十六
お三重は、そして、更めて二箇の老人に手を支いた。
「芸者でお呼び遊ばした、と思いますと……お役に立たず、極りが悪うございまして、お銚子を持ちますにも手が震えてなりません。下婢をお傍へお置き遊ばしたとお思いなさいまして、お休みになりますまでお使いなすって下さいまし。お背中を敲きましょう、な、どうぞな、お肩を揉まして下さいまし。それなら一生懸命にきっと精を出します。」
と惜気もなく、前髪を畳につくまで平伏した。三指づきの折かがみが、こんな中でも、打上る。
本を開いて、道中の絵をじろじろと黙って見ていた捻平が、重くるしい口を開けて、
「子孫末代よい意見じゃ、旅で芸者を呼ぶなぞは、のう、お互に以後謹もう……」と火箸に手を置く。
所在なさそうに半眼で、正面に臨風榜可小楼を仰ぎながら、程を忘れた巻莨、この時、口許へ火を吸って、慌てて灰へ抛って、弥次郎兵衛は一つ咽せた。
「ええ、いや、女中、……追って祝儀はする。ここでと思うが、その娘が気が詰ろうから、どこか小座敷へ休まして皆で饂飩でも食べてくれ。私が驕る。で、何か面白い話をして遊ばして、やがて可い時分に帰すが可い。」と冷くなった猪口を取って、寂しそうに衝と飲んだ。
女中は、これよりさき、支いて突立ったその三味線を、次の室の暗い方へ密と押遣って、がっくりと筋が萎えた風に、折重なるまで摺寄りながら、黙然りで、燈の影に水のごとく打揺ぐ、お三重の背中を擦っていた。
「島屋の亭が、そんな酷い事をしおるかえ。可いわ、内の御隠居にそう言うて、沙汰をして上げよう。心安う思うておいで、ほんにまあ、よう和女、顔へ疵もつけんの。」
と、かよわい腕を撫下ろす。
「ああ、それも売物じゃいうだけの斟酌に違いないな。……お客様に礼言いや。さ、そして、何かを話しがてら、御隠居の炬燵へおいで。切下髪に頭巾被って、ちょうどな、羊羹切って、茶を食べてや。
けども、」
とお三重の、その清らかな襟許から、優しい鬢毛を差覗くように、右瞻左瞻て、
「和女、因果やな、ほんとに、三味線は弾けぬかい。ペンともシャンとも。」
で、わざと慰めるように吻々と笑った。
人の情に溶けたと見える……氷る涙の玉を散らして、はっと泣いた声の下で、
「はい、願掛けをしましても、塩断ちまでしましたけれど、どうしても分りません、調子が一つ出来ません。性来でござんしょう。」
師走の闇夜に白梅の、面を蝋に照らされる。
「踊もかい。」
「は……い、」
「泣くな、弱虫、さあ一つ飲まんか! 元気をつけて。向後どこへか呼ばれた時は、怯えるなよ。気の持ちようでどうにもなる。ジャカジャカと引鳴らせ、糸瓜の皮で掻廻すだ。琴も胡弓も用はない。銅鑼鐃
を叩けさ。簫の笛をピイと遣れ、上手下手は誰にも分らぬ。それなら芸なしとは言われまい。踊が出来ずば体操だ。一、」
と左右へ、羽織の紐の断れるばかり大手を拡げ、寛濶な胸を反らすと、
「二よ。」と、庄屋殿が鉄砲二つ、ぬいと前へ突出いて、励ますごとく呵々と弥次郎兵衛、
「これ、その位な事は出来よう。いや、それも度胸だな。見た処、そのように気が弱くては、いかな事も遣つけられまい、可哀相に。」と声が掠れる。
「あの……私が、自分から、言います事は出来ません、お恥しいのでございますが、舞の真似が少しばかり立てますの、それもただ一ツだけ。」
と云う顔を俯向いて、恥かしそうにまた手を支く。
「舞えるかえ、舞えるのかえ。」
と女中は嬉しそうな声をして、
「おお、踊や言うで明かんのじゃ。舞えるのなら立っておくれ。このお座敷、遠慮は入らん。待ちなはれ、地が要ろう。これ喜野、あすこの広間へ行ってな、内の千がそう言うたて、誰でも弾けるのを借りて来やよ。」
とぽんとしていた小女の喜野が立とうとする、と、名告ったお千が、打傾いて、優しく口許をちょいと曲げて傾いて、
「待って、待って、」
十七
「いつもと違う。……一度軍隊へ行きなさると、日曜でのうては出られぬ、……お国のためやで、馴れぬ苦労もしなさんす。新兵さんの送別会や。女衆が大勢居ても、一人抜けてもお座敷が寂しくなるもの。
可いわ、旅の恥は掻棄てを反対なが、一泊りのお客さんの前、私が三味線を掻廻そう。お三重さん、立つのは何? 有るものか、無いものか言うも行過ぎた……有るものとて無いけれど、どうにか間に合わせたいものではある。」
「あら、姉さん。」
と、三味線取りに立とうとした、お千の膝を、袖で圧えて、ちとはなじろんだ、お三重の愛嬌。
「糸に合うなら踊ります。あのな、私のはな、お能の舞の真似なんです。」と、言いも果てず、お千の膝に顔を隠して、小父者と捻平に背向になった初々しさ。包ましやかな姿ながら、身を揉む姿の着崩れして、袖を離れて畳に長い、襦袢の袖は媚かしい。
「何、その舞を舞うのかい。」と弥次郎兵衛は一言云う。
捻平膝の本をばったり伏せて、
「さて、飲もう。手酌でよし。ここで舞なぞは願い下げじゃ。せめてお題目の太鼓にさっしゃい。ふあはははは、」となぜか皺枯れた高笑い、この時ばかり天井に哄と響いた。
「捻平さん、捻さん。」
「おお。」
と不性げにやっと応える。
「何も道中の話の種じゃ、ちょっと見物をしようと思うね。」
「まず、ご免じゃ。」
「さらば、其許は目を瞑るだ。」
「ええ、縁起の悪い事を言わさる。……明日にも江戸へ帰って、可愛い孫娘の顔を見るまでは、死んでもなかなか目は瞑らぬ。」
「さてさて捻るわ、ソレそこが捻平さね。勝手になされ。さあ、あの娘立ったり、この爺様に遠慮は入らぬぞ。それ、何にも芸がないと云うて肩腰をさすろうと卑下をする。どんな真似でも一つ遣れば、立派な芸者の面目が立つ。祝儀取るにも心持が可かろうから、是非見たい。が、しかし心のままにしなよ、決して勤を強いるじゃないぞ。」
「あんなに仰有って下さるもの。さあ、どんな事するのや知らんが、まずうても大事ない、大事ない、それ、支度は入らぬかい。」
「あい、」
とわずかに身を起すと、紫の襟を噛むように――ふっくりしたのが、あわれに窶れた――頤深く、恥かしそうに、内懐を覗いたが、膚身に着けたと思わるる、……胸やや白き衣紋を透かして、濃い紫の細い包、袱紗の縮緬が飜然と飜ると、燭台に照って、颯と輝く、銀の地の、ああ、白魚の指に重そうな、一本の舞扇。
晃然とあるのを押頂くよう、前髪を掛けて、扇をその、玉簪のごとく額に当てたを、そのまま折目高にきりきりと、月の出汐の波の影、静に照々と開くとともに、顔を隠して、反らした指のみ、両方親骨にちらりと白い。
また川口の汐加減、隣の広間の人動揺めきが颯と退く。
と見れば皎然たる銀の地に、黄金の雲を散らして、紺青の月、ただ一輪を描いたる、扇の影に声澄みて、
「――その時あま人申様、もしこのたまを取得たらば、この御子を世継の御位になしたまえと申しかば、子細あらじと領承したもう、さて我子ゆえに捨ん命、露ほども惜からじと、千尋のなわを腰につけ、もしこの玉をとり得たらば、このなわを動かすべし、その時人々ちからをそえ――」
と調子が緊って、
「……ひきあげたまえと約束し、一の利剣を抜持って、」
と扇をきりりと袖を直す、と手練ぞ見ゆる、自から、衣紋の位に年長けて、瞳を定めたその顔。硝子戸越に月さして、霜の川浪照添う俤。膝立据えた畳にも、燭台の花颯と流るる。
「ああ、待てい。」
と捻平、力の籠った声を掛けた。
十八
で、火鉢をずっと傍へ引いて、
「女中、もちっとこれへ火をおくれ。いや、立つに及ばん。その、鉄瓶をはずせば可し。」と捻平がいいつける。
この場合なり、何となく、お千も起居に身体が緊った。
静に炭火を移させながら、捻平は膝をずらすと、革鞄などは次の室へ……それだけ床の間に差置いた……車の上でも頸に掛けた風呂敷包を、重いもののように両手で柔かに取って、膝の上へ据えながら、お千の顔を除けて、火鉢の上へ片手を裏表かざしつつ、
「ああ、これ、お三重さんとか言うの、そのお娘、手を上げられい。さ、手を上げて、」
と言う。……お三重は利剣で立とうとしたのを、慌しく捻平に留められたので、この時まで、差開いたその舞扇が、唇の花に霞むまで、俯向いた顔をひたと額につけて、片手を畳に支いていた。こう捻平に声懸けられて、わずかに顔を振上げながら、きりきりと一まず閉じると、その扇を畳むに連れて、今まで、濶と瞳を張って見据えていた眼を、次第に塞いだ弥次郎兵衛は、ものも言わず、火鉢のふちに、ぶるぶると震う指を、と支えた態の、巻莨から、音もしないで、ほろほろと灰がこぼれる。
捻平座蒲団を一膝出て、
「いや、更めて、熟と、見せてもらおうじゃが、まずこっちへ寄らしゃれ。ええ、今の謡の、気組みと、その形。教えも教えた、さて、習いも習うたの。
こうまでこれを教うるものは、四国の果にも他にはあるまい。あらかた人は分ったが、それとなく音信も聞きたい。の、其許も黙って聞かっしゃい。」
と弥次が方に、捻平目遣いを一つして、
「まず、どうして、誰から、御身は習うたの。」
「はい、」
と弱々と返事した。お三重はもう、他愛なく娘になって、ほろりとして、
「あの、前刻も申しましたように、不器用も通越した、調子はずれ、その上覚えが悪うござんして、長唄の宵や待ちの三味線のテンもツンも分りません。この間まで居りました、山田の新町の姉さんが、朝と昼と、手隙な時は晩方も、日に三度ずつも、あの噛んで含めて、胸を割って刻込むように教えて下すったんでございますけれど、自分でも悲しい。……暁の、とだけ十日かかって、やっと真似だけ弾けますと、夢になってもう手が違い、心では思いながら、三の手が一へ滑って、とぼけたような音がします。
撥で咽喉を引裂かれ、煙管で胸を打たれたのも、糸を切った数より多い。
それも何も、邪険でするのではないのです。……私が、な、まだその前に、鳥羽の廓に居ました時、……」
「ああ、お前さんは、鳥羽のものかい、志摩だな。」
と弥次郎兵衛がフト聞入れた。
「いえ、私はな、やっぱりお伊勢なんですけれど、父さんが死くなりましてから、継母に売られて行きましたの。はじめに聞いた奉公とは嘘のように違います。――お客の言うことを聞かぬ言うて、陸で悪くば海で稼げって、崕の下の船着から、夜になると、男衆に捉えられて、小船に積まれて海へ出て、月があっても、島の蔭の暗い処を、危いなあ、ひやひやする、木の葉のように浮いて歩行いて、寂とした海の上で……悲しい唄を唄います。そしてお客の取れぬ時は、船頭衆の胸に響いて、女が恋しゅうなる禁厭じゃ、お茶挽いた罰、と云って、船から海へ、びしゃびしゃと追下ろして、汐の干た巌へ上げて、巌の裂目へ俯向けに口をつけさして、(こいし、こいし。)と呼ばせます。若い衆は舳に待ってて、声が切れると、栄螺の殻をぴしぴしと打着けますの。汐風が濡れて吹く、夏の夜でも寒いもの。……私のそれは、師走から、寒の中で、八百八島あると言う、どの島も皆白い。霜風が凍りついた、巌の角は針のような、あの、その上で、(こいし、こいし。)って、唇の、しびれるばかり泣いている。咽喉は裂け、舌は凍って、潮を浴びた裙から冷え通って、正体がなくなる処を、貝殻で引掻かれて、やっと船で正気が付くのは、灯もない、何の船やら、あの、まあ、鬼の支いた棒見るような帆柱の下から、皮の硬い大な手が出て、引掴んで抱込みます。
空には蒼い星ばかり、海の水は皆黒い。暗の夜の血の池に落ちたようで、ああ、生きているか……千鳥も鳴く、私も泣く。……お恥かしゅうござんす。」
と翳す扇の利剣に添えて、水のような袖をあて、顔を隠したその風情。人は声なくして、ただ、ちりちりと、蝋燭の涙白く散る。
この物語を聞く人々、いかに日和山の頂より、志摩の島々、海の凪、霞の池に鶴の舞う、あの、麗朗なる景色を見たるか。
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