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絵本の春(えほんのはる)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-22 12:09:23  点击:  切换到繁體中文


「……かし本。――ろくでもない事を覚えて、此奴こいつめが。こんな変な場処まで捜しまわるようでは、あすこ、ここ、町の本屋をあら方あらしたに違いない。道理こそ、おとっさんが大層な心配だ。……新坊、小母さんのひざそばへ。――気をはっきりとしないか。ええ、あんな裏土塀の壊れ木戸に、かしほんの貼札はりふだだ。……そんなものがあるものかよ。いまも現に、小母さんが、おや、新坊、何をしている、としばらくじっていたが、そんなはり紙はも影もなかったよ。――何だとえ?……昼間来て見ると何にもない。……日の暮から、夜へ掛けてよく見えると。――それ、それ、それ見な、これ、新坊。坊が立っていた、あの土塀の中は、もううちが壊れて草ばかりだ、誰も居ないんだ。荒庭に古いほこらが一つだけ残っている……」
 と言いかけて、ふとひとりうなずいた。
「こいつ、学校で、勉強盛りに、親がわるいと言うのを聞かずに、夢中になって、余り凝るから魔がした。ある事だ。……枝の形、草の影でも、かし本の字に見える。新坊や、可恐こわい処だ、あすこは可恐い処だよ。――聞きな。――おそろしくなって帰れなかったら、い、可い、小母さんが、町の坂まで、この川土手を送ってやろう。
 ――旧藩の頃にな、あの組屋敷に、忠義がった侍が居てな、御主人の難病は、巳巳巳巳みみみみ、巳の年月の揃った若い女の生肝いきぎもで治ると言って、――よくある事さ。いずれ、主人の方から、内証で入費は出たろうが、金子かねにあかして、その頃の事だから、人買の手から、その年月の揃ったという若い女を手に入れた。あろう事か、まないたはなかろうよ。雨戸に、その女を赤裸はだかかすがいで打ったとな。……これこれ、まあ、聞きな。……真白まっしろな腹をずぶずぶと刺いて開いた……待ちな、あの木戸に立掛けた戸は、その雨戸かも知れないよ。」
「う、う、う。」
 小僧は息を引くのであった。
むごたらしい話をするとお思いでない。――聞きな。さてとよ……生肝を取って、つぼに入れて、組屋敷の陪臣ばいしんは、行水、うがいに、身をきよめ、麻上下あさがみしもで、主人の邸へ持って行く。お傍医師そばいしゃが心得て、……これだけの薬だもの、念のため、生肝を、しょうのもので見せてからと、御前ごぜんで壺を開けるとな。……血肝ちぎもと思った真赤まっかなのが、糠袋ぬかぶくろよ、なあ。麝香入じゃこういりの匂袋ででもある事か――坊は知るまい、女の膚身はだみを湯で磨く……気取ったのはうぐいすのふんが入る、糠袋が、それでも、殊勝に、思わせぶりに、びしょびしょぶよぶよと濡れて出た。いずれ、身勝手な――やまいのために、女の生肝を取ろうとするような殿様だもの……またものは、帰って、腹をいたおんなの死体をあらためるひまもなしに、やあ、血みどれになって、まだ動いていまする、とおのが手足を、ばたばたと遣りながら、お目通めどおり庭前にわさきられたのさ。
 いまのほこらは……だけれど、その以前からあったというが、そのあとの邸だよ。もっとも、幾たびも代は替った。
 ――余りな話と思おうけれど、昔ばかりではないのだよ。現に、小母さんが覚えた、……ここへ一昨年おととし越して来た当座、――夏の、しらしらあけの事だ。――あの土塀の処に人だかりがあって、がやがや騒ぐので行ってみた。若い男が倒れていてな、……川向うの新地帰りで、――小母さんもちょっと見知っている、ちとたりないほどの色男なんだ――それが……医師いしゃも駆附けて、身体からだしらべると、あんぐり開けた、口一杯に、紅絹もみの糠袋……」
「…………」
「糠袋を頬張ほおばって、それが咽喉のどつまって、息がふさがって死んだのだ。どうやら手が届いて息を吹いたが。……あとで聞くと、月夜にこの小路へ入る、美しいお嬢さんの、湯上りのあとをつけて、そして、何だよ、無理に、何、あの、何の真似だか知らないが、お嬢さんの舌をな。」
 と、小母さんは白い顔して、ぺろりとその真紅まっかな舌。
 小僧は太い白蛇に、頭からめられた。
「その舌だと思ったのが、咽喉へつかえて気絶をしたんだ。……舌だと思ったのが、糠袋。」 
 とまた、ぺろりと見せた。
いやだ、小母さん。」
「大丈夫、私がついているんだもの。」
「そうじゃない。……小母さん、僕もね、あすこで、きれいなお嬢さんに本を借りたの。」
「あ。」
と円い膝に、み込むばかり手を据えた。
「もう、見たかい。……ええ、高島田で、紫色のものを着た、美しい、気高い……十八九の。……ああ、悪戯いたずらをするよ。」
 と言った。小母さんは、そのおばけを、魔を、鬼を、――ああ、悪戯をするよ、と独言ひとりごとして、その時はじめて真顔になった。

 私は今でもうつつながら不思議に思う。昼は見えない。逢魔おうまが時からはおぼろにもあらずしてわかる。が、夜の裏木戸は小児心こどもごころにも遠慮される。……かし本の紙ばかり、三日五日続けて見て立つと、その美しいお嬢さんが、他所よそから帰ったらしく、せなへ来て、手をとって、荒れた寂しい庭を誘って、そのほこらの扉を開けて、燈明の影に、絵で知ったよろいびつのような一具の中から、一冊の草双紙を。……
「――絵解えときをしてあげますか……(註。草双紙を、幼いものに見せて、母また姉などの、話して聞かせるのを絵解と言った。)――読めますか、仮名ばかり。」
「はい、読めます。」
「いい、おね。」
 きつね格子に、その半身、やがて、※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)ろうたけた顔がのぞいて、見送って消えた。

 その草双紙である。一冊は、夢中で我が家の、階子段はしごだんを、父に見せまいと、駆上る時に、――帰ったかと、声がかかって、ハッと思う、……懐中ふところに、どうしたかせて見えなくなった。ただ、内へ帰るのを待兼ねて、大通りの露店の灯影ともしびに、歩行あるきながら、ちらちらと見た、絵と、かながきの処は、――ここで小母さんの話した、――後のでない、前の巳巳巳の話であった。

 私は今でも、不思議に思う。そして面影も、姿も、川も、たそがれに油を敷いたように目に映る。……

 大正…年…月の中旬、大雨たいうの日のうまの時頃から、その大川に洪水した。――水がやわらかに綺麗で、ながれが優しく、瀬も荒れないというので、――昔の人の心であろう――名の上へ女をつけて呼んだ川には、不思議である。
 明治七年七月七日、大雨の降続いたその七日七晩めに、町のもう一つの大河が可恐おそろしい洪水した。七の数がかさなって、人死ひとじに夥多おびただしかった。伝説じみるが事実である。が、その時さえこの川は、常夏とこなつの花にべにの口をそそがせ、柳の影は黒髪を解かしたのであったに――
 もっとも、話の中の川堤かわづつみの松並木が、やがて柳になって、町の目貫めぬきへ続く処に、木造の大橋があったのを、この年、石にかけかえた。工事七分という処で、橋杭はしぐいが鼻の穴のようになったため水を驚かしたのであろうも知れない。
 僥倖さいわいに、白昼の出水だったから、男女に死人はない。二階家はそのままで、辛うじてしのいだが、平屋はほとんど濁流の瀬に洗われた。
 若い時から、諸所を漂泊さすらったはてに、その頃、やっと落着いて、川の裏小路に二階がりした小僧の叔母おばにあたる年寄としよりがある。
 水の出盛った二時半頃、裏むきの二階の肱掛窓ひじかけまどを開けて、立ちもやらず、坐りもあえず、あの峰へ、と山に向って、ひざを宙に水を見ると、肱の下なる、廂屋根ひさしやねの屋根板は、うろこのようにおののいて、――北国の習慣ならわしに、おしにのせた石の数々はわずかに水を出たかわらであった。
 つい目の前を、ああ、島田髷しまだまげが流れる……緋鹿子ひがのこきれが解けて浮いて、トちらりと見たのは、一条ひとすじ真赤まっかな蛇。手箱ほど部のかさなった、表紙に彩色絵さいしきえの草紙を巻いて――鼓の転がるように流れたのが、たちまち、べにしずくを挙げて、その並木の松の、就中なかんずく、山より高い、二三尺水を出た幹を、ひらひらと昇って、声するばかり、水にむせんだ葉に隠れた。――瞬く間である。――
 そこら、屋敷小路の、荒廃離落した低い崩土塀くずれどべいには、おおよそ何百年来、いかばかりの蛇が巣くっていたろう。まむしが多くて、水に浸った軒々では、その害を被ったものが少くない。

 高台の職人の屈竟くっきょうなのが、二人ずれ、翌日、水の引際を、炎天の下に、大川ぞいを見物して、ながれの末一里有余あまり、海へ出て、暑さに泳いだ豪傑がある。
 荒海の磯端いそばたで、肩を合わせて一息した時、息苦しいほど蒸暑いのに、ざあと風の通る音がして、思わず脊筋も悚然ぞっとした。……振返ると、白浜一面、早や乾いた蒸気いきれなかに、すきなく打った細いくいと見るばかり、幾百条とも知れない、おなじような蛇が、おなじようなさまして、おなじように、揃って一尺ほどずつ、砂の中から鎌首をもたげて、一斉に空を仰いだのであった。そのうねる時、歯か、鱗か、コツ、コツ、コツ、カタカタカタと鳴って響いた。――洪水に巻かれて落ちつつ、はじめてやわらかい地を知って、砂を穿うがってきたのであろう。
 きゃッ、と云うと、島が真中まんなかから裂けたように、二人の身体からだは、浜へも返さず、浪打際なみうちぎわをただつぶてのように左右へ飛んで、裸身はだかで逃げた。

大正十五(一九二六)年一月




 



底本:「泉鏡花集成8」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年5月23日第1刷発行
入力:本山智子
校正:門田裕志
2001年6月25日公開
2005年9月26日修正
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