「しかし、土地にも因るだろうが、奥州の原か、飛騨の山で見た日には、気絶をしないじゃ済むまいけれど、伊勢というだけに、何しろ、電信柱に附着けた、ペンキ塗の広告まで、土佐絵を見るような心持のする国だから、赤い唐縮緬を着た姐さんでも、京人形ぐらいには美しく見える。こっちへ来るというので道中も余所とは違って、あの、長良川、揖斐川、木曾川の、どんよりと三条並んだ上を、晩方通ったが、水が油のようだから、汽車の音もしないまでに、鵲の橋を辷って銀河を渡ったと思った、それからというものは、夜に入ってこの伊勢路へかかるのが、何か、雲の上の国へでも入るようだったもの、どうして、あの人形に、心持を悪くしてなるものか。」
「これは、旦那様お世辞の可い、土地を賞められまして何より嬉しゅうござります。で何でござりまするか、一刻も早く御参詣を遊ばそう思召で、ここらまで乗切っていらっしゃいました?」
「そういうわけでもないが、伊勢音頭を見物するつもりもなく、古市より相の山、第一名が好いではないか、あいの山。」
客は何思いけん手を頬にあてて、片手で弱々と胸を抱いたが、
「お婆さん、昔から聞馴染の、お杉お玉というのは今でもあるのか。」
「それはござりますよ。ついこの前途をたらたらと上りました、道で申せばまず峠のような処に観世物の小屋がけになって、やっぱり紅白粉をつけましたのが、三味線でお鳥目を受けるのでござります、それよりは旦那様、前方に行って御覧じゃりまし、川原に立っておりますが、三十人、五十人、橋を通行のお方から、お銭の礫を投げて頂いて、手ン手に長棹の尖へ網を張りましたので、宙で受け留めまするが、秋口蜻蛉の飛びますようでござります。橋の袂には、女房達が、ずらりと大地に並びまして、一文二文に両換をいたします。さあ、この橋が宇治橋と申しまして、内宮様へ入口でござりまする。川は御存じの五十鈴川、山は神路山。その姿の優しいこと、気高いこと、尊いこと、清いこと、この水に向うて立ちますと、人膚が背後から皮を透して透いて見えます位、急にも流れず、淀みもしませず、浪の立つ、瀬というものもござりませぬから、色も、蒼くも見えず、白くも見えず、緑の淵にもなりませず、一様に、真の水色というのでござりましょ。
渡りますと、それから三千年の杉の森、神代から昼も薄暗い中を、ちらちらと流れまする五十鈴川を真中に、神路山が裹みまして、いつも静に、神風がここから吹きます、ここに白木造の尊いお宮がござりまする。」
四
「内宮でいらっしゃいます。」
婆々は掌を挙げて白髪の額に頂き、
「何事のおわしますかは知らねども、忝さに涙こぼるる、自然に頭が下りまする。お帰りには二見ヶ浦、これは申上げるまでもござりませぬ、五十鈴川の末、向うの岸、こっちの岸、枝の垂れた根上り松に纜いまして、そこへ参る船もござります。船頭たちがなぜ素袍を着て、立烏帽子を被っていないと思うような、尊い川もござりまする、女の曳きます俥もござります、ちょうど明日は旧の元日。初日の出、」
いいかけて急に膝を。
「おお、そういえば旦那様、お宿はどうなさります思召。
成程、おっしゃりました名の通、あなた相の山までいらっしゃいましたが、この前方へおいでなさりましても、佳い宿はござりません。後方の古市でござりませんと、旦那様方がお泊りになりまする旅籠はござりませんが、何にいたしました処で、もし、ここのことでござりまする、必ず必ずお急き立て申しますではないのでござりまするけれども、お早く遊ばしませぬと、お泊が難しゅうござりますので。
はい、いつもまあこうやって、大神宮様のお庇で、繁昌をいたしまするが、旧の大晦日と申しますと、諸国の講中、道者、行者の衆、京、大阪は申すに及びませぬ、夜一夜、古市でお籠をいたしまして、元朝、宇治橋を渡りまして、貴客、五十鈴川で嗽手水、神路山を右に見て、杉の樹立の中を出て、御廟の前でほのぼのと白みますという、それから二見ヶ浦へ初日の出を拝みに廻られまする、大層な人数。
旦那様お通りの時分には、玉ころがしの店、女郎屋の門などは軒並戸が開いておりましてございましょうけれども、旅籠屋は大抵戸を閉めておりましたことと存じまする。
どの家も一杯で、客が受け切れませんのでござります。」
婆々はひしひし、大手の木戸に責め寄せたが、
「しかし貴客、三人、五人こぼれますのは、旅籠でも承知のこと、相宿でも間に合いませぬから、廊下のはずれの囲だの、数寄な四阿だの、主人の住居などで受けるでござりますよ。」
と搦手を明けて落ちよというなり。
けれども何の張合もなかった、客は別に騒ぎもせず、さればって聞棄てにもせず、何の機会もないのに、小形の銀の懐中時計をぱちりと開けて見て、無雑作に突込んで、
「お婆さん、勘定だ。」
「はい、あなた、もし御飯はいかがでござります。」
客は仰向いて、新に婆々の顔を見て莞爾とした。
「いや、実は余り欲しくない。」
「まあ、ソレ御覧じまし、それだのに、いかなこッても、酢蛸を食りたいなぞとおっしゃって、夜遊びをなすって、とんだ若様でござります。どうして婆々が家の一膳飯がお口に合いますものでござります。ほほほほ。」
「時に、三由屋という旅籠はあるね。」
「ええ、古市一番の旧家で、第一等の宿屋でござります。それでも、今夜あたりは大層なお客でござりましょ。あれこれとおっしゃっても、まず古市では三由屋で、その上に講元のことでござりまするから、お客は上中下とも一杯でござります。」
「それは構わん。」といって客は細く組違えていた膝を割って、二ツばかり靴の爪尖を踏んで居直った。
「まあ、何ということでござります、それでは気を揉むではなかったに、先へ誰方ぞお美しいのがいらしって、三由屋でお待受けなのでござりますね。わざと迷児になんぞおなり遊ばして、可うござります、翌日は暗い内から婆々が店頭に張番をして、芸妓さんとでも腕車で通って御覧じゃい、お望の蛸の足を放りつけて上げますに。」と煙草を下へ、手で掬って、土間から戸外へ、……や……ちょっと投げた。トタンに相の山から戻腕車、店さきを通りかかって、軒にはたはたと鳴る旗に、フト楫を持ったまま仰いで留る。
「車夫。」
「はい。」と媚しい声、婦人が、看板をつけたのであった、古市組合。
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