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歌行灯(うたあんどん)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-22 12:06:21  点击:1368  切换到繁體中文



       三

お月様がちょいと出て松の影、
 アラ、ドッコイショ、

 と沖の浪の月の中へ、さっと、ばちを投げたように、霜を切って、唄いてた。……饂飩屋うどんやかどに博多節を弾いたのは、転進てんじんをやや縦に、三味線さみせんの手を緩めると、撥を逆手さかてに、その柄ではじくようにして、ほんのりと、薄赤い、其屋そこの板障子をすらりと開けた。
「ご免なさいよ。」
 頬被ほおかむりの中のすずしい目が、かまから吹出す湯気のうちへすっきりと、出たのを一目、驚いた顔をしたのは、帳場の端に土間をまたいで、腰掛けながら、うっかり聞惚ききとれていた亭主で、紺の筒袖にめくらじま前垂まえだれがけ、草色の股引ももひきで、尻からげのなり、にょいと立って、
「出ないぜえ。」
 は、ずるいな。……案ずるに我が家の門附かどづけ聞徳ききどくに、いざ、その段になった処で、くだんの(出ないぜ。)をめてこまそ心積りを、唐突だしぬけに頬被を突込つッこまれて、大分狼狽うろたえたものらしい。もっとも居合わした客はなかった。
 門附は、澄まして、背後うしろじめに戸をてながら、三味線をはすにずっと入って、
「あい、親方は出ずともいのさ。私の方で入るのだから。……ねえ、女房おかみさん、そんなものじゃありませんかね。」
 とちと笑声が交って聞えた。
 女房は、これも現下いまの博多節に、うっかり気を取られて、釜前の湯気にもうとして立っていた。……浅葱あさぎたすき、白い腕を、部厚な釜のふたにちょっとせたが、丸髷まるまげをがっくりさした、色の白い、歯を染めた中年増ちゅうどしま。この途端にさっまぶたを赤うしたが、へッついの前を横ッちょに、かたかたと下駄の音で、亭主の膝を斜交はすっかいに、帳場の銭箱ぜにばこへがっちりと手を入れる。
「ああ、御心配には及びません。」
 と門附は物優しく、
串戯じょうだんだ、強請ゆするんじゃありません。こっちが客だよ、客なんですよ。」
 細長い土間の一方は、薄汚れた縦に六畳ばかりの市松畳、そこへ上れば坐れるのを、釜に近い、床几しょうぎいの上に、ト足を伸ばして、
「どうもね、寒くってたまらないから、一杯御馳走ごちそうになろうと思って。ええ、親方、決してその御迷惑を掛けるもんじゃありません。」
 で、優柔おとなしく頬被りを取った顔を、と見ると迷惑どころかい、目鼻立ちのきりりとした、細面ほそおもての、まぶたやつれは見えるけれども、目の清らかな、眉の濃い、二十八九の人品ひとがら兄哥あにいである。
「へへへへ、いや、どうもな、」
 と亭主は前へ出て、揉手もみでをしながら、
「しかし、このお天気続きで、まず結構でござりやすよ。」と何もない、すすけた天井を仰ぎ仰ぎ、帳場の上の神棚へ目をらす。
「お師匠さん、」
 女房前垂をちょっとでて、
「お銚子ちょうしでございますかい。」と莞爾にっこりする。
 門附は手拭の上へばちを置いて、腰へ三味線を小取廻ことりまわし、内端うちわに片膝を上げながら、床几の上に素足の胡坐あぐら
 トすそを一つ掻込かいこんで、
「早速一合、酒は良いのを。」
「ええ、もう飛切りのをおつけ申しますよ。」と女房は土間を横歩行よこあるき。左側の畳に据えた火鉢の中を、邪険に火箸ひばしほじって、かっと赤くなった処を、床几の門附へずいと寄せ、
「さあ、まあ、お当りなさりまし。」
難有ありがてえ、」
 と鉄拐てっかつま引挟ひッぱさんで、ほうと呼吸いきを一つ長くいた。
「世の中にゃ、こんな炭火があると思うと、里心が付いてなお寒い。たまらねえ。女房おかみさん、銚子をどうかね、ヤケという熱燗あつかんにしておくんなさい。ちっと飲んで、うんと酔おうという、卑劣な癖が付いてるんだ、お察しものですぜ、ええ、親方。」
「へへへ、おかた、それ極熱ごくあつじゃ。」
 女房は染めた前歯を美しく、
「あいあい。」

       四

「時に何かね、今此家ここの前を車が二台、旅の人を乗せて駈抜かけぬけたっけ、この町を、……」
 と干した猪口ちょくかどを指して、
「二三町行った処で、左側の、屋根の大きそうな家へ着けたのが、あおく月明りに見えたがね、……あすこは何かい、旅籠屋はたごやですか。」
湊屋みなとやでございまさ、なあ、」と女房が、釜の前から亭主を見向く。
「湊屋、湊屋、湊屋。この土地じゃ、まああすこ一軒でござりますよ。古い家じゃが名代なだいで。せんには大きな女郎屋じゃったのが、旅籠屋になったがな、部屋々々も昔風そのままなうちじゃに、奥座敷の欄干てすりの外が、海と一所の、いか揖斐いび川口かわぐちじゃ。白帆の船も通りますわ。すずきねる、ぼらは飛ぶ。とんと類のないおもむきのある家じゃ。ところが、時々崖裏の石垣から、かわうそ這込はいこんで、板廊下やかわやいたあかりを消して、悪戯いたずらをするげに言います。が、別に可恐おそろしい化方はしませぬで。こんな月の良い晩には、庭で鉢叩はちたたきをして見せる。……時雨しぐれた夜さりは、天保銭てんぽうせん一つ使賃で、豆腐を買いにくと言う。それも旅の衆の愛嬌あいきょうじゃ言うて、えらい評判のい旅籠屋ですがな、……お前様、この土地はまだ何も知りなさらんかい。」
「あい、昨夜ゆうべ初めてこっちへ流込んで来たばかりさ。一向方角も何も分らない。月夜もやみの烏さね。」
 と俯向うつむいて、一口。
「どれ延びない内、底を一つ温めよう、ったり! ほっ、」
 と言って、目をこすっておもてを背けた。
「利く、利く。……恐しい利く唐辛子だ。こう、親方の前だがね、ついこないだもこの手を食ったよ、料簡りょうけんが悪いのさ。何、上方筋の唐辛子だ、鬼灯ほおづきの皮が精々だろう。利くものか、と高をくくって、おあしは要らない薬味なり、どしこと丼へぶちまけて、松坂で飛上った。……また遣ったさ、色気は無えね、涙とよだれ一時いっときだ。」と手の甲で引擦ひっこする。
 女房が銚子のかわり目を、トてのひらかんを当った。
「お師匠さん、あんたは東のかたですなあ。」
「そうさ、うまれは東だが、身上しんしょうは北山さね。」と言う時、徳利の底を振って、垂々たらたら猪口ちょくへしたむ。
「で、お前様、湊屋へ泊んなさろうと言うのかな。」
 それだ、と門口で断らりょう、と亭主はその段含ませたそうな気の顔色かおつき
御串戯ごじょうだんもんですぜ、泊りは木賃きちんきまっていまさ。茣蓙ござかさ草鞋わらじが留守居。壁の破れた処から、鼠が首を長くして、私の帰るのを待っている。四五日はこの桑名へ御厄介になろうと思う。……上旅籠じょうはたごの湊屋で泊めてくれそうな御人品なら、御当家へ、一夜の御無心申したいね、どんなもんです、女房おかみさん。」
「こんなでよくば、泊めますわ。」
 と身軽に銚子を運んで寄る。と亭主驚いた眉を動かし、
「滅相な。」と帳場を背負しょって、立塞たちふさがるていに腰を掛けた。いや、この時まで、紺の鯉口こいぐちに手首をすくめて、案山子かかしのごとく立ったりける。
「はははは、お言葉には及びません、饂飩屋さんで泊めるものは、醤油おしたじの雨宿りか、鰹節かつおぶしの行者だろう。」
 と呵々からからと一人で笑った。
「お師匠さん、一つお酌さしておくんなさいまし。」と女房は市松の畳の端から、薄く腰を掛込んで、土間を切って、差向いに銚子を取った。
「飛んでもない事、お忙しいに。」
「いえな、内じゃ芸妓屋げいこやさんへ出前ばかりがおもですから、ごらんの通りゆっくりじゃえな。ほんにお師匠さんいお声ですな。なあ、良人あんた。」と、横顔で亭主を流眄ながしめ
「さよじゃ。」
 とばかりで、煙草たばこを、ぱっぱっ。
「なあ、今お聞かせやした、あの博多節を聞いたればな、……私ゃ、ほんに、身に染みて、ぶるぶると震えました。」

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