五
「はッ。」
古市に名代の旅店、三由屋の老番頭、次の室の敷居際にぴたりと手をつき、
「はッ申上げまするでございまする。」
上段の十畳、一点の汚もない、月夜のような青畳、紫縮緬ふッくりとある蒲団に、あたかもその雲に乗ったるがごとく、菫の中から抜けたような、装を凝した貴夫人一人。さも旅疲の状見えて、鼠地の縮緬に、麻の葉鹿の子の下着の端、媚かしきまで膝を斜に、三枚襲で着痩せのした、撫肩の右を落して、前なる桐火桶の縁に、引つけた火箸に手をかけ、片手を細りと懐にした姿。衣紋の正しく、顔の気高きに似ず、見好げに過ぎて婀娜めくばかり。眉の鮮かさ、色の白さに、美しき血あり、清き肌ある女性とこそ見ゆれ、もしその黒髪の柳濃く、生際の颯と霞んだばかりであったら、画ける幻と誤るであろう。袖口、八口、裳を溢れて、ちらちらと燃ゆる友染の花の紅にも、絶えず、一叢の薄雲がかかって、淑ましげに、その美を擁護するかのごとくである。
岐阜県××町、――里見稲子、二十七、と宿帳に控えたが、あえて誌すまでもない、岐阜の病院の里見といえば、家族雇人一同神のごとくに崇拝する、かつて当家の主人が、難病を治した名医、且つ近頃三由屋が、株式で伊勢の津に設立した、銀行の株主であるから。
晩景、留守を預るこの老番頭にあてて、津に出張中の主人から、里見氏の令夫人参宮あり、丁寧に宿を参らすべき由、電信があったので、いかに多数の客があっても、必ず、一室を明けておく、内証の珍客のために控えの席へ迎え入れて、滞りなく既に夕餉を進めた。
されば夫人が座の傍、肩掛、頭巾などを引掛けた、衣桁の際には、萌黄の緞子の夏衾、高く、柔かに敷設けて、総附の塗枕、枕頭には蒔絵ものの煙草盆、鼻紙台も差置いた、上に香炉を飾って、呼鈴まで行届き、次の間の片隅には棚を飾って、略式ながら、薄茶の道具一通。火鉢には釜の声、遥に神路山の松に通い、五十鈴川の流に応じて、初夜も早や過ぎたる折から、ここの行燈とかしこのランプと、ただもう取交えるばかりの処。
「ええ、奥方様、あなた様にお客にござりまして。」
優しい声で、
「私に、」と品よく応じた。
「はッ、あなた様にお客来にござりまする。」
夫人はしとやかに、
「誰方だね、お名札は。」
「その儀にござりまする。お名札をと申しますと、生憎所持せぬ、とかようにおっしゃいまする、もっともな、あなた様お着が晩うござりましたで、かれこれ十二時。もう遅うござりますに因って、御一人旅の事ではありまするし、さようなお方は手前どもにおいでがないと申して断りましょうかとも存じましたなれども、たいせつなお客様、またどのような手落になりましても相成らぬ儀と、お伺いに罷出ましてござりまする。」
番頭は一大事のごとく、固くなって、御意を得ると、夫人は何事もない風情、
「まあ、何とおっしゃる方。」
「はッ立花様。」
「立花。」
「ええ、お少いお人柄な綺麗な方でおあんなさいまする。」
「そう。」と軽くいって、莞爾して、ちょっと膝を動かして、少し火桶を前へ押して、
「ずんずんいらっしゃれば可いのに、あの、お前さん、どうぞお通し下さい。」
「へい、宜しゅうござりますか。」
頤の長い顔をぼんやりと上げた、余り夫人の無雑作なのに、ちと気抜けの体で、立揚る膝が、がッくり、ひょろりと手をつき、苦笑をして、再び、
「はッ。」
六
やがて入交って女中が一人、今夜の忙しさに親類の娘が臨時手伝という、娘柄の好い、爪はずれの尋常なのが、
「御免遊ばしまし、あの、御支度はいかがでございます。」
夫人この時は、後毛のはらはらとかかった、江戸紫の襟に映る、雪のような項を此方に、背向に火桶に凭掛っていたが、軽く振向き、
「ああ、もう出来てるよ。」
「へい。」と、その意を得ない様子で、三指のまま頭を上げた。
事もなげに、
「床なんだろう。」
「いいえ、お支度でございますが。」
「御飯かい。」
「はい。」
「そりゃお前疾に済んだよ。」と此方も案外な風情、余の取込にもの忘れした、旅籠屋の混雑が、おかしそうに、莞爾する。
女中はまた遊ばれると思ったか、同じく笑い、
「奥様、あの唯今のお客様のでございます。」
「お客だい、誰も来やしないよ、お前。」と斜めに肩ごしに見遣たまま打棄ったようにもののすッきり。かえす言もなく、
「おや、おや。」と口の中、女中は極の悪そうに顔を赤らめながら、変な顔をして座中を
すと、誰も居ないで寂として、釜の湯がチンチン、途切れてはチンという。
手持不沙汰に、後退にヒョイと立って、ぼんやりとして襖がくれ、
「御免なさいまし。」と女中、立消えの体になる。
見送りもせず、夫人はちょいと根の高い円髷の鬢に手を障って、金蒔絵の鼈甲の櫛を抜くと、指環の宝玉きらりと動いて、後毛を掻撫でた。
廊下をばたばた、しとしとと畳ざわり。襖に半身を隠して老番頭、呆れ顔の長いのを、擡げるがごとく差出したが、急込んだ調子で、
「はッ。」
夫人は蒲団に居直り、薄い膝に両手をちゃんと、媚しいが威儀正しく、
「寝ますから、もうお構いでない、お取込の処を御厄介ねえ。」
「はッはッ。」
遠くから長廊下を駈けて来た呼吸づかい、番頭は口に手を当てて打咳き、
「ええ、混雑いたしまして、どうも、その実に行届きません、平に御勘弁下さいまして。」
「いいえ。」
「もし、あなた様、希有でござります。確かたった今、私が、こちらへお客人をお取次申しましてござりましてござりまするな。」
「そう、立花さんという方が見えたってお謂いだったよ。どうかしたの。」
「へい、そこで女どもをもちまして、お支度の儀を伺わせました処、誰方もお見えなさりませんそうでござりまして。」
「ああ、そう、誰もいらっしゃりやしませんよ。」
「はてな、もし。」
「何なの、お支度ッて、それじゃ、今着いた人なんですか、内に泊ってでもいて、宿帳で、私のいることを知ったというような訳ではなくッて?」
「何、もう御覧の通、こちらは中庭を一ツ、橋懸で隔てました、一室別段のお座敷でござりますから、さのみ騒々しゅうもございませんが、二百余りの客でござりますで、宵の内はまるで戦争、帳場の傍にも囲炉裡の際にも我勝で、なかなか足腰も伸びません位、野陣見るようでござりまする。とてもどうもこの上お客の出来る次第ではござりませんので、早く大戸を閉めました。帳場はどうせ徹夜でござりますが、十二時という時、腕車が留まって、門をお叩きなさいまする。」
上一页 [1] [2] [3] [4] [5] [6] 下一页 尾页