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女客(おんなきゃく)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-22 12:13:45  点击:  切换到繁體中文


 その阿母おふくろが、そうやって、お米は? ッて尋ねると、晩まであるよ、とお言いなさる。
 翌日あすのが無いと言われるより、どんなに辛かったか知れません。お民さん。」
 と呼びかけて、もとより答を待つにあらず。
「もう、その度にね、私はね、腰かけた足も、足駄の上で、何だって、こう脊が高いだろう、と土間へ、へたへたとすわりたかった。」
「まあ、貴下あなた、大抵じゃなかったのねえ。」
 フトその時、火鉢のふちで指が触れた。右のかいなはつけ元まで、二人は、はっと熱かったが、思わず言い合わせたかのごとく、鉄瓶に当って見た。左の手は、ひやりとした。
「謹さん、わかしましょうかね。」とかろくいう。
「すっかり忘れていた、お庇さまで火もよく起ったのに。」
「お湯があるかしら。」
 と引っ立てて、ふたを取って、あかりの方に傾けながら、
「貴下。ちょいと、その水差しを。お道具は揃ったけれど、何だかこの二階の工合が下宿のようじゃありませんか。」

       四

「それでもね、」
 とあるじは若々しいものいいで、
「お民さんが来てから、何となく勝手が違って、ちょっと他所よそから帰って来ても、何だか自分の内のようじゃないんですよ。」
「あら、」
 とてすずしい目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはり、鉄瓶の下に両手を揃えて、真直まっすぐに当りながら、
「そんな事を言うもんじゃありません。外へといっては、それこそ田舎の芝居一つ、めったに見に出た事もないのに、はるばる一人旅でいに来たんじゃありませんか、ひどいよ、謹さんは。」
 と美しく打怨うちえんずる。
「飛んだ事を、ははは。」
 とあるじも火にかざして、
「そんな気でいった、内らしくないではない、その下宿屋らしくないと言ったんですよ。」
「ですからね、早くおもらいなさいまし、悪いことはいいません。どんなに気がついても、しんせつでも、女中じゃ推切おしきって、何かすることが出来ませんからね、どうしても手が届かないがちになるんです。伯母さんも、もう今じゃ、蚊帳よりお嫁がほしいんですよ。」
 あるじは、きっかぶりった。
「いいえ、よします。」
「なぜですね、謹さん。」と見上げた目に、あえてうたがいの色はなく、別に心あって映ったのであった。
「なぜというと議論になります。ただね、私は欲くないんです。
 こういえば、理窟もつけよう、またどうこうというけれどね、年よりのためにも他人のまじらない方が気楽でいかも知れません。お民さん、貴女あなたがこうやって遊びに来てくれたって、知らない婦人おんなが居ようより、阿母おふくろと私ばかりの方が、御馳走ごちそうは届かないにした処で、水入らずで、気が置けなくって可いじゃありませんか。」
「だって、謹さん、私がこうして居いいために、一生貴方あなた、奥さんを持たないでいられますか。それも、五年と十年と、このままで居たいたって、こちらに居られます身体からだじゃなし、もう二週間の上になったって、五日目ぐらいから、やいやい帰れって、言って来て、三度めに来た手紙なんぞの様子じゃ、良人やどの方の親類が、ああの、こうのって、面倒だから、それにつけても早々帰れじゃありませんか。また貴下あなたを置いて、ほかに私の身についた縁者といってはないんですからね。どうせ帰れば近所近辺、一門一類が寄ってたかって、」
 と婀娜あだに唇の端を上げると、ひそめた眉をかすめて落ちた、びんの毛を、じれったそうに、うしろへ投げて掻上かきあげつつ、
「この髪を※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)むしりたくなるような思いをさせられるにきまってるけれど、東京へ来たら、生意気らしい、気の大きくなった上、二寸切られるつもりになって、度胸をめて、伯母さんには内証ないしょですがね、これでも自分であきれるほど、了簡りょうけんすわっていますけれど、だってそうは御厄介になっても居られませんもの。」
「いつまでも居て下さいよ。もう、私は、女房なんぞ持とうより、貴女に遊んでいてもらう方が、どんなにいから知れやしない。」
 と我儘わがままらしく熱心に言った。
 お民はことばを途切らしつ、鉄瓶はややに出づる。
「謹さん、」
「ええ、」
 お民はをのみ、
「ほんとうですか。」
「ほんとうですとも、まったくですよ。」
「ほんとうに、謹さん。」
「お民さんは、嘘だと思って。」
「じゃもういっそ。」
 とはげしく火箸ひばしを灰について、
「帰らないでおきましょうか。」

       五

 我を忘れてお民は一気に、思い切っていいかけた、ことばの下に、あわれ水ならぬ灰にさえ、かず書くよりも果敢はかなげに、しょんぼり肩を落したが、急にさみしい笑顔を上げた。
「ほほほほほ、その気で沢山たんと御馳走をして下さいまし。お茶ばかりじゃ私はいや。」
 といううち涙さしぐみぬ。
「謹さん、」
 というも曇り声に、
「も、貴下あなた、どうして、そんなに、やさしくいって下さるんですよ。こうした私じゃありませんか。」
貴女あなたでなくッて、お民さん、貴女は大恩人なんだもの。」
「ええ? 恩人ですって、私が。」
「貴女が、」
「まあ! 誰方どなたのねえ?」
「私のですとも。」
「どうして、謹さん、私はこんなぞんざいだし、もう十七の年に、何にも知らないで児持こもちになったんですもの。ろく小袖こそで一つ仕立って上げた事はなく、貴下が一生の大切だいじだった、そのお米のなかった時も、煙草たばこも買ってあげないでさ。
 後で聞いて口惜くやしくって、今でもうらんでいるけれど、内証の苦しい事ったら、ちっとも伯母さんは聞かして下さらないし、あなたの御容子ごようすでも分りそうなものだったのに、私が気がつかないからでしょうけれど、いつお目にかかっても、元気よく、いきいきしてねえ、まったくですよ、今なんぞより、やつれてないで、もっと顔色もかったもの……」
「それです、それですよ、お民さん。その顔色の可かったのも、元気よく活々いきいきしていたのだって、貴女、貴女のそばに居る時のほかに、そうした事を見た事はありますまい。
 私はもう、影法師が死神に見えた時でも、貴女に逢えば、元気が出て、心が活々したんです。それだから貴女はついぞ、ふさいだ、陰気な、私の屈託顔を見た事はないんです。
 ねえ。
 先刻さっきもいう通り、私の死んでしまった方が阿母おふくろのために都合よく、人が世話をしようと思ったほどで、またそれに違いはなかったんですもの。
 実際私は、貴女のためにきていたんだ。
 そして、お民さん。」
 あるじが落着いてしずかにいうのを、お民は激しく聞くのであろう、潔白なるそのかんばせに、湧上わきのぼるごとき血汐ちしおの色。
切迫詰せっぱつまって、いざ、と首の座に押直る時には、たとい場処ところが離れていても、きっと貴女の姿が来て、私を助けてくれるッて事を、堅くね、心の底に、たしかに信仰していたんだね。
 まあ、お民さんとこ夜更よふかしして、じゃ、おやすみってお宅を出る。遅い時は寝衣ねまきのなりで、寒いのもいとわないで、貴女が自分で送って下さる。
 かどを出ると、あの曲角あたりまで、貴女、その寝衣のままで、やみの中まで見送ってくれたでしょう。小児こどもが奥で泣いている時でも、雨が降っている時でも、ずッと背中まで外へ出して。
 私はまた、曲り角で、きっと、そっ立停たちどまって、しばらくって、カタリとくるるのおりるのを聞いたんです。
 その、帰りみちに、濠端ほりばたを通るんです。枢は下りて、貴女の寝た事は知りながら、今にも濠へ、飛込もうとして、この片足ががけをはずれる、背後うしろでしっかりと引き留めて、何をするの、謹さん、と貴女がきっというとたしかに思った。
 ですから、死のうと思い、助かりたい、と考えながら、そんな、いやな、恐ろしい濠端を通ったのも、枢をおろして寝なすった、貴女が必ず助けてくれると、それを力にしたんです。おかげで活きていたんですもの、恩人でなくッてさ、貴女は命の親なんですよ。」
 とただ懐かしげに嬉しそうにいう顔を、じっと見る見る、ものをもいわず、お民ははらはらと、薄曇るともしびの前に落涙した。
「お民さん、」
「謹さん、」
 とばかり歯をカチリと、きあえぬ涙をみ留めつつ、
「口についていうようでおかしいんですが、私もやっぱり。貴下は、もう、今じゃこんなにおなりですから、私は要らなくなったでしょうが、私は今も、今だって、その時分から、何ですよ、おんなじなんです、謹さん。よくにも、我慢にも、厭で厭で、厭で厭で死にたくなる時がありますとね、そうすると、貴下が来て、お留めなさると思ってね、それを便りにしていますよ。
 まあ、同じようで不思議だから、これから別れて帰りましたら、私もまた、月夜にお濠端を歩行あるきましょう。そして貴下、謹さんのお姿が、そこへ出るのを見ましょうよ。」
 と差俯向さしうつむいた肩が震えた。
 あるじは、思わず、火鉢なりに擦り寄って、
「飛んだ事を、串戯じょうだんじゃありません、そ、そ、そんな事をいって、ゆずる(小児の名)さんをどうします。」
「だって、だって、貴下がその年、その思いをしているのに、私はあのこしらえました。そんな、そんな児を構うものか。」
 とすねたように鋭くいったが、露をたたえた花片はなびらを、湯気やなぶると、えみを湛え、
「ようござんすよ。私はお濠をたのしみにしますから。でも、こんなじゃ、私の影じゃ、すごい死神ならいけれど、大方いたちにでも見えるでしょう。」
 と投げたように、片身を畳に、つまも乱れて崩折くずおれた。
 あるじは、ひたと寄せて、おさえるように、てた女の手を取って、
「お民さん。」
「…………」
「国へ、国へ帰しやしないから。」
「あれ、お待ちなさい伯母さんが。」
「どうした、どうしたよ。」
 という母の声、下に聞えて、わっとばかり、その譲という児が。
うるさいねえ!ちょいと、見て来ますからね、謹さん。」
 とはらりと立って、はぎ白き、敷居際の立姿。やがてトントンと階下したへ下りたが、泣きまぬ譲を横抱きに、しばらくして品のいい、母親のなりで座に返った。燈火の陰に胸の色、雪のごとく清らかに、譲はちゅうちゅうと乳を吸って、片手ですがって泣いじゃくる。
 あるじは、きちんとすわり直って、
「どうしたの、ひどおびえたようだっけ。」
「夢を見たかい、坊や、どうしたのだねえ。」
 とほおに顔をかさぬれば、を含みつつ、愛らしい、大きな目をくるくるとやって、
「鼬が、阿母おっかさん。」
「ええ、」
 二人は顔を見合わせた。
 あるじは、居寄って顔をのぞき、ことさらに打笑い、
「何、内へ鼬なんぞ出るものか。坊や、鼠の音を聞いたんだろう。」
 小児こどもはなお含んだまま、いたいけに捻向ねじむいて、
「ううむ、内じゃないの。おほりとこで、長い尻尾で、あの、目が光って、わたい、私をにらんで、こわかったの。」
 と、くるりと向いて、ひったり母親のその柔かな胸に額をうずめた。
 また顔を見合わせたが、今はその色も変らなかった。
「おお、そうかい、夢なんですよ。」
「恐かったな、恐かったな、坊や。」
「恐かったね。」
 からからと格子が開いて、
「どうも、おそなわりました。」と勝手でいって、女中が帰る。
「さあ、御馳走だよ。」
 とと立ったが、早急さっきゅうだったのと、抱いた重量おもみで、もすそを前に、よろよろと、お民は、よろけながら段階子だんばしご
「謹さん。」
「…………」
翌朝あしたのお米は?」
 と艶麗はでやか莞爾にっこりして、
「早く、奥さんを持って下さいよ。ああ、女中さん御苦労でした。」
 と下を向いて高く言った。
 その時ふすまの開く音がして、
「おそなわりました、御新造様ごしんぞさま。」
 お民は答えず、ほと吐息。円髷まげつややかに二三段、片頬かたほを見せて、差覗さしのぞいて、
「ここは閉めないできますよ。」

明治三十八(一九〇五)年六月




 



底本:「泉鏡花集成4」ちくま文庫、筑摩書房
   1995(平成7)年10月24日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第九巻」岩波書店
   1942(昭和17)年3月30日第1刷発行
入力:門田裕志
校正:今井忠夫
2003年8月31日作成
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