をつけて顔を隠した。
 二人目と目を見合せて、
極(きまり)が悪い、お蔦さん。」
「姉さん、私は恥かしい。」
「もう……」
「ああ、」
 思わず一所に同音に云った。
「写真なんか撮るまいよ、」――と。

       二十三

 お妙は時に、小芳の背後(うしろ)で、内証(ないしょう)で袂を覗(のぞ)いていたが、細い紙に包んだものを出して気兼ねそうに、
「小母さん、あの、お蔦さんが煩らっていらっしゃる事は、私は知らなかったんですから、お見舞じゃないの、あのね、あの、お土産に、私、極りが悪いわ。何にも有りませんから、毛糸で何か編んで上げようと思ったのよ。
 だけれども何が可いか、ちっとも分らないでしょう。粋な芸者衆(しゅ)だから、ハイカラなものは不可(いけな)いでしょう。靴足袋も、手袋も、銀貨入も、そんなものじゃ仕方が無いから、これをね、私、極りが悪いけれども持って来ました。小母さんから上げて頂戴。」
「お喜びなさいよ、お嬢さんが、」
「まあ、」
 と嬉しそうに頂くのを、小芳は見い見い、蒲団へ膝を乗懸けて、
「何を下すったい。」
「開けて見ても可いかね。」
「早く拝見おしなねえ。」
「あら! 見ちゃ可厭(いや)よ、酷(ひど)いわ、小母さんは。」
 と背中を推着(おッつ)いて、たった今まで味方に頼んだのを、もう目の敵(かたき)にして、小突く。
 お蔦は病気で気も弱って、
「遠慮しましょうかね、」と柔順(おとな)しく膝の上へ大事に置く。
「ほんとうに、お蔦さんは羨(うらやま)しいわねえ。」
 とさも羨しそうに小芳が云うと、お妙はフト打仰向いて、目を大きくして何か考えるようだったが、もう一つの袂から緋天鵝絨(ひびろうど)の小さな蝦蟇口(がまぐち)を可愛らしく引出して、
「小母さん、これを上げましょう。怒っちゃ可厭よ。沢山(たんと)あると可いけれど、大(おおき)な銀貨(五十銭)が三個(みッつ)だけだわ。
 先(せん)の紙入の時は、お紙幣(さつ)が……そうねえ……あの、四円ばかりあったのに、この間落してねえ。」
 と驚いたような顔をして、
「どうしようかと思ったの。だからちっとばかしだけれど、小母さん怒らないで取っといて下さいな。」
 小芳が吃驚(びっくり)したらしい顔を、お蔦は振上げた目で屹(きっ)と見て、
「ああ、先生のお嬢さん。……とも……かくも……頂戴おしよ、姉さん、」
「お礼を申上げます。」
 と作法正しく、手を支(つ)いたが、柳の髪の品の佳(よ)さ。頭(つむり)も得(え)上げず、声が曇って、
「どうぞ、此金(これ)で、苦界(くがい)が抜けられますように。」
 その時お蔦も、いもと仮名書の包みを開けて、元気よく発奮(はず)んだ調子で、
「おお、半襟を……姉さん、江戸紫の。」
「主税さんが好な色よ。」
 と喜ばれたのを嬉しげに、はじめて膝を横にずらして、蒲団にお妙が袖をかけた。
「姉さん、」
 と、お蔦は俯向(うつむ)いた小芳を起して、膝突合わせて居直ったが、頬を薄蒼う染(そむ)るまでその半襟を咽喉(のど)に当てて、頤(おとがい)深く熟(じっ)と圧(おさ)えた、浴衣に映る紫栄えて、血を吐く胸の美しさよ。
「私が死んだら、姉さん、経帷子(きょうかたびら)も何にも要らない、お嬢さんに頂いた、この半襟を掛けさしておくれよ、頼んだよ。」
 と云う下から、桔梗(ききょう)を走る露に似て、玉か、はらはらと襟を走る。
「ええ、お前さん、そんな、まあ、拗(す)ねたような事をお言いでない。お嬢さんのお志、私、私なんざ、今頂いた御祝儀を資本(もとで)にして、銀行を建てるんです。そして借金を返してね、綺麗に芸者を止すんだよ。」
 と串戯(じょうだん)らしく言いながら、果敢(はか)ないお蔦の姿につけ、情(なさけ)にもろく崩折(くずお)れつつ、お妙を中に面(おもて)を背けて、紛らす煙草の煙も無かった。
 小芳の心中、ともかくも、お蔦の頼み少ない風情は、お妙にも見て取られて、睫毛(まつげ)を幽(かすか)に振わしつつ、
「お医者には懸っているの。」
「いいえ、私もその意見をしていた処でござんすよ。お医者様にもろくに診(み)て貰わないで、薬も嫌いで飲まないんですもの、貴女からもそう云ってやって下さいましな。」
 と、はじめて煙草盆から一服吸って、小芳はお妙の声を聞くのを、楽しそうに待つ顔色(かおつき)。

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