十
その間に、お君は縁側に腰をかけて、裾を捻るようにして懐がみで足を拭って、下駄を、謙造のも一所に拭いて、それから穿直して、外へ出て、広々とした山の上の、小さな手水鉢で手を洗って、これは手巾で拭って、裾をおろして、一つ揺直して、下褄を掻込んで、本堂へ立向って、ト頭を下げたところ。
「こちらへお入り、」
と、謙造が休息所で声をかける。
お君がそっと歩行いて行くと、六畳の真中に腕組をして坐っていたが、
「まあお坐んなさい。」
と傍へ坐らせて、お君が、ちゃんと膝をついた拍子に、何と思ったか、ずいと立ってそこらを見廻したが、横手のその窓に並んだ二段に釣った棚があって、火鉢燭台の類、新しい卒堵婆が二本ばかり。下へ突込んで、鼠の噛った穴から、白い切のはみ出した、中には白骨でもありそうな、薄気味の悪い古葛籠が一折。その中の棚に斜っかけに乗せてあった経机ではない小机の、脚を抉って満月を透したはいいが、雲のかかったように虫蝕のあとのある、塗ったか、古びか、真黒な、引出しのないのに目を着けると……
「有った、有った。」
と嬉しそうにつと寄って、両手でがさがさと引き出して、立直って持って出て、縁側を背後に、端然と坐った、お君のふっくりした衣紋つきの帯の処へ、中腰になって舁据えて置直すと、正面を避けて、お君と互違いに肩を並べたように、どっかと坐って、
「これだ。これがなかろうもんなら、わざわざ足弱を、暮方にはなるし、雨は降るし、こんな山の中へ連れて来て、申訳のない次第だ。
薄暗くってさっきからちょっと見つからないもんだから、これも見た目の幻だったのか、と大抵気を揉んだ事じゃない。
お君さん、」
と云って、無言ながら、懐しげなその美い、そして恍惚となっている顔を見て、
「その机だ。お君さん、あなたの母様の記念というのは、……
こういうわけだ。また恐がっちゃいけないよ。母様の事なんだから。
いいかい。
一昨日ね。私の両親の墓は、ついこの右の方の丘の松蔭にあるんだが、そこへ参詣をして、墳墓の土に、薫の良い、菫の花が咲いていたから、東京へ持って帰ろうと思って、三本ばかり摘んで、こぼれ松葉と一所に紙入の中へ入れて。それから、父親の居る時分、連立って阿母の墓参をすると、いつでも帰りがけには、この仁右衛門の堂へ寄って、世間話、お祖師様の一代記、時によると、軍談講釈、太平記を拾いよみに諳記でやるくらい話がおもしろい爺様だから、日が暮れるまで坐り込んで、提灯を借りて帰ることなんぞあった馴染だから、ここへ寄った。
いいお天気で、からりと日が照っていたから、この間中の湿気払いだと見えて、本堂も廊下も明っ放し……で誰も居ない。
座敷のここにこの机が出ていた。
机の向うに薄くこう婦人が一人、」
お君はさっと蒼くなる。
「一生懸命にお聞きよ。それが、あなたの母様だったんだから。
高髷を俯向けにして、雪のような頸脚が見えた。手をこうやって、何か書ものをしていたろう。紙はあったが、筆は持っていたか、そこまでは気がつかないが、現に、そこに、あなたとちょうど向い合せの処、」
正面の襖は暗くなった、破れた引手に、襖紙の裂けたのが、ばさりと動いた。お君は堅くなって真直に、そなたを見向いて、瞬もせぬのである。
「しっかりして、お聞き、恐くはないから、私が居るから、」と謙造は、自分もちょいと本堂の今は煙のように見える、白き戸帳を見かえりながら、
「私がそれを見て、ああ、肖たようなとぞっとした時、そっと顔を上げて、莞爾したのが、お向うのその※[#「姉」の正字、「女+のつくり」、322-6]さんだ、百人一首の挿画にそッくり。
はッと気がつくと、もう影も姿もなかった。
私は、思わず飛込んで、その襖を開けたよ。
がらん堂にして仁右衛門も居らず。懐しい人だけれども、そこに、と思うと、私もちと居なすった幻のあとへは、第一なまぐさを食う身体だし、もったいなくッて憚ったから、今、お君さん、お前が坐っているそこへ坐ってね、机に凭れて、」
と云う時、お君はその机にひたと顔をつけて、うつぶしになった。あらぬ俤とどめずや、机の上は煤だらけである。
「で、何となく、あの二階と軒とで、泣きなすった、その時の姿が、今さしむかいに見えるようで、私は自分の母親の事と一所に、しばらく人知れず泣いて、ようよう外へ出て、日を見て目を拭いた次第だった。翌晩、朝顔を踊った、お前さんを見たんだよ。目前を去らない娘さんにそっくりじゃないか。そんな話だから、酒の席では言わなかったが、私はね、さっきお前さんがお出での時、女中が取次いで、女の方だと云った、それにさえ、ぞっとしたくらい、まざまざとここで見たんだよ。
しかしその机は、昔からここにある見覚えのある、庚申堂はじまりからの附道具で、何もあなたの母様の使っておいでなすったのを、堂へ納めたというんじゃない。
それがまたどうして、ここで幻を見たろうと思うと……こうなんだ。
私の母親の亡くなったのは、あなたの母親より、二年ばかり前だったろう。
新盆に、切籠を提げて、父親と連立って墓参に来たが、その白張の切籠は、ここへ来て、仁右衛門爺様に、アノ威張った髯題目、それから、志す仏の戒名、進上から、供養の主、先祖代々の精霊と、一個一個に書いて貰うのが例でね。
内ばかりじゃない、今でも盆にはそうだろうが、よその爺様婆様、切籠持参は皆そうするんだっけ。
その年はついにない、どうしたのか急病で、仁右衛門が呻いていました。
さあ、切籠が迷った、白張でうろうろする。
ト同じ燈籠を手に提げて、とき色の長襦袢の透いて見える、羅の涼しい形で、母娘連、あなたの祖母と二人連で、ここへ来なすったのが、※[#「姉」の正字、「女+のつくり」、324-7]さんだ。
やあ、占めた、と云うと、父親が遠慮なしに、お絹さん――あなた、母様の名は知っているかい。」
突俯したまま、すねたように頭を振った。
「お願だ、お願だ。精霊大まごつきのところ、お馴染の私が媽々の門札を願います、と燈籠を振廻わしたもんです。
母様は、町内評判の手かきだったからね、それに大勢居る処だし、祖母さんがまた、ちっと見せたい気もあったかして、書いてお上げなさいよ、と云ってくれたもんだから、扇を畳んで、お坐んなすったのが――その机です。
これは、祖父の何々院、これは婆さまの何々信女、そこで、これへ、媽々の戒名を、と父親が燈籠を出した時。
(母様のは、)と傍に畏った私を見て、
(謙ちゃんが書くんですよ、)
とそう云っておくんなすってね、その机の前へ坐らせて、」
と云う時、謙造は声が曇った。
「すらりと立って、背後から私の手を柔かく筆を持添えて……
おっかさん、と仮名で書かして下さる時、この襟へ、」
と、しっかりと腕を組んで、
「はらはらと涙を落しておくんなすった。
父親は墨をすりながら、伸上って、とその仮名を読んで……
おっかさん、」
いいかけて謙造は、ハッと位牌堂の方を振向いてぞっとした。自分の胸か、君子の声か、幽に、おっかさんと響いた。
ヒイと、堪えかねてか、泣く声して、薄暗がりを一つあおって、白い手が膝の上へばたりと来た。
突俯したお君が、胸の苦しさに悶えたのである。
その手を取って、
「それだもの、忘、忘れるもんか。その時の、幻が、ここに残って、私の目に見えたんだ。
ね、だからそれが記念なんだ。お君さん、母様の顔が見えたでしょう、見えたでしょう。一心におなんなさい、私がきっと請合う、きっと見える。可哀相に、名、名も知らんのか。」
と云って、ぶるぶると震える手を、しっかと取った。が、冷いので、あなやと驚き、膝を突かけ、背を抱くと、答えがないので、慌てて、引起して、横抱きに膝へ抱いた。
慌しい声に力を籠めつつ、
「しっかりおし、しっかりおし、」
と涙ながら、そのまま、じっと抱しめて、
「母様の顔は、※[#「姉」の正字、「女+のつくり」、326-15]さんの姿は、私の、謙造の胸にある!」
とじっと見詰めると、恍惚した雪のようなお君の顔の、美しく優しい眉のあたりを、ちらちらと蝶のように、紫の影が行交うと思うと、菫の薫がはっとして、やがて縋った手に力が入った。
お君の寂しく莞爾した時、寂寞とした位牌堂の中で、カタリと音。
目を上げて見ると、見渡す限り、山はその戸帳のような色になった。が、やや艶やかに見えたのは雨が晴れた薄月の影である。
遠くで梟が啼いた。
謙造は、その声に、額堂の絵を思出した、けれども、自分で頭をふって、斉しく莞爾した。
その時何となく机の向が、かわった。
襖がすらりとあいたようだから、振返えると、あらず、仁右衛門の居室は閉ったままで、ただほのかに見える散れ松葉のその模様が、懐しい百人一首の表紙に見えた。
(明治四十年一月)
●表記について
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- [#…]は、入力者による注を表す記号です。
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- この作品には、JIS X 0213にない、以下の文字が用いられています。(数字は、底本中の出現「ページ-行」数。)これらの文字は本文内では「※[#…]」の形で示しました。
「姉」の正字、「女+のつくり」 |
|
286-4、295-4、295-4、295-6、295-14、299-2、300-2、300-4、301-1、301-5、302-8、312-5、322-6、324-7、326-15 |
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