九
煙草盆、枕、火鉢、座蒲団も五六枚。
(これは物置だ。)と立花は心付いた。
はじめは押入と、しかしそれにしては居周囲が広く、破れてはいるが、筵か、畳か敷いてもあり、心持四畳半、五畳、六畳ばかりもありそうな。手入をしない囲なぞの荒れたのを、そのまま押入に遣っているのであろう、身を忍ぶのは誂えたようであるが。
(待て。)
案内をして、やがて三由屋の女中が、見えなくなるが疾いか、ものをいうよりはまず唇の戦くまで、不義ではあるが思う同士。目を見交したばかりで、かねて算した通り、一先ず姿を隠したが、心の闇より暗かった押入の中が、こう物色の出来得るは、さては目が馴れたせいであろう。
立花は、座敷を番頭の立去ったまで、半時ばかりを五六時間、待飽倦んでいるのであった。
(まず、可し。)
と襖に密と身を寄せたが、うかつに出らるる数でなし、言をかけらるる分でないから、そのまま呼吸を殺して彳むと、ややあって、はらはらと衣の音信。
目前へ路がついたように、座敷をよぎる留南奇の薫、ほの床しく身に染むと、彼方も思う男の人香に寄る蝶、処を違えず二枚の襖を、左の外、立花が立った前に近づき、
「立花さん。」
「…………」
「立花さん。」
襖の裏へ口をつけるばかりにして、
「可いんですか。」
「まだよ、まだ女中が来るッていうから少々、あなた、靴まで隠して来たんですか。」
表に夫人の打微笑む、目も眉も鮮麗に、人丈に暗の中に描かれて、黒髪の輪郭が、細く円髷を劃って明い。
立花も莞爾して、
「どうせ、騙すくらいならと思って、外套の下へ隠して来ました。」
「旨く行ったのね。」
「旨く行きましたね。」
「後で私を殺しても可いから、もうちと辛抱なさいよ。」
「お稲さん。」
「ええ。」となつかしい低声である。
「僕は大空腹。」
「どこかで食べて来た筈じゃないの。」
「どうして貴方に逢うまで、お飯が咽喉へ入るもんですか。」
「まあ……」
黙ってしばらくして、
「さあ。」
手を中へ差入れた、紙包を密と取って、その指が搦む、手と手を二人。
隔の襖は裏表、両方の肩で圧されて、すらすらと三寸ばかり、暗き柳と、曇れる花、淋しく顔を見合せた、トタンに跫音、続いて跫音、夫人は衝と退いて小さな咳。
さそくに後を犇と閉め、立花は掌に据えて、瞳を寄せると、軽く捻った懐紙、二隅へはたりと解けて、三ツ美く包んだのは、菓子である。
と見ると、白と紅なり。
「はてな。」
立花は思わず、膝をついて、天井を仰いだが、板か、壁か明かならず、低いか、高いか、定でないが、何となく暗夜の天まで、布一重隔つるものがないように思われたので、やや急心になって引寄せて、袖を見ると、着たままで隠れている、外套の色が仄に鼠。
菓子の色、紙の白きさえ、ソレかと見ゆるに、仰げば節穴かと思う明もなく、その上、座敷から、射し入るような、透間は些しもないのであるから、驚いて、ハタと夫人の賜物を落して、その手でじっと眼を蔽うた。
立花は目よりもまず気を判然と持とうと、両手で顔を蔽う内、まさに人道を破壊しようとする身であると心付いて、やにわに手を放して、その手で、胸を打って、がばと眼を開いた。
なぜなら、今そうやって跪いた体は、神に対し、仏に対して、ものを打念ずる時の姿勢であると思ったから。
あわれ、覚悟の前ながら、最早や神仏を礼拝し得べき立花ではないのである。
さて心がら鬼のごとき目をくと、余り強く面を圧していた、ためであろう、襖一重の座敷で、二人ばかりの女中と言葉を交わす夫人の声が、遠く聞えて、遥に且つ幽に、しかも細く、耳の端について、震えるよう。
それも心細く、その言う処を確めよう、先刻に老番頭と語るのをこの隠れ家で聞いたるごとく、自分の居処を安堵せんと欲して、立花は手を伸べて、心覚えの隔ての襖に触れて試た。
人の妻と、かかる術して忍び合うには、疾く我がためには、神なく、物なく、父なく、母なく、兄弟なく、名誉なく、生命のないことを悟っていたけれども、ただ世に里見夫人のあるを知って、神仏より、父より、母より、兄弟より、名誉より、生命よりは便にしたのであるが。
こはいかに掌は、徒に空を撫でた。
慌しく丁と目の前へ、一杯に十指を並べて、左右に暗を掻探ったが、遮るものは何にもない。
さては、暗の中に暗をかさねて目を塞いだため、脳に方角を失ったのであろうと、まず慰めながら、居直って、今まで前にしたと反対の側を、衝と今度は腕を差出すようにしたが、それも手ばかり。
はッと俯向き、両方へ、前後に肩を分けたけれども、ざらりと外套の袖の揺れたるのみ。
かっと逆上せて、堪らずぬっくり突立ったが、南無三物音が、とぎょッとした。
あッという声がして、女中が襖をと思うに似ず、寂莫として、ただ夫人のものいうと響くのが、ぶるぶると耳について、一筋ずつ髪の毛を伝うて動いて、人事不省ならんとする、瞬間に異ならず。
同時に真直に立った足許に、なめし皮の樺色の靴、宿を欺くため座敷を抜けて持って入ったのが、向うむきに揃っていたので、立花は頭から悚然とした。
靴が左から……ト一ツ留って、右がその後から……ト前へ越すと、左がちょい、右がちょい。
たとえば歩行の折から、爪尖を見た時と同じ状で、前途へ進行をはじめたので、呀と見る見る、二間三間。
十間、十五間、一町、半、二町、三町、彼方に隔るのが、どうして目に映るのかと、怪む、とあらず、歩を移すのは渠自身、すなわち立花であった。
茫然。
世に茫然という色があるなら、四辺の光景は正しくそれ。月もなく、日もなく、樹もなく、草もなく、路もない、雲に似て踏みごたえがあって、雪に似て冷からず、朧夜かと思えば暗く、東雲かと見れば陰々たる中に、煙草盆、枕、火鉢、炬燵櫓の形など左右、二列びに、不揃いに、沢庵の樽もあり、石臼もあり、俎板あり、灯のない行燈も三ツ四ツ、あたかも人のない道具市。
しかもその火鉢といわず、臼といわず、枕といわず、行燈といわず、一斉に絶えず微に揺いで、国が洪水に滅ぶる時、呼吸のあるは悉く死して、かかる者のみ漾う風情、ただソヨとの風もないのである。
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