十三
「なお聞けば、古市のはずれに、その惣市、小料理屋の店をして、妾の三人もある、大した勢だ、と言うだろう。――何を!……按摩の分際で、宗家の、宗の字、この道の、本山が凄じい。
こう、按摩さん、舞台の差は堪忍してくんな。」
と、竊と痛そうに胸を圧えた。
「後で、よく気がつけば、信州のお百姓は、東京の芝居なんぞ、ほんとの猪はないとて威張る。……な、宮重大根が日本一なら、蕪の千枚漬も皇国無双で、早く言えば、この桑名の、焼蛤も三都無類さ。
その気で居れば可いものを、二十四の前厄なり、若気の一図に苛々して、第一その宗山が気に入らない。(的等。)もぐっと癪に障れば、妾三人で赫とした。
維新以来の世がわりに、……一時私等の稼業がすたれて、夥間が食うに困ったと思え。弓矢取っては一万石、大名株の芸人が、イヤ楊枝を削る、かるめら焼を露店で売る。……蕎麦屋の出前持になるのもあり、現在私がその小父者などは、田舎の役場に小使いをして、濁り酒のかすに酔って、田圃の畝に寝たもんです。……
その妹だね、可いかい、私の阿母が、振袖の年頃を、困る処へ附込んで、小金を溜めた按摩めが、ちとばかりの貸を枷に、妾にしよう、と追い廻わす。――危く駒下駄を踏返して、駕籠でなくっちゃ見なかった隅田川へ落ちようとしたっさ。――その話にでも嫌いな按摩が。
ええ。
待て、見えない両眼で、汝が身の程を明く見るよう、療治を一つしてくりょう。
で、翌日は謹んで、参拝した。
その尊さに、その晩ばかりはちっとの酒で宵寝をした、叔父の夜具の裾を叩いて、枕許へ水を置き、
(女中、そこいらへ見物に、)
と言った心は、穴を圧えて、宗山を退治る料簡。
と出た、風が荒い。荒いがこの風、五十鈴川で劃られて、宇治橋の向うまでは吹くまいが、相の山の長坂を下から哄と吹上げる……これが悪く生温くって、灯の前じゃ砂が黄色い。月は雲の底に淀りしている。神路山の樹は蒼くても、二見の波は白かろう。酷い勢、ぱっと吹くので、たじたじとなる。帽子が飛ぶから、そのまま、藤屋が店へ投返した……と脊筋へ孕んで、坊さんが忍ぶように羽織の袖が飜々する。着換えるのも面倒で、昼間のなりで、神詣での紋付さ。――袖畳みに懐中へ捻込んで、何の洒落にか、手拭で頬被りをしたもんです。
門附になる前兆さ、状を見やがれ。」と片手を袖へ、二の腕深く突込んだ。片手で狙うように茶碗を圧えて、
「ね、古市へ行くと、まだ宵だのに寂然している。……軒が、がたぴしと鳴って、軒行燈がばッばッ揺れる。三味線の音もしたけれど、吹さらわれて大屋根へ猫の姿でけし飛ぶようさ。何の事はない、今夜のこの寂しい新地へ、風を持って来て、打着けたと思えば可い。
一軒、地のちと窪んだ処に、溝板から直ぐに竹の欄干になって、毛氈の端は刎上り、畳に赤い島が出来て、洋燈は油煙に燻ったが、真白に塗った姉さんが一人居る、空気銃、吹矢の店へ、ひょろりとして引掛ったね。
取着きに、肱を支いて、怪しく正面に眼の光る、悟った顔の達磨様と、女の顔とを、七分三分に狙いながら、
(この辺に宗山ッて按摩は居るかい。)とここで実は様子を聞く気さ。押懸けて行こうたってちっとも勝手が知れないから。
(先生様かね、いらっしゃります。)と何と、(的等。)の一人に、先生を、しかも、様づけに呼ぶだろう。
(実は、その人の何を、一つ、聞きたくって来たんだが、誰が行っても頼まれてくれるだろうか。)と尋ねると、大熨斗を書いた幕の影から、色の蒼い、鬢の乱れた、痩せた中年増が顔を出して、(知己のない、旅の方にはどうか知らぬ、お望なら、内から案内して上げましょうか。)と言う。
茶代を奮発んで、頼むと言った。
(案内して上げなはれ、可い旦那や、気を付けて、)と目配をする、……と雑作はない、その塗ったのが、いきなり、欄干を跨いで出る奴さ。」
十四
「両袖で口を塞いで、風の中を俯向いて行く。……その女の案内で、つい向う路地を入ると、どこも吹附けるから、戸を鎖したが、怪しげな行燈の煽って見える、ごたごたした両側の長屋の中に、溝板の広い、格子戸造りで、この一軒だけ二階屋。
軒に、御手軽御料理としたのが、宗山先生の住居だった。
(お客様。)と云う女の送りで、ずッと入る。直ぐそこの長火鉢を取巻いて、三人ばかり、変な女が、立膝やら、横坐りやら、猫板に頬杖やら、料理の方は隙らしい。……上框の正面が、取着きの狭い階子段です。
(座敷は二階かい、)と突然頬被を取って上ろうとすると、風立つので燈を置かない。真暗だからちょっと待って、と色めいてざわつき出す。とその拍子に風のなぐれで、奴等の上の釣洋燈がぱっと消えた。
そこへ、中仕切の障子が、次の室の燈にほのめいて、二枚見えた。真中へ、ぱっと映ったのが、大坊主の額の出た、唇の大い影法師。む、宗山め、居るな、と思うと、憎い事には……影法師の、その背中に掴まって、坊主を揉んでるのが華奢らしい島田髷で、この影は、濃く映った。
火燧々々、と女どもが云う内に、
(えへん)と咳を太くして、大な手で、灰吹を持上げたのが見えて、離れて煙管が映る。――もう一倍、その時図体が拡がったのは、袖を開いたらしい。此奴、寝ん寝子の広袖を着ている。
やっと台洋燈を点けて、
(お待遠でした、さあ、)
って二階へ。吹矢の店から送って来た女はと、中段からちょっと見ると、両膝をずしりと、そこに居た奴の背後へ火鉢を離れて、俯向いて坐った。
(あの娘で可いのかな、他にもござりますよって。)
と六畳の表座敷で低声で言うんだ。――ははあ、商売も大略分った、と思うと、其奴が
(お誂は。)
と大な声。
(あっさりしたものでちょっと一口。そこで……)
実は……御主人の按摩さんの、咽喉が一つ聞きたいのだ、と話した。
(咽喉?)……と其奴がね、異に蔑んだ笑い方をしたものです。
(先生様の……でござりますか、早速そう申しましょう。)
で、地獄の手曳め、急に衣紋繕いをして下りる。しばらくして上って来た年紀の少い十六七が、……こりゃどうした、よく言う口だが芥溜に水仙です、鶴です。帯も襟も唐縮緬じゃあるが、もみじのように美しい。結綿のふっくりしたのに、浅葱鹿の子の絞高な手柄を掛けた。やあ、三人あると云う、妾の一人か。おおん神の、お膝許で沙汰の限りな! 宗山坊主の背中を揉んでた島田髷の影らしい。惜しや、五十鈴川の星と澄んだその目許も、鯰の鰭で濁ろう、と可哀に思う。この娘が紫の袱紗に載せて、薄茶を持って来たんです。
いや、御本山の御見識、その咽喉を聞きに来たとなると……客にまず袴を穿かせる仕向をするな、真剣勝負面白い。で、こっちも勢、懐中から羽織を出して着直したんだね。
やがて、また持出した、杯というのが、朱塗に二見ヶ浦を金蒔絵した、杯台に構えたのは凄かろう。
(まず一ツ上って、こっちへ。)
と按摩の方から、この杯の指図をする。その工合が、謹んで聞け、といった、頗る権高なものさ。どかりとそこへ構え込んだ。その容子が膝も腹もずんぐりして、胴中ほど咽喉が太い。耳の傍から眉間へ掛けて、小蛇のように筋が畝くる。眉が薄く、鼻がひしゃげて、ソレその唇の厚い事、おまけに頬骨がギシと出て、歯を噛むとガチガチと鳴りそう。左の一眼べとりと盲い、右が白眼で、ぐるりと飜った、しかも一面、念入の黒痘瘡だ。
が、争われないのは、不具者の相格、肩つきばかりは、みじめらしくしょんぼりして、猪の熊入道もがっくり投首の抜衣紋で居たんだよ。」
十五
「いえな、何も私が意地悪を言うわけではないえ。」
と湊屋の女中、前垂の膝を堅くして――傍に柔かな髪の房りした島田の鬢を重そうに差俯向く……襟足白く冷たそうに、水紅色の羽二重の、無地の長襦袢の肩が辷って、寒げに脊筋の抜けるまで、嫋やかに、打悄れた、残んの嫁菜花の薄紫、浅葱のように目に淡い、藤色縮緬の二枚着で、姿の寂しい、二十ばかりの若い芸者を流盻に掛けつつ、
「このお座敷は貰うて上げるから、なあ和女、もうちゃっと内へお去にや。……島家の、あの三重さんやな、和女、お三重さん、お帰り!」
と屹と言う。
「お前さんがおいでやで、ようお客さんの御機嫌を取ってくれるであろうと、小女ばかり附けておいて、私が勝手へ立違うている中や、……勿体ない、お客たちの、お年寄なが気に入らぬか、近頃山田から来た言うて、こちの私の許を見くびったか、酌をせい、と仰有っても、浮々とした顔はせず……三味線聞こうとおっしゃれば、鼻の頭で笑うたげな。傍に居た喜野が見かねて、私の袖を引きに来た。
先刻から、ああ、こうと、口の酸くなるまで、機嫌を取るようにして、私が和女の調子を取って、よしこの一つ上方唄でも、どうぞ三味線の音をさしておくれ。お客様がお寂しげな、座敷が浮かぬ、お見やんせ、蝋燭の灯も白けると、頼むようにして聞かいても、知らぬ、知らぬ、と言通す。三味線は和女、禁物か。下手や言うて、知らぬ云うて、曲なりにもお座つき一つ弾けぬ芸妓がどこにある。
よう、思うてもお見。平の座敷か、そでないか。貴客がたのお人柄を見りゃ分るに、何で和女、勤める気や。私が済まぬ。さ、お立ち。ええ、私が箱を下げてやるから。」
と優しいのがツンと立って、襖際に横にした三味線を邪険に取って、衝と縦様に引立てる。
「ああれ。」
はっと裳を摺らして、取縋るように、女中の膝を竊と抱き、袖を引き、三味線を引留めた。お三重の姿は崩るるごとく、芍薬の花の散るに似て、
「堪忍して下さいまし、堪忍して、堪忍して、」と、呼吸の切れる声が湿んで、
「お客様にも、このお内へも、な、何で私が失礼しましょう。ほんとに、あの、ほんとに三味線は出来ませんもの、姉さん、」
と言が途絶えた。……
「今しがたも、な、他家のお座敷、隅の方に坐っていました。不断ではない、兵隊さんの送別会、大陽気に騒ぐのに、芸のないものは置かん、衣服を脱いで踊るんなら可、可厭なら下げると……私一人帰されて、主人の家へ戻りますと、直ぐに酷いめに逢いました、え。
三味線も弾けず、踊りも出来ぬ、座敷で衣物が脱げないなら、内で脱げ、引剥ぐと、な、帯も何も取られた上、台所で突伏せられて、引窓をわざと開けた、寒いお月様のさす影で、恥かしいなあ、柄杓で水を立続けて乳へも胸へもかけられましたの。
こちらから、あの、お座敷を掛けて下さいますと、どうでしょう、炬燵で温めた襦袢を着せて、東京のお客じゃそうなと、な、取って置きの着物を出して、よう勤めて帰れや言うて、御主人が手で、駒下駄まで出すんです。
勤めるたって、どうしましょう……踊は立って歩行くことも出来ませんし、三味線は、それが姉さん、手を当てれば誰にだって、音のせぬ事はないけれど、弾いて聞かせとおっしゃるもの、どうして私唄えます。……
不具でもないに情ない。調子が自分で出来ません。何をどうして、お座敷へ置いて頂けようと思いますと、気が怯けて気が怯けて、口も満足利けませんから、何が気に入らないで、失礼な顔をすると、お思い遊ばすのも無理はない、なあ。……
このお家へは、お台所で、洗い物のお手伝をいたします。姉さん、え、姉さん。」
と袖を擦って、一生懸命、うるんだ目許を見得もなく、仰向けになって女中の顔。……色が見る見る柔いで、突いて立った三味線の棹も撓みそうになった、と見ると、二人の客へ、向直った、ふっくりとある綾の帯の結目で、なおその女中の袂を圧えて。……
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