十
「そうさ、いかに伊勢の浜荻だって、按摩の箱屋というのはなかろう。私もなかろうと思うが、今向う側を何んとか屋の新妓とか云うのが、からんころんと通るのを、何心なく見送ると、あの、一軒おき二軒おきの、軒行燈では浅葱になり、月影では青くなって、薄い紫の座敷着で、褄を蹴出さず、ひっそりと、白い襟を俯向いて、足の運びも進まないように何んとなく悄れて行く。……その後から、鼠色の影法師。女の影なら月に地を這う筈だに、寒い道陸神が、のそのそと四五尺離れた処を、ずっと前方まで附添ったんだ。腰附、肩附、歩行く振、捏っちて附着けたような不恰好な天窓の工合、どう見ても按摩だね、盲人らしい、めんない千鳥よ。……私あ何んだ、だから、按摩が箱屋をすると云っちゃ可笑い、盲目になった箱屋かも知れないぜ。」
「どんな風の、どれな。」
と門へ出そうにする。
「いや、もう見えない。呼ばれた家へ入ったらしい。二人とも、ずっと前方で居なくなった。そうか。ああ、盲目の箱屋は居ねえのか。アまた殖えたぜ……影がさす、笛の音に影がさす、按摩の笛が降るようだ。この寒い月に積ったら、桑名の町は針の山になるだろう、堪らねえ。」
とぐいと呷って、
「ええ、ヤケに飲め、一杯どうだ、女房さん附合いねえ。御亭主は留守だが、明放しよ、……構うものか。それ向う三軒の屋根越に、雪坊主のような山の影が覗いてら。」
と門を振向き、あ、と叫んで、
「来た、来た、来た、来やあがった、来やあがった、按摩々々、按摩。」
と呼吸も吐かず、続けざまに急込んだ、自分の声に、町の中に、ぬい、と立って、杖を脚許へ斜交いに突張りながら、目を白く仰向いて、月に小鼻を照らされた流しの按摩が、呼ばれたものと心得て、そのまま凍附くように立留まったのも、門附はよく分らぬ状で、
「影か、影か、阿媽、ほんとの按摩か、影法師か。」
と激しく聞く。
「ほんとなら、どうおしる。貴下、そんなに按摩さんが恋しいかな。」
「恋しいよ! ああ、」
と呼吸を吐いて、見直して、眉を顰めながら、声高に笑った。
「ははははは、按摩にこがれてこの体さ。おお、按摩さん、按摩さん、さあ入ってくんねえ。」
門附は、撥を除けて、床几を叩いて、
「一つ頼もう。女房さん、済まないがちょいと借りるぜ。」
「この畳へ来て横におなりな。按摩さん、お客だす、あとを閉めておくんなさい。」
「へい。」
コトコトと杖の音。
「ええ……とんと早や、影法師も同然なもので。」と掠れ声を白く出して、黒いけんちゅう羊羹色の被布を着た、燈の影は、赤くその皺の中へさし込んだが、日和下駄から消えても失せず、片手を泳ぎ、片手で酒の香を嗅分けるように入った。
「聞えたか。」
とこの門附は、権のあるものいいで、五六本銚子の並んだ、膳をまた傍へずらす。
「へへへ」とちょっと鼻をすすって、ふん、とけなりそうに香を嗅ぐ。
「待ちこがれたもんだから、戸外を犬が走っても、按摩さんに見えたのさ。こう、悪く言うんじゃないぜ……そこへぬっくりと顕れたろう、酔っている、幻かと思った。」
「ほんに待兼ねていなさったえ。あの、笛の音ばかり気にしなさるので、私もどうやら解めなんだが、やっと分ったわな、何んともお待遠でござんしたの。」
「これは、おかみさま、御繁昌。」
「お客はお一人じゃ、ゆっくり療治してあげておくれ。それなりにお寝ったら、お泊め申そう。」
と言う。
按摩どの、けろりとして、
「ええ、その気で、念入りに一ツ、掴りましょうで。」と我が手を握って、拉ぐように、ぐいと揉んだ。
「へい、旦那。」
「旦那じゃねえ。ものもらいだ。」とまた呷る。
女房が竊と睨んで、
「滅相な、あの、言いなさる。」
十一
「いや、横になるどころじゃない、沢山だ、ここで沢山だよ。……第一背中へ掴まられて、一呼吸でも応えられるかどうだか、実はそれさえ覚束ない。悪くすると、そのまま目を眩して打倒れようも知れんのさ。体よく按摩さんに掴み殺されるといった形だ。」
と真顔で言う。
「飛んだ事をおっしゃりませ、田舎でも、これでも、長年年期を入れました杉山流のものでござります。鳩尾に鍼をお打たせになりましても、決して間違いのあるようなものではござりませぬ。」と呆れたように、按摩の剥く目は蒼かりけり。
「うまい、まずいを言うのじゃない。いつの幾日にも何時にも、洒落にもな、生れてからまだ一度も按摩さんの味を知らないんだよ。」
「まあ、あんなにあんた、こがれなさった癖に。」
「そりゃ、張って張って仕様がないから、目にちらつくほど待ったがね、いざ……となると初産です、灸の皮切も同じ事さ。どうにも勝手が分らない。痛いんだか、痒いんだか、風説に因ると擽ったいとね。多分私も擽ったかろうと思う。……ところがあいにく、母親が操正しく、これでも密夫の児じゃないそうで、その擽ったがりようこの上なし。……あれ、あんなあの、握飯を拵えるような手附をされる、とその手で揉まれるかと思ったばかりで、もう堪らなく擽ったい。どうも、ああ、こりゃ不可え。」
と脇腹へ両肱を、しっかりついて、掻竦むように脊筋を捻る。
「ははははは、これはどうも。」と按摩は手持不沙汰な風。
女房更めて顔を覗いて、
「何んと、まあ、可愛らしい。」
「同じ事を、可哀想だ、と言ってくんねえ。……そうかと言って、こう張っちゃ、身も皮も石になって固りそうな、背が詰って胸は裂ける……揉んでもらわなくては遣切れない。遣れ、構わない。」
と激しい声して、片膝を屹と立て、
「殺す気で蒐れ。こっちは覚悟だ、さあ。ときに女房さん、袖摺り合うのも他生の縁ッさ。旅空掛けてこうしたお世話を受けるのも前の世の何かだろう、何んだか、おなごりが惜いんです。掴殺されりゃそれきりだ、も一つ憚りだがついでおくれ、別れの杯になろうも知れん。」
と雫を切って、ついと出すと、他愛なさもあんまりな、目の色の変りよう、眦も屹となったれば、女房は気を打たれ、黙然でただ目を
る。
「さあ按摩さん。」
「ええ、」
「女房さん酌いどくれよ!」
「はあ、」と酌をする手がちと震えた。
この茶碗を、一息に仰ぎ干すと、按摩が手を掛けたのと一緒であった。
がたがたと身震いしたが、面は幸に紅潮して、
「ああ、腸へ沁透る!」
「何かその、何事か存じませぬが、按摩は大丈夫でござります。」と、これもおどつく。
「まず、」
と突張った手をぐたりと緩めて、
「生命に別条は無さそうだ、しかし、しかし応える。」
とがっくり俯向いたのが、ふらふらした。
「月は寒し、炎のようなその指が、火水となって骨に響く。胸は冷い、耳は熱い。肉は燃える、血は冷える。あっ、」と言って、両手を落した。
吃驚して按摩が手を引く、その嘴や鮹に似たり。
兄哥は、しっかり起直って、
「いや、手をやすめず遣ってくれ、あわれと思って静に……よしんば徐と揉まれた処で、私は五体が砕ける思いだ。
その思いをするのが可厭さに、いろいろに悩んだんだが、避ければ摺着く、過ぎれば引張る、逃げれば追う。形が無ければ声がする……ピイピイ笛は攻太鼓だ。こうひしひしと寄着かれちゃ、弱いものには我慢が出来ない。淵に臨んで、崕の上に瞰下ろして踏留まる胆玉のないものは、いっその思い、真逆に飛込みます。破れかぶれよ、按摩さん、従兄弟再従兄弟か、伯父甥か、親類なら、さあ、敵を取れ。私はね、……お仲間の按摩を一人殺しているんだ。」
十二
「今からちょうど三年前。……その年は、この月から一月後の師走の末に、名古屋へ用があって来た。ついでと言っては悪いけれど、稼の繰廻しがどうにか附いて、参宮が出来るというのも、お伊勢様の思召、冥加のほど難有い。ゆっくり古市に逗留して、それこそついでに、……浅熊山の雲も見よう、鼓ヶ嶽の調も聞こう。二見じゃ初日を拝んで、堺橋から、池の浦、沖の島で空が別れる、上郡から志摩へ入って、日和山を見物する。……海が凪いだら船を出して、伊良子ヶ崎の海鼠で飲もう、何でも五日六日は逗留というつもりで。……山田では尾上町の藤屋へ泊った。驚くべからず――まさかその時は私だって、浴衣に袷じゃ居やしない。
着換えに紋付の一枚も持った、縞で襲衣の若旦那さ。……ま、こう、雲助が傾城買の昔を語る……負惜みを言うのじゃないよ。何も自分の働きでそうした訳じゃないのだから。――聞きねえ、親なり、叔父なり、師匠なり、恩人なりという、……私が稼業じゃ江戸で一番、日本中の家元の大黒柱と云う、少兀の苦い面した阿父がある。
いや、その顔色に似合わない、気さくに巫山戯た江戸児でね。行年その時六十歳を、三つと刻んだはおかしいが、数え年のサバを算んで、私が代理に宿帳をつける時は、天地人とか何んとか言って、禅の問答をするように、指を三本、ひょいと出してギロリと睨む……五十七歳とかけと云うのさ。可いかね、その気だもの……旅籠屋の女中が出てお給仕をする前では、阿父さんが大の禁句さ。……与一兵衛じゃあるめえし、汝、定九郎のように呼ぶなえ、と唇を捻曲げて、叔父さんとも言わせねえ、兄さんと呼べ、との御意だね。
この叔父さんのお供だろう。道中の面白さ。酒はよし、景色はよし、日和は続く。どこへ行っても女はふらない。師走の山路に、嫁菜が盛りで、しかも大輪が咲いていた。
とこの桑名、四日市、亀山と、伊勢路へ掛った汽車の中から、おなじ切符のたれかれが――その催について名古屋へ行った、私たちの、まあ……興行か……その興行の風説をする。嘘にもどうやら、私の評判も可さそうな。叔父はもとより。……何事も言うには及ばん。――私が口で饒舌っては、流儀の恥になろうから、まあ、何某と言ったばかりで、世間は承知すると思って、聞きねえ。
ところがね、その私たちの事を言うついでに、この伊勢へ入ってから、きっと一所に出る、人の名がある。可いかい、山田の古市に惣市と云う按摩鍼だ。」
門附はその名を言う時、うっとりと瞳を据えた。背を抱くように背後に立った按摩にも、床几に近く裾を投げて、向うに腰を掛けた女房にも、目もくれず、凝と天井を仰ぎながら、胸前にかかる湯気を忘れたように手で捌いて、
「按摩だ、がその按摩が、旧はさる大名に仕えた士族の果で、聞きねえ。私等が流儀と、同じその道の芸の上手。江戸の宗家も、本山も、当国古市において、一人で兼ねたり、という勢で、自ら宗山と名告る天狗。高慢も高慢だが、また出来る事も出来る。……東京の本場から、誰も来て怯かされた。某も参って拉がれた。あれで一眼でも有ろうなら、三重県に居る代物ではない。今度名古屋へ来た連中もそうじゃ、贋物ではなかろうから、何も宗山に稽古をしてもらえとは言わぬけれど、鰻の他に、鯛がある、味を知って帰れば可いに。――と才発けた商人風のと、でっぷりした金の入歯の、土地の物持とも思われる奴の話したのが、風説の中でも耳に付いた。
叔父はこくこく坐睡をしていたっけ。私あ若気だ、襟巻で顔を隠して、睨むように二人を見たのよ、ね。
宿の藤屋へ着いてからも、わざと、叔父を一人で湯へ遣り……女中にもちょっと聞く。……挨拶に出た番頭にも、按摩の惣市、宗山と云う、これこれした芸人が居るか、と聞くと、誰の返事も同じ事。思ったよりは高名で、現に、この頃も藤屋に泊った、何某侯の御隠居の御召に因って、上下で座敷を勤た時、(さてもな、鼓ヶ嶽が近いせいか、これほどの松風は、東京でも聞けぬ、)と御賞美。
(的等にも聞かせたい。)と宗山が言われます、とちょろりと饒舌った。私が夥間を――(的等。)と言う。
的等の一人、かく言う私だ……」
上一页 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] 下一页 尾页