六
「その時は、艶々した丸髷に、浅葱絞りの手柄をかけていなすった。ト私が覗いた時、くるりと向うむきになって、格子戸へ顔をつけて、両袖でその白い顔を包んで、消えそうな後姿で、ふるえながら泣きなすったっけ。
桑の実の小母さん許へ、※[#「姉」の正字、「女+のつくり」、302-8]さんを連れて行ってお上げ、坊やは知ってるね、と云って、阿母は横抱に、しっかり私を胸へ抱いて、
こんな、お腹をして、可哀相に……と云うと、熱い珠が、はらはらと私の頸へ落ちた。」
と見ると手巾の尖を引啣えて、お君の肩はぶるぶると動いた。白歯の色も涙の露、音するばかり戦いて。
言を折られて、謙造は溜息した。
「あなた、もし、」
と涙声で、つと、腰を浮かして寄って、火鉢にかけた指の尖が、真白に震えながら、
「その百人一首も焼けてなくなったんでございますか。私、私は、お墓もどこだか存じません。」
と引出して目に当てた襦袢の袖の燃ゆる色も、紅寒き血に見える。
謙造は太息ついて、
「ああ、そうですか、じゃあ里に遣られなすったお娘なんですね。音信不通という風説だったが、そうですか。――いや、」
と言を改めて、
「二十年前の事が、今目の前に見えるようだ。お察し申します。
私も、その頃阿母に別れました。今じゃ父親も居らんのですが、しかしまあ、墓所を知っているだけでも、あなたより増かも知れん。
そうですか。」
また歎息して、
「お墓所もご存じない。」
「はい、何にも知りません。あなたは、よく私の両親の事をご存じでいらっしゃいます、せめて、その、その百人一首でも見とうござんすのにね。……」
と言も乱れて、
「墓の所をご存じではござんすまいか。」
「……困ったねえ。門徒宗でおあんなすったっけが、トばかりじゃ……」
と云い淀むと、堪りかねたか、蒲団の上へ、はっと突俯して泣くのであった。
謙造は目を瞑って腕組したが、おお、と小さく膝を叩いて、
「余りの事のお気の毒さ。肝心の事を忘れました。あなた、あなた、」
と二声に、引起された涙の顔。
「こっちへ来てご覧なさい。」
謙造は座を譲って、
「こっちへ来て、ここへ、」
と指さされた窓の許へ、お君は、夢中のように、つかつか出て、硝子窓の敷居に縋る。
謙造はひしと背後に附添い、
「松葉越に見えましょう。あの山は、それ茸狩だ、彼岸だ、二十六夜待だ、月見だ、と云って土地の人が遊山に行く。あなたも朝夕見ていましょう。あすこにね、私の親たちの墓があるんだが、その居まわりの回向堂に、あなたの阿母さんの記念がある。」
「ええ。」
「確にあります、一昨日も私が行って見て来たんだ。そこへこれからお伴をしよう、連れて行って上げましょう、すぐに、」
と云って勇んだ声で、
「お身体の都合は、」
その花やかな、寂しい姿をふと見つけた。
「しかし、それはどうとも都合が出来よう。」
「まあ、ほんとうでございますか。」
といそいそ裳を靡かしながら、なおその窓を見入ったまま、敷居の手を離さなかったが、謙造が、脱ぎ棄てた衣服にハヤ手をかけた時であった。
「あれえ」と云うと畳にばったり、膝を乱して真蒼になった。
窓を切った松の樹の横枝へ、お君の顔と正面に、山を背負って、むずと掴まった、大きな鳥の翼があった。狸のごとき眼の光、灰色の胸毛の逆立ったのさえ数えられる。
「梟だ。」
とからからと笑って、帯をぐるぐると巻きながら、
「山へ行くのに、そんなものに驚いちゃいかんよ。そう極ったら、急がないとまた客が来る。あなた支度をして。山の下まで車だ。」と口でも云えば、手も叩く、謙造の忙がしさ。その足許にも鳥が立とう。
七
「さっきの、さっきの、」
と微笑みながら、謙造は四辺をし、
「さっきのが……声だよ。お前さん、そう恐がっちゃいかん。一生懸命のところじゃないか。」
「あの、梟が鳴くんですかねえ。私はまた何でしょうと吃驚しましたわ。」
と、寄添いながら、お君も莞爾。
二人は麓から坂を一ツ、曲ってもう一ツ、それからここの天神の宮を、梢に仰ぐ、石段を三段、次第に上って来て、これから隧道のように薄暗い、山の狭間の森の中なる、額堂を抜けて、見晴しへ出て、もう一坂越して、草原を通ると頂上の広場になる。かしこの回向堂を志して、ここまで来ると、あんなに日当りで、車は母衣さえおろすほどだったのが、梅雨期のならい、石段の下の、太鼓橋が掛った、乾いた池の、葉ばかりの菖蒲がざっと鳴ると、上の森へ、雲がかかったと見るや、こらえずさっと降出したのに、ざっと一濡れ。石段を駆けて上って、境内にちらほらとある、青梅の中を、裳はらはらでお君が潜って。
さてこの額堂へ入って、一息ついたのである。
「暮れるには間があるだろうが、暗くなったもんだから、ここを一番と威すんだ。悪い梟さ。この森にゃ昔からたくさん居る。良い月夜なんぞに来ると、身体が蒼い後光がさすように薄ぼんやりした態で、樹の間にむらむら居る。
それをまた、腕白の強がりが、よく賭博なんぞして、わざとここまで来たもんだからね。梟は仔細ないが、弱るのはこの額堂にゃ、古から評判の、鬼、」
「ええ、」
とまた擦寄った。謙造は昔懐しさと、お伽話でもする気とで、うっかり言ったが、なるほどこれは、と心着いて、急いで言い続けて、
「鬼の額だよ、額が上っているんだよ。」
「どこにでございます。」
と何にか押向けられたように顔を向ける。
「何、何でもない、ただ絵なんだけれど、小児の時は恐かったよ、見ない方がよかろう。はははは、そうか、見ないとなお恐しい、気が済まない、とあとへ残るか、それその額さ。」
と指したのは、蜘蛛の囲の間にかかって、一面漆を塗ったように古い額の、胡粉が白くくっきりと残った、目隈の蒼ずんだ中に、一双虎のごとき眼の光、凸に爛々たる、一体の般若、被の外へ躍出でて、虚空へさっと撞木を楫、渦いた風に乗って、緋の袴の狂いが火焔のように飜ったのを、よくも見ないで、
「ああ。」と云うと、ひしと謙造の胸につけた、遠慮の眉は間をおいたが、前髪は衣紋について、襟の雪がほんのり薫ると、袖に縋った手にばかり、言い知らず力が籠った。
謙造は、その時はまださまでにも思わずに、
「母様の記念を見に行くんじゃないか、そんなに弱くっては仕方がない。」
と半ば励ます気で云った。
「いいえ、母様が活きていて下されば、なおこんな時は甘えますわ。」
と取縋っているだけに、思い切って、おさないものいい。
何となく身に染みて、
「私が居るから恐くはないよ。」
「ですから、こうやって、こうやって居れば恐くはないのでございます。」
思わず背に手をかけながら、謙造は仰いで額を見た。
雨の滴々しとしとと屋根を打って、森の暗さが廂を通し、翠が黒く染込む絵の、鬼女が投げたる被を背にかけ、わずかに烏帽子の頭を払って、太刀に手をかけ、腹巻したる体を斜めに、ハタと睨んだ勇士の面。
と顔を合わせて、フトその腕を解いた時。
小松に触る雨の音、ざらざらと騒がしく、番傘を低く翳し、高下駄に、濡地をしゃきしゃきと蹈んで、からずね二本、痩せたのを裾端折で、大股に歩行いて来て額堂へ、頂の方の入口から、のさりと入ったものがある。
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